城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年三月一九日            関根弘興牧師
                  ヘブル五章一節~一〇節
 ヘブル人への手紙連続説教10
    「大祭司の資格」

1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。2 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。4 まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。5 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。6 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、10 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(新改訳聖書)


 先週は、イエス様こそ、もろもろの天を通られ、すべてのものにまさる至高の地位に着かれた偉大な大祭司であることを学びました。大祭司は、神様の前に出て、すべての人の罪の贖いのためにいけにえをささげ、神と人との間をとりなす役目を担っています。イエス様は、神であられる方なのに、私たちと同じ人となって私たちのもとに来てくださり、私たちと同じように試みに会ってくださいました。だから、私たちの弱さをわかってくださるのです。そして、このイエス様が、私たちの身代わりとなって十字架についてくださり、私たちの罪の贖いを完全に成し遂げて、神様と私たちとの関係を回復させてくださいました。それで、私たちは今、大胆に神様の恵みの御座に近づいて、神様を親しく「お父さん」と呼び、安心して神様と何でも親しく語り合うことができるようになったのです。しかも、その恵みの御座は、今は、ある特定の場所だけにあるのではなく、イエス様を信じる私たち一人一人の中にあるのです。ですから、私たちは、いつでもどこでも神様との親しい関係の中で生きていくことができるのですね。
 また、イエス様は、十字架で死んで三日目によみがえられ、天に昇り、どんな権威や力よりもはるかに高い所におられます。そのイエス様がいつも私たちのために神様にとりなしをしてくださっているというのですから、安心ですね。
 前にもお話ししましたが、この手紙は「ヘブル人」へ宛てられた手紙です。「ヘブル人」とは「ユダヤ人」のことで、この手紙は、ユダヤ教から回心してクリスチャンになった人たちに向けて書かれたのです。ですから、この手紙の中にはユダヤ人たちがよく知っている旧約聖書からの引用がたくさんあります。
 「大祭司」というのも、私たちには馴染みがありませんが、ユダヤ人の社会では、神殿で最も大きな責任を担う大祭司は、人々の精神的な支柱となる存在でした。大祭司が自分たちの替わりに神様の前に出て、罪の赦しのために犠牲をささげ、神様にとりなしの祈りをささげてくれるのですから。
 ですから、当時、迫害を受けて心が揺れているユダヤ人クリスチャンたちは、「イエス様こそ偉大な大祭司である」と書かれているのを読んで、大きな励ましと勇気を与えられたことでしょう。
 しかし、その一方で、彼らは、「どうしてイエス様を大祭司と呼ぶことができるのだろう」という疑問も持ったでしょう。なぜなら、旧約聖書の律法の規定によれば、大祭司になれるのは、モーセの兄であるアロンの子孫だけ、と決まっていたからです。イエス様は、アロンの子孫ではありませんから、もしイエス様が勝手に「私は偉大な大祭司ですよ」と自称しているだけなら、ユダヤ人クリスチャンたちは、もうこれ以上従うことはできない、とすぐに考えたことでしょう。
 そこで、この手紙の記者は、なぜイエス様が偉大な大祭司と呼ばれるにふさわしい方なのかということを今日の箇所から説明していくのです。
 今日の箇所は、大きく二つに分かれています。まず、1節ー4節には、大祭司となるためには、どのようなことが必要かということが書かれています。そして、5節ー10節には、キリストが大祭司と呼ばれる理由が説明されているのです。詳しく見ていきましょう。

1 大祭司となる条件

 まず、1節ー4節の大祭司となるための条件を見ていきましょう。

①人々の中から選ばれた者
 
 1節に「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです」と書かれていますね。
 大祭司となるための第一の条件は、「人々の中から選ばれた者」でなければならないということです。大祭司は、「人々に代わる者」、つまり、人々の代表として神様に仕え、神様にささげ物やいけにえをささげるのですから、人でなければならないのです。当たり前のことのように思えますが、大祭司は神や御使いのような人間とは別の存在ではなく、まさに、人間の代表としての存在であるべきだということです。
   
②人々を思いやることができる者

  次に、2節に「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」と書かれていますね。
 大祭司になる第二の条件は、「人々を思いやることができる」ということです。
 この「無知な迷っている人々」とは、「神様を知らずに迷っている人々」です。そして、「思いやる」とは、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」という意味が含まれています。つまり、神様を知らない人たちに対しても、批判や攻撃をするのではなく、柔和に、穏やかな心でやさしく忍耐深く接することができることが大祭司の条件だというわけです。
 そして、人々を思いやることができるのは、自分自身も弱さをまとっているからと書かれていますね。つまり、大祭司は、自分自身の弱さを自覚し、謙遜を身につけて、同じ立場で人々を思いやり、忍耐強く接していかなければならないのだというわけです。

③神に召された者

 それから、4節に「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです」とあります。
 大祭司になる第三の条件は、「神様に召された者」であることです。大祭司は、自分でなりたくて手を挙げるのではありません。また、人の推薦でなるのでもありません。
 出エジプト記28章1節で、神様はモーセにこう言われました。「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」つまり、アロンとその子たちが神様によって祭司に選ばれたのですね。 そして、神様は、アロンを最初の大祭司に任命なさいました。そして、その後も代々アロンの子孫が大祭司の務めを担っていくようにとお命じになったのです。ですから、神様に召されて大祭司の資格が与えられるわけですね。
 
このように、大祭司は、三つの条件を満たしている必要がありました。第一は、人でなければならない、ということ。第二は、人々の痛みを思いやることができる、ということ。そして、第三は、神様に召された者(アロンの子孫)でなければならない、ということです。
 しかし、聖書に登場する歴代の大祭司たちを見ると、第一の条件と第三の条件は一応満たしてはいますが、残念ながら、第二の条件を満たしているとは言えないようです。人々を思いやるどころか、大祭司という特別な立場を利用して人々を支配したり、攻撃したり、自分の利益をむさぼったりする大祭司もいました。また、3節に「そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」と書かれているように、アロンとその子孫の大祭司たちは、自分自身の罪のためにもささげ物をしなければならなりませんでした。つまり、アロンとその子孫は、不完全な大祭司だったのです。

2 大祭司イエス・キリスト

 それにくらべて、イエス様はどうでしょうか。
 先ほど、大祭司となる三つの条件を挙げましたが、5節ー7節を読むと、イエス様がその条件をすべて満たしている方であることがわかります。

①人となられた方

 まず、7節に「キリストは、人としてこの世におられたとき」とあるように、イエス様は神の御子であられる方なのに人として来てくださいました。ですから、大祭司になるための第一の条件「人であること」を満たしているわけですね。イエス様は、私たちの代表として神様の前に出てくださる方なのです。

②人々を思いやることができる方

それから、前回の4章15節に、こう書かれていましたね。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
 イエス様は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたので、私たちの弱さを思いやることがおできになるというのです。
 そして、今日の5章7節には、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」と書かれていますね。
 イエス様が、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたのは、どんな時だったでしょうか。
 すぐに思い浮かぶのは、十字架を目前にしたゲッセマネの園での祈りですね。それは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエス様は「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22章42節)と三度も祈られました。罪のないキリストが私たちの罪を背負って十字架につけられ、壮絶な苦しみを味わわなければならなかったのです。どんなに大きな葛藤と苦悩だったでしょう。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた」と記録しています。イエス様の祈りは、それほど壮絶なものだったのです。
 しかし、イエス様が「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたのは、その時だけではありませんでした。7節に「キリストは、人としてこの世におられたとき」とありますが、これを直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。これは、ある特定の一日だけを指しているのではなく、イエス様が人としての生涯を過ごされた日々ということです。つまり、イエス様は、ゲッセマネの園のあの時の祈りだけでなく、日々の生活の中でも人々のために涙を流して祈っておられたということなのです。
 いったい誰が私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれるでしょう。イエス様は、今も私たち一人一人を思いやり、涙を流して祈り、とりなしていてくださるのです。

③神によって召された方

それから、5節にこう書かれています。「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」
 アロンが大祭司となる栄誉を神様によって与えられたように、キリストも大祭司となる栄誉を神様によって与えられたというのです。
 ここに出てくる「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」という言葉は、詩篇2篇7節からの引用で、神様に選ばれた王、つまり、キリストに対して神様が言われた言葉です。この「わたしがあなたを生んだ」というのは、神様がイエス様を赤ちゃんを産むように出産したという意味ではありません。私が牧師になったとき、母教会の信徒の方が「若い牧師が新しく生まれましたね」と言ってくれました。それは、「牧師として新しい出発をした」という意味ですね。それと同じように、神様がイエス様に対して「わたしがあなたを生んだ」というのは、イエス様がまことの救い主となられたことへのお墨付きの言葉なのです。
 このヘブル人への手紙の記者は、その神様が、イエス様に大祭司としての栄誉もお与えになったというのです。
 でも、一つの疑問が残ります。先ほどお話ししましたように、旧約聖書の律法では、大祭司はレビ族のアロンの子孫だけがなれることになっています。でも、イエス様は、ユダ部族のダビデの子孫ですから、そのイエス様が大祭司になるというのは、律法の規定から外れてしまうことになりますね。
 しかし、この手紙の記者は、詩篇110篇4節の言葉を引用して、すばらしいことを告げています。この言葉も神様によって選ばれた王、つまり、キリストに対して神様が言われている言葉なのですが、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」というのです。
 「メルキゼデクの位に等しい祭司」ということについては、7章に詳しく書かれているので、後日、7章を説教するときに詳しくご説明したいと思いますが、メルキゼデクは、創世記14章18節ー20節に出てくる人で、「シャレム(平和)の王」であり「いと高き神の祭司」であったと書かれています。モーセがシナイ山で律法を与えられるよりも遙か昔、アブラハムの時代の人です。
 アブラハムが敵に勝利して帰ってきたときに、メルキゼデクがアブラハムのもとに来て、「天地を造られたいと高き神の祝福を受けよ」と祈りました。そして、アブラハムはメルキゼデクにすべての物の十分の一をささげたと書かれています。
 これは、ユダヤの社会では知らない人がいないほど有名な出来事で、メルキゼデクは、歴代の大祭司を遙かにしのぐ理想的な祭司であり王である人物としてユダヤ人々の中に記憶されていました。
 そこで、へブル人への手紙の記者は、「読者の皆さん。イエス様こそ、あのメルキゼデクの位に等しい大祭司です。アロン系列の大祭司よりもはるかにすぐれた、とこしえの大祭司なのですよ」と記しているわけです。
 アロン系の祭司は、不完全でした。弱さも罪もあり、神様に完全に従うことができないどころか、逆らうことさえありました。しかし、イエス様こそ、待ちに待った理想的な大祭司なのだと言っているのです。
 そして、5章8節ー10節には、こう書かれています。
 「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
 キリストは、神の御子であられる方なのに、人としてきてくださいました。そして、従順を学ばれたとあります。
 「従順を学ばれた」といっても、イエス様が最初は従順でなかったという意味ではありません。
 イエス様は、最初から父なる神に従順でしたが、人として多くの苦しみを受けても、十字架の壮絶な苦しみを受けても、徹底的に従順を貫かれたということなのです。そして、そのイエス様の徹底した従順を通して、救いのみわざが完全に成し遂げられたのです。
 イエス様は、神様に従順に従うことによって、信じるすべての人々にとこしえの救いを与えることのできる完全な救い主となられました。また、メルキゼデクの位に等しい完全な大祭司となられたのです。
 ピリピ2章6節ー11節にはこう書かれています。
 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 
 皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方です。また、イエス様は、まことの大祭司です。私たちのために涙を流して祈ってくださる方であり、神様の御前で私たちのためにとりなしてくださる永遠の大祭司なのです。この大祭司がいるから安心ではありませんか。
 先週も読みましたが、4章15節ー16節の言葉を、もう一度、ご一緒に読みましょう。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」