城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年七月二日            関根弘興牧師
                 ヘブル十章一節~一八節
 ヘブル人への手紙連続説教19
    「完成されたみわざ」

1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(新改訳聖書
)
 
 このヘブル人への手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたものです。彼らは、クリスチャンになったが故に、いろいろな困難を味わいました。ユダヤ社会から追い出され、また、ローマ政府による迫害も少しづつ始まっていましたから、身の危険も感じていたでしょう。このまま、イエス様を信じていて本当に大丈夫だろうか、という不安に襲われたはずです。ですから、イエス様への信仰を捨てて、もう一度ユダヤ社会にもどったほうがいいのではないか、と考える人もいたようです。そこで、この手紙の記者は、「イエス様こそ、あなた方が尊敬する旧約聖書のどの登場人物よりもはるかにまさる方であり、歴代の大祭司たちよりもはるかにすぐれた永遠の大祭司なのですよ」と繰り返し書き記しています。また、「あなた方が慣れ親しんできた旧約聖書は、あなた方をまことの救い主であるイエス様のもとに導くために書かれたものであって、神殿や大祭司の働きなどは、やがて明らかになる本物を示す模型や影にすぎなかったのですよ」と説明しているのです。
 この10章でも、影に過ぎないものと、イエス様が来られて明らかになった実物との比較がされています。三つの観点から違いを見ていきましょう。

1 礼拝の違い

 まず、1節にこう書かれています。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」
 ここに「影」と「実物」という言葉が出てきますね。
 「影」とはギリシャ語で「スキア」といいます。「暗闇」とも訳される言葉です。薄暗く、ぼやーっとして輪郭がはっきりしないことを表しているのですね。一方、「実物」と訳された言葉は、ギリシャ語の「エイコーン(イコン)」という言葉で、「細部に至るまで再現されたもの」「肖像」「形」という意味があります。つまり、「影」を見ているだけでは、なんとなく全体像がぼーっとわかる程度ですが、「実物」であるイエス様を見ていくと、救いの全貌が細部に至るまではっきりと見えてくるというわけです。実物であるイエス様を見れば、イエス様がもたらす救いが完全なものであることがはっきりわかるというのです。
 ですから、影の中で生きるのか、それとも、完成された実物であるイエス・キリストの中で生きるのかでは、礼拝者の姿がまったく違ってくるのです。
 影に生きる人々の特徴、つまり、旧約聖書の古い律法の戒めの中で生きる人々の特徴は何でしょうか。1節に「律法は、・・・神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです」とあるように、いくら律法に従おうとしても完全に従うことのできる人は一人もいませんから、いつまでたっても罪を赦されたという確信が持てないのです。2節ー3節に「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです」とありますね。神様を礼拝するときに罪を赦していただくために動物のいけにえをささげるわけですが、いくらささげても罪を完全に赦していただけたという確信が持てず、かえって、ささげ物をするたびに、自分の罪を思い出してしまうことになるというのです。ですから、旧約の律法の中で生きる人々の礼拝は、いつも自分の罪を思い起こし、その罪のためのささげ物をして赦しを願い求めることが中心になります。
 しかし、イエス・キリストを信じ、新しい約束の中で生きる私たちの礼拝は、それとは違います。
 もちろん、私たちも、神様に背を向けてしまうことはたびたびあります。罪深い自分に気づかされ、神様の前に罪を悔い改めて告白し、神様のみ前に赦されていることを受け取って歩んでいくのは大切なことです。
 しかし、もし私たちが赦されたはずの罪を自分で繰り返し思い出して自分を責めたり、病的なほどくよくよと苦にすることがあるなら、それは、本来の礼拝の姿ではありません。「自分は罪深い者です。どうぞ、お赦しださい」と繰り返すことがクリスチャンとしての謙遜な姿であるかのように勘違いしている人がいますが、旧約時代の礼拝ならそれでいいでしょう。しかし、イエス・キリストの十字架によってすべての罪の赦しが与えられた今は違います。
 17節にあるように、神様は「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」と約束してくださっています。それなのに、いつまでも自分の罪にこだわっているのは、「神様、あなたの約束を信じられません」と言っているのと同じことになりますね。
 2節に「礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり」とありますが、私たちは、礼拝の時に、もはや罪を意識することなく、キリストによって赦され、きよめられた者として、大胆に自由に賛美と感謝をもって神様のみ前に出ることができるのです。

2 いけにえの違い

そのような礼拝の違いは、どこからくるのでしょうか。それは、ささげられるいけにえの違いにあります。
 動物のいけにえが罪を取り除くために不完全なものであることは、何もこの手紙の記者が初めて言い出したことではありせん。動物のいけにえが不完全なことは、実際に動物のいけにえが毎日ささげられていた旧約聖書の時代から言われていたことでした。たとえば、詩篇51篇10節-17節でダビデはこう語っています。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。・・・まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」まだ第一サムエル15章22節で、預言者サムエルはこう言っています。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」どれほどたくさんのいけにえをささげても、肝心の心が伴っていなければ、つまり、神様に聞き従おうとする心がなければ、そのいけにえは何の役に立たない、というのです。
 ということは、その逆の「完全ないけにえ」とは、神様に喜んで聞き従う完全に従順なものでなければならない、ということですね。とすると、動物が完全ないけにえになることは不可能です。なぜなら、動物自身が自分の意志を持って神様に従うなどということはできないからです。その動物をささげる祭司たちも神様に完全に従うことはできませんでした。かえって、自分の罪のためにもいけにえが必要だったのです。ですから、いくら動物のいけにえをささげても、完全な罪の赦しときよめを受け取ることはできず、礼拝の時にくりかえし罪を思い起こし、いけにえをささげ、罪の赦しを祈り求めることが必要だったのです。
しかし、神様は、私たちをその状態から救うために、完全ないけにえを与えてくださいました。それがイエス・キリストです。この手紙の記者は、5節ー7節で詩篇40篇6節ー8節を引用して、イエス様が父なる神様のみこころに従ってこられた完全なささげ物であることを説明しています。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
 詩篇40篇はダビデが作った詩ですが、ダビデの子として来られる救い主の姿を現した詩篇として当時のユダヤ人は誰もが知っていました。
 ところで、私たちが手にしている旧約聖書の詩篇40篇を開くと次のように訳されています。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。』」
 同じ箇所なのに訳が少し違っていますね。それは、なぜかというと、旧約聖書は元々ヘブル語で書かれたので、旧約聖書の詩篇40篇はヘブル語から直接日本語に訳されたものです。一方、この手紙に引用されている詩篇40篇の言葉は、ヘブル語からギリシャ語に翻訳された七十人訳聖書から引用されているので、ギリシャ語から日本語に翻訳されたものなのです。
 ですから、微妙に言葉遣いの違いがあるわけですが、内容はほとんど同じです。ただ、一箇所だけ、大きく違っているところがありますね。旧約聖書の詩篇40篇では「あなたは私の耳を開いてくださいました」と訳されている箇所が、この手紙の引用では「あなたは・・・わたしのために、からだを造ってくださいました」となっています。これは、どういうことなのでしょうか。実は、この二つの表現は、ほぼ同じ事を表しているのです。
 「私の耳を開いてくださいました」というのは、「あなたが語ることは、みな聞き従います」という意味です。一方「わたしのために、からだをつくってくださいました」とは、「わたし(キリスト)が肉体をもって地上に下るのは、このからだをもって父なる神様のみこころを実行するためです」ということを意味しています。ですから、この二つの訳は、言葉は違いますが、意味するところは同じなのです。つまり、「わたしは、父なる神様のみこころに従います。そのみこころとは、人としてのからだをもってこの地上に下り、救いの計画を実行することです」ということをキリストが言われたということなのです。
 皆さん、父なる神様は、私たちを深く愛しておられるので、私たちの罪を取り除き、罪を負うために、御子イエスを私たちのもとに遣わしてくださいました。イエス様は、その父なる神様のみこころに完全に従い、私たちと同じ人となって、私たちのすべての罪を負って、御自身が完全ないけにえとなってくださってのです。このイエス様こそ、神様が喜び満足される完全ないけにえであり、そのいけにえが一度ささげられたことにより、私たちの罪は完全に赦されることが可能になったのです。
 ですから、旧約時代のいけにえに関わるすべての制度は廃止されました。9節に「後者が立てられるために、前者が廃止されるのです」とあるとおりです。私たちは、古い律法に生きるのではなく、イエス様の十字架によって完全に罪赦され、神様の圧倒的な恵みの中に生きる者とされているのです。

3 祭司の違い

旧約聖書の祭司たちは、動物のいけにえを繰り返しささげていましたが、罪を除き去ることはできませんでした。不完全な祭司が不完全ないけにえをささげていたからです。
 一方、イエス様は、完全な大祭司として、完全ないけにえをただ一度おささげになりました。それによって、私たちは、どのようなものとされたのでしょうか。

①聖なるものとされた

10節に「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」とありますね。「聖なるものとされる」とはいったいどういうことでしょう。
 皆さんは、「あなたは聖なるものとされています」と言われたら、どうですか。「いや、私は、そんなに聖いものではありません」と思うかもしれませんね。でも、ここではっきりと、「私たちは聖なるものとされている」と書かれているのです。 実は、聖書で「聖である」とは、「神様と何の隔ての壁もなく接することができる」ということです。また、「神様の専用品とされている」という意味でもあります。
 イエス様が十字架で流された血によって、私たちは罪の無い者とされ、神様と親しく接することができるようになりました。そして、神様の専用品となりました。ギターは、上手な弾き手によって素晴らしい音を奏でることができますね。それと同じように、神様が私たちをご自分の専用品として用いてくださったら、私たちはもっとも自分らしく生かされることができるのです。神様が、私たち一人一人の価値を最もよくご存じだからです。私たちはいろいろなものを持っていますが、宝の持ち腐れなんてことがよくありますね。しかし、神様が私の人生を握っていてくださるなら、決して宝の持ち腐れにはなりません。私たちは飲むにも食べるにも神の栄光を現わして生きていくことができるのです。

②勝利者とされた

神殿で動物のいけにえをささげていた祭司たちは、いつも立ったまま礼拝の務めをしていました。これは「罪の赦しが完成されない限り、決して座ることがない」ということを意味していたのです。ですから、祭司たちが座ることはありませんでした。
 しかし、イエス様はどうでしょう。12節ー13節に「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです」とあります。
 イエス様は、今、神の右に座っておられるというのです。これは、「罪の赦しのためにいけにえをささげる務めは完了した」ということを表しています。つまり、私たちに与えられた救いは、誰も覆すことのできない確かなものであるということなのです。
 さらに、イエス様が神の右の座に着かれたということは、イエス様がもっとも高きお方、至高のお方としていてくださるということです。すでに、イエス様の勝利は確定しているので、あとは「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」だけだというのですね。「敵」とは、私たちの罪を責め立て、神様の救いから引き離して滅ぼそうとする存在です。罪と死の力を使って私たちを脅かしてきます。しかし、イエス様は、その敵に対してすでに勝利されているので、敵がどんなに断末魔の叫びをあげても、私たちは恐れることはありません。イエス様の救いを受け取った私たちに、敵は何もすることができないからです。そして、世の終わりに敵は完全に滅びさってしまうのです。
 第一ヨハネ5章5節に「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」とあります。ですから、私たちは弱くとも大丈夫です。主が強いからです。勇気をもって進んでいきましょう。

③永遠に全うされた

それから、14節に「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」とありますね。「永遠に全うされた」とは、どういう意味でしょうか。「全うする」とは「完成する」「完全にする」という意味です。つまりイエス様の十字架のいけにえは完全なので、それによって赦された私たち一人一人は、永遠に完成されているのだというお墨付きの言葉なんです。
 私たちは「あなたを赦します」と言っても、すぐに気が変わって「やっぱり赦すのはやめた」となるものです。でも、神様の約束は変わることはありません。私たちが「永遠に全うされた」というのは、イエス様の十字架のみわざのゆえに、私たちは永遠に聖なる者、神様と共に歩む者とされている、それは、決して変わることのない完成された事実であり、決して変わることがないのだ、ということなのです。
 しかも、そのために私たちが何かの条件を満たさなければならないということはまったくありません。品行方正な生活をしなければならないとか、善行をたくさんしなければならないなどの条件は何一つありません。神様が、一方的な恵みによって私たちを全うしてくださったのです。
 その背後には、聖霊の働きがあります。16節に「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける」とありますね。私たちの心と思いは、私たちの行動や生き方を決める中心です。そこに神様の律法が書き付けられるというのです。つまり、私たちの心と思いが聖霊によって変えられていくので、神様に聞き従い、完成された者、神様の専用品として生きていくことができるようになるということなのですね。神様が素晴らしい一方的な恵みのプログラムを私たちの内側に書き込んでくださっているのです。
 イエス様がただ一度、ご自分を十字架でささげてくださったことによって、私たちには考えられないほど大きな救いが与えられています。赦され、聖なる者にされ、永遠に変わることのない完成された救いに与っていることを覚えつつ、この年の後半も歩んでいきましょう。