城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年四月二三日            関根弘興牧師
                  ヘブル六章九節~二〇節
 ヘブル人への手紙連続説教13
    「忍耐と希望」

9 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。10 神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、14 こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。16 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。18 それは、変えることのできない二つの事がらによって、──神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません──前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。20 イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(新改訳聖書)


 先々週と先週は、受難週とイースターの説教をしましたが、今週からへブル人への手紙の連続説教を再開します。
 繰り返しお話しているように、この手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンたちに書かれた手紙です。たぶんローマの地域に住んでいたユダヤ人たちクリスチャンに書き送られたのではないかと言われます。
 当時、ユダヤ人がクリスチャンになると、ユダヤ社会から追放されてしまいました。また、ローマ政府による迫害も少しずつ始まっていました。ですから、このままイエス様を信じ続けていっていいのだろうか、元の場所に戻ったほうがいいのではないだろうか、と心揺れる人たちもいたのです。そこで、この手紙の記者は、「イエス様こそ、旧約聖書に登場するどの人物より遥かに勝る方であり、私たちと神様との関係を回復してくださる偉大な大祭司であり、そのイエス様がいつも共にいてくださるのだから大丈夫です」と励まし、また「こんなすばらしい救いを得たのに、自分から離れていってしまうのは、人生の大きな損失ではありませんか。神様のいのちを受け取ることを拒否するなら、あなたがたの人生は、あざみやいばらだらけの荒れ地のようになってしまいますよ。神様のもとに留まり、神様の豊かな恵みを受けて、豊かな実を実らせる生き方を選択してください」と呼びかけているのです。

1 神はお忘れにならない

 そして、今日の9節ー10節には、イエス様のもとに留まり続けているクリスチャン一人一人への励ましの言葉が書かれています。「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」
 神様は、私たちがお互いに仕え合っていること、一つ一つの愛の行いを決してお忘れにならないというのです。
 仕えるということは、私たちの大切な生き方を示しています。たとえば、もし、体の器官がそれぞれ仕え合うことをやめて自分勝手な行動をしたり、互いに反発しあったらどうなるでしょうか。体は機能しなくなってしまいますね。
各器官がそれぞれ自分の機能を果たし、互いに仕え合うからこそ、体の健康は保たれるのです。仕えることを拒否する人生、「俺が、俺が」の人生は、不健康を生み出すだけです。ですから、イエス様は、何度も何度も「私が仕えたように、仕える者になりなさい」と語られたのですね。
 でも「兄弟を愛したり、仕えたりすることなんて私にはなかなかできない」と思う方もおられるでしょう。もちろん人を完全に愛することなど、私たちにはできません。好き嫌いもありますね。でも、互いの最善を願いつつ、自分にできる小さなことを愛をもって行っていくとき、そのことが、神様への愛につながっていくのです。
 マタイ25章35節ー40節で、イエス様は、こんな話をなさいました。「王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
 私たちが身近な人のためにする小さな行いを、神様は決してお忘れになることはありません。そればかりか、そんな小さなささいな愛の一つ一つが神様を愛することにつながっているのですね。
 
2 希望を確信して

 しかし、時には問題も起こります。誤解されたり、失望したり、徒労に終わったように感じることもあるでしょう。また、このまま神様を信じ続けていくことに困難さを感じることもあるでしょう。
 そこで、この手紙の記者は、11節ー12節でこう励ましています。「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」
 大切なのは、私たちには、将来「約束のものを相続する」という「希望」があるということです。神様が私たちに素晴らしい祝福を用意してくださっているのです。だから、「十分な確信を持ち続けていってほしい」というのです。
 ところで、「なまけずに」という言葉が出てきますが、誤解しないようにしてください。これは、「自分の力で頑張り続けなければならない」という意味ではなくて、「いつも神様を信頼し続けよう」「神様を信頼する心を失わないようにしよう」という意味なのです。現状がどうであろうと、将来の希望を確信して、神様を信頼し、愛のわざを続けていこうと励ましているのです。
 そして、「信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです」とありますが、「信仰と忍耐によって約束のものを相続した人」の例として、有名なアブラハムの名が挙げられています。

3 アブラハムの信仰と忍耐

 アブラハムは、旧約聖書の最初の書、創世記に登場する人物です。神様は、罪と死に支配されている人々を救いをもたらすために、まず、アブラハムをお選びになったのです。
 アブラハムは最初はアブラムという名前でした。アブラムが七十五歳の時に、神様がこう言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と。アブラハムは、神様に従って、故郷を離れ、神様の示す地に出ていったのです。しかし、そこにバラ色の生活が待っていたわけではありませんでした。飢饉があったり、敵に攻められたり、様々な困難がありました。しかも、アブラムも妻のサラも年を取り、子供を産むことなど不可能に思えました。「神様は、私を大いなる国民の父とすると言われたけれど、そんなことが可能なのだろうか」という不安もあったでしょう。しかし、神様は、アブラムにこう言われました。「あの天にある無数の星を見なさい。あなたの子孫は、あの星のように数え切れないほどに増える」と。アブラムは、神様の言葉に励まされ、満天の星を見上げているうちに神様に信頼する思いが与えられました。自分の状況を見たら、子孫が星のように増えるなど不可能だとしか思えません。しかし、創世記15章6節に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。アブラハムは、神様の約束を信じたことによって、義と認められたのです。
 しかし、子供はなかなか与えられませんでした。十年以上経って、アブラムが九十九歳になったとき、神様はこう言われました。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」(創世記17章4節ー6節)
 神様はアブラムに名前を変えるように言われました。アブラムは、「父は愛する」「彼は父のゆえに高められる」「高められた父」という意味の名前ですが、アブラハムは、「多くの国民の父」という意味です。「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」という神様の約束を信じるしるしとして、アブラムはアブラハムに改名したわけですね。
 でも、考えてみてください。七十五歳の時に神様の示す地にやってきて九十九歳になっても子供ができなかったのです。妻のサラもすでに子供ができる体ではなくなっていましたから、人間的に考えたら、もう子供を産むのは不可能です。普通なら、「神様の声だと思ったけど聞き間違えたのか」と思ったり、自分勝手な願望にすぎないのではないかと思ってもおかしくありませんね。でも、アブラハムは神様の約束を信じました。信じ得ない時に信じたのです。そこが、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以ですね。アブラムがアブラハムと名乗り出した時には、周りの人たちもびっくりしたことでしょう。
そして、ついに、百歳になったアブラハムに待望のイサクという男の子が与えられたのです。アブラハムはイサクを大切に育てます。
 しかし、その後、創世記22章で、アブラハムは人生最大の試練を味わいます。神様から「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」と命じられたのです。でも、神様は平気でそんな命令をなさる方ではありません。神様は、アブラハムが最愛の息子をささげるほどに神様を信頼しているかどうかを試されたのです。アブラハムは苦悩の末に神様に従うことを決断しました。そして、最愛の息子イサクに刃を向けたとき、神様は、アブラハムを止め、「その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と言って、イサクのかわりにささげる雄羊を与えてくださったのです。そして、こう言われました。「わたしは自分にかけて誓う。・・・わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。」
 今日の箇所の13節ー15節は、この出来事を引用したものです。こう書かれていますね。「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。』こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」
 アブラハムは、どんな困難や試練に会っても忍耐をもって神様を信じ続けたので、約束通り多くの子孫を得たのです。
 考えてみてください。アブラハムは、七十五歳の時に神様から「わたしはあなたを大いなる国民とする」という約束を与えられましたが、百歳になってやっと一人の息子が与えられただけでした。その息子も神様にささげなければならないという試練を経験しました。それに、その後の子孫が増えていく様子を自分の目で見ることはできなかったのです。しかし、アブラハムは将来の希望を見据えて、信仰と忍耐をもって歩み続けました。途中で不安になったり、自分で勝手に神様の約束を実現させようとして失敗したり、試練の中で苦悩することもありましたが、神様が不可能に思えることも可能にしてくださる方、約束を必ず守ってくださる方であることを知ったのです。
このへブル人への手紙の記者は、「そのアブラハムの姿にならう者となろう」と呼びかけています。「試練や困難の中で神様の約束がなかなか実現しないように見えるけれど、神様はかならず約束通りのことをしてくださるから、その希望を確信し、信仰と忍耐を持って進んでいこう」というのです。

4 神の約束と誓い

 そして、16節ー18節には、こう書かれていますね。「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、──神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません──前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」
神様は、アブラハムだけでなく、「約束の相続者たち」である私たち一人一人に対しても、ご自分のご計画が変わることがないことを保証してくださっているというのです。
 18節に「変えることのできない二つの事がら」とありますが、この「二つの事がら」とは、「神様の約束」と「神様の誓い」のことです。
 神様は約束し、さらに、その約束を必ず果たすと誓ってくださっているのです。そして、神様の約束と誓いは「変えることができない」と書かれていますね。なぜなら、神様は真実そのものの方、誠実な方ですから、ご自分がひとたび約束し誓ったことを変えることは、神様の御性質に反するからです。
 第二テモテ2章13節に「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」と書かれています。神様はご自分が語られた言葉を否むことができないのです。ですから、神様が約束してくださったら、それだけで百%確実なのですが、神様は、さらに、誓いもしてくださったのです。ただし、神様よりすぐれた存在はありませんから、神様はご自分を指してお誓いになりました。それは、天地がひっくり返っても、どんなに大変なことが起ころうとも決して変わることがない、という完全な保証を与える誓いなのです。
 神様は、私たちに何を約束し誓っておられるでしょうか。イエス・キリストの十字架による罪の赦し、それを信じることによって義と認められ、キリストの復活のいのちにあずかり、永遠の御国の相続者とされるということです。その神様の約束と誓いは、決して変わることがありません。私たちの状態や周りの情勢によって変わったりすることはないのです。ですから、私たちは何を心配することがあるでしょう。18節にあるように、私たちが前に置かれている望みを捕らえることができるように、神様は、約束と誓いをもって力強い励ましを与えてくださっているのですから。
 では、神様は、約束と誓いをどのようにして実現してくださるのでしょうか。イエス・キリストによってです。コロサイ1章27節には、私たちの中におられるキリストが栄光の望みなのだと書かれています。キリストこそ、神様が約束し誓ってくださった望みそのものの方なのですね。

5 望みによって

 そして、19節には、こう書かれています。「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。」
 神様が私たちに与えてくださる望み、つまり、イエス・キリストについて、二つのことが書かれていますね。「私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たす」ということ、もう一つは「幕の内側に入る」ということです。
 私たちのたましいが漂流しないためには、しっかりした錨に?ぎ止められていることが大切ですね。神様が約束してくださった望み、イエス・キリストこそ、私たちにとって最も安全で確かな錨なのです。
 それから、「幕の内側」とは、神殿の一番奥の至聖所と言われる場所です。そこは、神様がおられ、神様とお会いできる場の象徴です。つまり、「幕の内側に入る」というのは、神様と何の隔てもない親しい関係を持つことができるという意味なのです。
20節に「イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」とありますが、まず、イエス様が私たちの先駆けとなって神様との関係を回復し、神様の前で大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださっているというのです。
 聖なる神様と罪ある私たちの間には、幕が掛かっていました。私たちは罪あるままでは幕の内側に入ることはできません。しかし、神様のもとから来られたイエス様が、十字架によって私たちの罪の問題を解決し、神様との関係を回復させてくださいました。そして、イエス様が復活されたことによって、私たちも永遠のいのちを与えられ、神様とともに生きる者とされました。つまり、栄光の望みであるイエス様によって、私たちは幕の内側に入り、神様と何の隔てがなく親しく歩むことができるようにされたのです。
イエス様は、神なる方であり、また、私たちと同じ人となってくださった方です。ですから、イエス様だけが神様と私たちとの仲介者になれるのです。つまり、イエス様こそ最高の大祭司なのです。そのことについては、4章14節ー16節にもこうかかれていましたね。 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
 それから「メルキゼデクの位に等しい大祭司」と書かれていますが、この「メルキゼデク」については、次の7章に詳しく書かれていますので、次回の説教でご一緒に考えていくことにしましょう。今週も、イエス・キリストを望みとして、神様の約束と誓いを信頼し、感謝と賛美をささげつつ、忍耐をもって歩んでいきましょう。