城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年二月一二日            関根弘興牧師
                 ヘブル二章一一節〜一八節
 ヘブル人への手紙連続説教5
    「助けてくださる方」

11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(新改訳聖書)


先週は、2章の前半から「人とは何者なのか」ということを学びました。
 人は、神様がみこころに留め、顧みてくださるほどに大切な価値ある存在です。
 また、創世記に書かれているように、人は、神様から、すべてのものを支配する役割を委ねられました。この「支配する」というのは、自分の好き勝手にするということではなく、すべてのものがその存在にふさわしくあるように賢く管理し治めるという意味です。
 ですから、人は、本来、神様の恵みとあわれみの中で生かされ、神様の愛と真実をもってこの世界を治めていく使命を委ねられている存在なのですが、実際には、それとはまったくかけ離れた状態にありますね。本来あるべき姿、本来の生き方から大きくずれているのです。それを、私たちは、自分の力ではどうすることもできません。では、ただ絶望するしかないのでしょうか。
 そうではありません。この手紙の記者は、2章9節でこう書いていましたね。「ただ御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています」と。
 イエス様は、1章に書かれていたように、御使いよりもはるかにまさる方ですが、御使いよりも低くされた方として来てくださいました。それは、私たちと同じ人となって来てくださったということです。神である方が、人として来てくださった、それがイエス様です。
 イエス様は、私たちと同じ人となり、私たちの罪の問題を解決して神様との絆を回復するために、十字架についてくださいました。イエス様の十字架によって、私たちに罪の赦し、永遠のいのちへの道が開かれました。
 イエス様は、十字架によって栄光と誉れの冠をお受けになったと書かれています。それは、十字架の死が「すべての人のために味わわれたもの」であり、「神が多くの子たちを栄光に導くのに」必要だったからだというのです。イエス様は、私たちの「救いの創始者」となってくださったのです。
 そして、今日はその続きで、このイエス様が私たちにとってどのような方であるのかが記されています。

1 長子なる方

まず、11節ー12節にこう書かれています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』」
 ここに、「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです」とありますね。「聖とする方」とは、イエス様です。「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。イエス様が私たちを「聖」つまり「神様の専用品」としてくださったのですね。
 そして、そのイエス様も私たちも「すべては元は一つです」とありますが、この箇所は、新共同訳聖書では、「すべて一つの源から出ているのです」と訳されています。
 イエス様は、神様のもとから来られた神の御子なる方です。また、私たちは、神様に造られたものであり、神様からの永遠のいのちを与えられ神の子となる特権を与えられています。ですから、神の御子イエス様は、神の子どもとされた私たちを「兄弟」と呼んでくださるのです。
 ただ、イエス様と私たちが兄弟だというのは、私たちが普通に思い描く兄弟関係とは違います。1章にイエス様は「長子」だと書かれていましたね。当時は、「長子」とは、父親の権利を受け継ぎ、弟たち妹たちに関する責任を負う役割がありました。つまり、イエス様は、私たちの長子として、神様の祝福や恵みを受け継いで私たちに分け与えてくださり、責任を持って私たちのために配慮してくださる方なのです。
 そのイエス様がこう言われるというのですね。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中であなたを賛美しよう。」
 この言葉は、詩篇22篇からの引用です。詩篇22篇は、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という言葉から始まっていて、前半は、イエス様の十字架上での苦しみを預言した内容になっています。そして、後半には、十字架の苦しみの後に復活したイエス様が父なる神様の救いをほめたたえ賛美する様子が預言的に書かれているのです。「神様、あなたは、わたしの叫びに答えて救いをもたらしてくださいました。だから、わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、みんなと一緒にあなたを賛美します」という内容です。
 つまり、イエス様は十字架上で大きな苦しみを味わわれたけれど、それによってすべての人に救いがもたらされました。それは、神様の素晴らしいご計画によるものでした。だから、イエス様は、私たちに神様のすばらしい御名を告げ知らせ、そして、教会、すなわち、私たちとともに神様を賛美なさるのだというのです。
 イエス様は、私たちに人としての模範を示してくださる方です。そのイエス様が、「さあ、ともに神様に賛美しよう」と言っておられるのです。賛美は、説教前の刺身のつまではありません。賛美こそ礼拝にもっともふさわしいものなのです。私たちが神様を心から賛美することを、父なる神様もイエス様も最も喜んでくださるのです。

2 親なる方
 
 次に、13節にこう書かれていますね。「またさらに、『わたしは彼に信頼する。』またさらに、『見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。』と言われます。」
 この二つのことばは、イザヤ書8章17節と18節からの引用です。イザヤ書には、こう書かれています。
 「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」
 これは、南ユダ王国が敵国の攻撃を受けて窮地に立たされているときに預言者イザヤが語った言葉です。「今、神様は、御顔を隠して何もしてくださらないかのように見えるけれど、私は、神様が必ず救ってくださるいう希望をもっている。私と私の子どもたちは、神様が私たちを救ってくださることのしるしとなっているのだ」という意味です。イザヤの預言、そして、イザヤが神様に命じられて自分の息子たちに付けた名前が、神様の救いを人々に知らせるしるしとなっていました。そして、イザヤの預言の通り、神様は敵の攻撃から救ってくださったのです。
 ヘブル人への手紙の記者は、このイザヤ書の言葉を今日の箇所で引用し、実は、この言葉は、イエス様と、イエス様を信じた人々のことをも指しているのだというのです。
 つまり、イエス様とイエス様を信じる人々は、神様が必ず救いをもたらしてくださることのしるしとなっているのだというのですね。
 そして、ここで、イエス様は、イエス様を信じる人々を「神がわたしに賜った子たち」と呼んでおられますね。
 先ほど、イエス様は、私たちを兄弟と呼んでくださる、というお話をしましたが、イエス様は、私たちを「わたしの子よ」とも呼んでくださるのです。
 ある時、イエス様のもとに中風で寝たきりの人が運ばれてきました。イエス様は、その人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言って癒されました。
 イエス様は、私たちにも「子よ。あなたの罪は赦されました」と言ってくださいます。そして、私たちをご自分の子として愛し、いつくしみ、育み、私たちの必要を満たしてくださるのです。

3 解放者なる方

 それから、14節ー15節に、「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりましたこれは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」とありますね。
 イエス様は、ご自分の子である私たちを死の恐怖から解放するために、私たちと同じ肉体を持った人として来られたというのです。
 イエス様は、私たちと同じ人となって、私たちと同じように苦しみも痛みも味わわれました。のどの渇きや疲れも覚えられたのです。ですから、イエス様が十字架につけられたとき、その苦しみは想像を絶するものであったことでしょう。イエス様は、私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちが受けるべき罪の罰の苦しみをすべて引き受けてくださったのです。
 しかし、それだけではありませんでした。イエス様は、十字架で死んで葬られた後、三日目によみがえられたのです。それによって、ご自分が死の力を打ち破ったことをお示しになりました。イエス様は、死が終わりではないということを、そして、イエス様を信じる私たちも永遠のいのちを持って生きることができるということを示してくださいました。ですから、私たちは、死の恐怖につながれた奴隷状態から解放されたのです。
 イエス様は、ヨハネ11章25節でこう宣言されました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
 私たちは「イエス様を信じる者は、死んでも生きる」という希望をもって生きていくことができるようになったのです。
 しかし、そうは言っても、現実に死の淵に立たされたときには、恐れや不安が大波のように襲ってくるかもしれません。泣き叫ぶかもしれません。病の苦しみのために落ち込んでしまうこともあるでしょう。そんな時は、泣いたり叫んだりしてもいいのです。私たちは、弱く、恐れやすく、いつも不安が隣り合わせにある存在です。死を目前にしたとき、どのような反応をするかは、みな違います。でも、ありのままでイエス様に叫び求めればいいのです。イエス様は、決して見捨てることなく、苦しみや悲しみがあっても、その後に永遠の安息があることを約束してくださっているのですから。
 ホスピス・ケアの第一人者の柏木哲夫先生が、講演の中でこう語っておられました。「死を迎えつつある人、自分でも死が近いことを自覚して日々生きておられる方々、ホスピスを始めた頃、私は、そういう人々を『支える』必要があると思っていたんです。その人がその人らしい人生を全うすることができるように支える医療というのがホスピスだと初めは思っていたんです。ところが、それは、思い上がりだということがだんだんわかってきました。実際に多くの方を看取っていくと、その人たちは、『ちゃんと亡くなる力』を持っておられるんです。『ちゃんと亡くなる力』というのは変な表現かもしれませんが、特に下から支えないと落ちるわけではないんです。ちゃんと最後の日々を生きて、そして、ちゃんと亡くなっていくんです。それだけの力を持っている。だから、支えてあげなければということではなくて、ただ、『寄り添う』必要があるんです。」
 柏木先生が「ちゃんと亡くなる力」があると言われたことに、私は納得する思いがしました。先日、教会員の澁谷久子さんが天に召されました。長い闘病生活でした。不安や恐れ、寂しさに涙したことが何度もあったことでしょう。しかし、天に召された時の姿を目の当たりにして、「ちゃんと亡くなる力」というものを思わされました。死から解放されたのだと感じました。
 死は、様々な形でやってきます。永い闘病生活の末の死もあれば、突然の事故による死もあります。私たちには明日のことはわかりません。不安や恐れはいつも襲います。でも、だからこそ、イエス様が生きる力も亡くなる力も備えてくださっていること、そして、死は終わりではないということを覚えて歩んでいきましょう。

4 大祭司なる方

 それから、17節ー18節にこう書かれています。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
旧約聖書に親しんでいたユダヤ人クリスチャンにとって、ここに出てくる「大祭司」という言葉は、大変に意味ある言葉です。
 旧約聖書には、年に一度、「贖罪の日」と呼ばれる大切な日がありました。この日、大祭司は犠牲の動物の血を持って、契約の箱が置かれている至聖所に入り、民の代表として民の罪の贖いをするのです。
 しかし、動物の血では、人間の罪を完全に贖うことはできません。また、大祭司自身も罪のある人間ですから、完全な贖いをすることはできません。それで、毎年毎年この儀式を続ける必要がありました。
 しかし、ヘブル人への手紙の記者は、「イエス様こそまことの大祭司だ」と記しています。イエス様は、神の子羊としてご自身を犠牲としてささげ、十字架で流されたご自身の血によって、私たちの罪を完全に贖ってくださったのだというのです。しかも、イエス様は神である方ですから、イエス様の贖いは完全で、何度も繰り返し行う必要はないのです。
 ヘブル9章11節ー12節に、こう書かれています。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
 イエス様こそ、私たちの罪を完全に贖うことのできるまことの犠牲であり、まことの大祭司なる方なのです。ただ一度、十字架にかかることによって、永遠の罪の贖いを成し遂げてくださったのです。
 そして、大祭司には、もう一つ役割があります。罪を犯した人を赦していただくように、神様の前で神様の怒りをなだめる、とりなしの祈りをすることです。
 私たちは、イエス様を信じてすぐに完璧な人間になるわけではありません。弱さがあり、失敗があり、罪を犯してしまうことがあります。
 でも、イエス様の十字架による罪の贖いは完全なのもですから、私たちの過去の罪も現在の罪も将来の罪もすべて贖われているのです。ですから、第一ヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と約束されています。
 そして、そんな弱い私たちのために、私たちと同じような試練や苦難を経験なさったイエス様が、いつも私たちを思いやり、あわれみ深い大祭司として神様の前でとりなししてくださっているというのです。
 ローマ8章34節でパウロはこう言っています。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
18節に「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」と書かれていますが、この「助ける」と訳された言葉は、原文では「叫びを聞いて駆け寄る」という意味があります。イエス様は、私たちの叫びを聞いて、無関心でおられる方ではありません。私たちに共感し、駆け寄ってきてくださる方、そして、私たちのために神様の前でとりなしをしてくださる方なのです。

5 アブラハムの子孫を助ける方

 ところで、16節に「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです」とありますね。
 「アブラハムの子孫」とは誰のことでしょうか。
 アブラハムは、旧約聖書に登場するイスラエル民族の先祖となった人物です。神様の命令に従って故郷を旅立ち、約束の地に向かいました。そして、アブラハムは神様の約束を信じたので、「あなたによってすべての民に祝福がもたらされる」という神様の約束が与えられたのです。
 そのアブラハムのことを引用して、パウロは、新約聖書のガラテヤ3章6節ー7節で「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と教えています。つまり、アブラハムの子孫とは、神様の約束を信じる人、つまり、「イエス様を信じることによって救われる」という約束を信じる人なら、だれでも「アブラハムの子孫」だというのです。
 イエス様は、そのアブラハムの子孫である私たち、イエス様を信じる私たちを助けてくださいます。罪の赦しと死の恐怖からの解放をもたらしてくださるのです。
 聖書は、「罪から来る報酬は死である」と教えています。つまり、罪の赦しなしには死の解決はないということです。罪の赦しと死の恐怖からの解放は、車の両輪のようなものなのですね。イエス様は、私たちと同じ人となり、私たちが自分の力ではどうしても解決できない罪と死の問題を解決してくださったのです。
 そして、イエス様は、私たちを「兄弟」と呼び、「わたしの子」と呼び、私たちの叫びを聞いて助けてくださいます。
 そのイエス様が共に歩んでいてくださるのですから、今週も安心して与えられた毎日を過ごしていきましょう。