城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年六月一八日            関根弘興牧師
                 ヘブル九章二三節~二八節
 ヘブル人への手紙連続説教18
    「キリストの来られた目的」

23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(新改訳聖書)


 前回は、旧約聖書の時代に神様の命令に従って造られた幕屋についてお話ししました。幕屋は、移動式の神殿です。モーセがエジプトで奴隷生活を送っていたイスラエル人をエジプトから脱出させ、約束の地に向かって荒野を旅している時に、神様の命令に従って造ったものです。
 幕屋は、神様を礼拝する場所であり、神様がイスラエルの民とともにいてくださることを示すものでした。幕屋の内部は、聖所と至聖所に分けられていて、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕がかかっていました。至聖所は幕屋の最も奥にあって、神様が臨在される場所、神様とお会い出来る場所であり、最も聖なる場所でした。その至聖所に入ることができたのは大祭司だけで、しかも年に一度、「贖いの日」と呼ばれる特別な日にしか入ることができなかったのです。
 「贖いの日」には、大祭司はまず自分の罪を贖うために雄牛をほふり、その血を持って至聖所に入り、契約の箱の前に血を振りかけます。次に、民の罪を贖うために山羊をほふり、その血を携えて至聖所に入って血を振りかけました。その血によって、イスラエルの民のための罪の赦しときよめがなされたのです。しかし、動物の血をいくら注いでも、それは完全なものではありませんから、罪の問題を根本的に解決することはできません。ですから、毎年毎年「贖いの日」に同じことを繰り返し行わなければならなかったのです。
 しかし、このヘブル人への手紙は、そういう旧約聖書の幕屋やいけにえや祭司や儀式は、将来明らかにされる本物を示す模型であり、影にすぎないと教えています。そして、本物とはイエス・キリストのことであり、旧約聖書に書かれていることはすべてイエス・キリストを指し示しているのだということを繰り返し説明しています。なぜしつこく繰り返し説明しているかというと、このことが当時のクリスチャンたちにとっても現代の私たちにとっても、しっかりと心に刻んでおくべき大切なことだからです。
 ですから、前回に続いて今日の箇所でもまた、「模型に過ぎない聖所」と「天にある本物」の違いについて説明されています。そして、さらに、キリストが私たちのもとに来られた目的が書かれています。詳しく見ていきましょう。

1 キリストが来られた目的

①きよめるために

 まず、23節ー24節にこう書かれています。「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。」
 ここで「天にあるものにかたどったもの」とありますが、これは旧約聖書の幕屋のことです。幕屋では、毎日、動物のいけにえがささげられていましたし、年に一度の「贖いの日」には、雄牛と山羊の血が至聖所に携えられていき、きよめの儀式が行われました。
 一方、「天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」と書かれていますね。「天にあるもの」とは、何を指しているのでしょうか。
 聖書に出てくる「天」という言葉にはいろいろな意味がありますが、ここで「天にある」というのは「完全な」という意味があると理解すればいいでしょう。つまり、旧約聖書の不完全な幕屋と比べて、「天にあるもの」すなわち「天の幕屋」は完全な幕屋なのだということです。天の幕屋は、神様がいつもおられ、神様の栄光に満たされ、神様のすばらしさを味わうことのできる完全な場所です。完全な神の家、神の住まいなのです。
 では、23節にある「天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません」というのは、どういうことでしょうか。完全な幕屋であり、完全に聖なる神様がいつも臨在される場所なら、きよめられる必要はないのではないか、と思いますね。それなのに「きよめられなければなりません」というのは、どういうことなのでしょう。
 天の幕屋自体は、きよめられる必要などありません。しかし、そこに入るためには、私たち自身がきよめられなければならないのです。なぜなら、神様は聖なる方であり、義なる方だからです。ですから、私たちの罪が赦され、聖なるものとされなければ、誰も天の幕屋に入ることができません。しかし、イエス様は、私たちを天の幕屋に迎え入れてくださるために、私たちの罪を背負い、身代わりとなって十字架についてくださったのです。聖書は、イエス様の十字架の血によって、私たちはきよめられ、聖なるものとされ、自由に大胆に永遠の天の幕屋に入り、永遠に神様と共にいることができると約束しています。
 そして、それは、死んだ後のことだけではありません
イエス様は、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われました。また、第一コリント3章16節には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と書かれています。そして、エペソ2章21節-22節にはこう書かれています。「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」つまり、イエス様を信じる私たちのただ中に天の御国があり、神様が私たちのうちに宿ってくださっているので、私たち一人一人が、そして、共に集まる教会が「天にある幕屋」だというのです。
 そして、パウロは、エペソ5章27節でこう記しています。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」イエス様を信じ、受け入れる時、イエス様は私たちの内に入ってきよめてくださいます。そして、神様の住まいとしてふさわしいものにしてくださるのです。
 ですから、私たちは、今、神様と共に生きることができるし、将来、死んだ後も天の御国で神様と共に生きることができるのです。それは、「さらにすぐれたいけにえ」であるイエス様の血によってきよめられているからです。

②罪を取り除くために

 26節の後半に「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」と書かれていますね。「罪を取り除く」とは、どういう意味でしょうか。
 聖書の「罪」という言葉には、「的外れ」という意味があります。「ずれ」ているということです。「神様との関係がずれている状態」を「罪」というのです。体のずれは、健康を害しますね。神様との関係がずれていたら、私たちの人格や生き方に問題が生じることになるのです。神様との関係がずれていると、神様のことがわからなくなります。神様を否定したり、神様に背を向けて、自分勝手な生き方をしてしまいます。人生の意味がわからなくなったり、迷ったり、不安になったり、内側にも様々な歪みが生じてくるのです。それを聖書は罪といいます。もし、私たちが正直に自分を見つめたら、「私は罪などない」と言える人などだれもいないでしょう。「罪」という単語は知らなくても、自分の中に何か悪いもの、汚れたもの、正しくないもの、利己的なものを感じるのではないでしょうか。
 そして、聖書には「罪から来る報酬は死です」と書かれています。「死」とは、神様のいのちが受け取れない状態、神様に応答できない状態、腐っていく状態です。電源が入っていないテレビのように、自分の本来の価値が失われている状態です。愛と恵みと真実に満ちた神様との関係がずれているなら、それが修復されないかぎり、私たちは本来の人生を生きることができないのです。
 イエス様は、その状態を修復するためにきてくださいました。マルコ2章17節で、イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様は、罪人を招いて、その罪を取り除くために来てくださったのです。
 ところで、皆さんは、「取り除く」という言葉をどのような時に使いますか。私は、自宅の洗面所の排水管が詰まってしまったとき、詰まっている物を取り除くというイメージが一番強いですね。「取り除いて」と言われると、「また何かパイプが詰まったかな」と思ってしまうほどです。「罪を取り除く」とは、それと少し似ていて、神様との間のパイプを詰まらせている私たちの数々の罪をイエス様が取り除いてくださるので、神様のいのちが豊かに流れてくるようになるということなのです。
 聖書の中で「取り除く」と訳されている言葉には二種類あります。第一ヨハネ3章5節に「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」と書かれていますが、その「取り除く」という言葉は、「取り去ってしまう」「運んでいってしまう」という意味です。一方、今日の26節の「罪を取り除く」の「取り除く」と訳されている言葉は、第一ヨハネとは違う言葉が使われていて、「廃止する、無効にする、消滅させてしまう」という意味です。罪の力そのものを無力にしてしまうという意味合いで使われているのです。
ローマ8章33節ー34節で、パウロはこう記していますね。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
 イエス・キリストを信じる私たちを罪に定めることは誰にもできません。なぜなら、イエス様御自身が罪を取り除いてくださったばかりか、罪の力を無効にしてくださったからです。それは、罪が鎖につながれてしまっている状態だと考えればいいでしょう。罪は、鎖が伸びる範囲では暴れまわることができるし、人を脅かすこともできるでしょう。しかし、どんなに荒れ狂う凶暴なライオンも、鎖につながているなら恐れることはありません。
 イエス様が私たちの罪をこのように取り扱ってくださったのですから、もはや罪に恐れおののく必要はないのです。むしろ、罪が取り除かれて、神様との自由で豊かな関係が回復されたことを喜び感謝していきましょう。

③罪を負うために

 27節ー28節には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」と書かれています。
 人は死んだら無になる、死んだらすべてが終わる、と考える人もいますね。しかし、聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と教えています。死んだあとに、神様の御前に出て、裁きを受けるというのです。 ただし、この「裁きを受ける」というのは「罰を受ける」という意味ではありません。神様が正しい裁判をなさるということなのです。しかし、先ほどもお話ししましたが、「罪はない」と言える人は一人もいませんね。このままでは皆、有罪判決を受けるしかありません。しかし、イエス様が、私たちの罪を取り除くだけでなく、私たちの罪を負うためにも来てくださったというのです。
 「イエス様が私たちの罪を負ってくださった」というのは、教会の礼拝に何度か出席すれば必ず聞く話ですね。何度も何度も聞かされているでしょう。でも、今日、改めてこの言葉の意味を考えていただきたいのです。
 あなたは何かを負ったことがありますか。たとえば、借金を背負うことは大変ですね。でも、たとえば住宅ローンのように借金して何かを買う場合は、それは背負うとはいいませんね。なぜなら対価として住宅を得ているからです。しかし、友人の借金の保証人になって、友人が借金を払えなくなったらどうでしょう。不本意だけれど仕方なく友人の代わりに借金を背負わなければならなくなりますね。ですから、普通は他人の借金の保証人になることは避けますね。まして、自分から進んで他人人の借金を背負うと申し出る人などどこにいるでしょう。
 私は、高校一年生の時、バイブル・キャンプでイエス様を心に受け入れました。人生に悩みがあったわけではありませんでした。でも、キャンプで牧師が「イエス様はあなたの罪のために十字架で死んでくださった」と何度も語っていたのです。私は、「自分は他人のために死ぬことはできない。まして、他人の罪を負って死ぬなんてできるはずがないし、したくもない」と思いました。そして、「もしイエス様が私の罪を負って十字架で死んでくださったということが本当なら、イエス様に背を向けているのは、とんでもないことだ」と思ったのです。そこで、私はイエス様を救い主としてお迎えする決心をしたのです。
 罪を負うということは、その罪のもたらす罰や呪いも負うということです。つまったパイプのごみなら、取り除いてごみ箱に捨ててしまえばいいことです。しかし、イエス様は、罪を取り除くばかりか、罪をその身に背負い、すべての罪の罰や呪いを十字架で引き受けてくださったのです。
 ですから、私たちは、神様の御前で裁きを受けるとき、「あなたの罪の代償はすべてイエス・キリストが支払ったから、あなたは無罪だ」という判決を受けることができるのです。
ローマ5章6節ー9節にこう書かれています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
人は死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。しかし、私たちは、何一つ恐れることはありません。イエス様によって罪が取り除かれ、罪のない者と認められ、神の前に大胆に出ることができるのです。そして、神様は「もはやあなたの罪を思い出さない」と約束してくださっているのです。

2 再び来られるキリスト

 今日の箇所の最後の28節後半に、キリストは「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」とありますね。
イエス様が最初に来られたのは、今から約二千年前のクリスマスの時です。ベツレヘムで降誕されました。神が人となって来てくださったのです。イエス様は、私たちに神様のことを示してくださると同時に、私たちと同じ人として歩み、私たちのすべての罪を背負い、十字架について死なれ、よみがえって天に昇られました。今は、神様のもとで私たちのためにとりなしをしてくださっています。
 そして、イエス様は、将来、再び来られる、と聖書に書かれています。それを「再臨」と言います。再臨の時には、罪を負うためではなく、イエス様を待ち望んでいる人々の救いのために来られる、というのです。
 といっても、今、私たちがまだ救われていないという意味ではありません。私たちはイエス様を信じて救われ、救いの確証を与えられています。そして、その救いは、イエス様が二度目に来られる時に完成されるのだというのです。
 ただ、イエス様の再臨がいつなのかは、誰にもわかりません。イエス様もこう言われました。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
 ですから、もし「再臨は、何年何月何日に起こる」と主張する人物やグループが現れたら、それは百%偽りだと思ってください。聖書から逸脱し、聖書を極端に解釈して混乱を引き起こすグループが多いからです。
 この世界は、いつかは終わりを迎えます。この世界の終わりと私たちのいのちの終わりのどちらが早いかわかりませんが、いずれにしろ私たちは終末を迎えます。でも、感謝ではありませんか。イエス様が最終的に一人一人の救いを完成してくださるという約束があるのですから。
 パウロは、テサロニケ人の手紙の中で再臨の時に起こることを説明し、こう書いています。「このようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになります。」私たちの将来にどのような困難があったとしても、最終的には「いつまでも主とともにいることになる」というのです。すばらしい恵みのメッセージですね。
 今週も、このイエス様を見上げながら歩んでいきましょう。