城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年三月一二日            関根弘興牧師
                 ヘブル四章一四節〜一六節
 ヘブル人への手紙連続説教9
    「偉大な大祭司」

14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(新改訳聖書)


 先週は、神様の安息は創造の初めから準備されていて、私たち一人一人がその安息に招かれているのだ、ということを学びました。また、神様のみことばと自分自身をリンクさせ、結びつけながら歩んでいこうということを学びましたね。その歩みを通して、私たちは、みことばの力を味うことができるのです。 4章12節に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」と書かれていますが、神様のことばには、いのちがあります。私たちを生かすことができるのです。また、神様のことばには力があります。また、神様のことばは、本来判別ができないようなものさえも判別することができまから、私たちは神様のことばによって、自分自身を知り、物事を判断することができるようになっていくのです。
ヨハネ1章1節には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書かれています。この「ことば」とは、イエス・キリストのことです。ですから、神様のことばとは、聖書のことばであるとともに、イエス・キリストご自身のことでもあるのです。神のことばに導かれるということは、聖書のことばに導かれるということであり、また、イエス・キリストに導かれていくということでもあるのですね。

1 偉大な大祭司である神の子イエス

 さて、前回までの箇所では、イエス様が御使いよりもはるかに優る方であり、また、旧約聖書に登場した偉大な指導者たちであるモーセやヨシュアやダビデよりもはるかに優れた方であることが記されていました。
 今日の箇所からは、そのイエス様御自身に注目して、さらに詳しい説明が記されていきます。イエス様こそ、私たちを導くリーダーであり、他の誰とも比べることの出来ない偉大な方だということが教えられていくのです。
 特に、今日の箇所から何章にも渡って「偉大な大祭司である神の子イエス」について記されています。イエス様が偉大な大祭司であるということは、この手紙が特に強調している論点なのです。
 池上彰さんの番組で「・・がわかれば、世界がわかる」というフレーズがよく出てきますね。この手紙の記者は、「イエス様が偉大な大祭司であることがわかれば、私たちに与えられている救いがわかる。恵みがわかる」というのです。
 それでは、大祭司とは、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 人は罪あるままでは、聖なる神様の前に出ることはできません。そこで、大祭司は、民の罪の贖いをするためのいけにえを捧げ、民の代表として神殿に入り、神様の御前に近づいて民のとりなしをしました。つまり、神様と人との関係を回復させるための橋渡しのような役割を果たしていたのです。
 最初に大祭司に選ばれたのは、モーセの兄アロンです。そして、代々アロンの子孫が大祭司の務めを担っていました。しかし、大祭司自身も完全ではなく、罪の贖いのためにささげる動物のいけにえも完全なものではありませんから、完全な罪の贖いを成し遂げることはできなかったのです。
 しかし、神の子イエス様が人となって来てくださいました。イエス様は、神なる方ですから、完全に罪のない方です。そのイエス様が、御自身を完全ないけにえとしてささげてくださいました。それによって、神様と私たちの間を阻んでいた罪の問題が完全に解決され、神様と私たちの関係が完全に回復されたのです。つまり、イエス様こそ、まことの大祭司であり、イエス様だけが大祭司としての役割を全うすることができる方なのです。神様と人との間をとりなし結びつける仲介者の役割を完全に成し遂げることができるのは、イエス様だけなのですね。そのことは、この後の章で詳しく書かれていきます。
 でも、「大祭司」という言葉を聞いただけではピンと来ない方もおられるでしょう。私の人生に何の関係があるのだろうか、と思う方もおられるでしょうね。しかし、実は、私たちは皆、大祭司を必要としているのです。
 旧約聖書の中に、ヨブという人物が出てきます。ヨブは裕福で神様を敬いながら幸せに生活していましたが、突然、困難や悲劇が次々と襲ってきました。敵の攻撃や災害のために全財産を失い、子どもたちがみんな一度に死んでしまい、ついにはヨブ自身も体中にできた悪性の腫瘍で苦しむようになりました。長年連れ添って来た妻からは「神をのろって死になさい」と言われ、見舞いに来た友人たちからは「あなたが罪を犯したから、罰を受けているのだ。悔い改めなさい」と責め立てられました。これは、因果応報の考え方ですね。しかし、ヨブは、友人の言葉に納得することができませんでした。自分がこれほどの罰を受けるほどひどい罪を犯したとは、とても思えなかったのです。
 ヨブは苦難の理由がわからず葛藤しました。そして、苦しみの中でこう叫んだのです。「神様の前に出て、神様と論じ合いたらいいのに。自分の訴えを聞いていただき、神様の答えを知りたい。もし神様と私の間に仲介者がいてくれたらいいのに。神と対等に話ができる仲介者、しかも、私の気持ちをわかってくれる仲介者がほしい。神であり人であるような仲介者がいないだろうか。」
また、ヨブ16章19節ー21節で、ヨブはこう言っています。「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」自分のことを理解してくれる方がいるはずだ、その方に神様の前で自分のためにとりなしをしていただきたい、と願っていたのですね。
 私たちもヨブと同じように、「なぜこんな苦しみを味わうのかわからない。神様は私のことを本当にわかっておられるのだろうか。私を見捨てたのではないだろうか。神様に直接会って訴えたい、神様の言い分を聞いてみたい」と思うことがあるのではないでしょうか。確かに、人生には意味の分からない困難や苦難が襲ってきます。「どうして」「なぜ」という疑問に思うことも多いですね。この手紙が書かれた時代のクリスチャンたちもそんな思いを持っていたことでしょう。ですから、ヨブの叫びは、すべての人の叫びでもあるのです。
 でも、もし今日の箇所をヨブが読んだら、小躍りして喜ぶでしょうね。「偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」と記されているからです。イエス様こそ、ヨブが、また、私たちが求めている神と人との間に立つ仲介者、偉大な大祭司なる方なのです。その大祭司イエス様について、今日の箇所から詳しく見ていきましょう。

@私たちのために、もろもろの天を通られた方

まず、14節に「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」と書かれていますね。
 この「もろもろの天を通られた」というのは、どういう意味でしょうか。
 当時、「天」は、何層にもなっていると考えられていました。つまり、神と人との間には、何層にもなっている天があると考えられていたわけですね。
 しかし、神の子イエス様が、神様のもとから、もろもろの天を通って私たちのもとに下って来てくださり、私たちのために十字架にかかってくださいました。そして、よみがえって、もろもろの天を通って神様のもとに上って行かれ、神の右の座について大祭司の務めを果たしておられるのだというのです。
 エペソ4章10節には、イエス様は「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです」と記されています。また、この手紙の7章26節には、イエス様は「天よりも高くされた大祭司」だと記されています。つまり、イエス様は、すべてのものにまさる至高のお方であり、そのイエス様が私たちのために大祭司となってくださっているのだから大丈夫だ、とこの手紙の記者は言っているわけですね。
 ところで、エペソ2章2節に「(あなたがたは)そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」とありますが、この「空中」とは、天の最下層を指すと考えられていました。また、エペソ1章20節ー21節に「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」とありますが、この「すべての支配、権威、権力、主権」とは、「空中」より一つ上の層を支配する力と考えられていました。
 つまり、天の下の方の層では、神様に従わせないように誘惑する力、人を恐れさせて縛り付ける力、強制的に支配しようとする力、また、霊的な力と称して人々を束縛する宗教的な教えや迷信など様々な力が働いているけれど、イエス様は、そのどんな力よりもはるかに高い所におられる方、最も力と権威のある方であり、そのイエス様が私たちのために大祭司としての務めを果たしていてくださるのだから、何ものも私たちを縛り付けたり攻撃したり訴えたりすることはできないのだ、だから、恐れる必要はない、ということなのです。

A私たちと同じようになってくださった方

それから、15節に、こう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
イエス様は、神の御子であるのに、私たちと同じ人となって私たちのもとに下ってきてくださり、私たちと同じように試みに会われました。罪を犯さないということ以外は、すべて私たちと同じようになってくださったので、私たちの弱さを思いやることがおできになるのです。
 こんな内容の詩があります。

   「神への告発」        作者不詳

神の御座の前に何万もの人々が集まっていた。
前方にいた人々が怒りの叫び声をあげた。「神に俺たちを裁く権利があるのか。神に俺たちの苦しみがわかるものか。」彼らはシャツをたくしあげ、ナチスの収容所で受けた傷と囚人番号の入れ墨を見せた。「俺たちは殴られ、迫害され、虐待され、死に至る苦しみを受けたのだ。」
黒人たちが襟を開いて「これを見てくれ」と叫んだ。リンチにあい、縛り首にされたロープの跡があった。「俺たちは、奴隷として苦しめられた。愛する家族と引き離され、死ぬまで苦役に服さねばならなかった。」
広場には、地上で苦しみを味わった人々が何百もの集団になって群がっていた。そして、「なぜ地上であんな苦しみにあわせたのか」と口々に神を責めたてた。「神なんて楽なもんだよな。光に満ちた麗しい天国に住んでてさ。」「涙も飢えも危険もない。」「いったい神に、地上の人間が受けている苦しみや痛みがわかるのか。」
彼らは集団毎に地上の苦しみを最も味わった人々をリーダーに選び、告発会議を開いた。会議には、ユダヤ人、黒人、インドの最下層の人、広島、長崎の人、シベリヤの収容所に入れられた人たちなどが参加していた。
彼らは、次のような結論に達した。
『決議文
神が、われわれ人間に対する裁き主、主となるためには、神自身がわれわれの味わった中でも最も厳しい苦しみを経験すべきである。具体的には、
・神を人として地上に住まわせよう。しかも、自分を苦しみから守るために全能の力を使ってはならないという条件で。
・ユダヤ人として生まれさせよう。人から疑われるような誕生の仕方をさせ、だれが父親なのか世の人にわからないようにしよう。
・正義と真理を宣べ伝え神を紹介するという役目を与えて、世の人々や宗教家たちからねたまれ、憎まれ、ののしられるようにしよう。
・最愛の人から裏切られる経験をさせよう。
・無実の罪で捕らえられるようにしむけ、しかも、偏見に満ちた陪審員の前で、臆病な裁判官によって裁判を行わせよう。
・ひとりぼっちで取り残され、人々に全く見捨てられてしまうという辛さを味わわせよう。
・拷問にあわせよう。そして、殺されるようにしむけよう。しかも、最も辛く、苦しい十字架で。・・・』
この決議文が読み上げられるのを聞く何万もの人々は、納得の声を上げ、ざわめいていた。しかし、まもなく沈黙が始まり、長い静寂の時が続いた。だれも声をあげず、だれも動こうとしなかった。そこにいたすべての人が、はっきり気付いたのだ。神がすでにこの決議文を実行していたことを。

 イエス様は私たちと同じような試みを受けられました。それどころか、私たち以上の苦しみを経験されました。裏切られ、誤解され、むごたらしい十字架につけられ、想像できないほどの痛みを味わわれたのです。だからこそ、イエス様は、私たちの痛みも悲しみも弱さも理解し、私たちの立場にたってとりなしをしてくださるのです。

2 私たちの応答

 では、私たちは、そのイエス様にどのように応答していったらいいでしょうか。

@信仰の告白を堅く保つ

 14節に「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」とありますが、ここで「イエスがおられるのですから」と訳されている言葉は、直訳すると「イエスを持っている、有している」となります。つまり、偉大な大祭司であるイエス様が私たち一人一人に与えられているということなのです。
 パウロは、ガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と記しています。私たち一人一人の内にキリストが生きておられるのです。
 ですから、私たちは、このイエス様に対して、「あなたは生ける神の御子キリストです」「あなたは偉大な大祭司です」「あなたを信頼し、愛し、礼拝します」と告白しつつ歩んで行きましょう。

A大胆に恵みの御座に近づこう

  それから、16節には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と書かれていますね。何とすばらしい招きの言葉でしょう。「大胆に恵みの御座に近づこう」というのです。
 では、「恵みの御座」とは何でしょうか。
 旧約時代、神様の命令によってモーセが造った「会見の天幕」とよばれる移動式の神殿、また、後にエルサレムに造られた神殿には、一番奥に「至聖所」という場所がありました。そこには、契約の箱が置かれていました。契約の箱を覆うふたは「贖いのふた」と呼ばれ、純金で作った二つの「ケルビム」(神様の臨在を示す天使のような存在)の翼で覆われていました。
 出エジプト記25章22節で神様は、モーセにこう約束されました。「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。」つまり、そこは、神様と会い、神様と親しく語ることのできる場所だったわけですね。
 また、年に一度、大祭司が民の罪を贖うためのいけにえの血を持って至聖所に入り、「贖いのふた」の上に血を振りかけるという儀式が行われました。つまり、そこは、罪の赦しの場所でもあったのです。
 つまり、その場所は、神様とお会いし、語り合い、赦しの恵みを受けることのできる恵みの御座となっていたのです。
 しかし、モーセ以外で至聖所に入ることができるのは大祭司だけ、それも、年に一度だけでした。人は罪があるので、聖なる神様の御前に自由に近づくことができないからです。
 ですから、16節に「私たちは、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と書かれているのは、当時の人々にとって驚くべきことでした。特別な人だけでなく、誰でも自由に大胆に恵みの御座に近づくことができるというのですから。
どうして、それが可能になったのでしょうか。偉大な大祭司であるイエス様が、ご自分を完全ないけにえとしてささげてくださったので、私たちの罪が完全に赦されたからです。だから、私たちは、聖なる者として、恐れることなく神様の御前に出ることができるようになったのです。
 恵みの御座は、赦しがあふれる場所であり、自由に親しく神様と語ることのできる場所です。
 恵みの御座は、以前は神殿の奥にありました。今はどこにあるのでしょうか。今は、聖霊が私たちの内に住んでくださっているので、私たちは、どこにいても、神様と共にいて、神様と親しく語らい、赦しの恵みを味わうことができるのです。
 そして、私たちは、いつでもどこでも神様からおりにかなった助けを受けることができます。伝道書の書3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とありますが、神様がその時々にふさわしい助けを与えてくださるのです。
 ですから、焦ったり気負ったりする必要はありません。また、「助けなどどこにもない」と気落ちしなくてもいいのです。信仰の告白を堅く保ちつつ、神様の恵みの御座に近づいていけば、神様がおりにかなった助けを与えてくださいます。
 「大胆に」とありますから、少し図々しいぐらいに主の恵みを願い求めていきましょう。そして、偉大な大祭司イエス様によって与えられた特権、恵みの御座に近づくことのできる特権を感謝しつつ歩んで行きましょう