城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年六月四日             関根弘興牧師
                 ヘブル九章一節~二二節
 ヘブル人への手紙連続説教17
    「永遠の贖い」

1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。17 遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。18 したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、20 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。21 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(新改訳聖書)

まず前回の内容を簡単に復習しましょう。
 この手紙の記者は読者であるユダヤ人クリスチャンたちに対してこのようなことを書いていました。「あなた方が慣れ親しんできた旧約聖書は、私たちをまことの救い主であるイエス様のもとに導くために書かれたのです。あなた方が旧約聖書の律法の規定に従って昔からずっと守ってきた神殿や礼拝やささげ物や大祭司の働きなどは、本物の写しや影にすぎなかったのですよ。今では、本物がはっきりと示されたのだから、その完成された本物を見つめて歩んでいきましょう。」
 そして、モーセを通して与えられた古い契約(旧約)と、イエス・キリストによってもたらされた新しい契約との違いが説明されていましたね。古い契約は「神様が与えてくださった律法を守れば、祝福される」というものでした。ですから、この契約は人が自分の力で律法を守れるかどうかにかかっていました。しかし、人はどんなに頑張っても律法を完全に守ることは不可能です。律法自体は良いものなのですが、人の側に問題があるからです。結局、古い契約によって明らかにされたのは、人は自分の力では自分を救うことができないのだ、だから、救い主が必要だということでした。
 そこで、神様は御子イエスを私たちのもとに遣わし、新しい契約を示してくださいました。「イエス・キリストを信じるものは救われる」という契約です。これは、神様の深い愛と恵みと真実に基づいた一方的な契約です。私たちは、ただ信じて受け取りさえすればいいのです。そうすれば神様が素晴らしい約束を実行してくださるというのです。
 神様はこの契約でどんなことを約束してくださっているでしょうか。一つは、「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」という約束です。人の考えや言葉や行動の基となる「思い」と「心」に神様の律法が書き入れられるというのです。それは、内側から変えられるということです。私たちは、内側が新しくされて、神様を愛し神様の恵みの中を歩んでいく生涯を送ることができるようにされていくのです。そして、神様は喜びをもって「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言ってくださいます。
 第二の約束は、「小さい者から大きい者に至るまで、わたしを知るようになる」という約束です。私たちは皆、イエス様を通して、また、聖霊の助けによって神様を知ることができます。そして、神様も私たちのすべてを知っておられます。つまり、私たちは「神様は、私の親しい知り合いなんですよ」ということができる者とされているのです。小さい者も大きい者も、すべての人が自由に神様に近づき、神様と親しい関係を持つことができるようになるのです。
 第三の約束は、「もはや、彼らの罪を思い出さない」という約束です。神様は私たちの罪をすべて赦してくださるだけでなく、「もはや思い出さない」と約束してくださっているのです。
 
 さて、今日の箇所はその続きですが、まず、古い契約による「礼拝の規定」と「地上の聖所」のことが詳しく説明されていますね。そして、それに比べてイエス・キリストによって完成されたものがどれほど素晴らしいかということが書かれているのです。詳しく見ていきましょう。

1 古い契約による規定

①幕屋

 まず、幕屋について見てみましょう。 
 幕屋は、移動式の神殿です。モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させて約束の地に向かって荒野を旅している途中、神様の命令に従って造ったものです。幕屋は、神様を礼拝する場所であり、神様がイスラエルの民とともにいてくださることを示すものでした。後に約束の地に定住してからソロモン王が立てた神殿は、この幕屋の構造を基本にして建てられました。
 幕屋の内部は、聖所と至聖所に分けられていました。まず入口の垂れ幕の内側に入ると聖所があり、左に燭台、右に供えのパンを乗せた机がありました。奥には第二の垂れ幕があって、その向こうに至聖所と呼ばれる場所があり、香壇と契約の箱が置かれていました。(出エジプト記では香壇は聖所においてあると記されている)契約の箱は全面が金で覆われていて、その中に入っていたのは、荒野で神様が与えてくださったマナと呼ばれる食べ物が入った壺と、神様がアロンを大祭司にお選びになったことを示す芽を出したアロンの杖と、神様がモーセにお与えになった契約が記された二枚の石の板です。この三つは、神様が民を養い、受け入れ、導いてくださることを象徴するものでした。それから、契約の箱の蓋は「贖罪蓋」と呼ばれ、蓋の上には神様の臨在を示す生き物であるケルビムの像が二つ互いに向き合っていて、その翼が蓋の上を覆っていました。この至聖所は、神様が臨在される場所、神様とお会い出来る場所と考えられていて、最も聖なる場所でした。
 それから、幕屋の外には、幕で囲まれた「庭」がありました。その庭にはいけにえをささげる祭壇と祭司たちが身をきよめる洗盤が置かれていました。つまり、幕屋全体の構造は、幕屋内の庭、聖所、至聖所の三つの部分からなっていたのです。
 一般のイスラエルの人たちは、幕屋の庭の入り口までしか近づけませんでした。幕屋に関する奉仕は、レビ部族だけが行うことになっていたのです。彼らはレビ人と呼ばれ、幕屋を移動するときに解体、運搬、組み立てをしたり、幕屋の庭で様々な奉仕をしました。そして、そのレビ部族の中でもモーセの兄のアロンとその子孫だけが祭司になることができました。さらに、祭司たちの中から一人だけ大祭司が任命されたのです。一般の祭司たちは、毎日、いけにえをささげたり、聖所の中に入って燭台の火を灯したり、供えのパンを交換する役目を果たしていました。しかし、彼らは至聖所に入ることはできませんでした。至聖所に入ることができたのは、大祭司だけで、それも年に一度の「贖いの日」と呼ばれる特別な日にだけしか入ることができなかったのです。

②贖いの日

 贖いの日は幕屋に関する最も大切な行事で、ユダヤ歴の七月十日(太陽暦の九月から十月)に行われていました。すべてのイスラエル人の罪と汚れがきよめられ、神様との関係が続けられることを覚える日でした。この日、民は終日断食をしました。そして、大祭司の罪のためのいけにえとして雄牛一頭、民の罪のためのいけにえとして二頭のやぎが選ばれます。大祭司はまず自分の罪を贖うために雄牛をほふり、その血を至聖所に携えていって、契約の箱の蓋の前に振りかけます。次に民の罪を贖うために山羊の一頭をほふり、その血を至聖所の贖いの蓋の前に振りかけます。それからもう一頭の山羊の頭に両手を置いて民のすべての罪と咎を告白し、その山羊を不毛な荒野に放ちます。それは、罪を民から遠く離れたところへ追いやってしまうという意味が込められていたのです。
 このような儀式が毎年毎年行われていました。そして、大祭司は、この儀式を行う時だけ至聖所に入ることができたのです。入る前には入念な準備をし、自分の罪と民の罪を贖うためのいけにえの血を用意しなければなりませんでした。7節に、その血は「民が知らずに犯した罪のためにささげる」と書いてありますね。もし誰かが故意に罪を犯したら、死刑と決まっていました。でも、人には自分でそうしようと思わなくても悪を行ってしまったり罪を犯してしまう弱さがありますね。それで、大祭司が毎年神様の前に血を携えていって罪の贖いをする必要があったわけです。しかし、この儀式を毎年繰り返し行っても、9節に「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません」とあるように、人の内側は代わりません。いくら表面的にささげ物やいけにえをささげて礼拝しても、人の罪を完全にきよめることはできないのです。ですから、もしキリストが来られなければ、贖いの日は今でも延々と続くことになるのです。

 このように、古い契約のもとでは、第二の垂れ幕の内側の至聖所に入ることができたのは大祭司だけ、一年に一度の決められた日だけでした。しかも周到に罪の贖いの準備をしてからでないと入れなかったのです。このことは、人が神様に自由に近づく道がまだ完全には開かれていないことを示しているわけです。ですから、8節にこう書かれていますね。「これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。」古い契約によってでは、神様に近づく道は見つけることはできない、ということですね。

2 イエス様の血によって

 しかし、この手紙の記者は、「イエス様がさらにすぐれた大祭司として来てくださり、完全な救いをもたらしてくださったのだから、古い幕屋や贖いの日はもう必要ない、終焉を迎えたのだ。新旧交代なのだ」と言うのです。
 マタイ27章50節ー51節に、イエス様が十字架で息を引き取られたときに起こった不思議な出来事が記されています。「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」この神殿の幕とは、聖所と至聖所を隔てていた第二の幕のことです。その幕が裂けたということは、イエス様の十字架によって、神様と私たちを隔てていた幕が裂け、誰もが自由に神様のみ前に近づくことができるようになったということを意味しています。新しい恵みの世界のまさに幕開けとなったのです。
 では、イエス様は、十字架で流された御自身の血によって、どのようなことを成し遂げてくださったのでしょうか。

①永遠の贖いが成し遂げられた

 12節にこう書かれていますね。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
幕屋の最も大切な役割は、先ほどからお話したように、民の贖いということです。では、「贖い」とは何でしょうか。「贖い」の中心的な意味は、「捕われ状態になっている者を代償を支払って自由にする」ということです。聖書の中では、「贖い」という言葉は二重の意味で使われています。
 第一は、「律法からの贖い」です。ガラテヤ3章13節に「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と書かれています。私たちには、神様の律法を完璧に守ることはできませんね。でも律法を守れなければ、罰とのろいを受けるわけですから、律法に支配されて生きていくのはとても辛いことです。しかし、イエス様は、「律法を守らなければ神様の祝福を受けられない」という律法の束縛の中から私たちを解放し、「イエス様を信じることによって赦され生かされる」という神様の永遠の恵みの支配の中に移してくださったのです。
 第二は、「罪からの贖い」です。イエス様は、私たち一人一人の身代わりとなって私たちの罪をすべて背負い、罰を受けてくださいました。それによって、私たちの罪は赦され、罪の束縛から解放されて自由に生きることができるようになったのです。ロ-マ3章24節には、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」とあります。神様の恵みにより、キリストの十字架による贖いのゆえに私たちは神様の御前で正しい者と認められ、神様との関係を回復できるのです。そのために私たちは何も代価を払う必要はありません。キリストが私たちの罪の負債をすべて代わりに支払ってくださったからです。
 キリストによる十字架の贖いは完璧です。ですから、毎年繰り返す必要はありません。キリストによる贖いは、永遠の贖いなのです。

②心がきよめられる

 それから、14節に「キリストの血が私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせる」と書かれていますね。動物のいけにえの血や灰は肉体をきよいものにするために使われましたが、キリストの十字架の血は私たちの思いや心まできよめることができるというのです。私たちのこころを洗い清めてくださるのです。イエス様によって、私たちの良心はきよく変えられていきます。イエス様を信じて生きていくとき、悪しき習慣や虚しい生活からすこしづつ離れていくことでしょう。価値観が変えられていくことでしょう。

③生ける神に仕える者とされる

 そして、イエス様に贖われた者は、生ける神に仕えるものとされていきます。この「生ける神に仕える」という言葉は、新共同訳聖書では「生ける神を礼拝する」と訳されています。つまり神様に仕えるとは、神様を心から礼拝することです。旧約聖書の時代には、レビ人や祭司たちだけが幕屋に入って神様に仕えることができました。彼らは天にあるものの写しと影に仕えていました。そしてその中心は、罪のためのいけにえを捧げることでした。しかし、しかし、今は違います。私たちは皆、生ける神様の御前で、罪が赦されたことへの感謝と賛美を携えて礼拝するのです。ヘブル 13:15「 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」とあるようにです。

④永遠の資産を受けることができる

15節にこう書かれています。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」
 「初めの契約」とは、モーセの時代に神様とイスラエルの民の間で交わされた契約です。民が律法を守れば、神様が祝福してくださるという古い契約のことですね。19節ー21節に書かれているように、その契約が結ばれる時、子牛と山羊の血が「契約の血」としてそそぎかけられました。それは「契約に違反したら、死を持って償う」ということが意味されていて、契約の確かさを示すものでした。
 しかし、民は契約違反を繰り返してしまいました。神様との契約を守ることのできない罪の性質に縛られていたからです。ですから、本来ならば、民自らが死をもって贖う必要があったのです。22節には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と書かれていますね。神様は義なる方ですから、契約違反を見過ごすことは決してなさらないのです。しかし、神様は愛なる方でもあります。神様は私たちを愛しておられるので、私たちを救うために、ひとり子なるイエス様を送ってくださいました。そして、イエス様が私たちの代わりに十字架で血を流し、死をもって私たちの契約違反の代償を支払ってくださったのです。
 そして、そのイエス様を信じることによって救われるという新しい契約が示されました。この「契約」と同じ言葉が、16節ー17節では「遺言」と訳されています。イエス様によって与えられた新しい契約は、イエス様の遺言であるとも言えるのです。イエス様の十字架の死によって初めて有効になったからです。
 遺言の内容はどのようなものでしょうか。イエス様を信じる者は皆、永遠の資産を与えられるということです。「永遠の資産」とは神様が持っておられるすべてのものです。イエス様によって、私たちは神様の内にあるすべての良き物を相続できるというのです。
 イエス様は、ご自分が十字架で血を流し、死なれることによって、その遺言を有効にしてくださいました。私たちの側では遺言に書かれている約束を受け取るだけでいいのです。何と素晴らしい恵みでしょう。
 今日は、聖餐式を行います。聖餐式の時にいつも第一コリント11章23節ー26節を読みますが、その中でイエス様はこう言っておられます。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびにわたしを覚えてこれを行いなさい。」
 イエス様の流された血によって、私たちには新しい契約、つまり、罪の赦しと永遠の命が与えられ、神様の永遠の資産を受け継ぐ相続者となることができるという契約の中に生きていくのことができるのです。
 そのことを覚え、感謝と喜びと賛美をもって、心から礼拝をささげていきましょう。