城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年三月五日             関根弘興牧師
                  ヘブル四章一節〜一三節
 ヘブル人への手紙連続説教8
    「神の安息」

1 こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。3 信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。6 こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(新改訳聖書)


前回の箇所には、旧約聖書の中で最も有名な「出エジプト」と呼ばれる出来事が出てきましたね。神様は、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民のもとにモーセを遣わし、様々な奇跡を行ってエジプトから脱出させてくださいました。そして、彼らは神様の約束の地に向かって荒野を旅して行くわけですが、神様の数々の素晴らしいみわざを経験したにもかかわらず、神様を信頼せず、不平を言い、逆らってばかりいました。その結果、約四十年間も荒野で放浪生活をすることになってしまったのです。神様のみことばを聞いても心をかたくなにして従おうとしなかった人々は、結局、約束の地に入ることが出来ず、荒野で死んでしまいました。
 このイスラエルの歴史上でも最も不名誉な出来事は、後に旧約聖書の様々な箇所に記録され、教訓として神殿でもユダヤ人の会堂でも朗読されていきました。
 そして、この出来事は、クリスチャンとして生きる私たちにも、神様を信頼して生きることの大切さを教えてくれるものとなったのです。
 前回の箇所の最後の3章19節には「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」とありましたね。不信仰とは、自分の意志で神様に従おうとしないことです。心をかたくなにして神様に従おうとしないなら、安息に入ることができないのだ、と教えているのですね。
 そして、今日はその続きで、「神の安息に入る」ことについて、さらに詳しく説明されています。ですから、今日の箇所には「安息」という言葉が何度も出てきますね。ただし、同じ「安息」という言葉でも、文脈によって違う意味で使われます。今日の箇所でもいくつかの意味で使われています。

1 「安息」の意味

@天地創造の時から用意されていた「安息」

 まず、3節の最後に「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです」とありますね。これは、「私たちのために安息を用意するというみわざは、天地創造の時にすでに終わっている」ということです。
 神様は、最初の六日間で天地万物と人をお造りになりました。そして、4節に創世記2章2節が引用されていますが、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」というのです。
 この「神が休まれた」というのは、神様がずっと休んでばかりで傍観者のように何の働きもなさらないと意味ではありません。イエス様は、ヨハネ5章17節で「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」と言われました。神様は、この世界を創造しただけでなく、いつもこの世界を支え、維持し、私たちの日ごとの祈りを聞き、私たちの最善のために働いてくださっています。
 では、神が七日目に休まれたというのは、どういう意味かと言いますと、「神様の創造のみわざは安息をもって完了している」という意味なのです。神様は、創造をわざを完了した後に、私たちが神様の安息の中で生きることができるように、創造の初めから今に至るまでずっと安息を用意してくださっているのですね。ですから、私たちが望みさえすれば、いつでも神様の安息に入り、その中にとどまり続けることができるはずなのです。つまり、神様の安息は、この世の最初から準備されていて、神様は私たちがその安息に入るのを待っておられるということなのです。

Aイスラエルの民が約束の地に入ることを意味する「安息」

 神様は、全人類が神様の安息に入ることを願っておられます。そこで、まず、イスラエルの民を選び、彼らをエジプトから脱出させて約束の地に導くというみわざを通して、神様の安息に入るために何が必要なのかということを私たちに教えてくださいました。それが出エジプトの出来事です。
 この出来事の中では、「安息」とは、約束の地に入ることを意味しています。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されて、荒野の旅を経て、約束の地に入ることは、私たちが罪から解放されてこの世の旅を送り、安息の地に入ることを象徴的に示す出来事なのです。
 イスラエルの民は、「わたしに信頼して歩めば、必ず約束の地に入って安息することができる」という神様の福音(良い知らせ)を聞きました。しかし、2節にこう書かれていますね。「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」
 彼らは、みことばを信仰によって結びつける、つまり、聞いたことを信じてその通りに行動することをしませんでした。それで、せっかくの良い知らせも益にならず、約束の地に入って安息を味わうことができなかったのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない」と神が言われたとおりになってしまったわけですね。
 さて、心をかたくなにして神様に逆らった人々が荒野で死んでしまった後、モーセの次のリーダーとなったヨシュアが新しい世代の人々を率いて約束の地に入っていきました。しかし、約束の地でイスラエルの民は安息に入ることができたでしょうか。8節に「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう」とありますね。つまり、ヨシュアは、イスラエルの民を約束の地に入らせることはできましたが、本当の安息を与えることができなかったのです。なぜなら、イスラエルの民は、約束の地に入った後も神様に逆らい続けたからです。
 そのヨシュアの時代から長い年月が経った後、ダビデがイスラエルの王になりました。そのダビデが7節に引用されている「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」という詩篇の言葉を書きました。ダビデは自分と同じ時代の人々にも、また、後の時代の人々にも「神様の安息に入るためには、心をかたくなにしてはならない」と教える必要があったのですね。それは、まだ本当の安息に入っていない状態だったからです。
 旧約聖書には、その後のイスラエル民族の歴史も記録されていますが、彼らは結局、神様の安息に入ることができませんでした。そして、その彼らの姿を見てわかるのは、「人は自分の力で神様に聞き従って本当の安息に入ることはできない」ということでした。

Bイエス・キリストを信じて生きる人々が持つ「安息」

 しかし、神様は安息に入る道を用意してくださっていました。イエス・キリストです。人は、自分の力や努力によってではなく、神様から遣わされた救い主であるイエス様を信じることによって本当の安息を得ることができるというのです。
 「神様は、私たちがイエス様を信じることによって永遠の安息に入ることができるように、創造の初めから計画し準備してくださっているのですよ」と、この手紙の記者は言っているのですね。
 それでは、イエス様を信じることによって与えられる安息とは、どのようなものでしょうか。
 イエス様は、私たちの罪を十字架で背負ってくださり、赦しを与えてくださいました。それによって、私たちは、罪の重荷や罪責感から解放されて安息できるようになりました。また、イエス様が私たちが受けるべき罰をすべて受けてくださったので、私たちは恐れることなく自由に安心して神様の前に出ることができるようになりました。しかも、神様を「お父さん」と親しく呼び、父なる神様の前で安息することができるのです。また、どんな状況の中でもイエス様がいつも共にいてくださり、決して見放さないと約束してくださっているので、安心して生きていくことができます。また、神様が日ごとに必要なものを備えてくださり、また、いつか永遠の天の故郷に招き入れられるという希望をもって安心して生きていくことができるのです。

C天の御国での「安息」

 ただし、この世にいる間は、苦しみや困難があり、迷ったり疑ったりすることもありますね。完全に安息しているわけではありません。
 9節ー11節にこうありますね。「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
 この世に生きる私たちは、約束の地を目指して荒野を旅するイスラエルの民のようなものです。永遠のまったき安息に入ることを目指して旅しているのです。困難があります。心配もあるでしょう。でもイエス様が私たちのただ中にいていつも共に歩んでくださいます。みことばの光で道を示し、必要な糧を与えて養い、守ってくださっているのです。そして、必ず永遠の安息の地に入ることができると保証してくださっているのです。
 パウロは、エペソ1章4節、11節にこう記しています。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。・・・この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。」
 神様は、私たちを世界の基の置かれる前から選んで、御国を受け継ぐ者にしてくださっているのです。これは、ヘブル人への手紙流に言い替えれば「私たちは、天地創造の初めから、神の安息に招かれているのだ」ということです。「世界の基の置かれる前から」という表現には「時間という枠を越えている」、つまり「永遠」という意味がありますから、私たちは神様の安息に入るために選ばれた者であり、その選びは何があっても揺り動かされることのない永遠の選びなのだと保証されているわけですね。ですから、安心して旅を続けることができるのです。
 11節に「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにしようではありませんか」とありますが、こればどういう意味でしょうか。
 これは「努力しないと永遠の安息に入れないぞ」とか「途中で不従順になったら、神様から見捨てられて落ちこぼれてしまうぞ」という強制や脅しの言葉ではありません。
 神様は、私たちが安息に入ることができるようにイエス様を遣わしてくださいました。だから、イエス様を信じてついていきさえすれば大丈夫なのです。しかも、私たちが永遠の安息に入ることができるということは、神様御自身が世界の基の置かれる前から保証してくださっているのですから。
 では、私たちは、どんなことに「力を尽くして努め」るべきなのでしょうか。

2 「安息」に入るために

@みことばを聞く

 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」というダビデの言葉は、今の私たちにも語りかけられています。イエス様の御声を聞いたなら心をかたくなにせずに耳を傾けましょう。

Aみことばを信仰によって結びつける

 先ほどお話ししましたように、イスラエルの民は、みことばを聞いても、信仰によって結びつけることをしませんでした。そのために約束の地に入ることができなかったのです。
 そこで、この手紙の記者は、「私たちは、そうであってはならない。みことばを信仰によって結びつけなければならない。そのことに力を尽くして努めなさい」と言っているわけです。
 では、「みことばを信仰によって結びつける」とは、どういうことでしょうか。
 それは、みことばを信頼し、実際の生活の中でその通りに生きていくということです。
 礼拝で何度かお話ししていますが、信じるということは、理性を捨てて思い込むことではありません。がむしゃらに熱狂することでもありません。信じるということは、生きることに結びついています。
 例えば、東京に行く時に、駅のホームで東京行きの電車に乗らなければ、いつまでたっても東京に着きませんね。ホームの時刻表を見て頷いているだけなら、電車は走り去ってしまうのです。時刻表を見て、東京行きを確認して、電車に乗り込まなければ、東京に行き着くことはできません。そのように、日常生活の中で、私たちは様々な情報を見聞きし、その情報を信じて行動しています。その連続の中で生きているのですね。
 それと同様で、信仰とは、福音の言葉を聞くだけでなく、その言葉の通りに生きてみることなのです。それがなければ、福音がもたらす永遠の救いも安息も得ることが出来ないということなのですね。こんなにすばらしい救いがあり、神様が創造の最初から用意してくださっている安息があるのですから、聞いた言葉の通りに生きてみたほうがいいですよね。
また、「みことばを信仰によって結びつける」とは、みことばを自分自身とリンクさせていくということです。
 最近はネットの世界ですから、画面をクリックするといろいろなサイトとリンクされていますね。想像してみてください。 たとえば、私が「関根弘興」と入力して検索ボタンをクリックすると、「赦された罪人」「神様の前に無罪とされている」という言葉が出てきます。またクリックすると、「神様に愛されている牧師」と出てくるのです。更にクリックすると、「イエス様とは兄弟関係にある」とか「イエス様が顧問弁護士になっている」とか「ただし、高慢になりやすので、神様の懲らしめも時には必要」とかいった具合に、みことばが信仰によって結びつけられていくと、神様と私のリンクの数が数え切れないほどの増えていきますね。
 でも、もしみことばを聞いても、「私とは関係ありません。繋がる必要がありません」と拒否するなら、リンクの切れたホームページのようになってしまいます。クリックしても、「リンク切れのため表示できません」と出てしまうのです。神様の数え切れないほどの恵みが注がれているのにリンク切れにしてしまうのは、もったいないですね。
 みことばを自分自身と結びつけ、実際の生活の中でみことば通りに生きていきましょう。

Bみことばの力を味わう

 そうすることによって、みことばの力を味わうことができるようになります。
 12節に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とありますね。
 神様のことばには、いのちがあります。私たちを生かすことができるのです。また、神様のことばには力があります。初めに神が「光よ、あれ」と言われると、光ができました。神様が語られると、その通りになるのです。その神様のことばに信頼するなら、私たちの人生の中に神様の力が働いていくのです。
 また、神様のことばは、「両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とありますね。
 本来、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目を判別することはとても難しいことです。しかし、聖書を通して語られる神様の言葉は、本来判別できないようなものさえも判別することができるというのです。聖書を読んでいくとき、私たちは自分の内面の状態に気付かされます。隠そうとしている自分の醜さや罪深さも露わにされていきます。13節に「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」とあるとおりです。神様の言葉は、すべてを明らかにしていくのです。
 でも、だからといって神様を恐れる必要はありません。神様は最高の外科医のような方です。私たちのために、病んでいる箇所を正確に見つけて取り除くことができる方なのです。ですから、安心して神様の手術を受けることができますね。
 また、神様はすべてお見通しですから、私たちは神様の前で格好つける必要もありません。ありのままの自分を見ていただけばいいのです。神様は、私たちのすべてをご存じの上で、愛し、赦し、永遠の安息を用意してくださっているのですから。
 では、13節の「私たちはこの神に対して弁明をするのです」というのは、どういう意味でしょうか。これは、神様の前で自分ことをを正直に申し述べねばならない、ということです。自分を隠したり、言い訳するのではなく、自分のありのままを申し述べるのです。神様はすべてのことをご存じなのですから、私たちは正直に自分の弱さも含めて告白していけばいいのです。そして、すべてを知ってくださる神様を信頼して歩んでいくのです。そうすれば、神様が私たちをキリストに似た姿に造りかえていってくださるでしょう。
 私たちは、今、神様の安息の中に生きています。そして、永遠の安息も保証されています。ですから、みことばを信仰によって結びつけながら、神様の大きな恵みの中で歩んでいきましょう。