城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年8月13日            関根弘興牧師
                  ヘブル11章5節~6節
 ヘブル人への手紙連続説教24
    「信仰に生きた人々2」

 5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(新改訳聖書)

11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書かれています。これが11章のテーマです。
 そして、11章2節には、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と書かれています。昔の人々とは、旧約聖書に登場する人物たちのことです。彼らは、信仰に生き、まだ実際に見てはいないものを確信し、将来に希望をもって生きていた、そして、それが神様の称賛を受けたというのです。
 では、その旧約聖書の登場人物たちは、それぞれ信仰によってどのような生き方をしたのでしょうか。それが、4節から具体的に説明されています。
 前回は、まず4節のアベルについて学びました。創世記4章に登場するアベルの姿は、心からの感謝と賛美をささげつつ神様を礼拝することの幸いを教えてくれていましたね。
 今日は、エノクという人物について見ていきましょう。

1 エノクの生涯

 エノクが登場するのは、創世記5章22節ー24節です。
 まず、創世記1章から5章までの流れを簡単にご説明しますと、1章と2章には、神様が天地とその中のすべてのものをお造りになったことが書かれています。すべてが非常に良い状態で、人はエデンの園で神様と共に何不自由なく生活していました。ところが、3章で、アダムとエバが禁じられていた木の実を食べてしまい、神様との親しい関係が破壊され、エデンの園を追い出されて、罪と死に支配されるようになったことが書かれています。そして、4章では、アダムの息子カインが弟アベルを殺すという最初の殺人事件が起こりました。アベルは死に、カインはさすらい人となってしまうのです。その後、アダムに三番目の息子セツが生まれます。そして、5章には、アダム、セツの子孫の系図が、大洪水で有名なノアまで記されているのですが、その中にエノクの名も登場するのです。
 この創世記5章の系図を見ると、登場人物が今では考えられないほどの長寿なので驚きます。たとえば、アダムは九百三十年、セツは九百十二年、エノシュは九百五年生きたと書かれています。
 こういう箇所を読むと、「これはどういうことだろう」といろいろなことを考える人が出てくるわけです。「当時の年数の数え方は今と違うのではないか」とか、「人によって一年の長さの基準が違うのではないか」と考える人もいます。また、「当時は地球の環境や空気中の酸素濃度などが今と違っていて長生きができたのではないか」とか、「遺伝子がまだ劣化していなかったので長生きができたのではないか」と考える人もいます。
 しかし、私たちは寿命の長さに関してはあまり詮索する必要はありません。それよりも、この系図には、普通の系図に含まれることのない独特な表現が繰り返し出てくるのです。それは、「こうして彼は死んだ」という表現です。普通、系図に「彼は死んだ」と記すことはありませんね。当たり前のことだからです。しかし、創世記5章の系図には、一人一人について「〇〇は何年生き、こうして彼は死んだ」とわざわざ繰り返し丁寧に記されているのです。
 ある聖書学者は、この創世記5章を「弔いの鐘が鳴っている」と表現しました。つまり、この系図は、「人はどんなに長寿であったとしても、最後には死という現実に直面しなければならない」ということを表しているわけです。3章で犯した罪の結果が4章の殺人や5章の系図に表されているのですね。
 しかし、その系図のなかで、エノクだけは、こう書かれているのです。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
 エノクは、「死んだ」のではなく、「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」というのです。これは、どういうことでしょうか。エノクについて詳しく見ていきましょう。
 エノクの一生は三百六十五年でした。「メトシェラを生んで後、三百年、神と共に歩んだ」と書かれていますから、六十五歳で跡継ぎ息子のメトシェラが生まれたということですね。もしかしたら、そのメトシェラの誕生がエノクの人生に大きな影響を及ぼし、その結果、その後の三百年を神とともに歩んだということかもしれません。あるいは、メトシェラが生まれる前から神とともに歩んでいて、メトシェラが生まれた後も神とともに歩み続けたということかもしれませんが、いずれにせよ、エノクは「神と共に歩んだ」のです。
 エノクの一生は三百六十五年でしたが、これは、創世記5章の系図の中では最も短命です。最も若くしてこの世からいなくなったのがエノクだということです。
 少し想像して見てください。この系図の平均寿命を考えると、三百六十五歳のエノクは、まだまだ働き盛りだったでしょう。一家の大黒柱として、なすべき仕事は山ほどあったでしょう。それなのに、突然この世から取り去られ、いなくなったのです。 人々は「エノクは短い生涯だった。可哀想に」と思ったかもしれません。
 しかし、聖書は「神が彼を取られた」というのです。へブル人の手紙の今日の箇所には、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました」と説明されていますね。エノクは「死を見ることがなかった」というのです。つまり、エノクの生涯は、「信仰に生きることは、死を乗り越える永遠の希望がある」ということを、後の時代の人々に教えるものとなっているのです。

2 神とともに歩むとは

 では、「エノクは神とともに歩んだ」と書かれていますが、「神とともに歩む」とは、どういう意味でしょうか。
 旧約聖書は、もともとヘブル語で書かれていますが、紀元前三~一世紀の頃に、へブル語が理解出来ないユダヤ人や改宗者のために当時の国際語であるギリシャ語に翻訳されました。それが「七十人訳聖書」と呼ばれているものです。
 このヘブル人への手紙では、旧約聖書を引用するときに、この「七十人訳聖書」を使っています。それで、創世記5章の「エノクは神とともに歩んだ」という箇所は、このへブル人への手紙では、「エノクは神に喜ばれた」という表現になっているのです。つまり、「神とともに歩む」とは、「神に喜ばれる」と同等の意味があるということなのですね。
 「神様に喜ばれる」と聞くと、皆さんは、どんなイメージを持ちますか。神様に喜ばれるためには、立派なことをしたり、非の打ちどころないクリスチャンにならなければならないのではないか、と思う方もおられるかもしれませんね。
 しかし、今日の箇所の6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書かれています。神様への信頼がなければ、神様と共に歩もうとは思いませんね。この箇所で、神様に喜ばれるために必要なのは、「信仰」だとあります。信仰、つまり、神様への信頼に生きることが、神様に喜ばれ、神様とともに歩むことなのです。
 エノクの生涯には様々な困難もあったでしょう。疑いも不安も思い煩いも悩むこともあったことでしょう。しかし、そんな中でも、エノクは神様を信頼し続けたのです。そして、神様はその姿を喜び、エノクを支え、死さえも乗り越える永遠の希望へと移してくださったのです。
ところで、たびたび礼拝でお話ししていますが、信仰に生きる姿には二つの側面があることをいつも覚えておいてください。
 一つは、私たちが自分の意志を用いて、「神様、あなたを信頼します。信じます」と告白しつつ生きる姿です。
 もう一つは、讃美歌の歌詞にもあるように「主が私の手を取ってくださる」と信頼する姿です。私が神様の手を握っている以上に、神様が私の手をしっかり握ってくださっている、ということを信頼するのです。
 ですから、自分の意志を用いて信じて歩み続けるとともに、神様が「わたしはあなたを離さず見捨てない。あなたの存在はわたしの喜びだ」と呼びかけてくださり、私たちの手を握りしめてくださっていることを信頼して喜びつつ生きるのが、聖書の教えている信仰の姿なのです。

3 何を信じるか

 それから、6節の後半に、こう書かれています。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
 ここで、二つのことを信じなければならない、と説明されていますね。

①神がおられること

一つは、「神がおられること」です。
 聖書は、神がいるか、いないかというの議論は一切しません。最初の一行目から「初めに神が天と地を創造した」と記されている通り、神様の存在は初めからの大前提となっています。
 しかし、「聖書に書いてあることは作り話だ」「神なんかいるはずない」「この世界は偶然に進化してできたのだ」と思う人はたくさんいますね。「神を信じるなんて科学的でない」という人もいます。しかし、私たちは、皆、何かを信じて生きているのです。「私は無神論です」という方は、「神はいない」ということを信じているわけですね。私たちは、皆、何かを信じて生きていることに変わりはありません。ですから、私たちがすべきことは、何を信じて生きるかを選び取ることなのです。
 聖書は、神様がおられることは、様々な方法で私たちに示されているのだから、神がおられることを信じなさい、と勧めています。
 今日、ここにいる皆さんのほとんどは、神様がおられることを信じているでしょうね。しかし、それだけでは十分ではありません。問題は「神様はどこにおられると信じているか」です。
 神の存在を信じている人々の中にも、いろいろな考え方があります。「神は、この世界を造られたあとは、もうこの世界にかかわらないで、放っておかれるのだ」という人もいます。また、「神は、遠く離れた場所にいて私たちを眺めておられるのだ」という人もいます。
 では、聖書は何と教えているでしょうか。
 聖書の中にも、「神様がおられるのはわかっているけれど、神様はいったいどこにおられるのか」という疑問を抱いた人々が登場します。
 たとえば、詩篇10篇の作者は、「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか」と叫びました。「神様は遠く離れた所におられ、私が苦しんでいてもなにもしてくださらない」と感じていたのですね。
 旧約聖書の最も代表的な預言者はエリヤです。エリヤは、神様の命令に従って様々な奇跡を行いました。また、当時イスラエルの王であったアハブやその妻イゼベルが異教の神バアルを礼拝していることをあからさまに非難し、バアルに仕える預言者たちと対決し、彼らを一掃しました。しかし、そのことを猛烈に怒った王妃イゼベルがエリヤの殺害を企てると、エリヤは恐れて荒野に逃げ出しました。そして、途中で燃え尽き症候群のような状態になってしまったのです。彼は、自分の死を願って言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。」と。
 神様は、そんなエリヤを昔モーセが十戒をさずかったホレブ山に導かれました。エリヤは、山のほら穴の中で意気消沈していました。しかし、その時、どんなことが起こったでしょうか。第一列王記19章11節ー12節に、こう書かれています。「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 」
不思議なことが書かれていますね。聖書の中では、嵐や雷や地震は、神様が圧倒的な力をもってお語りになる時の印としてしばしば現れます。しかし、この箇所では、そういうものの中には主はおられなかった、というのです。そして、そういうものが過ぎ去ったあとに「かすかな細い声があった」と記されています。「かすかな細い声」とは、耳打ちするような声です。心を静めなければ聞くことのできない声です。
 エリヤは、「私一人が孤軍奮闘しているけど、もうこれ以上は無理だ。私は孤独で、誰も助けてくれない」と思っていました。しかし、神様は、そんなエリヤに、まるで耳打ちして聞かせるように語りかけてくださったのです。「エリヤ、あなたは孤独だと思っているかもしれないがそうではない。わたしはイスラエルの中にあなたと同じ信仰に生きる七千人を残してある」と語られたのですね。エリヤは、最も孤独で落ち込んでいるときに、神様がすぐかたわらにいてくださることを知ったのです。
私たちは、物事が順調なときは神様が共にいてくださると思えるのですが、困難や失望の中にあるときは、神様が遠く離れた所におられ、何もしてくださらないと感じてしまうことがありますね。神様は私の問題などどうでもいいのだ、私を見捨てられたのではないかと思ってしまうのです。しかし、神様は、いつもともにいて、私たちのささいなことにも関心を持ち、私たちの生活のただ中に愛と真実をもって働いてくださいます。そういう神様がおられることを、私たちは信じていくのです。

②神は報いてくださる方であること

そして、もう一つ信じなければならないのは、「神は、神を求める者には報いてくださる方である」ということです。
 この「報いてくださる」というのは、「給料を支払う」「報酬を与える」という意味の言葉です。私たちが神様に信頼して求めるなら、神様は約束した通りの恵みや祝福を必ず与えてくださるというのです。
しかも、神様は、私たちの能力や功績に応じて報酬を変えたりはなさいません。
 マタイの福音書20章で、イエス様は、ぶどう園で働くために雇われた労務者のたとえ話をなさいました。
 ぶどう園の主人が朝早くと九時と十二時と三時と五時に労務者を雇いました。夕方、仕事が終わると、主人は雇った人たちを集めて賃金を支払ったのですが、朝早くから働いた人にも夕方五時からほんの少しだけ働いた人にも全員に同じ一デナリの賃金を支払ったのです。この主人は、雇う時に一日一デナリという約束をしたので、働いた時間の長さに関わらず全員に約束通り同じ賃金を支払ったのです。主人は、「私は、全員に同じように報酬を上げたいのだ」と言いました。
 この主人の言葉は、神様の心を表しています。神様も、私たちが立派であるかどうかとか、どんな功績を上げたかどうかに関係なく、全員に同じように豊かな報いを与えたいと願っておられるのです。
 では、私たちが信仰によって受け取る最大の報いは何でしょうか。
 前回もお話ししましたが、神様がエデンの園で「善悪の知識の木の実を取って食べるなら、あなたは必ず死ぬ」と警告なさっていたのに、アダムとエバはその言葉を信頼せず、その実を食べてしまいました。その結果、死に支配されるようになってしまったのですね。ローマ人への手紙6章23節に「罪から来る報酬は死です」とあるように、神様の言葉を信じないで神様に背き、神様から離れてしまった罪の報酬は、死なのです。ですから、創世記5章の系図には、「こうして彼は死んだ」という言葉が繰り返されているわけですね。
 もし、聖書が「人生とは何年生きようが結局死んでおしまい」と教えているだけなら、そこには何の励ましも慰めも希望もありませんね。
 しかし、この系図の中に一人だけ、死に支配されることのなかったエノクの姿が記されています。エノクは、罪の報酬である死ではなく、信仰の報酬を受けたのです。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と書かれていますが、これは、信仰によって死を乗り越えることのできる永遠のいのち、いつまでも神とともに生きることのできるいのちを受けることができたということを表しているのです。
 罪には、赦しが必要です。そして、死に対しては、尽きることのないいのちが与えられることが必要です。それなしに真の解決はありません。しかし、人は自分でいくら努力しても罪の赦しを得ることも、死を乗り越えることもできないのです。  そこで、神様は、罪のゆるしと永遠のいのちを与えるために、神の御子であるイエス様を私たちのもとに送ってくださいました。 
 第二コリント5章21節に、こう書かれています。「神は、罪を知らない方(イエス様)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」神の本質をもっておられるイエス様が、私たちと同じ人となり、私たちの身代わりに十字架にかかり、すべての罪の罰を受けてくださったので、私たちの罪が赦される道が開かれました。また、イエス様は、死に打ち勝って三日目に復活され、私たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。
 イエス様は、ヨハネの福音書11章25節で、こう約束してくださいました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」イエス・キリストを信じることによって、肉体は死んでも、なお永遠のいのちに生きる、という報いが与えられるのです。それは、信じるすべての人に与えられる報いです。もし、イエス・キリストを信じて生きる一人一人の系図を記すとしたら、「〇〇は神とともに歩み〇〇年生き、そして死んだが、今も生きている」となるのですね。
 信仰によって生きたエノクの生涯は、後にイエス・キリストによって成就する罪のゆるしと永遠のいのちの約束を予め示すものであり、神とともに歩むことの素晴らしさを私たち教えてくれています。だからこそ、エノクは、信仰によって神に称賛された信仰者のリストに名を連ねているのですね。
 私たちも神がおられること、そして、神を求める者には報いてくださる方であることを信頼して、神様とともに歩んでいきましょう。