城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年一月一五日             関根弘興牧師
                  ヘブル一章四節〜一四節
 ヘブル人への手紙連続説教2
    「御使いよりすぐれた方」

4 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。5 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」6 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」7 また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、8 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。9 あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」10 またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。12 あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」13 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(新改訳聖書)


 前回からヘブル人への手紙を連続して読み始めました。「ヘブル人」とはユダヤ人のことですから、この手紙は、特にユダヤ人クリスチャンたちに宛てられたものです。
 当時のクリスチャンたち、特に、ユダヤ人のクリスチャンたちは大きな葛藤を味わっていました。このままイエス様を信じ従っていくなら、ユダヤ社会からは見捨てられ、ローマ政府からは迫害され、結局すべてを失ってしまうのではないかという恐れと焦りがあったからです。
 そこで、この手紙の記者は、「もう一度、イエス様というお方のことを見直そうではないか。私たちが信頼しているイエス・キリストとは、旧約聖書に登場するどの指導者やどの預言者よりも遙かに優れた方、それどころか、神と同じ本質を持った方であり、私たちを完全に救うことがお出来になり、すべてを支配しておられる方なのだ」と書き送ったのです。
 このメッセージはもちろん、ユダヤ人クリスチャンだけでなく、すべてのクリスチャンにとって必要なものですね。この手紙は、私たちにも、イエス様がすべてのものに優る方であり、救いを完成された方であることを確信させてくれるものなのです。
 さて、先週の1章1節ー3節では、イエス様がどのような方であるかということが目次のように七つ紹介されていました。
 @万物の相続者
 A世界の創造者
 B神の栄光の輝き
 C神の本質の完全な現れ
 D力あるみことばによって万物を保っておられる方
 E罪のきよめを成し遂げた方
 F大能者の右の座に着かれた方 
 つまり、「イエス様こそ誰も超えることの出来ない至高の地位におられる方だ」ということを学んだわけです。
 そして、今日の箇所からは、この目次の内容がさらに詳しく説明されていきます。
 今日の箇所では、まず、イエス様と御使いが比較されています。旧約聖書の言葉を引用しながら、イエス様と御使いの違いを説明し、イエス様が御使いたちよりもはるかにまさる方であることを教えているのです。
 ただ、ユダヤ人は旧約聖書をよく知っているので理解できるかもしれませんが、私たちには何のことだよくわかりませんね。ですから、詳しく内容を見ていきましょう。

1 御使いとは

 ここには「御使い」という言葉がたくさん出てきますね。「御使い」は「天使」ともいいますが、皆さんは「御使い」とか「天使」と聞くと、どのようなイメージを持ちますか。ギリシャ神話のキューピッドや美しい女性の姿を思い浮かべる方もおられるかもしれませんね。しかし、聖書の「御使い」は、それとはかなり違います。
 14節に、御使いは「仕える霊」であると書かれていますね。「霊」というのは、「目には見えない存在者」という意味です。目には見えないけれど確かに存在しているのです。
 ただし、御使いが目に見える姿をとって人々の前に現れることもありました。その場合は、普通、男性の姿だったようです。
 では、聖書の中で、御使いはどのような役割を果たしているでしょうか。

@神様からの知らせを伝える役割
  
 「御使い」という言葉は、ギリシャ語では「アンゲロス」といって、「報告する、伝える」という意味の動詞「アンゲロー」の名詞形です。ですから、「御使い」とは、「報告する者」「伝える者」「メッセンジャー」なんですね。御使いは、聖書の中では、神様の大切なことばを伝えるメッセンジャーとしてたびたび登場します。
 たとえば、イエス様の母マリヤにガブリエルという御使いが現れて、マリヤが救い主をみごもることを伝えましたね。また、マリヤの夫ヨセフの夢に主の使いが現れて、マリヤが救い主をみごもったことを告げました。
 また、イエス様が十字架で死んで葬られ復活されたとき、イエス様の墓が空になっているのを見て動揺した女性たちに御使いが現れて、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で探そうとするのか。ここにはおられません。よみがえられたのです」という知らせを伝えましたね。それから、復活されたイエス様が天に昇っていかれたとき、御使いが現れて「あなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになるのです」と弟子たちに告げました。

A神様を賛美する役割

 また、御使いは、神様を賛美する聖歌隊のような役割も果たしています。イエス様がお生まれになったとき、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに御使いの軍勢が現れて「いと高きところに栄光が神にあるように。地の上には平和がみこころにかなう人々にあるように」と賛美しました。

B神様のみわざを実行する役割

 また、御使いは、神様の命令に従って様々なことを行います。
 たとえば、詩篇34篇7節には、「主の使いは、主を恐れる者のまわりに陣をはり、彼らを助けだされる」とあります。御使いが神様を信じる人々を守り助けるというのですね。
 また、使徒12章では、投獄されたペテロのもとに御使いが現れ、ペテロの鎖を解き、牢から脱出させたという出来事が書かれています。
 また、逆に、御使いは神様のさばきを実行することもあります。例えば、第二サムエル24章では、ダビデが犯した罪に対して、御使いが疫病を民にもたらしたという記事がありますし、黙示録には、御使いが神様の命令を受けて悪を滅ぼしていく様子が描かれています。

2 イエス様と御使いの違い

 このように聖書の中には、御使いが何度も登場します。御使いは、神様から遣わされて神様のことばを伝えたり、神様のみわざを実行する存在です。それで、クリスチャンの中にも御使いについて間違った捉え方をする人たちがいました。御使いの立場や働きを過大評価して、御使いがまるで神様であるかのように礼拝したり、「イエス様も御使いの仲間で、御使いの中でも上位にいる方ではないか」と考えたりする人たちがいたのです。
 ですから、パウロはコロサイ人への手紙で「御使い礼拝をしようとする者に注意しなさい」と書き送っています。
 このヘブル人への手紙の記者も、「イエス様は特別な方であって、御使いとはまったく違う、御使いよりもはるかにまさる方だ」ということをはっきりさせる必要を感じたのでしょう。そこで、まず、旧約聖書を引用しながら、イエス様と御使いの違いを説明しているのです。
 私たちも、イエス様と御使いの違いをきちんと理解しておく必要があります。詳しく見ていきましょう。

@神に「わたしの子」と呼ばれる方、呼ばれない者たち

 まず、5節にこう書かれています。
 「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』」
ここに引用されているのは、旧約聖書の詩篇2篇7節と第二サムエル7章14節の言葉です。これは、神様がダビデ王に対して言われた言葉なのですが、将来来られる救い主がどのような方かを示す預言的な言葉でもありました。つまり、救い主は、神様から「あなたは、わたしの子だ」と呼ばれる方だというのです。
 この預言は、イエス様が来られた時に実現しました。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声が聞こえました。これは、イエス様が旧約聖書に預言されていた救い主であることを示す出来事だったのです。
 イエス様は、神様から「わたしの子」と呼ばれる方です。しかし、御使いは、そう呼ばれることは決してありません。イエス様だけがまことの神の御子であり、神の本質を持っておられる方なのです。ですから、イエス様と御使いとは、まったく違う存在なのです。

A礼拝されるべき方、礼拝をささげる者たち

 次に6節にこうあります。「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」
「長子」とは、イエス様のことです。神様のすべてのものを受け継ぐ方という意味です。神様は、イエス様をこの世界にお送りになるとき、「神の御使いはみな、彼を拝め」とお命じになりました。これは、申命記32章43節の引用です。これは、「御子イエスは礼拝をお受けになる方だけれども、御使いは礼拝をささげる側ですよ」と言っているわけですね。
 ですから、御使いを礼拝することは、どんな形であれ、聖書から出たものではないのです。人は、礼拝すべきでないものを礼拝してしまいやすいものですね。木や石で造った偶像を礼拝したり、人が神のようになって礼拝の対象になったり、太陽や月や自然現象を礼拝したり。御使い礼拝もそれと同じです。
 しかし、聖書は、「礼拝すべきなのは、父、御子、聖霊の三位一体の神様だけだ」と教えています。人が人らしく生きるためには、神様だけを礼拝することが大切だというのです。
 イエス様は、神の御子であり、神の本質を持っている方ですから礼拝されるにふさわしい方ですが、御使いは、どんなに素晴らしいことを語り行ったとしても、私たちと同じように神様によって造られたものであり、御子イエスを礼拝する側の存在なのです。

B統治する方、仕える者たち

 それから、14節に、父なる神がイエス様に「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい」と言われた詩篇110篇1節の言葉が引用されていますね。 前回お話ししましたように、「神の右の座に着いている」というのは、誰も超えることの出来ない至高の地位におられる方だ、ということを現す表現です。イエス様は、十字架と復活によって救いのみわざを成し遂げて天に昇り、至高の地位に着いておられるのです。
 そして、8節ー9節に、詩篇45篇6節ー7節の言葉が引用されていますが、「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました」とありますね。
 ここで、イエス様が「神よ」と呼ばれています。イエス様は、神である方、至高の地位におられる方としてすべてのもの統治しておられるのです。しかも、イエス様が統治に使われる杖は、まっすぐな杖、つまり、正義の杖です。イエス様は、いつも正しく治めてくださる王なのです。しかも、その統治は世々限りなくいつまでも続きます。ですから、イエス様の支配のもとで私たちは安心して生きていくことができるのですね。
 そして、続けて「それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました」とありますね。
 ここに出ててくる「あなたとともに立つ者」、つまり、「イエス様とともに立つ者」とは、いったい誰のことでしょう。ヘブル2章11節には、イエス様が私たちのことを「兄弟」と呼んでくださることが書かれています。ですから、「あなたとともに立つ者」とは、イエス様の兄弟とされている私たち一人一人だと考えることができます。私たちがキリストにあって罪が赦され、救われ、神の家族とされたことは大きな喜びです。しかし、神様は、イエス様にさらに大きな喜びの油を注がれたと書かれていますね。つまり、私たちがクリスチャンとされたことを、イエス様は私たちよりももっと喜んでくださっているということなのです。私たちがこうして喜びと感謝をもって礼拝をささげ、賛美をささげている姿を、イエス様は私たちが喜ぶ以上に喜んでくださっているのです。
 さて、イエス様は、喜びに満ちた正しい支配をしてくださる統治者ですが、一方、御使いはどうでしょうか。14節に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」と書かれていますね。御使いは支配者ではなく、「仕える霊」なのです。そして、「救いの相続者となる人々に仕えるために」神様から遣わされたというのです。
 「救いの相続者となる人々」とは誰でしょうか。もちろんイエス様を信じる私たちのことですね。
 6節で、イエス様が「長子」と呼ばれていますが、これは、ただ一番上の子供という意味ではありません。ユダヤの社会では、「長子」には、下の子どもたちとは違う特別な権限があたえられていました。父親の名と財産を受け継ぎ、それを弟たちや妹たちに分け与えていくのです。イエス様は、私たちの長子です。イエス様は神様のすべての祝福を受け継いで、救いの相続者とされた私たちにその祝福を分け与えてくださる方なのです。そして、その私たち一人一人に仕えるために神様が御使いを遣わしてくださるというのです。
 ですから、御子イエス様と御使いとは、まったく異なる存在なのですね。
 
C永遠に存在する方、いつかは消える存在

 そして、10節ー12節には、詩篇102篇25節ー27節の言葉が引用されています。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」
 つまり、イエス様は、天地を造られた創造者であり、初めからおられた方、この世界が古び、滅びても、いつまでも変わることがない永遠の存在者だというのです。
 この手紙の13章8節にも「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と書かれています。イエス・キリストは永遠に変わることがない、それが、この手紙の支えとなっている真理です。
 イエス様は変わることありませんから、イエス様の約束も決して失われることがありません。マタイ24章35節で、イエス様は、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません 」と力強く宣言しておられます。イエス様が語られた福音のことば、罪の赦しと永遠のいのちの約束は、決して変わることはありません。この変わることのないイエス様が共におられるからこそ、私たちに平安が生まれるのです。決して変わることのないイエス様の救いがあるからこそ、弱さの中でも希望と喜びをもって生きていくことができるのです。
 では、御使いはどうでしょうか。
 7節に詩篇104篇4節の「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる」という言葉が引用されています。御使いたちが風と炎にたとえられていますね。これは、御使いたちが風のように速く、炎のように力をもって神様の命令を遂行する存在だということを示していますが、一方では、御使いは、風や炎のようにいつかは消えてしまう存在だということでもありますね。イエス様は創造者であり永遠の存在者ですが、御使いは、神様に造られ、神様の許しなしには存在することができないものなのです。

 さて、今日は、御子イエス様が、御使いよりもはるかにすぐれた方であることを学びました。神の御子、正義の統治者、天地の創造者、永遠の存在者であるイエス様が、いつも私たちとともにいてくださるのです。しかも、御使いが私たちのために仕えているというのです。
 この世においては様々なことがありますが、この変わることのないイエス様を信頼し、心から礼拝していきましょう。