城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年五月七日             関根弘興牧師
                 ヘブル七章二二節~二八節
 ヘブル人への手紙連続説教15
    「永遠の大祭司キリスト」

 22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。23 また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。(新改訳聖書)


このへブル人への手紙では、イエス様が、私たちのための素晴らしい最高の大祭司である、ということが繰り返し書かれています。
 大祭司には、神様と人との間の仲介者としての役割があります。旧約聖書の律法では、イスラエル民族の中で、レビ部族のアロンの子孫だけが祭司になれると規定されていました。アロンの子孫の祭司たちが、人の代表として神様の前に出て、罪の贖いのためのいけにえをささげ、人々を神様にとりなすための祈りをし、また、神様の祝福が人々の上にあるように祈っていたのです。
 そのアロン系の祭司職は、旧約の律法に基づくものでした。旧約とは、「古い契約」のことで、「律法を守れば、神様の祝福を受けることができる」という契約です。神様が人々に律法を与え、「この律法を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、わたしの祝福の中で幸せに生きることができる」と言われ、人々は「はい。わかりました。守ります」と言って神様と契約を結んだのです。それで、人々は、一生懸命律法を守ろうとするのですが、完全に守れる人など一人もいませんでした。ですから、アロン系の祭司が罪の赦しを受けるためのいけにえを繰り返しささげる必要があったのですが、いくらいけにえをささげても、人の内側は変わりませんから、結局、人は自分の力で律法を守って契約を成就することは不可能だということが明らかになったのです。人は、自分のうちにある罪の性質のゆえに、自分の力で神様の基準を満たすことができません。しかも、自分で自分の罪の問題を解決することができないので、人が神様との正しい関係を回復するためには、救い主の助けが必要だということがわかってきたのです。神様は、そのことを教えるために律法を与えてくださったのですね。
 その上で、神様は、さらにすぐれた新しい契約を与えてくださいました。それは、「ただイエス・キリストを信じれば救われる」という単純明快な契約です。その契約には、人の努力や修行は一切必要ありません。神様の側で必要なことはすべて成し遂げてくださるからです。神様は、救い主イエス様を私たちのもとに遣わし、イエス様の十字架によって罪の問題を解決し、イエス様の復活によって私たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。ですから、私たちの側では、ただそのイエス様を信じて、救いの恵みを感謝して受け取るだけでいいのです。それなら誰にでもできますから、これは、素晴らしい契約ですね。 しかも、この契約は、決して破棄されることも無効になることもなく、永遠に確実なものなのです。そのことを、22節にあるように、イエス様御自身が保証してくださっているというのです。つまり、私たちがどんな状態にあるかに関係なく、ただ信頼して生きていくとき、神様はこの契約を永遠に守ってくださるというのですから、これ以上の安心はありませんね。
 そして、この新しい契約が示されたので、古い契約は必要なくなりました。律法も古い祭司制度も必要なくなったのです。
 旧約の律法の代わりに、イエス様は、新しい戒めをお与えになりました。ヨハネ13章34節で、イエス様はこう言っておられます。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 私たちは今、律法が要求する細かい様々な規定を守って生きるのではなく、キリストを信頼し、キリストの愛を味わい、その愛の中で生きる者とされているのです。第一コリント13章13節に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書かれているとおり、私たちは、信仰、希望、愛に生きる者とされているのですね。
 また、古い契約で規定されていたアロン系の祭司制度も必要なくなりました。はるかにまさる大祭司であるイエス様が来られたからです。
 この手紙の中には、アロン系の祭司とまことの大祭司であるイエス様の比較が様々な箇所に記されていますが、先週は、イエス様が「メルキゼデクの位に等しい祭司」であるということについて学びましたね。どんな内容だったか、すこし復習しましょう。
 旧約聖書の出エジプト記に登場するモーセの時代に、神様の律法が与えられて、古い契約が結ばれ、アロン系の祭司が任命されましたが、それよりもずっと前の創世記の時代にメルキゼデクという祭司が登場します。メルキゼデクは、アロンの子孫ではないのに祭司でした。そして、アロンの先祖であるアブラハムは、メルキゼデクにささげ物をして、メルキゼデクがアブラハムを祝福しました。それは、つまり、メルキゼデクは、アブラハムとその子孫であるアロン系の祭司たちよりも高い地位にある祭司だということなのです。ですから、イエス様がそのメルキゼデクの位に等しい祭司だというのは、イエス様がアロン系の祭司よりもはるかに偉大な祭司なのだ、ということなのです。
そして、今日の箇所はその続きで、イエス様がどのような点でアロン系の祭司よりもすぐれているのか、ということが説明されています。詳しく見ていきましょう。

1 永遠に存在される方

まず、23節ー24節にこう書かれていますね。「また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」
アロン系の祭司には寿命がありますから、いつまでも同じ人が祭司の務めを果たし続けることはできません。祭司が死ぬと息子たちがその務めを引き継いでいったわけですね。
 一方、神の御子であるイエス様は、私たちと同じ人となって来てくださり、私たちの罪を背負って十字架で死なれましたが、よみがえって天に昇り、神の右の座、つまり、すべてのものにまさる至高の地位に着いておられるのです。ですから、イエス様は、永遠に生きておられ、永遠に変わることのない祭司の務めを果たすことがおできになるのです。

2 人々を完全に救うことがおできになる方

 次に、25節にこう書かれています。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 ここに「ご自分によって神に近づく人々」と書かれていますね。私たちは、イエス様によって神様に近づくことができるのです。ヨハネ14章6節で、イエス様御自身がこう言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」私たちが神様のみもとに行く道は、イエス様以外にないというのです。罪ある私たちは、そのままでは聖なる神様に近づくことはできません。でもイエス様が、私たちの罪をすべて引き受けて十字架にかかってくださったので、私たちはそのイエス様を信じる時、罪のない者と認められ、自由に大胆に神様に近づくことができるようになったのです。
 でも、私たちは、これからずっとイエス様を信じ続け、神様のそばに居続けることができるでしょうか。もしかしたら、また罪を犯して、神様から離れてしまうことはないでしょうか。いいえ、心配ありません。なぜなら、復活して天に昇り、神様の右の座に着かれたイエス様が私たちのためにいつもとりなしをしてくださり、私たちを完全に救うことがおできになるからです。だから、イエス様に信頼し続けていこう、とこの手紙の記者は励ましているわけですね。
 さて、「とりなし」という言葉は、日本語では、「気まずい関係にある二者の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはからう」というような意味でよく使われますが、ここで遣われている「とりなし」という言葉には、どのような内容が含まれているのでしょうか。

①訴えや願いのために会談する

 「とりなし」には「訴えや願いのために会談する」という意味があります。これは、イエス様が、私たちの訴えや願いを父なる神のもとに持っていって直談判してくださるということです。イエス様が私たちの最善のために、父なる神に働きかけてくださっているということなのですね。
 私たちの神様は、三位一体なる神様です。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神の三つの位格を持つ唯一の方であり、父、子、聖霊は完全な調和の中に存在してあられます。ですから、「イエス様が父なる神様に直談判される」といっても、私たちの自分勝手な願いをイエス様が父なる神様のもとに持って行って無理矢理説得し、父なる神様が仕方なく受け入れるというようなイメージは持たないでくださいね。父なる神様も御子イエス様も聖霊も、私たちを愛し、私たちの最善を願っておられます。イエス様が私たちのためにとりなしてくださるなら、父なる神様も快くそれに同意してくださるのです。
 私たちは弱く、迷い、様々な問題に悩みますが、イエス様のとりなしがあるなら、神様が私たちのために最善のことをしてくださるのは間違いありません。だから、「私は弱いから、神様に見捨てられるのではないか」とか「私は駄目クリスチャンだから、神様の救いから落ちこぼれてしまうのではないか」などど心配する必要はありません。イエス様がいつもとりなしをしてくださり、そのとりなしは必ず父なる神様に聞き入れられるからです。

②弁護する

 「とりなし」には「弁護する」ということも含まれます。
 先週もご紹介しましたが、第一ヨハネ2章1節には、こう書かれています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」
 また、パウロは、ローマ8章33節-35節にこう書いています。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。・・・(何ものも)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 私たちが罪を犯してしまったとき、また、私たちを神のみ前で罪に定めようと訴えてくる者がいるとき、イエス様が私たちを弁護し、とりなしてくださるのですから、私たちは必ず無罪判決を受けて神様の愛の中にとどまることができるのです。
 ただし、だからといって、「どうせ無罪判決が出るのだから、どんな悪いことをしてもいいではないか」と考えるなら、それは大間違いで、神様の愛を知らない人の言うことです。神様の愛を知れば、その愛に応えて神様に喜ばれる生き方をしようとするはずですよね。
 しかし、私たちは、時々、神様の心を痛めるようなことをしてしまうことがあります。間違ったことをしてしまうこともあります。でも、第一ヨハネ1章9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と約束されています。たとえ罪を犯しても、私たちがその罪を神様の前に告白していくとき、神様は必ず赦してくださいます。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様が、いつも弁護してくださっているからです。

③信仰のために祈る

 また、「とりなし」とは、私たちに与えられた信仰を支えるための祈りでもあります。
 イエス様は、十字架にかかる前の最後の晩餐の時に、ペテロにこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31節-32節)イエス様は、これからご自分が逮捕され十字架刑に処せられること、そして、ペテロが「イエスなど知らない」と三度も否定してしまうことを予めご存じでした。それで「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と言われたのです。そのように、イエス様はいつも、今でも、私たち一人一人のために、私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっているのです。

 イエス様が、永遠の大祭司としていつもとりなしをしてくださっている、ということは、厳しい状況の中で動揺しているユダヤ人クリスチャンたちにとって大きな励ましとなったことでしょう。それは、私たちにとっても大きな励ましですね。ですから、私たちも25節の言葉を自分に置き換えて心に刻んでおきましょう。「キリストはいつも生きていて、私のために、とりなしをしておられる」と。

3 永遠に全うされた御子

 イエス様がアロン系の祭司よりもはるかにすぐれている最大の理由は、イエス様が神の御子であるということです。神が人となって私たちのもとに来てくださった方、それが、イエス様です。ですから、イエス様は神としての御性質をもっておられるのです。
 26節にイエス様は「きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、天よりもたかくされた大祭司」だと書かれていますね。
 イエス様は、「きよく、悪もけがれもない」方です。イエス様をいつも身近で見ていたペテロは、第一ペテロ2章22節で「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」と証言しています。
 そして、「罪人から離れ」とありますが、福音書を読むと、イエス様は、罪人たちのもとに行き、彼らをを受け入れ、共に食卓を囲み、罪人の友と呼ばれていました。それなのに「罪人から離れ」というのは、どういう意味でしょうか。これは「罪人から区別される」という意味なのです。イエス様は人として来てくださいましたが、私たちと決定的な違いがありました。それは、イエス様は罪なきお方であるということです。その点で、私たちと区別される方なのですね。イエス様は、罪のない方なのに、私たちのもとに来てくださり、私たちの友となり、私たちの罪を背負って十字架について、完全な赦しの道を用意してくださったのです。
 また、「天より高くされた」とありますが、この「天より高い」とは、「これ以上高い所はない」という意味で、すべてのものの上に立つ至高の地位に着かれたという意味です。聖書では、これと同じ意味で「神の右の座に着かれた」という表現もしています。イエス様は、いま神様のもとにおられ、大祭司として私たちのためにいつもとりなしをしてくださっているのです。
 そして、26節には、このように罪のない、天より高くされた大祭司こそ「私たちにとってまさに必要な方です」と書かれていますね。なぜでしょうか。その理由が27節にこう書かれています。「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」
 アロン系の祭司たちは、神様の前に出るときは、まず自分自身の罪のためにいけにえをささげ、身をきよめる必要がありました。しかし、動物のいけにえをささげても、自分の罪がまったくなくなるわけではありませんから、大祭司が神様の臨在を表す至聖所という場所に入ることができるのは、年に一度の「贖いの日」だけでした。
 また、アロン系の大祭司は、自分の罪のためにも民の罪のためにも毎日いけにえをささげる必要がありました。なぜなら、動物のいけにえは、人の罪を完全にきよめることはできなかったからです。
 一方、イエス・キリストは、ご自分の罪のためにいけにえをささげる必要はありません。まったく罪のないきよい方だからです。そして、完全ないけにえとして十字架上で自分自身をささげ、それによって民の罪の贖いをただ一度で完全に成し遂げられたのです。その結果、私たちは、罪のない者と認められ、神様の前に自由に出ることができるようになったのです。
 アロン系の祭司たちが決してできなかったことを、イエス様が完全に成し遂げてくださいました。ですから、私たちは、もういけにえをささげる必要はないし、いつでもどこでも自由に神様と親しく接することができるのです。

 さて、前回の説教でもお話しましたが、へブル書を通して「予型」ということを理解していくことが大切です。
 旧約聖書に登場するアロン系の祭司も神殿も動物のいけにえも不完全なものでした。しかし、それらはすべて、来たるべきまことの大祭司であるイエス様を示す予型だったのです。そのことは、8章から説明されていきます。
 28節に「律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです」とありますね。
 旧約の律法では、弱さを持つ人間であるアロンの子孫たちが大祭司になっていました。しかし、律法も大祭司も人の救いを達成することはできませんでした。しかし、神様は、御子イエスを送ってくださり、イエス様によって永遠の救いを完成してくださいました。このイエス様を信じる者は皆救われる、と神様が誓ってくださっています。そして、罪も汚れもない永遠の完全な大祭司であるイエス様が、いつも神様のみ前で私たちのためにとりなしをしてくださっているのです。
 ですから、私たちは与えられた救いを確信し、信頼し、不安や恐れから解放されて歩んでいきましょう。