城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年七月二三日           関根弘興牧師
               ヘブル一〇章二六節~三九節
 ヘブル人への手紙連続説教21
    「必要なのは忍耐」

26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。28 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。33 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。34 あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(新改訳聖書)


前回の箇所までには、イエス・キリストによって与えられる様々な恵みの素晴らしさが書かれていましたね。
 聖書は、私たちは皆、罪人だと教えますが、「罪人」というのは一般に言われているような「犯罪者」という意味ではなく、「神様との関係がずれている人」という意味です。愛と真実の源である神様との関係がずれて、自己中心的な思いにとらわれ、自分の価値や存在の意味がわからず、自分自身も人も傷つけてしまうような罪の状態にいる私たちのために、神様は、イエス・キリストを送ってくださいました。神の御子であるイエス様がただ一度、ご自分を十字架でささげられたことにより、私たちは、罪赦され、聖なる者と認められ、神様と何の隔てもなく接することのできるようになったのです。また、イエス様が罪と死の力に打ち勝ってくださったので、私たちは罪の状態から解放されました。そして、イエス様が私たち一人一人に聖霊を送ってくださったので、私たちは、神様のいのちに生かされ、内側から新しく変えられていき、永遠に聖なる者、神様と共に歩む者とされ、いつも希望を告白しながら歩むことができるようになったのです。しかも、この恵みは決して取り消されることはない、と神様が約束してくださっています。素晴らしいことですね。

1 逆らう人たち

 ところが、今日の26節ー31節を読むと、大変厳しいことが書いてあるので、急に恐くなってしまった方もおられるのではないでしょうか。「さばき」とか「逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」とか「重い処罰に価する」とか、何だか恐いことが書いてありますね。これを読んで「もし私が何か罪を犯したり、神様に逆らったりしたら、さばきの火に焼き尽くされてしまうのか」と心配になる方がおられるかもしれません。
 しかし、安心してください。私たちの神様は愛と真実に満ちた神様です。私たちがどんな罪を犯したとしても、神様に立ち返るなら、神様は何度でも赦し、きよめ、受け入れてくださいます。そして、いつも慰め、励ましてくださるのです。なぜなら、イエス様が与えてくださった救いは、決して変わることのない永遠に保証されたものだからです。
 では、なぜここにこんな厳しい言葉が書かれているのでしょうか。実は、神様から計り知れないほどの大きな恵みが与えられているのにもかかわらず、それを故意に拒否し、イエス様による救いを放棄し、まるでイエス様を挑発するかのように故意に罪を犯し続ける人たちがいたのです。
 26節に「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません」と書いてありますね。これは、イエス様が完全な罪のためのいけにえとして御自身を十字架でささげてくださったのに、それを拒否するなら、その人たちの罪を贖うことのできるいけにえは、もはやありませんよ、ということなのです。 28節に書かれているように、旧約聖書では、神様がモーセを通して与えてくださった律法を無視する者は死刑になると決まっていました。「無視する」というのは、故意に逆らうということです。たとえば、律法には「殺してはならない」という戒めがありますが、そのつもりがないのに誤って殺人を犯してしまった人には救済の道が用意されていました。しかし、故意に人を殺したら死刑です。そのように、律法を故意に無視する人は死刑なのですから、ましてや、私たちに完全な救いを与えてくださるイエス・キリストを故意に無視する人は、永遠の滅びに向かうのは当然ではないか、というのですね。
 そして、29節には、そういう人たちの特徴が書かれています。

①神の御子を踏みつける

 神様がせっかく私たちのために遣わしてくださった御子を足の下に踏みつけるというのは、御子だけでなく父なる神様をもこれ以上ないほど甚だしく侮辱するということでもありますね。

②自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなす

 キリストは、私たちを神様に受け入れられる聖なるものとするために十字架で血を流してくださいました。その血によって私たちは赦され、生かされ、神様と新しい永遠の愛といのちの契約を結ぶことができるのです。しかし、そのことを受け入れず、イエスはただの犯罪人として十字架で死に血を流したのだ、イエスの血には何の力も無い、と考える人たちがいたのです。その人たちは、キリストの十字架によってもたらされるすべての祝福を拒んでいるのです。

③恵みの御霊を侮る

 聖書の神様は、三位一体の神様です。唯一の神様は、父なる神、子なるキリスト、聖霊(御霊)の三つの位格を持っておられ、その三つの位格は同じ本質を持ち、常に同じ目的と意志をもって協同してみわざをなしておられるのです。
 父なる神様は、私たちを愛し、私たちを救うために御子イエスを送ってくださいました。そのイエス様を救い主として信じる人々の内には、聖霊が宿ってくださり、いつも共にいて教え、導き、守ってくださるのです。それによって、「神は私たちとともにおられる」という聖書の約束が実現しました。私たちが神様を知ることができるのも、イエス様を救い主として信じることができるのも、新しいいのちを与えられて神様とともに生きることができるのも、聖霊の働きがあるからなのです。もし、その恵みの御霊を侮るなら、神様が差し出してくださっているすべての祝福を拒否することになるのです。

 つまり、ここで言われている逆らう人たちというのは、自分の意志でキリストに背を向け、神の御子イエス様が救い主であることを認めず、十字架による罪の赦しも受け入れず、聖霊のみわざも否定する人たちです。三位一体の神様を侮った生き方をしているのです。
 歴史をみると、そういう人たちが、教会が誕生してまもない頃から繰り返し現れました。イエス様が神の御子、救い主であることを否定したり、イエス様の十字架は失敗だったと主張したり、聖霊が神様と同じ本質をもった方であることを否定したりする様々な異端が生まれました。この手紙が書かれた時代にも異端的な教えを主張する人々がいたのでしょう。そこで、この手紙の記者は、そういう人々に対して厳しく警告しているのです。
 30節ー31節に、こう書かれていますね。「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする』、また、『主がその民をさばかれる』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
 聖書は、神様が最終的なさばきを下される日が必ず来る、と教えます。その時には、神様が一人一人に正しい判決を下し、報いを受けさせるというのです。ですから、今は、自分勝手なことを言って神様を侮り逆らっている人々に対して神様は沈黙しておられるように見えるかもしれないけれど、最終的に生ける神様の前でさばきを受けるときに、そういう人々には悲惨な結末が待っているのだというのですね。
 第二ペテロ3章9節に「主は、・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とあります。神様は、今、神様に逆らっている人も悔い改めて神様に立ち返ってほしいと願っておられるので、まだ最終的なさばきをなさっていないのです。だから、逆らっている人たちに対して、今のうちに神様に立ち返りなさい、さもないと厳しいさばきを受けることになるのですよ、と警告し、また信仰を保っている人たちに対しては、彼らのような生き方をしないように気をつけなさい、と戒めているのですね。
 
2 信じていのちを保つ者

 さて、キリストを踏みつける人たちがいた一方で、忍耐をもって信仰を保っている人たちもいました。しかし、彼らは、クリスチャンになったがゆえに、様々な迫害や困難の中にありました。そこで、この手紙の記者は32節ー37節で励ましと慰めの言葉を書き送っています。
 まず、32節に「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい」とあります。「光に照らされた後」とは「イエス様と出会ってクリスチャンになった後」という意味です。イエス様を信じた後も苦難や激しい戦いにあったのですね。
 イエス様を信じても、苦しみや困難がなくなるわけではありません。私は「信じたらすべてうまくいきますよ、バラ色の生活が待っていますよ」とは決して言いません。もちろん、イエス様によって永遠の救いが与えられ、大きな喜びがあります。また、イエス様によって問題の解決が与えられ、祈りが答えられることもたくさんあります。しかし、苦しみや困難がまったくなくなるわけではありません。むしろ、その中でどのように生きていくかという姿勢が信仰によって変えられていくのです。
 この手紙の宛先のクリスチャンたちも厳しい苦難や迫害を味わいましたが、その中で、互いに思いやり、天にいつまでも残る財産があることを確信して喜び忍びました。だから、その初めのころのことを思い起こしなさい、というのですね。
 そして、35節で「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません」と励ましています。信じたばかりの頃に持っていた確信を途中で投げ捨てないで、持ち続けなさい、なぜなら「それは大きな報いをもたらす」からだというのですね。
 そして、36節で「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と書いています。神様は、大きな報いを約束してくださっています。その約束のものを手に入れるまで、忍耐をもって待つことが必要だというのですね。
 そして、37節ー38節で旧約聖書のハバクク書を引用しています。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
 これはハバクク書2章3節ー4節の引用ですが、ここで使われているのはヘブル語の原文をギリシャ語に翻訳した七十人訳聖書からの引用です。
 私たちの持っている旧約聖書は、ヘブル語から直接翻訳されたものなので、ハバクク書を見ると言葉が少し違っています。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。・・・正しい人はその信仰によって生きる。」
 ハバククは、紀元前七世紀の後半に活躍した預言者です。この時、南ユダ王国にヨシヤという王が登場しました。当時、南ユダ王国の人々は、まことの神様以外に多くの異教の神々の偶像を置いて拝んでいましたが、ヨシヤ王は、偶像礼拝を禁止し、まことの神様だけを信じ礼拝するよう宗教改革を展開しました。その過程で、神殿の中から律法の書(旧約聖書の創世記から申命記までの五書)が発見され、その内容を民に教える運動も盛り上がっていきました。しかし、バビロニヤ帝国が勢力を拡大し、アッシリヤ帝国さえも飲み込もうとしたとき、ヨシヤ王は、アッシリヤを助けるために北上してきたエジプト軍と戦い、あっけなく戦死してしまいます。せっかく、久しぶりに良い王様が登場したと思ったのに、その治世はあっけなく終わってしまい、南ユダ王国は、ますます混乱していくことになったのです。
 そんな中で、ハバククは預言者として活動しました。希望のもてない状況でした。アッシリヤ帝国という残忍な国が滅びたかと思ったら、今度はバビロニヤ帝国の脅威が迫って来ました。まことの神様への純粋な信仰が失われ、政治は混乱し、内部には不正と暴力があふれていたのです。
 そんな中でハバククは叫びました。「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで聞いてくださらないのですか。私が『暴虐。』とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。」
「なぜ」「どうして」とハバククは叫びました。しかし、いくら祈っても、神様は沈黙し、人間の悪をそのまま放っておかれているように思われたのです。これは、ハバククにとって辛いことであり、信仰の危機でもありました。このハバククの状況は、このへブル人への手紙の読者たちの置かれている状況と重なるところがあったかもしれません。
 そんな中で、神様がついにハバククに答えて言われたのが、ここで引用されている言葉です。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。・・・正しい人はその信仰によって生きる。」
この言葉は、忍耐について、大切なことを教えています。

①おそくなっても、遅れることはない

 まず、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」ということです。
 聖書をわかりやすい言葉に訳したリビング・バイブルでは、こう訳されています。「遅いように思えても、失望するな。 必ず計画どおりになるのだ。忍耐して待て。 ただの一日も、遅れることはない。」
 私たちが知らなければならない大切なことは、私たちの考えている時と神様が計画しておられる時とは異なることがよくあるということです。私たちは、時々、こんな祈りをすることがありませんか。「神様、いますぐ解決してください。今すぐみわざを行ってください。これ以上待てません。そんなに待てというなら、信仰など要りません。」まるでスーパーで駄々をこねている子供のようになってしまうのですね。しかし、私たちよりも神様の方が最善の時をご存じなのです。
 皆さん、私たちにはわからないことがたくさんあります。世界の出来事を見ても、自分の身近に起こる出来事を見ても、「どうして」「なぜ」という叫びはいつもあります。そんな時に、神様の時の中に身を置いて考えてみることが大切です。
 先週は「希望を告白しよう」という説教をしまいした。希望を告白するとは、神様の最善の時があることを告白することでもあります。神様が私たちにとっての最善の時をご存じで、最善の時に最善のことを行ってくださると告白するのです。
 伝道者の書3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」とあります。私たちには、神様がいつ何をなさるのか見きわめることができないときもありますが、神様のなさることはすべて時にかなって美しいということを信頼し、神様にお任せして歩んでいきましょう。
 ベタニヤという村にマルタとマリヤという姉妹がいました。彼女たちの兄弟ラザロが重病で死にかけたとき、姉妹は、イエス様のもとに使いの者をやって「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えさせました。すぐにイエス様に来ていただきたいと願ったわけです。しかし、イエス様は、なかなか行動を起こそうとされませんでした。そして、ラザロの死後四日もたってから、やっとベタニヤに来られたのです。マルタとマリヤは、「イエス様、もしあなたがもっと早く来てくださったら、ラザロは死ななくてすんだでしょうに」と言いました。しかし、イエス様がラザロの墓の前に立ち「ラザロよ。出てきなさい」と呼びかけられると、ラザロは生き返って墓から出てきたのです。ラザロが死んでから四日もたっていたということは、生き返るチャンスは全く失われていたということです。しかし、そんな絶望的な時に来られたことによって、イエス様に死を打ち破る力があることがはっきりと示されたのです。マルタとマリヤは「おそすぎる」と思っていましたが、イエス様にとっては最善の時だったのですね。
 この出来事は、私たちにとっても大きな励まし、大きな希望です。いま問題のただ中にあるなら、焦らないでください。葛藤を抱えながらも、神様を見上げ、賛美しながら、確信をしっかりと保ち、神様の最善の時を待ちましょう。忍耐とは、ただ闇雲に我慢することではなく、神様の最善の時を期待しつつ待つことなのです。

②信仰によって生きる

そして「正しい人はその信仰によって生きる」とあります。
 この「信仰」という言葉は、「信頼」「真実」とも訳される言葉です。それは私たちが誠実に正直に神様を信頼して生きることです。また、その信仰とは、神様ご自身の真実によって生きる、ということでもあるのです。人が生きるためには、互いの信頼や愛や誠実が必要です。神様との関係の中でも、神様を信頼し愛し神様に対して誠実に生きる必要がありますが、私たちにそれができるのは、まず、神様が真実なる方であり、私たちに対していつも誠実な方だからです。
 時々、「私は不信仰で」とか「私は信仰が弱くて」と言われる方がいますが、言わなくても、神様はちゃんとご存知ですよ。私たちの信仰、信頼などは、たかが知れているのです。でも、神様が誠実に支え続けてくださるから、私たちは神様を信頼し続けることができるのです。私たちが神様の手を握りしめていなければならないのではなく、神様が私たちの手をしっかり握ってくださっているから安心できる、これが信仰の姿であり、この信仰によって忍耐して待つことができるのです。私たちは、39節にあるように、どんな状況にあっても「恐れ退いて滅びる者」ではなく「信じていのちを保つ者」とされているのです。
 
「信仰によって生きる」、これは、次の11章からの大きなテーマとなっていきます。 最後に、ハバクク書の言葉をご一緒に読みましょう。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。・・・正しい人はその信仰によって生きる。」