城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年四月二日             関根弘興牧師
                  ヘブル六章一節~一〇節
 ヘブル人への手紙連続説教12
    「成熟を目指して」

1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。3 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。9 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。10 神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(新改訳聖書)

 この手紙は、イエス様が私たちと神様との関係を回復してくださる偉大な大祭司であるということを教えています。
 ところが、この手紙の読者の中には、そのことを聞いても理解しようとしない人たちがいたようです。その人たちは、まだ幼子のようで、三つのことが成長の妨げとなっている、と前回の箇所に記されていましたね。
 妨げの第一は「耳が鈍くなっている」ということでした。これは「心がふさがっている」という意味でもあります。様々な困難や誘惑があって、聖書の言葉になかなかガッテンできなくなっている状態です。でも、クリスチャンとして成長していくためには、どんな時にも聖書のことばに耳を傾けていくことが大切なのです。
 妨げの第二は「義の教えに通じていない」ということです。 「義の教え」とは何でしょうか。一つは、「神様に義(罪なし)と認められるために必要なのは、ただ救い主イエス様を信じることだけだ」ということです。私たちはどんなに頑張っても神様に義と認められる者になることはできません。でも、私たちの身代わりに十字架について、すべての罪の罰を受けてくださったイエス・キリストを信じるならば、神様のみ前で罪のない者と認められるのです。それなのに、もっと自分が頑張らなければならない、さもないと罰を受けると思ってしまうなら、それは「義の教えに通じていない」ということなのですね。
 「義の教え」の二つ目は、イエス様を信じて義と認められた私たちは、神様とのまっすぐな親しい関係を持っているということです。神様を「お父さん」と呼び、遠慮無く神様に近づいて何でも語り合い、豊かな恵みと祝福を受け取ることができるようになったのです。ですから、神様を恐れたり疑ったり敬遠するのは、「義の教えに通じていない」ことなのです。
 義の教えを理解するようになると、本当の自由を味わうことができるようになります。品性が備わっていきます。ねたみや争いがどんなにつまらないことかもわかってきます。そして、聖書の約束に感動しながら歩んでいく者とされていくのです。
 妨げの第三は「良い物と悪い物とを見分ける感覚が訓練されていない」ということでした。私たちは、クリスチャンとして様々な経験をしていく中で、良い物と悪い物とを見分ける感覚が訓練されていきます。いつも本物に触っていれば、偽物がわかります。聖書の言葉に触れ続けていれば、良い物と悪い物とを見分けることができるようになっていくのです。
さて、今日の箇所はその続きです。私たちは幼子のままでいるのではなく成熟を目指して進むことが大切だというのです。

1 「初歩の教え」とは

1節に「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」とありますが、「初歩の教え」とは何でしょうか。ここには「死んだ行いからの回心」「神に対する信仰」「きよめの洗いについての教え」「手を置く儀式」「死者の復活」「とこしえのさばき」という六つが挙がっていますね。
 この手紙の宛先はユダヤ人クリスチャンたちですが、ユダヤ人は、この六つのことをクリスチャンになる前からよく聞いていました。ユダヤ教の会堂でも教えられていたからです。しかし、クリスチャンになって初めて、その本当の意味が理解できるようになったのです。
 この六つの項目は、クリスチャン生活の基礎となるものですが、二つずつ三つのグループに分けることができます。

①「死んだ行いからの回心」と「神に対する信仰」

 旧約聖書は救い主イエスが来られる前の出来事が書かれていますが、人々は神様の愛と恵みをたくさん味わったのにもかかわらず、神様に背を向け自分勝手な歩みを繰り返していました。そんな人々に、預言者たちは「そのまま自分勝手な方向に進み続けたら死と滅びに向かうだけだ。悔い改めて(方向転換して)神様にもとに帰り、神様を信頼して生きていきなさい」と繰り返し語りました。しかし、そう言われても、人は自分の力ではそれができないのですね。だから、救い主が必要なのです。
 救い主イエス様が来られ、イエス様を信じることによって、私たちは方向転換をし、内側から変えられ、心から神様を信頼して歩むことができるようになりました。それがクリスチャンとしてのスタートであり、基本的な初歩の教えなのですね。
 
②「きよめの洗い」と「手を置く儀式」

次に「きよめの洗い」と「手を置く儀式」は、ユダヤ人たちが旧約聖書の時代から行ってきた儀式です。「きよめの洗い」は、様々な汚れから身をきよめるために水で手を洗ったり、全身に水を浴びたりするものです。また、「手を置く儀式」というのは、何かの務めに任命される人に手を置いたり、神殿でささげるいけにえの動物に手を置いたりする儀式です。
 しかし、「キリストについての初歩の教え」としての「きよめの洗い」「手を置く儀式」とは、何でしょうか。
 「きよめの洗い」とは、洗礼です。イエス様を信じることによって罪や汚れが取り除かれ、永遠のいのちが与えられたことの印として受ける洗礼のことを言っているのです。また、「手を置く儀式」というのは、洗礼式の時、頭に手を置いて祈りますね。新約聖書には、使徒たちが手を置いて祈ると聖霊が注がれたという記事がたびたび出てきますが、つまり、ここでは、洗礼を通して一人一人に約束の聖霊が与えられることを意味しているわけです。これも初歩の教えだというわけですね。

③「死者の復活」と「とこしえのさばき」

当時のユダヤ教の中にパリサイ派と呼ばれる人たちがいました。彼らは「死者の復活」と「とこしえのさばき」があることを信じていましたが、イエス様の復活は信じなかったのです。
 しかし、クリスチャンの信仰の土台はイエス様の復活です。もしイエス様が十字架について死んだままで復活されなかったとしたらどうでしょうか。十字架で処刑されたたくさんの犯罪人と同様、イエス様もただの人だったということになりますね。
 イエス様は、復活されることによって、ご自分が神から遣わされたまことの救い主であること、そして、ご自分の約束が信頼できるものであることを証明してくださいました。イエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。また、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」と約束されました。そういう約束は、イエス様が復活なさったからこそ実現するのです。第一コリント15章17節で、パウロはこう言っています。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」ですから、イエス様の復活は、クリスチャンが信ずべき最も初歩の教えなのです。
 そして、この世の終わりに神様のとこしえの裁きがあると、聖書は教えています。「裁き」というと恐ろしいイメージを持つ方もおられるでしょうが、安心してください。私たちには、最高の弁護者であるイエス様がついていてくださるので、有罪判決を受けることは決してありません。もう無罪が確定しています。それに、神様の裁きとは、神様が正しい審判をしてくださるということです。サッカーでも野球でも、良い審判がいれば、選手が自由に気持ちよくプレーできますね。この世界には、たくさんの矛盾があります。理不尽に思えることもたくさんあります。でも、神様が最終的に正しい審判をくだしてくださると信頼していれば、私たちは安心してのびのびと人生をプレーすることができるのです。

 さて、この六つの初歩の教えは、クリスチャンにとって、最も基本的な大切な教えです。この教えを土台として私たちのクリスチャン生活が築き上げられていくのです。野球選手が野球のルールを知らなければ、野球になりませんね。それと同じように、クリスチャンはみなこの初歩の教えを理解し、その上に立って歩み、成熟を目指していくことが大切なのです。

2 「堕落してしまう」とは

ところが、この土台を外れてしまう人がいたようです。4節ー6節にこう書かれていますね。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
 これを読むと急に不安になる方もおられるでしょうね。「もし堕落してしまったら、神様の救いは無効になって、二度とチャンスはないのか」とプレッシャーを感じる方もおられるでしょう。でも、それは誤解です。そのような誤解をしないようにするためには、いつも次のことを覚えていることが大切です。

①神様が私たちを見捨てることはない

 まず、神様が私たちを見捨てることは決してありません。
 イエス様は、ヨハネの福音書10章28節でこう約束されました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」また、詩篇121篇8節には「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」と書かれています。つまり、イエス様の救いは永遠の保証付きなのです。
 神様は「お前はちょっと素行が悪いから、もう守ってやらない」とか「お前は礼拝の出席率が悪いから落第」などとは言われません。どんなことがあっても私たちを見捨てることなく、最後まで守ってくださるのです。ですから、安心してください。
 
②神様は何度でも赦してくださる

 また、神様は何度でも赦してくださいます。第一ヨハネ1章9節に、こう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」私たちは、何度も罪を犯したり失敗したりします。でも、神様の前で罪を言い表すなら、神様は赦し、きよめてくださるのです。私たちが正しいからではなく、神様が私たちを愛してくださっているからなのですね。
 「放蕩息子のたとえ」を思い起こして下さい。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った息子は、放蕩三昧してお金を使い果たし、食べるにも困り果ててしまいました。そこで、父のもとに帰って、こんな風に謝ろうと考えたのです。「私はお父さんに罪をおかしました。もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください」と。ところが、父親は息子の姿を見つけると、走り寄って抱きしめ、大喜びで迎え入れたのです。これは神様の姿です。私たちが神様のもとに帰ろうとするなら、神様はいつでも喜んで迎え入れてくださるのです。

③神様は私たちの意志を尊重される

 もう一つ大切なのは、神様が私たちに自由意志を与えてくださり、私たちの意志を尊重してくださるということです。神様は、私たちを強制的に従わせることをなさいません。私たちが自発的に心から神様を愛し従うのを待っておられるのです。ですから、私たちは、日ごとに、自分の意志で「神様、あなたを愛し、信頼します」と告白しつつ歩んでいくことが大切です。
 ところが、意志的に神様に背いたり、イエス様の救いを否定する人がいました。今日の箇所に書かれている「堕落してしまう」というのは、そういう人のことです。せっかくイエス様を信じて救われたのに、自分の意志でその救いから離れ、神様の恵みを受け取ることを拒否するなら、神様は、そういう人に救いを与えることはできないのだ、ということなのです。
 この手紙の宛先であるユダヤ人クリスチャンたちは、大変困難な生活を送っていました。イエス様を救い主と認めようとしないユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならないことがありました。そこで、そういう苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいたようです。
 そこで、この手紙の記者は、「こんなに素晴らしい救いを拒否することは、人生最大の損失ですよ」と教えているのです。そして、「神様はどんなことがあってもあなたを見捨てることはないのだから、何としてもこの福音に留まろう」と強く勧めているのです。
 また、7節ー8節でこう記しています。「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」
 この箇所を読むと、ユダヤ人たちなら、すぐに思い浮かぶ旧約聖書の箇所があります。それはイザヤ5章です。神様はこう言っておられます。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」神様が愛しておられる者が、丹精込めてぶどう畑を耕し良いぶどうの木を植え、甘いぶどうのなるのを待っていたのに酸いぶどうができてしまったというのですね。それで、神様は続けてこう言われました。「わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
 このイザヤの預言は、神様に愛されているにもかかわらず、背を向けてしまった当時の民の姿を描いているとともに、後に救い主イエス様が来られてからの人々の姿を預言したものでもあります。神様が「わが愛する者」と呼ばれているのは、イエス・キリストのことです。イエス様が私たちの罪や汚れを取り除き、私たちの内に良いものを植えてくださったのに、酸いぶどうができてしまったというのですね。それは、イエス様の救いの素晴らしさを知っているのに、あえて背を向けて生きる態度です。「もしそうなら、神様は無理に救おうとはなさいません。あなたが滅びるままにしておかれますよ」とこのへブル人への手紙の記者は警告しているわけです。

3 「成熟」とは

でも、それに続けて、9章ー10節に期待と励ましの言葉が書かれていますね。「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」つまり、「あなたがたは、困難な中にいても神様を信頼し、愛の行いを実践している。神様は、そのことをご存じで、必ずあなたがたの救いを達成してくださるから大丈夫だ」というのです。
 マタイ22章で律法の専門家がイエス様のもとに来て「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」と訪ねたとき、イエス様はこうお答えになりました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」つまり、神と人を愛することが最も大切な戒めだと言われたのです。
また、イエス様は、ヨハネ13章34節ー35節でこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」私たちが互いに愛し合うことによって、イエス様のことをすべての人に伝えていくことができるというのですね。
 パウロは、エペソ3章17節ー19節でこう祈っています。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
 ペテロも、第二ペテロ1章5節ー8節でこう教えています。「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」
 キリストの愛を知り、愛に生きていくときに、私たちは成長し豊かになり、実を結び、神御自身の満ち満ちたさまにまで満たされることができます。そして、そんな私たちの姿を見て、人々もキリストの愛を知るようになっていくというのです。それが、成熟するということです。
 といっても、自分の力でいくら愛そうと頑張っても挫折してしまうでしょう。第一ヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とあります。まず神様の愛を十分に味わうことが大切です。そして、神様が必要な愛を満たしてくださることを信頼しつつ、「愛そう」とする意志をもって一歩踏み出していくのです。他の人と同じようにする必要はありません。自分にできる範囲で、自分に合う方法で、まず自分に関わりのある人々のために最善を願いつつ愛を実践していきましょう。そうする中で、神様は私たちを成熟させて、豊かな愛の実を結ばせてくださいます。
 感謝と喜びをもって神と人とを愛しながら、一生涯をかけて成熟させていただくことを期待しつつ歩んでいきましょう。