城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年八月六日             関根弘興牧師
                     ヘブル一一章四節
 ヘブル人への手紙連続説教23
    「信仰に生きた人々1」

4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(新改訳聖書)

 前回から11章に入りましたが、この11章全体のテーマとなる言葉が1節に書かれています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」これがテーマです。これを少し言い直すと、「神様を信頼して生きることは、永遠の希望を保証するものであり、神様の約束を、まだ実際に受け取っていなくても、確信させるものだ」ということです。このことは、前回もお話ししましたね。私たちは神様を信頼するからこそ、神様に向かって泣いたり、叫んだり、訴えたりする時もあります。しかし、どんな時にも、神様の愛と真実を信頼し、神様の約束を確信し、希望をもって歩いていけるのです。
 それから、2節に「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と書かれています。「昔の人々」、つまり、旧約聖書に登場する人物の中で、その信仰によって称賛される人々がいるのです。そこで、今日の4節からは、その人々を一人一人名を挙げながら紹介し、「信仰によって生きる」とはどういうことなのかを教えているのです。
 今日は、最初に名前が挙げられているアベルの姿を見ていきましょう。

1 カインとアベル

 アベルが登場するのは、創世記4章1節ー8節のほんの短い箇所だけです。アベルは、最初に神様に造られた人アダムとその妻エバの二番目の息子です。
 アダムとエバは、初めはエデンの園に住んでいました。神様は彼らに必要なものをすべて備えてくださっていましたが、一つだけ禁止命令をお与えになりました。それは「善悪の知識の木から実を取って食べてはならない、もし食べたら必ず死ぬ」というものでした。それは、善悪の判断は神様の領域にあるのであって、人が自分勝手に事の善悪を判断すべきではないということを意味していました。神様は、神様の言葉に従うかどうか選択する自由を人にお与えになったのです。もし神様の言葉を信じて従っていれば、いつも神様と共に何の不自由もなく生きることができました。しかし、神様の言葉に従わなければ、死が待っているというのです。
 ある時、誘惑する者サタンが蛇の姿でやってきて、アダムとエバに「この実を食べると目が開かれ、神のようになれますよ」と誘惑しました。また、「この実を食べても死にません。神は嘘をついているんですよ。あなたがこの実を食べて神のようになると困るからです」と神様を疑うように仕向けたのです。
 すると、アダムとエバは、誘惑に負けて、その実を食べてしまいました。その結果は、どうだったでしょうか。神のようになれたでしょうか。いいえ、彼らは、ただ自分たちの惨めな姿を知っただけでした。ありのままの自分を恥ずかしく思うようになり、神様に逆らった罪責感のために、神様を恐れて隠れるようになりました。神様との関係が破壊されたのです。また、「実を食べたのは、お前がそそのかしたせいだ」と互いに批判し合うようになりました。人間関係も傷ついてしまったのです。また、彼らは、エデンの園から追い出され、エデンの園にある「いのちの木」の実を食べることができなくなってしまいました。そして、厳しい労働によって食べ物を得なければならなくなったのです。
 エデンの園から追い出されたことは、神様との親しい関係が持てなくなり、永遠のいのちの実を得ることができなくなるという霊的な死を意味していました。そして、彼らはやがて肉体的な死も迎えなければならなくなったのです。
 「神のようになれる」というのは大きな誘惑ですね。神様の世話にならずに、自分の力で自分の人生を支配していきていこうというする誘惑はいつもあります。箴言18章12節に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」と書かれています。神のようになろうとする高慢は破滅をもたらすだけなのです。神様に造られた者として謙遜に生きることが大切さを聖書は繰り返し教えています。アダムとエバも厳しい生活の中で、神のようになろうとした愚かさ、神様の言葉に従うことの大切さを思い知ったことでしょう。
 しかし、神様は正しい裁きを行われる方であるとともに、愛に満ちた方でもあります。ですから、二人をエデンの園を追い出すときに、将来の希望を与えてくださいました。創世記3章15節で神様は誘惑した蛇にこう言われたのです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは、「エバから生まれる子孫の中から、サタンの頭を踏み砕く救い主が生まれる。サタンはその救い主に傷を負わせるが、救い主はサタンを滅ぼしてしまう」ということを示しています。
 ですから、アダムとエバは、子供が生まれることを待ち望んでいたでしょう。そして、いよいよ最初の男の子が生まれました。創世記4章1節にこうあります。「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た』と言った。」
 エバは、「主によってひとりの男子を得た」と言いました。赤ちゃんの誕生という出来事に神様の神秘的な創造のみわざを見た思いがしたのかもしれません。また、両親はこの子に「カイン」という名を付けました。「カイン」は「獲得」という意味です。「ひとりの男子を得た」というエバの言葉から付けられた名です。名前は、両親の希望や期待を込めて付けられることが多いと思います。私の名前は、父が神学校で学んでいる時に私が生まれたので、福音を「ひろめおこす」という意味を込めて「弘興」と付けたそうですが、アダムとエバは、この子に「カイン=獲得」という名前を付けたのです。相当期待していたのでしょうね。「この子が神様の約束された救い主かもしれない。この子は、私たちの希望の星になってくれるに違いない」と思ったのかも知れません。
 しかし、現実はどうだったでしょう。次の子供が生まれた時、その子には「アベル」と名を付けてるんですね。「アベル」という名前は、伝道者の書1章2節に「空の空」という言葉が出てきますが、この「空」と訳されている言葉と同じです。元来「息」とか「水蒸気」を意味する語ですが、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」「むなしさ」「ため息」を意味する言葉なんです。カインが生まれた時とだいぶ雰囲気が違いますね。カインが生まれた時は「遂に獲得したぞ」と威勢が良かったのに、成長するにつれて、どうもサタンの頭を踏み砕く救い主とは思えないような姿を目にしていったのでしょうね。「獲得」したぞと思ったけど、がっかりして、出るのは「ため息」ばかり、そこで、次に生まれた子には「アベル」と名付けたという感じですね。
 
2 神様へのささげ物

 二人の息子は成長し、カインは土を耕す者、つまり、農作物を収穫する者になり、弟アベルは、羊を飼う者となりました。
 彼らは、両親から一つのことを教えられて育ったようです。それは、「感謝をささげることの大切さ」です。アダムとエバは、神様から離れて生活するようになってから、いろいろな出来事の中で人間の弱さというものに気づいていったのでしょう。こうして生かされているのは、決して当たり前のことではない、と生活の中で知ったのかもしれません。自分たちの働きの背後に神様の支えがあるということへの感謝を表すために、神様にささげ物をささげて礼拝することを息子たちに教えていたのでしょう。
 それで、カインとアベルは、毎年ある時期になると、神様へのささげ物を持って来たのですが、そこでどのようなことが起こったのかが、創世記4章2節ー8節に書かれています。
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
 これを読んで、こう思う方がおられるかもしれません。「ちょっと、待ってください、神様。それはひどいじゃないですか。ふたりとも神様に感謝のささげ物を持って来たのに、神様は、アベルだけひいきして、カインを無視するんですか。カインが起こるのも無理ないですよ。」また、「神様は野菜より肉の方がお好きなのかな」と思ったりしますね。
 でも、皆さん、誤解しないでくださいね。神様は、肉好きなわけでもなければ、えこひいきをなさっているわけでもありません。
 第一サムエル15章22節にこう書かれています。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」また、第一サムエル16章7節には「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。
私たちの神様は、ささげ物そのものよりも、ささげる人の心をご覧になるお方です。カインは、神様にささげ物をしましたが、心に問題があったということです。
 創世記4章6節ー7節にこう書かれています。「そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」
 神様は、憤っているカインに「あなたが正しく行っていないから受け入れられないのだよ」と言われたのです。つまり、カイン自身の中に正しくない姿があったのですね。それがどのような姿なのか、聖書には詳しく書かれていませんが、おそらくカインは、ささげ物を持って来た時、心の中でこんな風に考えていたのではないかと思います。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから収穫できたんだ。神様は、何も手伝ってくれてないじゃないか。その上、この忙しい中、せっかくささげに来たのに、俺のささげ物にはいちゃもんをつけて、弟のささげ物だけ喜んで受け取るなんて、一体どういうことだ。まったく頭にきちゃうぜ!」
 カインは、すべて自分の力で得たのだと考えていました。実際にはその背後に神様の働きがあったのにもかかわらず、神様への感謝も賛美も失われてしまっていたのです。そして、神様にそういう自分の過ちを指摘されたのに、反省もせず、かえって内側に怒りと弟に対する嫉妬をあふれさせたのです。自分に問題があるのにもかかわらず、神様を批判し、弟を憎んだのですね。
 神様は、カインが怒ってふてくされている姿をご覧になり、「罪は戸口で待ち伏せしている」と警告されました。「その怒りと嫉妬を治めなさい。適切に処理しないと、だんだんエスカレートして、怒りと嫉妬に引きずられて罪を犯すことになってしまうのだ」と言われたのです。
 しかし、カインは神様の言葉に耳を貸そうとしませんでした。そして、弟アベルを野に連れ出し、殺してしまったのです。

3 アベルの信仰の姿

 では、アベルはどうだったでしょうか。
 イエス様は、マタイの福音書23章35節で、アベルのことを「義人アベル」と呼び、最初の殉教者として名前を挙げておられます。
 でも、聖書を読むと、アベルが特別に優れたことをしたとか、すばらしい功績をたてたなどということは何も書かれていません。ただ、最上の羊を神様にささげた、ということだけしか書かれていないのです。
 今日の箇所の4節に「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです」と書かれていますね。アベルが心から神様を信頼し、神様に感謝し、礼拝をささげていた姿を、神様は喜び、称賛してくださったのです。
 旧約聖書の一番最後の書物であるマラキ書には、神様を心から礼拝することの大切さが記されています。
 預言者マラキの時代は、どのような状況にあったでしょうか。 エルサレムがバビロニヤ帝国の攻撃によって廃墟と化し、多くの人が捕虜として捕らわれていってから、長い時間が経過しました。バビロニヤが滅んでペルシャ帝国の時代になると、捕虜になっていた人々は故郷に帰ることを赦されました。故郷に帰った人々は、ハガイやゼカリヤといった預言者たちの励ましを受けながら、廃墟になっていた神殿の再建工事を行い、様々な困難の末に遂に神殿を完成させたのです。
 彼らは喜び、こう考えました。「神様を礼拝する神殿を再建したから、こんどは、神様が私たちを祝福してくださるに違いない。これから私たちは、どんどん繁栄していくだろう」と自分勝手な将来像を抱いてしまっていたのです。
 ところが、どうでしょう。一向に繁栄の兆しは見えません。それどころか、周囲を見渡すと、神様を否定している人々が経済的に栄えているではありませんか。
 「せっかく力を尽くして神様のために神殿を建てたのに、神様は何にも見返りをよこさない、信仰なんてむなしい、礼拝したって何のメリットもないじゃないか。」そんなしらけたムードがいっぱいになってしまったのです。
 もちろん彼らは形式的には礼拝をささげていました。しかし、その中身は、アベルとは正反対でした。最上のものではなく、どうでもいいような、捨てられてしまうようなものをささげて礼拝をしていたのです。礼拝は形だけで、神様への感謝も賛美も失われていました。
 そんな人々に対して、マラキは、「心からの感謝を携えて真剣に神様を礼拝しよう。それが、あなたがたを立て直すことになるのだ」と呼びかけていったのです。
 ヨハネの福音書4章では、イエス様が、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女性の質問に答えて、こう言われました。
 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
 真の礼拝は、霊とまことによってささげられるものだ、というのですね。心からの誠実さが求められているのです。
 アベルは、信仰によってすぐれたいけにえをささげました。それは、神様を信頼しきって、今の自分の生活の背後に神様の守りと支えがあることを感謝し、自分ができる最上の礼拝をささげたということです。神様は、その心を喜んでくださるのです。

4 信仰者は語り続ける
 
 それから、今日の4節の最後に「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」と書かれていますね。
 アベルの生涯は、兄に殺されるという悲劇の生涯でした。しかし、神様は、この出来事を単なる悲劇で終わらせることはなさいません。神様の前に正しい人にとっては、死は終わりではない、なぜなら、「その信仰によって、今もなお語っている」からだ、というのです。
 私たちは、誰もが必ず死を迎えますが、良かれ悪しかれ何らかの影響を残していきます。
 私は説教者として毎週こうして語っていますが、私が死んだ後、何を語ることになるだろうかと考えることがあります。
 「関根牧師も信仰に生きることができたのだから、わたしも大丈夫」「関根牧師は礼拝をいつも楽しんでいたな。私もそうしよう」「恵みと真実にあふれているイエス様がいてくださるのだから安心して生きていこう」というふうに皆さんが思ってくださるでしょうか。
 私たちそれぞれが、生きている今も死んだ後も、イエス様の恵みの中で生きていくことがどんなに幸いか、ということを語り続けることができるような生涯を歩めたらといいですね。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」という生涯を、神様によって歩ませていただきましょう。