城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年四月三〇日            関根弘興牧師
                  ヘブル七章一節~二二節
 ヘブル人への手紙連続説教14
    「永遠の保証」

1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。2 またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。3 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。4 その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。5 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。6 ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。7 いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。8 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。9 また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。10 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、──民はそれを基礎として律法を与えられたのです──それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。 17 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、19 ──律法は何事も全うしなかったのです──他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。20 また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。21 ──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」── 22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。(新改訳聖書)


この手紙は、ユダヤ人のクリスチャンに向けて書かれたものです。彼らは、クリスチャンになったためにユダヤ社会から追放され、その上、ローマ政府によるクリスチャン迫害も始まっていたので、このまま信仰を持ち続けていていいのだろうかと、心が揺れ動いていました。そこで、この手紙の記者は、「イエス様こそ、あなたがたが尊敬している旧約聖書のどの人物よりも遥かに勝る方であり、最も偉大な大祭司なのだから、このイエス様に信頼していけば大丈夫です」と励ましているのです。
 大祭司というのは、神殿で、人の代表として神様の前に出て、人々の罪を贖うためのいけにえをささげ、人々のためにとりなしの祈りをする役目を担っていました。神様と人との関係を回
人は誰も、こうした仲介者が必要なのですね。
 しかし、この手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンの中には、「どうしてイエス様を大祭司と呼ぶことができるのだろう」と思った人たちもいました。なぜなら旧約聖書の律法の規定では、祭司になれるのは、レビ部族のアロンの子孫だけでした。しかし、イエス様は、ユダ部族のダビデ王の子孫です。それなのに、なぜイエス様が大祭司となれるのか、という疑問を解消しないと、前に進めなかったわけです。
 そこで、この手紙の記者は、旧約聖書から、アロンの子孫ではないのに祭司であったメルキゼデクという人物のことを引用して、6章20節にあるように「イエス様は永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです」と説明しているのです。
 メルキゼデクが登場するのは、旧約聖書の創世記14章です。 アロンとその子孫が律法によって大祭司に任命された時代よりも、はるか以前の人物です。イスラエル民族の先祖であるアブラハムが、まだ改名する前でアブラムと名乗っていた頃、近隣の王たちが連合して、ヨルダンの低地にあるソドムやその周辺の町々を襲撃し、多くの者を捕虜として連れて行ってしまう、という大事件が起こりました。ソドムの町には、アブラムの甥のロトの家族が住んでおり、彼らも捕虜として連れ去られてしまったのです。そのニュースを知ったアブラムは、ロトたちを取り返すために、自分の家のしもべたち三百人余りを召集して、敵を追跡し、見事に、ロトたちや奪われた財産を取り戻しました。そのアブラムが帰ってきた時でした。シャレム(サレム)の王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って出迎え、アブラムを祝福したのです。その時、アブラムは、すべての物の十分の一をメルキゼデクに与えた、と書かれています。このメルキゼデクが登場するのは、この出来事の時だけですが、信仰の父アブラハムを祝福した偉大な祭司として、ユダヤ人たちに知られていました。
 そして、詩篇110篇4節には、神様が、やがて来られる救い主に対して「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」と言われる、と書かれています。つまり、メルキゼデクは、将来、来られる救い主がどのような方かを予め示す存在であり、救い主は、「とこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司」と唱えられるのだと、と記してあるのです。
 ユダヤ人たちは、このことをよく知っていました。しかし、それとイエス様を結びつけることができていなかったのです。そこで、この手紙の5章の前半と今日の箇所の7章で、「イエス様こそ、とこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司である」ことが説明されているのです。
 ところで、聖書を理解する上で、知っておくべき大切なことがあります。それは、「予型」ということです。「予型」とは、旧約聖書のある人物や出来事が、将来の完成されたものを予め表す型となっているということです。「予型」は、型にすぎませんから不完全ではありますが、将来、完成されたものを理解するために大切な役割を果たします。今日の箇所で言えば、メルキゼデクという人物が、まことの大祭司であるイエス様を表す予型となっているというわけです。詳しく見ていきましょう。

1 メルキゼデクに等しい祭司

①メルキゼデクの名前

 「メルキゼデク」は「義の王」という意味です。また、「サレム」は「平和」の意味ですから、メルキゼデクは「義の王」であり「平和の王」であると紹介されています。
 この「義」と「平和」は、救い主が来て治められるときに実現するものとして、ユダヤ人たちが待望していたものでした。
 イザヤ9章6節ー7節には、こう書かれています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」。とあります。
 それでは、救い主なるイエス様はどうでしょう。
Ⅰヨハネ2章1節「 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」とあります。また、エペソ2章14節「 キリストこそ私たちの平和」とあり、コロサイ3章15節には「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあるのです。キリストは、義なる方であり、平和の主であると聖書は教えています。そのキリストの姿をメルキゼデクが予型として示しているのです。

②メルキゼデクの祭司職

それから、3節に「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」とありますね。
 普通、聖書に登場するイスラエルの人々は系図がはっきりしています。ところが、メルキゼデクに関しては系図の言及がありません。いつ生まれ、いつ死んだのか、いつまで祭司であったかということも、まったく記されていないのです。ですから、この手紙の記者は、メルキゼデクの中に、いつまでも祭司としてとどまっている姿を思い浮かべているわけです。
 ユダヤの社会では、祭司の系図は大変重要でした。祭司になるのはアロンの子孫だけと決まっていたからです。どんなに能力があり、品性が豊かな人であっても、アロンの子孫でなければ祭司にはなれませんでした。逆に、アロンの子孫であれば、ほぼ無条件に祭司になれました。完全な世襲制だったのです。 しかし、メルキゼデクの場合は、その名が示す通り、義の王であり、平和の王であるという彼の人格に備わった資質だけが決め手となっているのです。
 それでは、イエス様の場合はどうでしょう。イエス様の系図はマタイ福音書やルカ福音書に記されています。それは、旧約聖書に「救い主は、ダビデの子孫の中から出る」という預言があり、イエス様が、その預言の通りに、ダビデの子孫として来てくださったことを証明するためでした。しかし、イエス様がユダ部族のダビデの子孫であるということは、レビ部族のアロンの子孫ではない、ということになります。
 ですから、イエス様も、メルキゼデクと同じように、ご自身の資質が決め手となって大祭司となるにふさわしいとされたわけです。イエス様は、義なる方であり、平和の主です。そしてヨハネ1章14節には、「この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれています。イエス様こそ大祭司にふさわしい資質を持っておられる方なのです。また、イエス様こそ、まことの神の子であり、十字架にかかって三日後に復活し、いつまでも大祭司としてとどまることのできる方です。この点でも、メルキゼデクの中に、まことの救い主であり大祭司であるイエス様の型が示されているわけです。

③メルキゼデクの優位性

 そして、7節には、「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです」とありますね。ここでは、レビ部族のアロン系の祭司たちとメルキゼデクが比較され、メルキゼデクのほうがまさっていることが説明されています。
 まず、5節の内容を説明しましょう。旧約聖書の律法では、民は収穫物の十分の一を神様に仕えるレビ部族のもとに納めます。レビ部族は、受け取った物の十分の一をアロンの子孫である祭司たちに納め、残りを他のレビ部族の人々に配分します。祭司たちがレビ部族から受け取った物は祭司たちに配分されるようになっていました。そして、祭司たちが十分の一をささげた民を祝福したのです。民の中で祭司たちが最上位にいたわけですね。
 ところが、6節にあるように、アブラハムは、アロン系の祭司ではないメルキゼデクにすべての戦利品の十分の一をささげ、メルキゼデクがアブラハムを祝福しました。それは、アブラハムよりメルキゼデクのほうが上だということですね。そして、レビ部族のアロン系の祭司たちは、そのアブラハムの子孫で、その時はまだ生まれていませんでしたが、アブラハムを通してメルキゼデクに十分の一をささげて、祝福してもらったわけですから、メルキゼデクのほうがアロン系の祭司たちよりまさっているのだというのです。そして、イエス様はそのメルキゼデクのように、アロン系の祭司よりもはるかにまさる方なのだということなのですね。

2 大祭司なるキリストがもたらす変化

 さて、そうすると、はるかにまさる大祭司であるイエス様が来てくださったのなら、それまでの祭司はもう必要なくなってしまうということになりますね。11節に「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、──民はそれを基礎として律法を与えられたのです──それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか」と書かれていますが、これは、「モーセを通して与えられた律法に基づく祭司やその働きは決して完全ではなかった」ということなのです。それは、実際の生活を見れば、おのずとわかることでもありました。どんなに有能なアロン系の大祭司が登場しても、人の罪を完全に贖い、人を神様のもとへ近づける働きを果たすことができなかったのです。
 律法は、16節にあるように「肉についての戒め」です。つまり、人が自分の力で律法の戒めを守れれば神様の祝福を受けるというものです。しかし、律法を完璧に守ることのできる人など一人もいません。むしろ、律法に違反してばかりで、いくらアロン系の大祭司が繰り返しいけにえをささげ、とりなしの祈りをしても、人を内側から変えることはできなかったのです。ですから、律法は、18節にあるように、私たちの救いに関しては「弱く無益なもの」であり、19節にあるように「何事も全うしなかった」のです。
 むしろ律法は、「人は自分の力では神様の基準に達することはできない」ということをわからせ、だからこそ、それよりもはるかにまさるものが必要だということを教えるために神様から与えられたものだったのです。そして、律法も祭司の働きも、来たるべき救い主イエス様を示す型にすぎなかったのです。
 ガラテヤ3章24節にこう書かれています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」律法を守ることができない私たちのために、イエス様が来てくださいました。そのイエス様をただ信じる信仰によって、私たちは神様の祝福を受けることができるのです。
 では、救い主であり、まことの大祭司であるイエス様が来てくださったことにより、何が変わったのでしょうか。

①古い祭司制は廃止された

 新約聖書が教えているのは、イエス様がまことの大祭司として来てくださり、共にいてくださるのだから、もはやアロン系列の祭司制は廃止されたのだ、ということです。今は、神殿もないし、律法に定められた儀式を行ったり、いけにえをささげることもありませんね。
 アロン系の祭司がなぜ必要だったかというと、人々は律法に違反するたびにいけにえをささげて赦しを受ける必要があり、また、内側の罪の問題を解決できないで神様の前に出られない民に代わって大祭司が神様に近づく必要があったからです。
 でも、イエス様は、私たちの罪をすべて背負って十字架で身代わりの罰を受けてくださったので、私たちはもはや犠牲をささげる必要はありません。また、私たちは、復活のイエス様を信じ受け入れることによって永遠のいのちを与えられ、いつでも自由に神様のみまえに近づくことができるようになりました。ですから、古い祭司職は必要なくなったのです。また、私たち信じる者一人一人の内に聖霊が住んでいてくださるので、神殿も必要なくなったのです。今、私たちは、大祭司イエス様と共に生き、イエス様と共に神様のみまえに出て、イエス様の助けと導きを受けながら生きることができるようになったのです。

②新しい律法が与えられた

 12節に「祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」とありますね。
 旧約聖書の「旧約」というのは「古い契約」のことです。「この律法を守れば、祝福される」というものです。律法には細かい規定がありました。様々な儀式、食べ物や生活上の様々な規定など、そのすべてを守る事は不可能でした。
 しかし、イエス様は、新しい戒めを与えてくださいました。
 ヨハネ15章9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」
 ヨハネ13章34節「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 つまり、私たちは今、律法が要求する細かい様々な規定に生きるのではなく、キリストへの信頼とキリストの愛と恵みの中で生きる者とされているということです。第一コリント13章13節には「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書かれていますが、私たちは、信仰、希望、愛に生きる者とされているのです。
 
3 大祭司なるキリストがもたらす希望

①神に近づく希望

19節に「──律法は何事も全うしなかったのです──他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです」とあります。4章16節にも、「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありましたね。イエス様は、神なる方であるにもかかわらず、私たちと同じ人として来てくださいました。まず神様のほうから、私たちに近づいてくださったのです。そして、イエス様は、今度は、私たちを神様に近づける大祭司となってくださいました。私たちは、イエス様によって、自由に神様に近づき、神様と親しく語り合い、神様と共に歩む者とされているのです。これは、大きな喜びであり希望ですね。この「神に近づく」というテーマは、10章で詳しく取り扱っていますので、その時さらに詳しくお話することにしましょう。

②永遠の保証

 21節ー22節にこう書かれています。「──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』──そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。」
 神様は、イエス様がとこしえの祭司であることを誓って保証してくださっています。つまり、私たちがイエス様にあって持つ希望は、神様の永遠の保証付ということです。
 そして、イエス様は「さらにすぐれた契約の保証となられた」とありますが、さらにすぐれた契約とは何でしょうか。「イエス・キリストを信じる者は皆、救われる」という契約です。古い契約は「律法を守れば神様の祝福を受ける」という契約でした。私たちには実行不可能な契約でした。でも新しい契約は、ただイエス・キリストを信じ受け入れるだけでいいのです。すばらしい契約ですね。この契約の保証人はイエス様です。皆さんは、誰かのために保証人となったことがありますか。イエス様が私たちの救いの保証となってくださるなら、これ以上の保証はありません。これ以上の安心はありませんね。ですから、どうぞ、このことを確信してください。 

 様々な困難の中で動揺し、信仰を捨ててユダヤ社会の古巣に戻ろうかと考えていた当時のユダヤ人クリスチャンにとって、この7章のメッセージはどうしても必要なものでした。
 そして、今日ここにいる一人一人にも、このメッセージは語りかけられているのです。私たちは、自分の力で頑張って戒めを守り、何かの儀式を行いながら歩むものではありません。
 大祭司なるイエス様が私たちと共にいて、支え、導き、とりなし、永遠の保証を与えてくださっています。ですから、私たちは、安心して神様の愛の中に憩い、キリストの恵みの中に生きていきましょう。