城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年一月二九日             関根弘興牧師
                   ヘブル二章一節〜四節
 ヘブル人への手紙連続説教3
    「漂流しないために」

1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。2 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、 3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、4 そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。(新改訳聖書)


 ヘブル人への手紙の2章に入りました。
この手紙は、特にユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたものです。当時、ユダヤ人クリスチャンたちの中には「本当に、これからずっとイエス様に従っていって大丈夫だろうか」という不安が起こっていました。イエス様を信じてクリスチャンになったがゆえにユダヤ社会から追い出され、ローマ帝国による迫害もじわじわと押し寄せてきていたからです。そんな不安と恐れの中にいた彼らに対して、イエス様が他の何ものにも比べることができない偉大な方であり、完全な救いを与えることができる方であるということを伝えるために、この手紙が書かれたのです。
 まず、前回は、イエス様と御使いが比較されていました。そして、どんなにすばらしい御使いもイエス様と肩を並べることはできない、イエス様は御使いよりもはるかにすぐれた方で、至高の地位に着かれた方であり、いつでも礼拝されるべきお方である、ということを学びましたね。
 今日は、その続きです。

1 錨を下ろす場所

 私は、小田原に来て釣りが大好きになりました。だいぶ前のことですが、芦ノ湖でボートを借りて釣りをしていました。風もなく暖かい日で、のんびり釣りをしていたのですが、あまり釣れないし、心地よく揺られるものですから、眠気を感じて少し昼寝をすることにしました。でも、しばらくして目を開けてびっくりしました。知らないうちに、だいぶ沖に流されていたのです。錨をおろしたつもりが、ちゃんと湖底に届いていなかったのですね。
 実は、この「知らず知らずのうちに流されてしまう」ということが、人生においてもあるように思います。気がついてみると、だいぶ離れた所に来てしまった、という経験です。
 今日の箇所の1節に、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」とありますね。ここで「心に留めて」と訳されている言葉は「注意を向ける」という意味なのですが、これが航海に関して使われるときには「錨を下ろす」という意味で使われたそうです。それから、「押し流される」という言葉は、「知らず知らずのうちに落としたり、無くしたりしてしまう」様を表す言葉だそうですが、この言葉も航海に関して使われるときには「船が港や停泊地点から漂流してしまった」ことを表す意味として使われたそうです。
ですから、この箇所は、「船がしっかり錨を下ろさないでいると、風や潮に流されて漂流してしまいますね。あなたがたも漂流しないように、しっかり錨を下ろしなさいね」と語っているようですね。
 ある聖書学者は、この箇所をこう言い替えています。「こういうわけだから、私たちは教えられた事柄に人生の錨を下ろし、人生という船が港から押し流されて破船しないようにしよう。」
 信仰の破船は、気づかない所から少しずつ始まっていきます。「知らず知らずのうちに」なんです。そして、日が経つにうちに遠くに離れてしまい、破船するということがあるのです。ですから、私たちは、漂流しないために錨をしっかり下ろしておく必要があります。では、どこに錨を下ろしたらいいのでしょうか。
 1節に「聞いたことを、ますますしっかり心に留めて」とありますね。つまり、「聞いたことの中にしっかりと錨を下ろしなさい」というのです。
 今、教会のシンボルマークといえば、十字架ですね。しかし、教会の初期の時代は違いました。いくつかのシンボルマークが使われていましたが、中でも有名なのは「魚」です。ギリシャ語で、「イエス」「キリスト」「神の」「み子」「救い主」の各単語の頭文字を合わせると「魚」という単語になるからです。初代教会の人たちは、魚を描くことによって信仰の告白をしていたわけです。
 そして、もうひとつのシンボルマークが「錨」です。ヘブル6章19節に「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし」と書かれていますが、「錨」は希望を表すシンボルとなったのです。ですから、「聞いたことの中にしっかり錨を下ろすこと」は、「聞いたことを信頼して、希望をもって生活すること」なのですね。
 では、「聞いたこと」とは、どんなことでしょうか。
 2節ー3節にこう書かれていますね。「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。」
 まず、2節の「御使いたちを通して語られたみことば」というのは、旧約聖書の律法を指しています。神様は、私たちの生き方の指針として律法を与えてくださいました。もし、律法の教えに対して故意に耳をふさぎ聞こうとしないなら、当然の処罰を受けるのだと書いてあります。これは、当たり前の話ですね。もし、私たちが法律を無視し、その声に耳をふさぎ、法律違反をしたらどうでしょう。当然、その裁きを受けますね。同じように、神様のことばに耳をふさぎ続け、その恵みを拒否するなら、拒否した結果を受けてしまうのですよ、というのです。
 そして、それと比較して、3節に「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう」とありますね。「こんなにすばらしい救い」とは、新約聖書に書かれているイエス・キリストによってもたらされた救いです。私たちは皆、自分の力では神様の律法を守ることができずに裁きを受けるしかない者ですが、恵みとまことに満ちあふれたイエス様が私たちのもとに来て、私たちの代わりに十字架で罰を受け、死んで、三日目によみがえり、信じる人々に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださり、いつまでも共に歩んでくださり、永遠の天の御国に入らせてくださるのです。それが「こんなにすばらしい救い」と言われていることの内容です。それは、私たちにとってすばらしい知らせ、「福音」ですね。
 今日の箇所に書かれている「聞いたこと」とは、この福音のことです。イエス・キリストによるすばらしい救いのことです。もし、私たちが、この福音をないがしろにしたら、人生最大の損失ではありませんか。
 しばらく前に、アフリカの国連大使の方でしたか、日本語の「もったいない」ということばを使って「物を大切にすることを考えていこう」と言われた方がいましたね。今では「もったいない」は世界に通用する言葉ですね。聖書も「このすばらしいイエス様の救いをないがしろにしたら、それは、一番もったいないことだ」と言っているのです。このすばらしい福音に耳を閉ざすことほどもったいないことはないのですね。もし福音に耳を閉ざし続けるなら、それは、永遠の救いを拒否することになるのですから、永遠の損失となってしまいます。
 ですから、この手紙の記者は、この救いをないがしろにしないでほしいと書いているわけです。

2 福音の確かさ

 そして、このキリストによる救いの福音に錨を下ろしていれば大丈夫だということを示すために、3節の後半から4節にかけて、この福音がどれほど確かなものなのかということが説明されています。
 こう書かれていますね。「この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」ここには、福音が確かなものであることを示す三つの証言が記されています。
                            
@イエス・キリストの証言

 まず、「この救いは最初主によって語られ」とありますね。 最初に福音を宣べ伝え始めたのは、イエス様御自身でした。
福音書の中には、イエス様が、ご自分こそまことの救い主であることをはっきりと宣言し、福音を語っておられる箇所がたくさんあります。
 マルコ10章45節「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 ヨハネ4章14節「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 ヨハネ14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 ヨハネ11章25節「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
 つまり、イエス様御自身が「わたしを信じることによって、あなたがたは罪を赦され、永遠のいのちが与えられ、新しく神によって生まれた者として永遠の希望をもって歩むことができる」と宣言なさっているのです。
 この救いは、人が自分から探し求め、努力し、頑張った結果、発見し獲得したのではありません。イエス様の方から私たちのもとに来てくださり、語りかけ、救いをもたらしてくださったのです。ですから、どんなに弱くても愚かであっても、どんな状況に置かれていても、何もできなくても、ただイエス様を信頼し従って行くなら誰でも福音の素晴らしさを味わうことができるのです。
 救いの原点は、イエス様のうちにあります。私たち一人一人に語りかけ、愛の手を伸ばし、しっかりと握り、導き、支えてくださるキリストに信頼して歩んでいけばいいのです。それが、聖書が教える恵みの世界なのです。
 ヨハネ3章16節ー17節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 
A福音を聞いた人たちの証言

 次に、「それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し」とありますね。
 イエス様の福音を聞いた人たちが「イエス様の言われたことは、本当に確かで信頼のできるものです」と証言し、全世界の人々に宣べ伝えていったのです。
 最初にイエス様の言葉を聞いたのは、弟子たちでした。彼らは、常にイエス様と共に生活し、イエス様の言葉を聞くだけでなく、イエス様がどのような方かを身近で観察し、イエス様のなさることをつぶさに見ていました。病人が癒されたり、嵐がしずまったり、死人が生き返ったりする奇跡も目撃しました。イエス様が、十字架につけられたとき、実際に十字架の現場にいた弟子もいましたし、イエス様のなきがらを墓に埋葬した弟子たちもいました。そして、三日目によみがえられたイエス様にお会いした弟子たちが五百人以上もいましたし、イエス様が天に昇って行かれるのも弟子たちは目撃しました。また、イエス様が約束された通りに弟子たちに聖霊がくだり、その後は、弟子たちがイエス様の御名によって祈ると病人がいやされるというような体験もするようになりました。
 その弟子たちが、自らの実際の体験をもとにして、「イエス様は、十字架について罪の赦しを与えてくださった。また、復活してご自分が永遠のいのちを与えることのできるまことの救い主であることを示された。このイエス様を信じることによってすべての人が救われるのだ」と確信をもって宣べ伝えていったのです。
 そして、実際の目撃証言者である弟子たちが、自分たちの見たこと聞いたことを書き記したのが新約聖書です。
 新約聖書は、イエス様の直接の目撃証言者たちの証言が土台となっているのです。その中心は、イエス様の復活です。もし、イエス様が復活せず死んで終わりだったとしたら、ただの人と同じです。永遠のいのちを与えることのできる救い主ではないことになります。十字架にかかる前にイエス様は「わたしはこれから十字架にかかるが、三日目によみがえる」と言っておられましたが、それも大嘘だったことになります。そうすると、イエス様は、自分を救い主だと偽るただの詐欺師だったことになりますね。復活がなければ、イエス様の他の言葉も信用できなくなります。
 しかし、弟子たちは、「イエス様は確かによみがえられた。私たちは、よみがえられたイエス様に実際にお会いし、触れることができた。だから、イエス様は、まことに神のもとから来られた救い主だ」とはっきり記しているのです。もしイエス様の時代より百年、二百年経ってから、イエス様は復活したと言い出す人がいたら、それは、もはや戯れ言としか聞こえないでしょう。しかし、イエス様と同じ時代に生き、直接の目撃者である弟子たちがはっきりと証言しているのです。しかも、イエス様に敵対しクリスチャンたちを迫害していたパウロさえ、「私は復活したイエス様に出会った。その時から、私の人生は大転換したのだ」と証言しているのです。しかもパウロは、旧約聖書を熱心に学んでいた人ですから、「イエス様は、旧約聖書の中で遙か昔から預言されていた救い主だ」ということもはっきり宣言しているのです。
 科学的な事実を証明する場合は、同じ実験を何回も繰り返して同じ結果が得られるかどうかを調べますが、歴史的な事実を証明するためには、信頼できる証言や証拠がどれだけあるかということを調べます。実は、新約聖書が実際にイエス様の弟子たちによって書かれたと信頼できる証拠はたくさんあるのです。 また、その弟子たちの証言を聞いた人々や聖書を読んだ人々が福音を信じて、自分でもイエス様の救いを体験し、今度は、その人が証人となって「聖書に書かれていることは本当だ。イエス様はまことの神の御子、救い主だ」と宣べ伝えるようになりました。そのようにして、福音は全世界に、また、歴史を通して伝えられ、今、こうして私たちのもとに届いているわけです。
 私たちの信じる福音は、このように確かな目撃証言者の証言をもとにして語り伝えられているのです。

B神の証言

 そして、三つ目の証言は、神様御自身によるものです。4節に「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました」とありますね。
 福音が確かなものであることを神様は四つのことを通して示されているというのです。「しるし」と「不思議」と「さまざまな力あるわざ」と「聖霊が分け与えてくださる賜物」です。 福音が伝えられていくとき、そこに生じる「しるし」があるというのです。「不思議」とは、英語では「ワンダー」ですが、福音が伝えられていくとき、ワンダフルな光景を見るのです。また、確かに神様が働いてくださっているという「力あるわざ」を見ることができ、また福音を信じた一人一人には、それぞれにふさわしい「聖霊の賜物」が与えられていくのです。

 さて、最初にお話ししましたように、この手紙は、「イエス様に従っていって本当に大丈夫なのだろうか。このまま従っていくと、すべてを失ってしまうのではないだろうか。本当に伝えられた福音は確かなものなのだろうか」、そんな不安と恐れと焦りを抱えていたユダヤ人クリスチャンたちに書かれたものです。ユダヤ人クリスチャンの他にも、同じような不安や恐れを抱えているクリスチャンたちはたくさんいたでしょう。
 そんな一人一人がこの手紙を読んでいる光景を想像してみてください。彼らは、これまでのことを思い起こしたにちがいありません。最初にイエス様の福音を聞いた時、感動してイエス様を受け入れたこと、共に喜びをもって礼拝をささげたこと、イエス様が十字架でいのちを捨ててくださるほどの愛を注いでくださっていること、そして、復活なさった主が今も生きておられ、様々な困難の中でも導いてくださっていることなどを思い起こしていったことでしょう。
 ペテロは、第一ペテロ1章8節-9節でこう書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 今日、福音の確かさは、私たちがこうして喜びと感謝をもって礼拝している中にはっきりと証しされているのです。私たちは、自分の人生の中のいろいろな出来事を通して、確かにイエス様は生きておられるというしるしを見ることができます。イエス様によって新しい人生が与えられ、癒され、導かれ、また、一人一人の内に与えられている聖霊によって喜びと感謝をもって礼拝し、失われることのない希望に生きる者とされているのです。
 揺れ動く時代の中に生きていますが、私たちは、漂流することのないように、イエス・キリストの救いの福音にしっかり錨を下ろしていきましょう。