城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年9月10日            関根弘興牧師
                ヘブル11章20節ー22節
 ヘブル人への手紙連続説教28
    「信仰に生きた人々6」

20 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。(新改訳聖書)

 ヘブル書11章は「信仰とは何か」ということを教えるもので、11章1節は、この章の大見出しのようなものです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とありますね。そして、旧約聖書の人物を一人一人紹介しながら、信仰に生きるとは具体的にどのようなことなのかを記していくわけです。
 前回は、イスラエル民族の父祖であるアブラハムが、その生涯で味わった最も大きな信仰の試練についてお話ししましたね。 アブラハムには子供がいませんでしたが、もう子供はできないと思われた九十九歳の時に、神様は「来年の今頃あなたに息子が生まれる」と約束してくださいました。そして、アブラハムが百歳のとき、待望の息子イサクが生まれたのです。アブラハムはイサクを溺愛していたでしょう。しかし、イサクが少年になった時、神様はアブラハムに信仰の試練をお与えになりました。それは、「息子イサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげよ」というものでした。神様は、以前からアブラハムに「あなたは祝福の基となり、あなたの子孫は空の星や海辺の砂のようにおびただしくふえる」と約束されていました。しかも、その約束は、イサクとその子孫によって成就するのだ、と言われたのです。それなのに、イサクを全焼のいけにえとしてささげてしまったら、神様の約束はどうなってしまうのでしょうか。
 アブラハムは、「神様はどうしてこんなことを命令されるのだろう」と苦悩し葛藤しました。しかし、最後にすべて神様にゆだねて従う決心をしたのです。19節に「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」と書いてあるように、アブラハムは、神様はイサクをよみがえらせる力がある方だと信じたのです。アブラハムはイサクをしばり、祭壇の薪の上に載せ、刀をとってイサクをほふろうとしました。その時、神様がこう言われたのです。「その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」そして、イサクの代わりにいけにえとしてささげる雄羊を備えてくださったのです。アブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ」(主は備えてくださる)と名づけました。
 この出来事から、私たちも大切なことを学ぶことができます。どんなに大切なものでも、自分で握りしめているのではなく神様の前で、握った手を開くのです。その時、神様は、再びそのものを託し、必要を備えてくださるのです。
 アブラハムも神様の言葉に従うことの大切さを改めて知り、また、神様が約束されたことを成就してくださる方だということをさらに確信することとなったのです。
 そして、神様がアブラハムにお与えになった祝福の約束は、アブラハムからその息子のイサク、イサクからその息子のヤコブ、そして、ヤコブからその息子のヨセフへと受け継がれていくことになりました。
 今日は、そのイサク、ヤコブ、ヨセフの信仰から学びましょう。それぞれの生涯については、創世記に詳しく書かれていて、イサクもヤコブもヨセフも様々な経験をしたことが記録されています。しかし、面白いことに、このヘブル人への手紙の今日の箇所では、死が迫った時に彼らがどのような行動をとったのか、ということだけを取り上げているのです。そして、イサクもヤコブもヨセフも、自分の生きている間に見ることはできなかったけれども、神様の約束が将来必ず実現するということを確信していたというのです。
 一人一人について詳しく見ていきましょう。

1 イサク

 イサクの生涯を見ていくと、イサクは「アブラハムの祝福を受け継ぐ者」であり、その特徴は「従順」だと言うことができるでしょう。
ある時、神様は、イサクにこう言われました。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」また、こう言われたこともあります。「わたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」
 つまり、アブラハムの信仰によって、アブラハムの息子であるイサクに同じ約束と祝福が与えられたわけですね。
 イサクは、その約束と祝福を従順に受け取り、与えられた環境に適応して生活し、特別な野心を持つこともなく、周囲と争わず、平和を愛する人でした。
 イサクは、父アブラハムと同じような生活をし、また、同じような失敗もしました。
 イサクの父アブラハムは、一時期、ゲラルという土地に移り住んでいたことがありました。その時、妻のサラが美しいので、ゲラルの人々がサラを奪うために自分を殺すかも知れないと恐れ、サラを自分の妹と偽っていました。しかし、ゲラルの王がサラを召し入れると、神様は、王の夢の中で「サラは、アブラハムの妻なのだから、返さないと災いが起こる」と警告なさいました。そこで、王はアブラハムにサラを返し、さらに、多くの家畜や奴隷や銀を与え、アブラハムの好きな所に住まわせたのです。アブラハムが嘘をついて自己保身をしたのに、神様はそれを軌道修正し、かえって祝福してくださったのですね。
 これと同じような出来事がイサクにも起こりました。ある時、イサクの住んでいる地域で飢饉が起こり、イサクもゲラルの地に移り住んだのです。その時、イサクも妻リベカが美しかったので、自分が殺されることを恐れて、リベカを妹だと偽っていました。しかし、そのことがまもなく知られてしまいました。すると、ゲラルの王は、「この人の妻に触れてはならない」という命令を出し、イサクたちを保護したのです。もしかしたら、以前のアブラハムの出来事がこの地方で言い伝えられていたのかもしれませんね。イサクはその地に種を蒔き、多くの収穫を得、多くの家畜やしもべを所有するようになりました。神様が祝福してくださったからです。
 すると、面白くないのがその地域の人々でした。彼らは、イサクを妬み、イサクの井戸に土を満たしてふさいでしまいました。また、王も、これ以上問題が起こるのを恐れ、イサクに「出ていってくれ」と退去命令を出したのです。
 イサクは、素直にそこを去り、ゲラルの谷間に天幕をはって生活を始めました。そして、以前アブラハムが掘った井戸を掘り返し、父の時代と同じ名を付けました。また、湧き水の出る井戸を見つけました。しかし、その地方の羊飼いたちが「この水はわれわれのものだ」と主張し、イサクの羊飼いたちと争いが始まりました。そこで、イサクは別の場所に移ってまた井戸を掘りました。しかし、そこでも争いが起こったので、イサクはまた別の場所に移って井戸を掘り、そこには争いがなかったので、そこで生活を始めたのです。
 イサクは、争いになると身を引き、自分がせっかく掘った井戸をあっさり手放し、また新たな井戸を掘る労力を惜しみませんでした。平和を愛する勇気をイサクは持っていました。そして、そんなイサクを神様は豊かに祝福してくださったのです。
 その姿を見たゲラルの王は、イサクのもとに人を送ってこう申し出ました。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」これは、平和条約を結びましょう、ということです。彼らは、イサクの背後に神様がおられ、神様がイサクを祝福しておられることをはっきりと見ていたのですね。イサクは、相手に手向かわずして勝利したのです。
 さて、アブラハムと同じようにイサクにもなかなか子供が生まれませんでしたが、イサクが六十歳になったとき、双子の男の子が生まれました。兄エサウと弟ヤコブです。二人は、成長し、エサウは猟師、野の人となりました。今でいうならアウトドア派ですね。ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいたと書かれています。イサクはエサウの猟の獲物を好んでいたのでエサウを可愛がっていましたが、妻のリベカはヤコブを愛していました。
 当時は、長子が父の財産と権利を受け継ぐことになっていました。それを「長子の権利」といいます。この双子の場合は、兄エサウが長子の権利を持っていたわけですね。ですから、神様の祝福の約束もエサウが受け継ぐことになるはずでした。すばらしい権利だったわけです。
 ところが、エサウは、その長子の権利の大切さをまったく理解していませんでした。或る日、エサウがお腹をすかせて野から帰ってくると、弟ヤコブが赤い豆を煮ていました。エサウがそれを食べさせてくれと頼むと、ヤコブは「長子の権利を私に譲ってくれれば食べさせてあげますよ」というのです。すると、エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言って、いとも簡単に長子の権利をヤコブに与えてしまったのです。目の前の食べ物の誘惑に負けて大切な権利を手放すというあまりにも軽率な行動でした。ですから、ヘブル12章16節にはこう書かれています。「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」
 さて、イサクは、年を取って視力が衰えてきたとき、エサウに言いました。「野に行って獲物をしとめて、私の好きな料理を作っておくれ。死ぬ前に、お前を祝福できるために。」
 それを聞いたリベカは、ヤコブに言いました。「お父さんがエサウを祝福する前に、子やぎの料理をお父さんに持っていって、エサウのふりをして長子の祝福をしてもらいなさい。」リベカは、子やぎを料理し、ヤコブにエサウの晴れ着を着せ、毛深いエサウに似せるためにヤコブの手と首に子やぎの毛皮をかぶせ、父のもとに行かせました。イサクはほとんど目が見えなくなっていたので、ヤコブをエサウだと思い込み、ヤコブに長子の祝福を与えたのです。
 イサクは、後でヤコブに騙されたことを知りましたが、ヤコブに与えた祝福を取り消そうとはしませんでした。アブラハムの祝福をヤコブが受け継ぐことが神様の御計画であることを悟っていたからです。
 しかし、兄のエサウは、このことでヤコブを恨み、父が死んだらヤコブを殺してやろうと考えていました。そのことを知ったリベカは、ヤコブを自分の兄のもとに逃がすことにしました。結果として、ヤコブはその後二十年間、伯父の家で居候として様々な苦労をしながら暮らさなければならなくなったのです。
 しかし、神様は、その期間を通してヤコブに反省の時間を与え、ヤコブの狡猾さや自我の強さを砕き、成長させてくださいました。そして、ヤコブは、神様の祝福がなければ一歩たりとも進めないということを告白する者へと変えられていったのです。
 伯父との確執が大きくなったため、ヤコブは二人の妻や息子たちを連れて故郷に帰ることにしました。兄エサウに殺されるかもしれないと恐れていましたが、その頃には、エサウも多くの財産を所有し、過去の恨みを忘れてヤコブを暖かく迎え入れました。そして、父イサクが死んだ時にはその亡骸を二人で墓に葬ったのです。
 さて、今日の箇所の20節に、「信仰によってイサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました」と書かれていますね。でも、イサクは騙されてヤコブを祝福したのです。どこに信仰の姿があるのだろうと思ってしまいますね。
 しかし、信仰に生きるとは、まだ見ていない未来のことについて祝福を求めることができる、ということなのです。
 イサクは、双子の息子たちの行く末をどれほど案じていたかわかりません。弟ヤコブは家を出てしまったわけですし、兄エサウの怒りは相当なものだったでしょうから、家の中でしこりとなったでしょう。しかし、イサクは、神様の将来の祝福の約束を見据えていました。また、人が自分の策略を用いて事態を動かそうとしても、取り返しのつかないような間違いを犯してしまったとしても、結局は、それらもすべて神様の御計画の内にあるのだということを認めて、神様におゆだねしたのです。
 神様の祝福の計画は、人の失敗や企みや弱さによって変わることはありません。神様は、あらゆる出来事を用いて、アブラハムに約束なさった祝福が子孫に受け継がれていくように備えてくださっているのです。

2 ヤコブ

 さて、次に、イサクの息子ヤコブですが、ヤコブは、様々な策略を立てて目的を達成しようとする、かなり狡猾で自我の強い人物だったようです。ヤコブは、長子の権利の大切さをしており、何としてもそれを自分のものにしたいと願っていました。そのために兄と巧な駆け引きをしたり、父を騙すことまでしてしまい、二十年間の逃亡生活をせざるをえなくなり、様々な苦労を重ねましたが、神様の祝福を受け継ぐにふさわしい者となっていったのです。
 そのヤコブには、十二人の息子がいました。二人の妻と二人の女奴隷によって生まれた息子たちでしたが、ヤコブは十一番目の息子ヨセフを溺愛していました。ヤコブの最愛の妻ラケルには、なかなか子供が生まれませんでしたが、ヤコブが年を取ってからやっとヨセフが生まれたからです。
 しかし、ヤコブがヨセフを偏愛した結果、兄たちは、ヨセフを憎み、ヨセフを外国の商人に奴隷として売り渡してしまいました。そして、父ヤコブのもとに血のついたヨセフの服を持って行き、ヨセフは野の獣に殺されてしまったと報告したのです。ヤコブの悲しみはどれほどだったでしょう。
 一方、ヨセフは、エジプトで奴隷として生活するようになりました。しかし、ヨセフは、自分の境遇に落ち込むのではなく、与えられた場所で与えられた仕事を誠実に行い、主人に信頼され、大切な仕事を任されるようになりました。ところが、無実の罪で監獄に入れられてしまいます。しかし、そこでも監獄の長に認められ、全囚人の監督を任されるほどになったのです。いつ監獄から出ることができるかまったくわかりませんでしたが、ヨセフは、すべきことを誠実に行っていたのです。聖書には「主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」と書かれています。
 さて、ヨセフは、神様から夢を説き明かす力を与えられていました。ある時、エジプトの王が不思議な夢を見たのですが、誰もその夢を説き明かすことができません。その時、王に仕える高官が言いました。「私が以前監獄に入れられていたとき、私の夢を説き明かしたヨセフという者がいます。」そこで、ヨセフは王のもとに呼び出され、みごとに王の夢を説き明かしたのです。その夢は、「エジプト全土は、これから七年間、大豊作になるが、その後の七年間には大飢饉が起こる」というものでした。そして、ヨセフは、豊作の七年間の間にエジプト各地の倉に穀物を蓄えるように、と王に進言したのです。王は、ヨセフの知恵に感銘し、ヨセフを王に次ぐ高い地位に着かせ、エジプト全地の支配をヨセフに任せることにしました。ヨセフが三十歳の時です。ヨセフは監獄の奴隷の身分から一気にエジプトのナンバー2にまで上りつめたのです。
 ヨセフの説き明かしのとおり、豊作の七年間の後に、大ききんが襲いました。カナンの地にいた父ヤコブのたちにも飢饉が襲ったので、ヤコブは穀物を買うためにヨセフの兄たちをエジプトに行かせました。そして、ついに劇的な兄弟の対面となったのです。ヨセフが、自分たちを恨んで復讐するのではないかと恐れる兄たちに対して、ヨセフはこう言いました。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。 」すべての出来事が神様の御計画の内にあったというのですね。そして、ヨセフは、父ヤコブも含め家族全員をエジプトに住まわせて養いました。ヤコブは、そのエジプトで生涯を閉じることになります。
今日の箇所の21節に「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」とありますね。ヤコブは、エジプトで死を迎えるとき、ヨセフの二人の息子たちを祝福し、礼拝しました。そして、「神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる」と語りました。アブラハムやイサクと同じように、ヤコブもまた、子孫を数多く増やし約束の地を所有させる、という神様の約束を信じ、その約束が将来必ず実現することを期待しつつ生涯を閉じていったのです。

3 ヨセフ

そして、その息子のヨセフですが、22節にこう書かれていますね。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」
 これは、どういうことかといいますと、ヨセフは、エジプトで死を迎える時に、こう言いました。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」
 ヨセフは、エジプトでは大功労者です。しかも、十七歳から死を迎える百十歳までの生涯をエジプトで過ごしました。それでも、エジプトは、ヨセフの故郷とはなりえませんでした。ヨセフは信仰によって「私の故郷は、神様が約束してくださったあの土地だ」と告白したのです。そして、「神様が必ずイスラエルの民をエジプトから約束の地へ帰らせてくださる」と確信していたのです。
 それは、約四百年後に実現しました。エジプトの王朝がかわり、ヨセフのことを知らない王が王位に着くと、イスラエルの民は奴隷として苦役を課され、苦しめられるようになります。その時、モーセが登場して、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、神様の約束の地へと導いていくことになるのです。エジプトを脱出するとき、彼らは、ミイラにして棺に納めたヨセフの遺体を携え上っていきました。ヨセフの遺言の通りにしたわけです。ヨセフは、死ぬときに四百年も後に起こる出エジプトの出来事を見据えていたわけですね。
 
 13節にこう書かれていますね。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」
 私たちも、この地上における役割を終え、生涯を閉じるときに、神様が約束してくださった永遠の天の故郷を望みつつ、後に残る人々の未来について信仰によって祝福を祈るものとされているのです。