城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年七月一六日           関根弘興牧師
               ヘブル一〇章一九節~二五節
 ヘブル人への手紙連続説教20
    「希望を告白しよう」

19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(新改訳聖書)


このヘブル人への手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたものです。彼らは、クリスチャンになったが故に、いろいろな困難を味わいました。ユダヤ社会から追い出され、また、ローマ政府による迫害も少しづつ始まっていましたから、身の危険も感じていたでしょう。このまま、イエス様を信じていて本当に大丈夫だろうか、という不安に襲われたはずです。中には、イエス様への信仰を捨てて、もう一度ユダヤ社会にもどったほうがいいのではないか、と考える人もいたようです。
 そこで、この手紙の記者は、「イエス様こそ、あなた方が尊敬する旧約聖書のどの登場人物よりもはるかにまさる方であり、歴代の大祭司たちよりもはるかにすぐれた永遠の大祭司なのですよ。そして、イエス様が私たちの罪を負い、十字架についてくださったことによって、完全な救いがもたらされたのです」と繰り返し書き記していくのです。
 前回は、イエス様が、ただ一度、ご自分を十字架にささげられたことにより、私たちにどのような祝福がもたらされたかということを学びました。まず、私たちは、罪のない者、聖なる者と認められ、神様と何の隔てもなく接することのできるようになりました。そして、私たち一人一人の価値を最もよく知っておられる神様の専用品になることによって、私たちは最も自分らしく生きることができるようになったのです。また、イエス様が罪と死の力に打ち勝ってくださったので、私たちは自分自身は弱くても、イエス様の守りの中で安心して勇気をもって生きていくことができます。そして、キリストは私たちを永遠に全うしてくださった、と書かれていましたね。イエス様の十字架のみわざのゆえに、私たちは永遠に聖なる者、神様と共に歩む者とされています。それは、決して変わることも取り消されることもないのだ、と神様は約束してくださっているのです。神様が私たちの心と思いを新しくしてくださったので、私たちはキリストと同じ姿に変えられ続けていくのですね。
 今日の箇所では、そのように素晴らしい恵みと祝福を与えられた私たちが、どのように生きていったらいいかということが書かれています。

1 真心から神に近づこう

 まず、19節ー22節では、「私たちは大胆にまことの聖所に入ることができるのだから、全き信仰をもって、真心から神に近づこう」と勧められています。しかし、当時のユダヤ人にとっては、これは大変驚く言葉だったはずです。
旧約聖書の時代に、神様の臨在を象徴する幕屋が作られました。幕屋というのは移動式の神殿です。後には、エルサレムに立派な石造りの神殿が建てられましたが、基本的な構造はどちらも同じです。幕屋(神殿)の中は二つに区切られていて、まず入口を入ると聖所があり、その奥に至聖所と呼ばれる場所がありました。聖所と至聖所の間には垂れ幕がかかっていて、至聖所は神様が臨在される最も聖なる場所とされていました。
 これまでも何度もお話ししてきましたが、その至聖所に入ることができるのは、大祭司だけ、しかも、年に一度の「贖いの日」と呼ばれる特別な日だけでした。大祭司が至聖所に入るためには、まず、水で身をきよめ、罪を贖うための動物のいけにえをささげ、その血を携えて入らなければなりませんでした。なぜなら、神様は完全に聖なる方ですから、罪あるままでは神様に近づくことはできません。罪あるままで近づこうとしたら、たちまち滅びてしまうでしょう。ですから、至聖所に入る前には、入念に身をきよめ、罪のためのいけにえをささげて罪の贖いをする必要があったのです。大祭司自身も罪ある者ですから、気安く神様に近づくことはできませんでした。ましてや、一般の人々が神様に近づくことなど不可能だったのです。
 それなのに、今日の箇所で「私たちは、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。だから、神に近づこうではありませんか」というのですから、ユダヤ人にとっては信じられないほどの大きな変革なのです。
 では、なぜ、私たちが聖所に入って神様に近づくことができるようになったのでしょうか。ここに三つのことが書かれていますね。

①イエス様の肉体という垂れ幕を通して

 まず、20節に「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」と書かれています。
 これはどういうことなのでしょう。至聖所の入口の垂れ幕は、神様と人とを隔てるものでした。罪ある者は、聖なる神様のもとに近づくことはできないということを示す幕だったのです。その幕がある限り、人が自由に神様に近づくことはできません。 しかし、マタイ27章51節に、イエス様が十字架上で息を引き取られた時、至聖所の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれています。これは、イエス様御自身の肉体が十字架で引き裂かれることによって、私たちが神様のもとに近づく道が開かれたことを示しているのです。
 教会では聖餐式を行いますね。そのとき、牧師はパンを取りこう言います。「これは私たちのために裂かれたキリストのからだです」と。十字架でイエス様のからだが引き裂かれたことによって、私たちは罪赦され、聖なる者とされ、大胆に神様に近づくことができるようになりました。イエス様が私たちのために神様のもとに近づく道を設けてくださいました。
 ヨハネ14章6節では、イエス様はこう言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエス・キリスト御自身が新しい生ける道、神様に近づく道そのものになってくださったのです。

②神の家をつかさどる偉大な祭司によって

それから、21節に「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります」とありますね。
 この手紙には、祭司のことが繰り返し書かれていますが、祭司の大切な役目の一つは、神様と人との間の橋渡しをすることです。イエス様は、神様に近づく新しい生ける道を備えてくださったばかりか、偉大な祭司として私たち一人一人を父なる神様に紹介し、引き合わさてくださる方でもあるのです。
 たとえば、天皇陛下に会いに行くとしましょう。まず、皇居までの道を知らなければ行くことができませんね。しかし、道を知っているだけでは会うことができません。天皇陛下に引き合わせてくれる人が必要ですね。
 感謝なことに、私たちには、イエス様がいてくださいます。イエス様が私たちを神様のもとに導き、引き合わせてくださるのです。
 「大胆にまことの聖所に入って神様に近づこう」とありますが、聖所に入る道も父なる神様のもとに導いてくださるのもイエス様御自身なのです。
 ですから、このイエス様によって私たちは大胆に神様のみ前に近づくことができるのです。
 
③罪と汚れをきよめられることによって

そして、22節に「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた」と書かれていますね。
 旧約聖書の幕屋に仕える祭司たちは、動物の血をもって自らの罪の贖いをする必要がありました。また、幕屋の中庭には水盤があり、祭司たちは、繰り返し水でからだを洗い、身をきよめなければなりませんでした。しかし、動物の血も水も人の罪や汚れを完全に取り除くこともきよめることもできません。
 しかし、十字架で流されたイエス様の血は、私たちの罪を完全に贖うことができます。そして、私たちは、イエス様の十字架の血によってきよめられた証しとして洗礼を受けて歩んでいるのです。
 ですから、私たちは、全き信仰をもって、神様に近づくことができるのです。「全き信仰をもって」とは、「信頼しきって」ということです。私たちは十字架によってきよめられた者として、大胆に神様に近づき、神様と親しく語り、神様に信頼しきって歩むことができるのです。

2 希望を告白しよう

 次に、23節に「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」と書かれています。新共同訳聖書では、「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と訳されています。
 「真実な方」とは、嘘、偽りがまったくないということですね。信頼しきっても大丈夫、裏切られることはない、ということです。その真実の神様が与えてくださった希望の約束を信頼し、言い表し、しっかりと保っていこう、というのです。
 思い出してください。この手紙を受け取ったユダヤ人クリスチャンたちは、困難の中にいました。理不尽な迫害にさらされている人もいました。そういう状況に、どのように対処したらいいのでしょうか。
 不安を克服する道は、不安に立ち向かったり、不安を押さえつけようとすることではありません。不安を認めつつ、なお神様の愛の中に生かされていることを確認することが大切なのです。神様の愛は、キリストの十字架によってはっきりと示されています。神様が私たちを愛し、赦し、守り導いてくださっています。ですから、自分の弱さやみじめさを知ることは大切ですが、それと同時に、「こんな私を神様は愛してくださり、神様と共に歩む者としてくださったことを感謝します」と告白していくことが大切なのです。イエス様が、私のためにいのちを捨てるほど愛してくださっていることを告白し続けるのです。
 また、私たちは聖書の約束を告白していくのです。聖書には、神様の私たちへの約束があふれています。
 人生には、様々な困難があるでしょう。しかし、ローマ8章28節に書かれているように、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と告白するのです。また、エレミヤ29章11節で神様がこう言っておられる言葉を思い起こし、告白するのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 人生に行き詰まったときも、第一コリント10章13節にあるように「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と告白しましょう。
 自分の罪の呵責に悩まされるときがあるかもしれません。そんなときは、第一ヨハネ1章7節の「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」という約束を告白するのです。
 真実な神様は、変わらぬ愛をもって、約束したことを必ず成し遂げてくださるからです。

3 互いに励まし合おう

 私たちが、希望を告白し続けていくためには、互いの励ましも必要です。
24節ー25節に「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」とありますね。
 この手紙の読者の中には、一緒に集まることをやめてしまった人たちもいたようです。様々な困難や試練が襲ってきてクリスチャンとして生きていくことに疲れてしまった人もいたかもしれません。また、教会の中の人間関係に疲れてしまって、ひとり静かに信仰生活を送りたいと考える人もいたでしょう。また、教会の在り方があまりにも世俗的になってしまったり、聖書からずれてしまったために、教会に失望して集まることをやめてしまうこともあるかもしれません。昔も今も、一緒に集まることを、やめさせてしまう要因はたくさんあります。
 しかし、この手紙の記者は「いっしょに集まることをやめないように」と勧めていますね。それは、ただ我慢して、文句を言わずに無理にでも集まりなさい、と言っているのではありません。私たちがしっかりと希望を告白し続けていくためには、互いに励まし合うことが必要だからです。いっしょに集まる時間は一週間のうちのほんのわずかな時間かもしれませんが、そのわずかな時間に共に主を礼拝し、賛美し、聖書のことばを聞いて主の素晴らしさを仰ぎ見、希望を告白するのです。そして、私たちが信じている救いの素晴らしさを手放さないように告白し続けていくのです。
 ですから、教会に集まることの中心はおのずとわかってきます。それは礼拝なんです。そしてこの希望を告白しささげられる礼拝から、それぞれが生かされている場に帰っていくのです。 教会はいつも何を大切にしなければならないのかを吟味していかなければなりません。一人一人が希望を告白し生きるものとされていくために配慮し、聖書のみことばを分かち合い、心からの礼拝をささげることを願い求めていくのです。
もちろん、病のために礼拝に来られない時もあるし、仕事や様々な事情で来られないこともあります。しかし、皆さん、クリスチャンライフは一生涯です。どんな状況にあってもお互いがキリストにあって一つにされている仲間であることを認め合い、励ま合い、安否を問いながら、共に希望を告白する仲間とされ続けていくのです。
 それから、「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」と書かれていますが、クリスチャンにとって「愛と善行」とは何を意味しているのでしょうか。基本は、神様を愛し、自分と同じように隣人を愛することですね。神様を心から礼拝し賛美するとともに、お互いの存在を感謝することから始まっていくのです。あなたがいて、わたしがいる、それは決して当たり前ではありません。互いに「あなたがいてくれて、ありがとう」と言えるようになっていければいいですね。
 私たちは、本当に弱い者です。ひとりでは生きていくことができません。だから、互いに勧め、互いに励まし、時には互いに戒めつつ歩んでいくのです。
 ですから、一緒に集まることを、やめないようにしよう。マタイ18章20節でイエス様はこう約束しておられます。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」私たちがイエス・キリストの名において集まるなら、そこに主が共にいてくださり、私たちの互いの関わりを導き祝福してくださいます。そのことを覚えつつ、これからも共に集まり、共に希望を告白し続けていきましょう