城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年9月3日             関根弘興牧師
                ヘブル11章17-19節
 ヘブル人への手紙連続説教27
    「信仰に生きた人々5」

 17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(新改訳聖書)

 繰り返しお話ししていますが、この11章のテーマは、1節にある「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ということです。信仰に生きるとは、見えるものを頼みとするのではなく、まだ見ていなくても、主の約束を確信して生きることです。
 また、6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書かれていましたね。これは、「神様への信頼なくして、どうして神様と共に歩むことができるでしょうか。私たちが神様に信頼して神様とともに歩むことが、神様の喜びなのです」ということです。
 そして、この11章には、実際に信仰に生きた旧約聖書の人物たちの姿が記されています。この手紙の記者は、困難な中で動揺している当時のユダヤ人クリスチャンたちに、「あなた方が慣れ親しんでいる旧約聖書の登場人物たちの姿をもう一度思い起こしなさい。彼らと同じように、神様の約束を信頼して生きていきましょう」と励ましているのです。
 先週は、ユダヤ人たちがもっとも尊敬している彼らの父祖アブラハムの信仰について学びました。アブラハムは、神様の導きに従って生まれ故郷を出るという大きな決断をしました。また、神様がアブラハムに「見渡す限りの土地があなたの所有になる」という約束と「あなたの子孫は空の星や海辺の砂のようにふえる」という約束をしてくださいました。アブラハムは、自分が生きている間にその約束が実現するのを見ることはできませんでしたが、神様が必ず約束通りのことをしてくださると信じたのです。
 さて、今日は、そのアブラハムの生涯の中で最も重大な出来事、一人息子のイサクを神様にささげるということを通して、信仰に生きるとはどのようなことなのかを考えていきましょう。

1 一人息子イサク

 前回お話ししたように、神様はアブラハムに「あなたの子孫はおびただしくふえる」と約束してくださっていましたが、アブラハムとサラの夫婦にはなかなか子供ができませんでした。二人とも年を取り過ぎていて、これから子供を産むことは不可能に思われました。ですから、アブラハムは、自分に仕えている優秀な奴隷を養子にしようかと考えたり、当時は妻が不妊の場合は妻の女奴隷に代わりに子供を産ませるという習慣がありましたから、その習慣に従ってサラの女奴隷ハガルに息子を産ませたこともありました。しかし、アブラハムが九十九歳になった時、神様は、こう仰せられたのです。「わたしは全能の神である。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす。来年の今ごろサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。そのイサクと、わたしの契約を立てる。」アブラハムとサラは、最初はその神様の言葉が信じられず、思わず心の中で笑ってしまいました。しかし、神様は真実な方だから約束通りにしてくださるだろうと徐々に信頼していったのです。そして、ついに待望の息子が誕生しました。イサクです。それは、なんと興奮に満ちた嬉しい出来事だったことでしょう。神様は、「このイサクから出るものが、あなたの子孫と呼ばれ、おびただしくふえていくのだ」と約束されたのです。ですから、神様の約束の実現はすべてこの一人息子にかかっていたわけですね。アブラハムは、これからイサクの子孫がどんどんふえていくのだ、と思ったに違いありません。

2 信仰の試練

 しかし、イサクが少年になった時のことでした。アブラハムは、人生で最も大きな試練に直面します。それは、創世記22章に書かれています。
 神様は、アブラハムにこう命じられたのです。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
 全焼のいけにえとは、すべてを焼き尽くすささげものということです。アブラハムの苦悩がどれほど大きかったか、想像することもできません。普通、いけにえとしてささげられるのは動物です。異教の神モレクに幼児をいけにえとしてささげるという大変忌まわしい儀式が行われていたことが聖書に記録されていますが、それはいつも非難の対象でした。聖書の神様が子供をいけにえとしてささげよと命じられるなどいうのは、普通なら決してありえないことだったのです。それなのに、アブラハムは、息子を全焼のいけにえとしてささげなさい、と言われたのですから、どれほど大きな葛藤と混乱があったことでしょう。神様は、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていたのに、そのイサクを全焼のいけにえとしてささげよというのは、全くの矛盾ではないか、考えれば考えるほど、わからなくなったに違いありません。
創世記22章には、「神はアブラハムを試練に会わせられた」と書かれています。また、今日の箇所には、「アブラハムは、試みられたとき」とありますね。つまり、神様は、アブラハムの信仰を試すために、このような命令をなさったというのです。
 では、神様は、アブラハムを苦しめるために、こんな残酷な試練をお与えになったのでしょうか。そうではありません。神様は、愛と真実に満ちた方で、いつも私たちの最善を願っておられます。だからこそ、私たちが成長し、より良く生きていくことができるように、時には試練を課し、訓練されるのです。
 前回お話したように、神様は、アブラハムに「生まれ故郷を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」とお命じになりましたね。これは、本気で神様に信頼して生きていこうとするか、ということを問う大きな試みでした。信仰に生きることには、少しばかりの勇気と冒険心が必要なのですね。そして、今日の箇所では、神様は、アブラハムが自分の最も大切なものさえもささげるほどに神様を信頼できるか、ということを試みられたのです。
 アブラハムは葛藤の末に、神様の命令に従う決心をし、イサクを連れてモリヤの山に出かけていきました。そして、山の上に祭壇を築き、イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上にイサクを置きました。そして、刀を取ってイサクをほふろうとしたのです。そのとき、神様がアブラハムの名を呼び、こう言われました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは、その雄羊をイサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげました。
 このようにして、アブラハムは、神様にささげたイサクを取り戻したのです。
 このアブラハムの姿は、信仰に生きるために大切なことを教えています。

①握った手を離す

 何かを受け取るのに、手を握ったままでは受け取ることができませんね。私が子供の頃、「ジャングル・ドクター」という絵本をよく読みました。いろいろな動物たちの姿を通して聖書の真理を教える絵本です。その中に、少し欲張りのサルの話が出てきます。ある時、サルがおいしい食べ物の入った壺を見つけました。その壺をのぞくと、もうよだれが出そうです。サルは、その壺に手を入れて中の食べ物をわしづかみにし、壺から出そうとするのですが、食べ物を握った手が壺の入り口に引っ掛かって抜けません。だからといって、手を開くと食べ物が落ちてしまう、大きなジレンマですね。そうこうしているうちに、人間に捕まってしまう、という内容なんです。握ったものを決して放さないことが、結局、自分自身に良くない結果を招くことになるということを教えているわけですね。
 これは、私たちの人生に大切なことを教えています。私たちがいつまでも何かを握りしめていると、逆に不自由になるというわけですね。確かに、私たちは、いろいろなものに固執し、執着してしまうことが多いですね。
 アブラハムは、一人息子のイサクを心から愛していたでしょう。しかし、親が息子を握りしめ続けていることは、決してよい結果にはなりません。息子を神様にお任せする勇気があるかどうか、それを神様は試されたのですね。アブラハムは、握った手を離し、その結果、イサクを自分のものとしてではなく、神様から託された者として、取り戻すことができたのです。

②約束は成就すると信じる

さて、今日の箇所の19節には、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」とありますね。
イサクは、神様の約束によって生まれた子どもです。そして、神様は、イサクの子孫が星のようにふえると約束してくださっていました。でも、もしここでイサクが死んでしまったら、約束は成就されませんね。そこで、アブラハムは、自分がイサクを全焼のいけにえとしてささげた後に、神様はイサクをよみがえらせてくださると信じたのだというのです。
 アブラハムがイサクとモリヤの山に行くとき、家の若いしもべたちも一緒でした。家を出て三日目にモリヤの山が見えてきたとき、アブラハムは、そのしもべたちにこう告げました。「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と。つまり、イサクと一緒に戻って来ると言ったのです。
 ローマ人への手紙4章17節には、アブラハムが神様をどのような方だと信じていたかが記されています。「彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」と書かれています。アブラハムは、神様が死者を生かすことのできる方、無から有を創造できる力のある方だということを信じ、その神様がイサクの子孫をふやすという約束を必ず成就してくださると信じて、イサクをささげたのです。
 
③主が備えてくださる

アブラハムとイサクはモリヤの山に行く途中、イサクは、まだ自分がいけにえになることを知らなかったので、「お父さん、火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか」と尋ねました。すると、アブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えました。その時は、アブラハムはイサクがいけにえの羊なのだと思っていたのでしょう。
 しかし、実際に、神様は、イサクの代わりとなる雄羊を備えてくださっていました。アブラハムは、イサクの代わりにその雄羊をささげ、その場所を「アドナイ・イルエ」と名付けました。それは、「主が備えてくださる」という意味です。
 イサクをささげるというのは、アブラハムにとっては人生最大の信仰の試練でした。しかし、その試練を経て、神様は必要なものを備えてくださる方であることを経験することができたのです。
 神様は、時々、私たちの信仰の本気度を試されることがあります。しかし、かならず、必要な備えもしてくださっているのですね。神様が、私たちに試練を与えるのは、その試練をとおして、私たちがさらに自由になり、さらに主の恵みを知るこことができるようになるためです。私たちは、自分で握っていないと失ってしまうのではないかと心配することが多いですが、神様にささげてお任せするほうがさらに豊かな恵みを得ることができるということを覚えましょう
 マタイの福音書7章9節ー11節で、イエス様はこう言っておられます。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいというのに、だれが石をあたえるでしょう。子が、魚を下さいというのに、だれが、蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもによい物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないはずがありましょう。」
 また、マタイ6章33節では、こう言っておられます。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは(必要なもの)すべて与えられます。」 神様が備えてくださることを信頼して、自分の握っているものをささげていきましょう。
 
3 この出来事が示すこと

さて、19節に「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」とありますね。
 この「型」という言葉は、「比喩」という意味があります。
旧約聖書に記されている出来事や物事の中には、将来起こる大切なことを予め比喩的に示しているものがたくさんあって、それを、神学用語では「予型」と言っています。
 たとえば、このヘブル人への手紙で以前に学びましたが、旧約時代の幕屋や祭司や罪を贖うためにささげる動物のいけにえなどは、将来明らかになる本物を予め示す模型であり、後に来るすばらしいものの影だと書かれていましたね。
 では、その「本物」とか「後に来るすばらしいもの」とは何でしょうか。それは、イエス・キリスト御自身とその救いのみわざのことです。救い主イエスが実際に来られたのは新約聖書の時代ですが、それ以前の旧約の時代にも、救い主のことがいろいろな型によって示されていたのです。
 今日のアブラハムがイサクをささげた出来事も、そのような型の一つだというのですね。では、この出来事は、どのようなことを示す型となっているのでしょうか。

①神の愛

 まず、アブラハムが大切な愛する一人息子のイサクをささげたことは、神様が私たちの罪の赦しのために御子イエス様を十字架につけてくださったことを示す型となっています。
 愛する息子イサクをささげる時、アブラハムは非常な苦悩と葛藤を味わいましたが、神様も愛する御子を十字架につけることは非常に大きな痛みだったことでしょう。しかし、神様は、それほど大きな犠牲を払ってまで、私たちを救おうとしてくださいました。そこに神様の大きな愛を知ることができるのです。ヨハネの福音書3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は、神様がどれだけ私たちにを愛し、私たちのために大きな犠牲を払ってくださったかということを表しているのです。

②キリストの従順

一方、息子のイサクはどうだったでしょうか。イサクは、たきぎを背負って山に登れるぐらいですから、かなり成長して体力もあったでしょう。自分がいけにえになることに抵抗することもできたはずです。しかし、最後まで父アブラハムに従順に従っていました。そのイサクの姿は、神様のみここに従順なイエス・キリストの姿を示しています。
 ピリピ2章6節ー8節にこう書かれています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

③神の小羊

 アブラハムがイサクをほふろうとしたとき、神様はアブラハムを止めて、イサクの代わりとなる雄羊を備えてくださいました。その雄羊を見たとき、アブラハムはどれほど安堵し、喜んだことでしょう。
 ヨハネの福音書8章56節で、イエス様は「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」と言っておられます。ある聖書学者は、「これは、アブラハムが雄羊を見たとき、後の時代に人に代わってほふられるキリストの姿を垣間見たということなのだ」と解説しました。
 イサクを死者の中から取り戻すために、神様は、イサクの代わりとなる雄羊を備えてくださいました。そして、私たちを死からいのちへと取り戻すために、神様は、私たちの身代わりとなるイエス様を備えてくださったのです。
 バプテスマのヨハネは、イエス様が来られたとき、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。それは、イエス様が私たちの代わりにいけにえとなって御自身を十字架でささげてくださったからです。そして、イエス様は、三日後によみがえり、私たちに死を打ち破るいのちを与えてくださったのです。
 ですから、モリヤの山で備えられた雄羊は、神の小羊であるイエス様を示す型だということなのです。

 アブラハムは、信仰によってイサクを死者の中から取り戻しました。この出来事は、当時、迫害に苦しんでいたこの手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンたちに大きな励ましを与えたことでしょう。信仰に生きることは、死んだような状態からいのちを取り戻すことであり、絶望や失望の状態から希望と勇気を取り戻すことです。
 アブラハムは、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じました。今日、私たちも同じように告白しようではありませんか。「私が信じる神様は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方です」と。
 今週もこの神様を信頼しながら、歩んでいきましょう。