城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年七月三〇日           関根弘興牧師
                  ヘブル一一章一節~三節
 ヘブル人への手紙連続説教22
    「信仰の本質」

1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
(新改訳聖書)


 前回の10章の最後に、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と書かれていましたね。また、「義人は信仰によって生きる」というハバクク書の言葉が引用されていました。
 では、「信じていのちを保つ」とか、「信仰に生きる」とは、どういうことなのでしょうか。
 今日から、11章に入りますが、11章では、旧約聖書の時代に信仰に生きた人たちの姿を紹介しながら、そのことが説明されています。

1 信仰とは

「信仰」という言葉には、いろいろなイメージがありますね。 理性を捨てて何かを思い込むことが信仰だと考える人もいます。「鰯の頭も信心から」という言葉がありますが、何でもいいから信じればいい、その信仰心が大切なのだ、と考える人もいます。よくわからないけれど、とにかく熱心に祈ったり、修行をすることが信仰だと思う人もいます。ショーウィンドウに飾られた洋服を一生懸命に見つめて着たつもりになることが信仰であるかのように思い込んでいる人がいるのですね。
 クリスチャンになってからも、信仰という言葉を聞くと、同じようなイメージを浮かべてしまう人がいます。よくわからないけれど理性を捨てて信じなければならないと思い込んだり、もっと熱心さがないと立派な信仰を持てないとか、努力して頑張らなければ落ちこぼれてしまう、というように思い込んでしまっていることがあるのです。
 しかし、聖書が教えている「信仰」は、そういうものではありません。「信仰」という言葉は、「信頼」と訳すこともできます。つまり、信仰とは、「神様を信頼する」ことなのです。
 
①信じること

 まず、「信頼する」こと、「信じる」ことについて、考えてみましょう。
 実は、私たちの毎日の生活は、信じることの連続の中で営まれています。もし信じることをやめて、すべてを疑っていったら、とても不自由な生活になってしまうでしょう。
 たとえば、今日は日曜日ですが、「本当は、礼拝はないのではないか」と疑ったら、皆さんはここに来ていなかったでしょうね。「関根は自分を牧師だと言っているけれど、嘘ではないか」と疑ったら、説教など聞いていられませんね。また、東京に行こうと思って駅に行っても、電車に「東京行き」と書いてあるのを疑って乗ろうとしなかったら、いつまで経っても東京に行くことはできませんね。また、せっかく美味しい食事を出してもらっても、怪しんで食べなかったら、空腹を満たすことはできません。
 差し出されたものや情報を信じ、行動し、結果を得ることを、私たちは日常生活の中で当たり前に行っているのです。神様を信じるのも、それと同じです。信仰とは、神様の情報を聞いて、信じて、それに基づいて行動し、結果を得ることなのです。

②信じる対象

 といっても、問題は、相手が信頼に価するかどうか、与えられた情報が本当に確かで信じられるものかどうかということですね。
 私は、よくインターネットで買い物をします。お店で買い物をするのと違って、実際に商品を触って確認してから買うわけではありません。でも掲載されている写真や説明を読んで、購入ボタンを押したら、すでにその商品を手に入れたことを疑いません。数日すると商品が送られてくるのです。
 しかし、問題は、売り主が信用できるかどうかです。もしそれが詐欺だったら、どんなにこちらが確信していても、商品は決して届きません。私は、しばらく前に恥ずかしながら、ネットオークションで詐欺にあったことがあります。何の疑いも持たずノート・パソコンを買ったんです。しかし、いつまでたっても送られて来ないのです。相手の住所と電話番号は全部でたらめで、結局、泣き寝入りするしかありませんでした。
 ですから、何でも信じればいいわけではありません。相手が真実でないなら、こちらがいくら信じても、虚しいだけですね。
 では、聖書の神様は、どうでしょうか。神様は「何が何でもわたしを信じろ」と無理強いしたり、脅したりする方ではありません。私たちが知性、感情、意志を用いて神様を信頼することができるように、様々な証拠や情報を与えてくださっています。自然や歴史を見ても神様の存在を知ることができますが、私たちが神様のことをよりよく理解出来るように神様は聖書を与えてくださいました。また、御子イエスを私たちのもとに送り、そのイエス様を通して、御自分がどのような方であるかを示してくださいました。
 神様は、愛と真実に満ちた方、赦しと恵みと祝福を豊かに与えてくださる方、私たちのありのままを愛し、私たちを尊い存在として守り、私たちの最善を願ってくださる方です。その神様に信頼して生きること、それが聖書の教える信仰なのです。
 私たちがすべきことは一つだけです。聖書が教えている神様がおられると信じるか、それとも、神様なんていないと信じるか、何か他のものを信じるか、つまり、何を信じるかを意志的に選び取って決めることなのです。

③信仰が保証するもの

さて、その信仰を持って生きるときに、どのようなことが起こるでしょうか。1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とありますね。
 これを少し言い直すと、「神様を信頼して生きるということは、永遠の希望(望み)を保証するものであり、神様の約束をまだ実際に受け取ってなくても確信させるものだ」ということです。
 ここで使われている「保証」という言葉は、「土台・基礎」と訳すこともできます。つまり、「信仰は、永遠の希望の土台となるものだ」ということなのです。
 神様は信頼に価するお方です。神様は約束したことを必ず成し遂げてくださる方です。ですから、神様の約束を信頼して生きるなら、その約束はまだ実際に受け取っていなくても、すでに私たちのものになっているのです。
宗教改革者のマルティン・ルターは、修道士であったとき、難行苦行に励んでいました。何とか自分の力で救いの確信を得ようとしていたのです。しかし、いつまでたっても救いを確信できません。かえって自分が惨めになるだけでした。ところが、ある日、彼が聖書のローマ人への手紙を読んでいたとき、そこに引用されていたハバクク書の「義人は信仰によって生きる」という言葉を目にしたのです。その言葉によって、彼の人生は百八十度変わりました。「人は、自分の努力や行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるのだ」ということを悟ったのです。
 神様を信頼しきって生きるときに、神様の救い、いやし、永遠のいのち、平安、喜びなど、聖書に書かれているすべての約束が保証され、今は、まだ目に見えていなくても、私たちは、それをすでに受け取ったものと確信して生きていくことができるのです。

2 神からの賞賛

次に、2節に「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」とありますね。
 旧約聖書の中に登場する信仰に生きた人々は、神様の救いが完成する時が必ず来るという約束を信じ、待ち望んでいました。しかし、実際に救い主イエスが来られたのを見ることはできませんでした。これまでずっと見てきたように、旧約の時代にあったのは、神様の臨在を表す幕屋や、そこで行われる儀式や、祭司たちでしたが、それらはみな、後に来る救い主を示す影にすぎなかったのです。また、旧約聖書の初期に登場する人々は、その影すら見ることができませんでした。しかし、彼らは失敗したり躓いたりすることもありましたが、神様が示してくださった将来の希望を見つめ、目に見えないものを確信し、神様に信頼して生きていったのです。
 「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」というのは、そのように、まだ見ていないものを確信して信仰に生きた人々こそ、称賛に価するのだ、ということなのですね。普通、私たちが称賛するのは、立派な功績をあげたり、優れたことを行った人たちですね。でも、この世で何の称賛を受けなくても、神様からの称賛を受ける人々がいるというのです。それは、神様を信頼して、神様の約束を確信して生きる人々です。
 これは、うれしいことですね。功績をあげたり偉業を成し遂げることは皆ができるわけではありませんが、神様を信頼することなら誰にでもできますね。赤ちゃんからお年寄りまで、強い人も弱い人も誰にでもできます。ということは、誰でも神様からの称賛を受けることができるということですね。
 自分で頑張る必要はありません。ただ、神様を信頼するだけです。信頼するからこそ、神様に向かって泣いたり、叫んだり、訴えたりする時もあっていいのです。でも、どんな時にも、神様の愛と真実を信頼し、神様の約束を確信し、希望をもって歩いていけばいいのです。

3 信仰によって悟ること
 
 次に、3節に「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と書かれていますね。
 「見えるもの」とは、この世界とその中にある被造物ですね。そして、「見えないもの」とは、神様のことばです。旧約聖書の創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した」とあります。そして、3節に「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」と記されています。神様は、ことばを発っすることによって、無から有を創造されたのです。
 それから、3節で「世界」と訳されている言葉は、「空間と時間の両面をもった世界」を意味する言葉です。つまり、神様は万物を創造した後は何もなさらないのではなく、初めから今に至るまですべての時代の背後に主権者として存在し、この世界を保っておられる方だ、ということなのです。
 このことは、私たち一人一人の生涯においても同じことが言えます。一人一人にいのちを授けてくださった神様は、「あとは勝手に生きなさい」と放り出すような方ではありません。いつも私たちの最善を願い、今も私たちのためにみわざを行ってくださるのです。
 そして、神様がこの世界を創造されたことを信仰によって理解し受け入れる時、私たちには、次のようなことがわかってきます。

①私たち一人一人の存在には意味がある

 神様がこの世界とその中のすべてのものを造ってくださったということは、私たちの存在も偶然の産物ではなく、神様が目的をもって造ってくださったということです。
 しかし、もしこの世界がすべて偶然が重なってできたと信じるのであれば、そこには、意味など存在しません。偶然なのですから。もし、私がこう説教したらどうでしょう。「皆さん、私たち一人一人は偶然の産物にすぎないのですから、人生の意味など求めることは無益です。何のために生きているのか、自分の存在には意味があるのか、などど考えるのは愚かなことです。人生には意味も目的もないのです。偶然存在し、偶然生きているのですから。」こんな説教を聞かされて、毎週教会に行こうと思う人は一人もいないでしょうね。人は皆、心の奥底で、人生の意味を探し求めているのです。
 聖書は、愛と真実に満ち、全知全能なる神様がこの世界とその中にあるものを意味と目的を持ってお造りになったと教えています。
 しばらく前ですが、ある教会で説教を頼まれました。私の説教の前に、一人の方が、どのようにクリスチャンになったのか、という話をしてくださいました。その方は、大手家電メーカーの営業部長をされていました。奥さんは、毎週日曜に礼拝に出かけるクリスチャンでした。しかし、ご主人は、仕事仕事の毎日で、一度も教会に行くこともなく、定年を迎えました。定年後は、時間があるわけですね。奥さんにこう言いました。「お前、こんどの日曜日は、教会まで車で送ってあげよう。」こうして、教会までの送り迎えが始まりました。そして、しばらくすると、「お前、一度でいいから教会の礼拝に来てほしいって言ってたな。今度、一度、行ってやろう。」そして、礼拝に出席したのです。ところが、奥さんは、その日の説教箇所にショックを受けてしまいました。創世記1章1節だったのです。「主人は、理屈っぽいから、『初めに、神が天地を創造した』なんて話を聞いたら、きっと、『馬鹿馬鹿しい。二度と教会には行かない』と言うのではないだろうか」と思ったのです。しかし、ご主人の反応は違いました。「今日は、いい話を聞いた。神様が世界を造り、俺の命さえも造られたなら、俺のこれからの人生にも意味があるに違いない。」こう言って、続けて教会に通うようになり、クリスチャンになって洗礼を受けられたそうです。
 神様が天地万物を創造されたということは、私たち一人一人の存在そのものにも意味があるということです。聖書は、「神は愛です」と書かれています。神様の本質は、愛です。そして、愛のあるところには、愛する対象が存在するのです。私たちは、神様の愛を受ける対象として、無条件でありのままを愛される存在として創造されたのです。

②神様の助けがある

いま、教会で毎週使っているこのプロジェクターが壊れたら、どこに持っていきますか。近くのスーパーに持っていきますか。いいえ、製造元に送ります。なぜなら、そこで造られたからです。製造元ならプロジェクターのすべてを知っていますから、どこが悪いのか調べて直すことができるわけですね。
 では、私たち自身に問題があったら、どこに行けばいいでしょうか。もちろん神様のもとに行くのが一番いいですね。私たを造ってくださった神様は、私たちのすべてをご存じなので、私たちに最も適切なことをしてくださるのです。
 詩篇121篇1節ー2節には、こう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」創造者なる方を信頼して生きることは、いつも最善の助けを受けることができるということでもあるのです。

③神様に委ねることができる

 私たちの人生にはいろいろなことが起こりますが、わからないこともたくさんあります。「どうして?」という問いは、生きている限り続くでしょう。この手紙の読者たちも、迫害や理不尽な仕打ちに悩まされていたようです。
 しかし、先ほどお話ししましたように、神様はこの世界の空間、時間のすべてを造り、支配しておられます。どんなことが起こっても、神様はすべて知っておられ、すべてが神様の御計画の内にあることを知ることは、大きな慰めです。
 だから、私たちは、神様に向かって祈ります。「神様、今はまだ私にはわからないことがたくさんあります。でも、あなたにお委ねしますから、あなたが最善をなさってください」と。何があっても私たちを愛してくださっている全知全能の神様に委ねることができるのは、すばらしいことですね。
聖書には、神様に委ねて生きることを勧める言葉がたくさん出てきます。
 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37篇5節)
 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」(詩篇55篇22節)
 「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16章3節)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5章7節)

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。私たちは、この世界が神様のことばによって造られたことを信じ、お互いの存在の価値を認め合いながら、永遠の助けを受けつつ生きています。そして、すべてのことを神様に委ねて歩んでいるのです。
次回からは、旧約聖書の人物が信仰によって具体的にどのように生きていったのかを見ていくことにしましょう。
最後に、11章1節をご一緒に読みましょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」