城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年五月二八日            関根弘興牧師
                 ヘブル八章一節~一三節
 ヘブル人への手紙連続説教16
    「もはや思い出さない」

1 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、2 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。3 すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。4 もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。5 その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」6 しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。8 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。9 それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。10 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。11 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」13 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。(新改訳聖書)


このへブル人への手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたものです。彼らは、クリスチャンになったためにユダヤ社会から追放され、また、ローマ政府の迫害も少しずつ始まっていました。それで、「このまま信仰を持ち続けていて大丈夫だろうか」と心が揺れ動いていたのです。
 彼らは、旧約聖書の世界にどっぷりと浸かって生きてきた人たちです。そこで、この手紙の記者は、旧約聖書の内容を数多く引用して、「イエス様こそ旧約聖書が指し示している救い主であり、イエス様だけが旧約聖書に書かれている約束や預言を完全に成就した方なのだ」と説明し、「だから、このイエス様に信頼していれば大丈夫だ」と励ましているのです。
 私たちは、ユダヤ人のように旧約聖書に親しんでいるわけではありませんから、この手紙を読んでもすぐにはピンと来ないかもしれません。しかし、この手紙を学んでいくと、イエス・キリストのすばらしさ、神様の救いの御計画の確かさが、さらに深く理解できるようになっていくのです。

1 天にあるものの写しと影

 さて、今日の箇所も旧約聖書にもとづいてイエス・キリストのことが説明されていますから、旧約聖書の内容をある程度知っていないと、なかなか理解しにくいですね。ですから、まず、今日の箇所に関係する旧約聖書の出エジプト記の内容を簡単にご説明しましょう。
 エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に向かって荒野を旅していたとき、神様は指導者のモーセをシナイ山の上に招き、そこで「律法」を与えてくださいました。そして、「この律法を守れば、祝福を受ける」という契約をイスラエルの民と結ばれたのです。これが「古い契約」つまり「旧約」と呼ばれるものです。神様は、また、モーセに「幕屋」と呼ばれる移動式の神殿を造るようにお命じになり、「幕屋」の型や大きさや材料などを詳細に示されました。そして、「その場所でわたしはあなたがたに会い、あなたがたの祈りを聞こう」と約束してくださったのです。モーセは神様の命令通りに幕屋を造りました。そして、さらに神様の命令に従って、モーセの兄アロンとその子孫が幕屋で仕える祭司として任命されたのです。祭司は、神様と人々の間の仲介者の役割を果たしていました。人々の代表として神様の前に出て祈り、罪を贖うための動物のいけにえやささげ物をささげ、また、人々に対して神様の祝福を宣言したのです。
 しかし、この手紙の記者は5節で、そういうものは「天にあるものの写しと影にすぎない」と言っていますね。
 私の実家がある栃木県の日光市には、東武ワールドスクエアという施設があります。そこには世界の有名な建築物が二十五分の一の縮尺で精巧に再現されています。ですから、そこに行くと、世界中の有名な建築物を見ることができるのです。一つ一つが本物そっくりによくできています。しかし、もし私がその模型を見て「わたしはエジプトのピラミッドを見てきました。ベルサイユ宮殿もすばらしかったですよ。もう本物など見る必要などありませんよ」と言ったらどうでしょう。普通はそんなことを言う人はいません。その模型を見たなら「いつか本物を見たいな」と思うはずです。
それと同じように、旧約聖書を読んでいくと、「いつか本物の幕屋を見たい。本当の大祭司を知りたい。そして、永遠に完成された救いを受けたりたい」と思うようになるのです。
 ですから、この手紙の記者は、ユダヤ人クリスチャンたちに対して、「あなた方が慣れ親しんできた旧約聖書は、私たちをまことの救い主であるイエス様のもとに導くために書かれたのですよ。このイエス様こそアロン系の祭司たちよりはるかにすぐれたまことの大祭司であり、天にある真実の幕屋で私たちのために完全な仲介者としての役割を果たしてくださっているのですよ」と繰り返し説明しているのです。

2 大祭司なるキリスト

 今日の8章も大祭司イエス様について書かれているわけですが、1節に「以上述べたことの要点はこうです」とあるように、まず最初に、前の章で大祭司イエス様について述べたことの要点が簡潔に書かれています。どのようなことでしょうか。

①天におられる大能者の御座の右に着座された方
 まず、イエス様は「天におられる大能者の右に着座された方」だと書かれていますね。7章26節では「天よりも高くされた大祭司」であると書かれていましたが、どちらも同じことを意味していて、「イエス様はすべてのものにまさる最も高い地位におられる方であり、この方にまさる者は誰もいない」ということを意味しています。

②真実の幕屋である聖所で仕えておられる方
 それから、イエス様は、地上の幕屋ではなく、天にある真実の幕屋で仕えておられます。7章24節-25節にこう書かれていましたね。「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」イエス様は、天の幕屋でいつも私たちのためにとりなしをしてくださっています。神様の御前でいつも私たちの最善を願い、私たちの弁護をしてくださっているのです。

③御自身をささげた方
 大祭司は神様にささげ物をします。アロン系の祭司たちは動物のいけにえや穀物をささげていました。イエス様は何をおささげになったでしょうか。7章27節にこう書かれていましたね。「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」神のもとから来られ罪のないきよいお方であるイエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架についてくださいました。イエス様御自身が完全ないけにえとなって御自身をささげてくださったのです。それは、完全ないけにえなので、ただ一度で私たちの救いを完全に成し遂げることができたのです。

3 さらにすぐれた契約

 以上のように、キリストがすばらしいまことの大祭司であることが説明されていたわけですが、今日の8章6節からは、この大祭司キリストが「さらにすぐれた契約の仲介者」となってくださったことが説明されています。
 7節に「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう」とありますが、「初めの契約」に欠けがあったので、「さらにすぐれた契約」が必要だったというのですね。
 「初めの契約」とは、先ほどお話ししたように、モーセを通して与えられた律法に基づく「古い契約」のことです。「律法を守れば、祝福される」というものです。しかし、人は律法を完全に守ることなどできません。律法を守ろうとすればするほど、かえって自分の弱さや罪深さを思い知らされることになったのです。つまり、人が自分の力で律法を守って完全な救いを得ることは不可能だということを教えるために、神様は律法を与えてくださったのですね。
 その上で、神様は、さらにすぐれた新しい契約を与えてくださいました。「イエス様を救い主として信じるなら、救われる」という契約です。
 初めの契約と新しい契約の違いは何でしょうか。普通、契約をするときは、契約を交わす両者がそれぞれ対等の立場で結んだ約束を実行する必要がありますね。古い契約では、私たちの側で「律法を守る」という約束を実行する必要がありました。しかし、それは到底実行不可能な約束でした。本当に自分の状態をわかっていたら、到底サインすることができないような契約だったのです。支払能力がないのに高額のローンを組んでしまって、借金に苦しみながら生活するようなものですね。
 しかし、さらにすぐれた新しい契約は、それとは違います。実は、この箇所で「契約」と訳されている言葉は、9章16節では「遺言」と訳されています。遺言は、遺言を書いた人の一方的な意思が反映されます。そして、遺言を受け取る側は、遺言状に書かれている相続財産を受け取るかどうかだけを判断するわけですね。新しい契約では、神様が救い主イエス様を与えてくださること、そして、そのイエス様によって罪赦され、永遠の命が与えられ、神様の子として歩むものとされることが約束されています。私たちの側では、それを受け入れるかどうか決めるだけでいいのです。そして、受け入れると決めさえすれば、神様の豊かな相続財産を受け取ることができるのです。つまり、これは、神様が一方的に約束を実行してくださるというすばらしい契約なのですね。ところで、このすばらしい契約の話は、新約の時代になって突然持ち出されてきたのでしょうか。そうではありません。神様がこの新しい契約を与えてくださることは、実は、旧約聖書の時代の預言者がすでに預言していたのですよ、とこの手紙の記者は説明しています。そして、8節ー12節でエレミヤ31章31節ー34節を引用しているのです。神様は、預言者エレミヤを通して「新しい契約」についてどのように言っておられるでしょうか。

(1)契約の対象
 まず、8節に「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が」とありますね。契約の相手が「イスラエルの家やユダの家」となっています。でも、「なんだ、それじゃ私たちと関係ないではないか」とは考えないでください。
 イスラエルの歴史を見ると、全盛期を迎えたソロモン王の死後、国は十の部族からなる北イスラエル王国(イスラエルの家)と、二つの部族からなる南ユダ王国(ユダの家)に分裂してしまいました。その後、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、その約百二十年後に南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまうことになるのですが、こうした歴史背景の中で、イスラエルの家とユダの家とは対立が続いていました。
 神様がその「イスラエルの家とユダの家」に新しい契約を与えられるというのは、この契約が、分裂しているものを一つにするすぐれた契約であることをまず教えています。そして、旧約聖書のイザヤ書には、「この人々を諸国の民の光とし、地の果てにまで神様の救いをもたらす者とする」という神様の約束が書かれています。新しい契約を受けた人々が、さらに、その契約を全世界の民に伝えていくようになるというのです。
 ですから、この新しい契約は、イスラエルの家やユダの家にとどまらず、すべての人々に、つまり、私たちに対しても提供された契約だということなのです。
 パウロは、ガラテヤ6章16節で「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と書いています。「この基準に従って進む人々」とは、新しい契約を結んだクリスチャン一人一人です。つまり、「イエス・キリストを信じた人々こそが、まことの神のイスラエルなのだ」と教えているのです。

(2)契約の内容
 そして、10節ー12節には、新しい契約の内容が書かれています。

①「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」
まず、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」とありますね。「思い」と「心」とは、人の考えや言葉や行動の基となるものです。そこに、神様の律法が書き入れられたら、私たちの人生は新しく変わっていくのです。
 コンピュータを使っている人が一番注意することの一つは、コンピュータ・ウィルスを防ぐことですね。ウィルスが入ってコンピュータのプログラムが勝手に書き換えられてしまうと大変なことになるからです。実は、私たちの心に侵入して不正なプログラムを書き込もうとするウィルスはこの世界に満ちています。ウィルスは、私たちに適切な考え方や行動をできなくさせ、様々なトラブルを生じさせます。でも、逆に、私たちの心に神様の愛といのちの律法が書き付けられるなら、それを基にして私たちの人生は良いものに変えられていくのです。
パウロは、ローマ8章1節ー2節でこう記しています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」この「原理」と訳されて言葉は、「律法」または「法則」とも訳される言葉です。つまり、私たちの心には、今まで罪と死の律法が書き付けられていたけれど、今は、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法に書き換えられたのですよ、ということなのです。
 「罪と死の原理」とは、自分で頑張って善行や修行を重ねても律法を守ることができず、罪を犯してしまう、そして、その罪を帳消しにしようとしても、結局自分の無力さを知り、ただ死に至るしかない状態を示しています。その罪の死の原理から解放してくれるのは、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」です。それは、イエス様を信じ受け入れる一人一人にキリストのいのち、永遠のいのちが与えられ、神様の「御霊」つまり「聖霊」が宿ってくださり、神様を親しく「お父さん」と呼ぶことができる者にされるという原理です。神様がそのプログラムを私たちの思いと心に書き入れてくださるので、私たちは、神様を愛し、礼拝し、神様の恵みの中を歩んでいく生涯を送ることができる者とされていくのです。そして、神様は喜びをもって「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言ってくださるのです。

②「小さい者から大きい者に至るまで、わたしを知るようになる。」
 それから、11節にこう書かれています。「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」
 ここで、「おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない」とありますが、これは、「主を知れ」という話は一切しなくなるという意味ではありません。新しい契約によって生きる人々は、一人一人が神様と親しい関係を持つことができるので、自分自身で直接神様を知ることができるようになるということなのです。私たちは罪と死の原理に支配され、神様との関係が破壊された状態にいました。しかし、イエス様を信じて神様とつながることができるようになったのです。
 新約聖書のガラテヤ4章9節には「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに」とあります。また、第一コリント8章3節には「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」とあります。私たちがイエス様を信じて生きていくということは、神様を知り、また、神様に知られている、つまり、神様との親しい関係を持つ者とされているということです。「神様は、私の親しい知り合いなんですよ」ということができる者とされているのです。
 そして、それは、小さい者から大きい者まで、すべての人に言えることです。身分の高低、立場の違い、育った環境、学歴、貧富の差、年齢、性別などまったく関係ありません。すべての人が神様と親しい関係を持つことができるようになったのです。

③「もはや、彼らの罪を思い出さない。」
そして、神様は「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」と言ってくださいます。私たちの罪をすべて赦すだけでなく、「もはや思い出さない」と言ってくださるのです。
 旧約聖書の時代、年に一度、贖罪の日というものが設けられていました。毎年その日に民の罪が思い出されて神殿でいけにえがささげられていました。しかし、新しい契約の下では、神様は「もはや、あなたの罪を思い出さない」と言われます。それは、イエス様が十字架で私たちの罪をすべて完全に贖ってくださったからです。
 私たちは、自分や人の失敗や過ちをよく思い出しますね。そして、自分や人を繰り返し責めてしまう傾向がありますね。でも、神様は、私たちの罪を全部ご存知なのにもかかわらず、「もはや思い出さない」と言ってくださるのです。神様が赦し忘れてくださるのに、私たちが自分を責めたり人を裁いたりするのは無益なことですね。私たちは古い契約ではなく、新しい恵みの契約によって生きるものとされているのです。13節に「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます」とある通りで、もう古い契約によって裁いたり裁かれたりする必要はなくなったのです。古い契約は、人間が一生懸命戒めを守るという努力にすべてがかかっていました。しかし、新しい契約は、主の深い愛と恵みと真実にすべてがかかっているのです。これは、神様の一方的な愛の契約です。決して無効になることのない契約です。私たちは、ただそれを受けとるだけでいいのです。この素晴らしい契約に生かされていることを覚え、心から感謝をささげていこうではありませんか。