城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年二月四日              関根弘興牧師
                  ヘブル二章五節〜一〇節
 ヘブル人への手紙連続説教4
    「低くされた方」

5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(新改訳聖書)


先週は、漂流しないようにするために人生の錨を福音にしっかり下ろすことの大切さを学びました。福音が信頼できる確かなものであることは、イエス様ご自身によって、また、福音を聞いた人たちの目撃証言によって、さらに、福音か宣べ伝えられていくときに現される神様のみわざによって示されています。ですから、この手紙の記者は、「こんなにすばらしい救いの福音をないがしろにしないで、この福音の中にしっかり錨を下ろしていれば、希望を持って何事にも揺るがされることのない人生を送ることができるのだ」と記しているのです。
 この救いの福音は、私たち一人一人に与えられたものです。そして、この天地はいつかは滅びるけれど、神様から与えられた福音も、また、その福音を信じて生きる私たちも決して滅びることはない、と約束されているのです。
 神様がそのような素晴らしい約束を与えてくださるとは、いったい私たち人間は何者なのだろう、どのような存在なのだろう、と思ってしまいますね。今日の箇所から、そのことについて学んでいきましょう。

1 人とは

 6節に詩篇8篇4節の言葉が引用されています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」
詩篇8篇は、ダビデ王によって書かれたもので「ダビデの賛歌」という表題が付いています。人間とはどんな存在なのかということを教えている詩篇なのですが、素晴らしい内容が書かれていますね。 

@神様がみこころに留め、顧みてくださる存在

私たちは、人間なんてこの広大な宇宙の中では弱くて小さくてたいした存在ではない、と考えてしまうことがありますね。しかし、聖書は「人間とは、天地を造られた神様がみこころに留め、顧みてくださるほどの大切な存在なのだ」と教えているのです。もし、神様が、私たちのことを心にも留めず、顧みてもくださらないなら、私たちはこうして生きていることすらできません。マタイ6章27節に「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と書かれているように、神様が私たちにいのちを与え、生かしてくださっているのです。
 また、哀歌3章22節ー23節に「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」とあるとおり、神様は私たちのことをいつも心に留め、顧みてくださり、恵みと哀れみを朝ごとに注ぎ続けてくださっているのです。
 また、ピリピ4章19節には、こう書かれています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」私たちが本当に必要としているものは、すべて神様が与えてくださるのです。

A神よりいくらか劣る存在

 続いて、7節には詩篇8篇の続きの「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし」という言葉が引用されています。神は、人を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとされた、というのですが、どういうことでしょうか。
 実は、これは、ヘブル語の原文をギリシャ語に訳した七十人訳聖書からの引用です。ここでは、七十人訳のギリシャ語をそのまま日本語に訳してあるので「あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低くされた」となっていますが、ヘブル語から直接日本語に訳された旧約聖書の詩篇8篇を見ると「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」と訳されています。
 この「神」と訳されているのは、ヘブル語では「エロヒム」と言う言葉です。通常は「神」と訳されます。創世記1章1節の「初めに、神が天と地を創造した」の「神」はこの「エロヒム」という言葉です。でも、「エロヒム」というのは、神を意味する単語「エル」の複数形なのです。神は唯一のはずなのに、なぜ複数形が使われているかというと、文法的には、「尊厳の複数」と言いまして、「至高の神」であることを示すために使われるものです。
 ですから、「エロヒム」という言葉は、唯一の「神」を意味することが多いのですが、文脈によっては、複数存在する「御使い」や異国の「神々」を意味する場合もあるのです。それで、七十人訳聖書では「御使い」と訳したようです。
 それで、「御使いよりも、しばらくの間、低くされた」と訳したり、「神よりいくらか劣るものとされた」と訳されたりしているわけですが、とにかく、ここでは、「人は、神様ではない。神様よりもいくらか劣るものだし、超自然的な力を持つ御使いのような存在でもない」ということが教えられているのです。
 人は、すぐに高慢になりやすいものです。アダムとエバは自分が神のようになれるという誘惑に負けて禁じられた木の実を食べてしまいました。また、人々が神のようなになるために高い塔を建てようとして、かえって大混乱を招いてしまったバベルの塔の出来事もありましたね。しかし、聖書は、「人は神ではない。人が神のようになろうとする高慢な思いが様々な問題の根底にあるのだ」と教えているのです。ですから、私たちは神のようになろうとする誘惑に陥らないように注意しなければなりません。
 ただし、詩篇8篇には「神よりいくらか劣るもの」とありますね。「ものすごく劣っている」のではなく、「いくらか劣っている」のです。神よりは劣るけれども、それでも素晴らしい存在だということですね。また、以前の説教でお話ししましたが、この手紙の1章14節に書かれていたように、御使いが私たちに仕えてくれるほどに、私たちは大切な存在なのです。
 ですから、私たちは、神のようになろうとする高慢な思いを持たないように気をつけるとともに、「自分は価値のないものだ」というような間違った自己卑下にも陥らないように気をつけながら、「自分はありのままで価値ある存在なのだ」という健全な自己イメージを持って生きていきましょう。

B栄光と誉れの冠を与えられたもの

さて、続けて、7節の後半から8節にかけて、神様が人に「栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました」と書かれていますね。
 旧約聖書の創世記1章26節で、神様は、天地万物をお造りになり、最後に人間を造って、こう言われました。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
 ここで、神様はご自分を「われわれ」と言っておられますが、これは、先ほどお話ししたように尊厳の複数という文法的な言い方であるとともに、神様が父、御子、聖霊の三位一体なる方であることを示しています。
 人は、神様御自身のかたちに似せて造られたのだと聖書は教えています。といっても、神様は目に見えない方ですから、姿形が似ているという意味ではありません。神様のご性質を分け与えられ、神様を思う心、永遠を思う心が与えられ、神様と愛し合い、語り合うことができるいのちの霊を持つ存在として造られたということなのです。
 また、「万物をその足の下に従わせられました」「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」とありますね。人は、神様から、すべてのものを支配する役割を委ねられたのです。ただし、この「支配する」というのは、自分の好き勝手にするという意味ではなく、「管理する」「治める」という意味です。
 人は、神に似た者として造られ、すべてのものを支配する権威を与えられました。このように聖書は、私たちに人間の存在を非常に高く見ているのです。

2 人の現状

しかし、現実に目を留めるとどうでしょうか。
 8節の後半に「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません」とありますね。
 人は、高慢になって神様に逆らい、かえって罪と死に束縛された状態に陥ってしまいました。そして、この世界を賢く治めるどころか、混乱させ破壊し、滅びに向かっている状態です。先日もニュースでやっていましたが、世界の終末時計は、3分を切って2分30秒前を指しているそうです。
 この手紙が書かれた時代はどうだったでしょう。ローマ帝国の時代です。自由なローマ市民より奴隷の方が圧倒的に多い世界でした。皇帝は欲しいままに振る舞い、クリスチャンたちは迫害の脅威にさらされていました。
 人は、本来、神様の恵みとあわれみの中で生かされ、神様の愛と真実をもってこの世界を治めていく使命を委ねられているのに、アダムとエバ以来ずっと、その使命を果たせない状態が続いています。つまり、神様が与えた目的から逸れてしまっている状態なのです。

3 低くされた方

 それでは、私たちはただ絶望するだけなのでしょうか。いいえ、違います。9節で「ただ御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています」と書かれていますね。
 詩篇8篇は、ダビデが人間について書いたもので、その内容はまだ実現していないように見えるけれど、実は、まず、人として来てくださったイエス様において実現しているのだよ、というのです。
 この手紙の1章に書かれてあったように、イエス様は、本来は御使いよりもはるかにまさる方です。それなのに、御使いよりも低くされた者として来てくださいました。それは、私たちと同じ立場にまで下りてきてくださったということですね。人は上に上にと登りたがる高慢の心を持っていますが、イエス様は謙遜に下りてきてくださったのです。
 そのイエス様の謙遜の姿を、パウロはピリピ2章6節ー11節にこう記しています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

@神のあり方をお捨てになった。

 人が神のようになろうと高慢になることは、滅びにつながります。しかし、イエス様の謙遜は、人に救いをもたらすのです。イエス様は、マタイ28章18節で言われているとおり、天においても地においてもいっさいの権威を与えられた神である方ですが、その権威を振りかざすことをなさいませんでした。人々を力ずくで無理やり自分のところに連れて来ようともなさいませんでした。イエス様は決して無理強いをする方ではありません。
 
Aご自分を無になさった。

 イエス様は、この世の栄誉や名声を求めようとはなさいませんでした。ご自分のために何かをなさることもありませんでした。ただ人々の救いのために、ご自分を無にされたのです。

B仕える者の姿をとられた。

 イエス様は、王の王として来られた方なのに、家畜小屋でお生まれになりました。王宮に住むのがふさわしい方なのに、しもべのようにひざまずいて弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13章4節ー5節)。また、いつも人々の必要を満たすために労しておられました。悲しむ人を慰め、痛んだ人を癒やし、飢えた人に食事を与え、失望している人に希望のことばを語るために各地を回られたのです。

C人間と同じようになり、人としての性質を持たれた。

 イエス様は、私たちと同じようになって、私たちと同じ経験を味わわれました。ある時には疲れを覚え(ヨハネ4章6節)、痛みを経験なさいました。十字架の痛みは、その最たるものです。また、悲しみを味わわれました。(マタイ26章37節、ヨハネ11章35節)。すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(ヘブル4章15節)。

D自分を卑しくされ、十字架の死にまでも従われた。

 イエス様は、最後に、十字架の死にまで従われました。
 申命記21章23節に「木にかけられた者は神にのろわれた者であるだ」と書かれています。ですから、当時の人々は、十字架にかけられた者は極悪人であり、神にのろわれた者だと考えていました。イエス様は、その最悪の十字架にかけられ、神にのろわれた者にまでなってくださったのです。それは、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の罰やのろいを受けてくださるためでした。イエス様は、いのちがけで私たちを愛し、私たちのために十字架の死にまで従われたのです。

4 イエス様の栄光と誉れ

 イエス様が身を低くして私たちと同じ人間となり、十字架で死の苦しみを味わわれた結果、何が起こったでしょうか。
 9節ー10節にこう書かれていますね。「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました」というのは、どういうことでしょうか。普通は、死の苦しみは、栄光や誉れとはかけ離れたものに思えますね。しかし、イエス様は、十字架にかかることによって栄光と誉れの冠をお受けになったというのです。それは、十字架の死が「すべての人のために味わわれたもの」であり、「神が多くの子たちを栄光に導くのに」必要だったからです。
 イエス様が十字架にかかってくださることによって、私たちが罪赦され、神の子とされ、栄光を与えられました。それが神様の恵みによるご計画でした。その神様のご計画に従って十字架にかかり、私たちに救いをもたらすことが、イエス様の栄光と誉れになるというのです。
 私は、高校生の時、イエス様を救い主として受け入れました。牧師の家庭に育ちましたら、イエス様の話はよく知っていました。十字架につけられ、三日目に復活されたことも知っていました。でも、中学生の時は反発していました。自分とイエス様とは何の関わりもないと思っていたからです。しかし、高校一年の夏、バイブル・キャンプに行ったとき、牧師がその場にいる一人一人を指しながら「イエス様は、あなたのために十字架について死んでくださったのです」と何度も何度も言うのです。それで、私は考えてしまいました。「もしイエス様が私の罪のために十字架についてくださったことが本当なら、えらいことだ」と。そして、部屋に戻り、「イエス様が私の罪のために死んでくださり、復活され、今も生きておられるなら、イエス様を心にお迎えします」という短い祈りをしたのです。それが私のクリスチャン・ライフのスタートでした。
 「イエス様の死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」とあるとおり、今日ここにいる私たち一人一人のために、イエス様は罪の罰と呪いをすべて背負って十字架の死を味わわれました。イエス様は、「救いの創始者」だと書かれていますね。「創始者」とは、他の人々のために最初に道を切り開く者、すなわち先駆者であり、開拓者です。私たちの救いの道は、私たちが自分で切り開いたのではありません。イエス様が、救いの道を切り開き、道そのものになってくださったのです。それは、私たちが立派だからではありません。ローマ5章8節に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と書かれているように、イエス様の十字架の死は、神様の無条件の愛と恵みの現れなのです。
 そして、その神様の愛と恵みのみわざを成し遂げられたイエス様に栄光と誉れの冠が与えられているのです。私たちがイエス様の十字架の死によって救われる、それがイエス様にとって何よりの栄誉であり喜びなのです。
 イエス様の十字架による救いのご計画は、「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」、つまり、神様にふさわしいものです。天地万物をお造りになった神様は、ご自分がお造りになった人間の救いのために、ご自分から行動を起こされ、救いの創始者である御子イエスを送ってくださったのです。つまり、私たちの救いは、私たちの能力や努力によるのではなく、神様から出たものであるということです。神様は、私たちをお造りになっただけでなく、私たちの救いの道も用意してくださる方なのです。
 今日、私たちの信仰のよりどころはどこにあるのでしょう。私たちのために救いの計画を用意してくださった神様、そして、その神様のもとから身を低くして私たちのもとに来て救いの創始者となってくださったイエス様にあるのです。
 今週もこの方を信頼し、歩んでいきましょう。