城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年10月15日           関根弘興牧師
                  ヘブル12章1節ー3節
 ヘブル人への手紙連続説教32
    「目を離さないで」

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(新改訳聖書)


 今日から12章に入ります。
 この手紙の宛先は、「ヘブル人」、つまり、ユダヤ人クリスチャンたちです。彼らは、ユダヤ社会とユダヤ教の教えの中で生活していたのですが、イエス様を救い主と信じるようになると、ユダヤ社会から追放され、当時のローマ帝国の迫害も受け、様々な困難に直面したのです。それで、彼らの中には、このままイエス様を信頼し続けて大丈夫だろうかという不安や動揺が広まっていました。そこで、そんな彼らを励ますために、この手紙が書かれたのです。
 この手紙では、まずイエス様がなにものにも勝る至高の方であり、旧約聖書で予め示されていたまことの救いを完成してぃださる方であることが説明されていました。また、前回まで学んだ11章では、信仰は、今は目に見えなくても将来必ず実現される約束を信頼し、希望を持って歩み続けることであるということ、そして、旧約聖書の人々が、様々な苦しみや困難を味わいながらも、まだ見ていないものを望みつつ、信仰を持って歩んでいったことが説明されていました。
 そして、その信仰のバトンが一人一人に手渡され、今日の12章1節には、こうした多くの信仰の先輩たちが、今、信仰に生きる私たち一人一人の応援団となってくれているのですよ、と書かれているのです。だから、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とありますね。
 ここでは、信仰生活が「競走」にたとえられていますが、新約聖書では、他の競技もたとえとして使われています。
 古代ギリシャでは、オリンピックの発祥地オリンピアで競技大会が開かれていました。また、ローマでは、コロセウムとよばれる大円形競技場などで、様々な競技が行われていました。主な競技は、マラソンとボクシングとレスリングでした。
 パウロは、その三つをたとえに使っています。
 第一コリント9章26節では「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません」と書いていますが、これはマラソンとボクシングですね。
 エペソ6章12節では「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」とありますが、この「格闘」というのはレスリングのことですね。
 また、ピリピ3章14節では「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」、第二テモテ4章7節では「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と書かれていますが、これは信仰生活をマラソンにたとえているわけです。
 今日の箇所も、マラソンのたとえが使われていて、信仰生活を忍耐を持って走り続けようと励ましているわけですね。

1 信仰生活は、ゴールを目指し走り続けること

 しばらく前に、「ウサギ人間からカメ人間へ」という本を読みました。「ウサギとカメ」の話は皆さんご存じでしょう。ウサギとカメが競走する話です。ウサギとカメが同時にスタートして、どちらも一生懸命走ったとしたら、誰が考えてもウサギが勝ちますね。ところが、勝ったのはカメでした。ウサギは、「どうせカメは追いつけまい」と思い、途中で一眠りしてしまいました。その間に、カメがウサギを追い越して勝ってしまったというわけですね。どうしてこんなことが起こったのでしょう。ウサギがなまけ者だったからですか。傲慢だったからですか。自己過信のせいでしょうか。もちろん、それもあるでしょうが、この本は、もっと根本的な問題があったというのです。ウサギの敵は誰かと言えば、カメでした。ウサギにとっては、カメに勝つこと自体が目標だったわけです。しかし、カメにとっては、ウサギは競争相手ではありますが、ウサギに勝つことが目標ではありませんでした。カメの目標は、あくまでもゴールまで完走することでした。これがウサギとカメの大きな違いであり、カメの勝因につながったというわけですね。もちろんその本によれば、ですよ。
 しかし、確かになるほどと思わされますね。私たちもウサギのような感覚を持ってしまうことが多いからです。他者の存在があまりにも気になるわけですね。信仰についても、すぐに比較してしまう癖があります。「あの人よりは私のほうがマシな信仰生活を送っている」とか「私はとてもあの人のような立派な信仰者になれない」とか、いつも他の人と比べて、優越感や劣等感をもったり、妬んだり、批判したり、落ち込んだりするわけです。いつの間にか、人生の目標が、ゴールを目指すことではなく、まわりの人々に勝つことにすり替えられてしまっていることがあるのです。それは、ウサギ型クリスチャンですね。 しかし、本当に勝利を得るのはカメ型クリスチャンです。自分のペースでゴールを目指して一歩一歩進んでいけばいいのです。「なんて歩みの遅いクリスチャンなのか」と言われようが、大切なのは、ゴールを目指して進んでいくことなのです。カメはウサギのようには走れません。まねしようとしたら怪我の元です。大切なのは、まわりに惑わされずに、自分に与えられた信仰の一歩を着実に刻んでいくことなのです。
 パウロは、ピリピ3章13節ー14節でこう言いました。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かってすすみ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」
 私たちも、この信仰の歩みを続けていくものでありたいですね。前に向かって、自分のペースで走っていきましょう。

2 走り続けるために必要なこと

 しかし、長いマラソンの途中には、いろいろなことが待ち受けていますね。3節に「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないために」とありますが、信仰生活を送る中で、元気を失い疲れて果ててしまったという経験をだれもが持つのではないかと思います。教会によく起こりがちな人間関係の疲れ、奉仕疲れ、信仰を持っていても自分が思い描いたとおりに進んでいかないということのいらだちや徒労感、また、健康問題など、様々なことが襲ってきます。また、クリスチャンであるという理由だけで理不尽な扱いや攻撃を受けることもあるかもしれません。そうしたことによって、意気消沈してしまうことがあるのです。
 では、そうしたことを乗り越えて、ゴールを目指して走り続けるために必要なことは何でしょうか。今日の箇所には、何と書かれているでしょうか。

(1)重荷と罪を捨てる

 まず、1節に「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」と書いてありますね。
 何かを背負っていたり、何かがまつわりついていたら、走りづらいですね。信仰のマラソンも同じです。走り続けるには、重荷や罪を捨てて走りやすくすることが大切なのです。
 ここに書かれている「重荷」とは、「押しつぶされそうな重い荷物」のことです。私たちは、いろいろな重い荷物をわざわざ背負って走ろうとしていることがよくあるのです。
 私たちは、毎日、心配してもどうしようもないことを心配したり、恐れる必要のないことを恐れたり、自分では到底解決不可能な問題を自分で解決しなければと無理をしたり、自分や人に過度な要求を押しつけて疲れ切ったり、将来に不安を感じて思い煩ったりしてしまうことが多いですね。でも、第一ペテロ5章7節には、こう書かれています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」また、詩篇55篇22節には「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」とあります。また、イエス様もマタイ11章28節で「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてます」と言ってくださっています。重荷を負っていると感じたら、イエス様のもとに重荷を下ろして安息し、身軽になって走り続けていきましょう。
 また、「まつわりつく罪」を捨てるようにと書かれていますね。罪は、私たちの足に絡みついて走れなくさせようとするのです。もし私たちを神様から離れさせようとしたり、お互いの関係を破壊しようとするものは罪です。もしそういうものに気付いたら、その都度、捨てていきなさいとこの手紙は勧めているのです。

(2)イエス様から目を離さない

 信仰のマラソンを走り続けるために、さらに大切なことは、「イエス様から目を離さない」「イエス様のことを考える」ということです。
 マラソン選手は決して下を見て走ってはいません。まわりばかり見ながら走っているのでもありません。前を見て走ります。私たちがしっかり走り続ける秘訣は、イエス様から目を離さないことです。
 また、今日の箇所で「考える」と訳されている言葉には、「熟慮しなさい」「じっくりとよく考えなさい」という意味があります。イエス様のことをじっくりと考えてごらんなさい、それが信仰の落ち込み防止策となり、元気を回復して走り続けるための方法だというのです。
 でも、イエス様のことをよく知らなければ、イエス様をよく見たり、イエス様についてじっくり考えることはできませんね。今日の箇所にイエス様についてどのように書かれているか、見ていきましょう。

①信仰の創始者であり完成者である方

 まず、2節に、イエス様は「信仰の創始者であり、完成者である」と書かれていますね。これは、どういうことでしょうか。
 創始者とは、他の人のために最初に道を切り開く者、すなわち先駆者であり、開拓者です。道なき道を切り開いていく者です。イエス様は、私たちのために信仰による救いの道を開いてくださいました。それは、私たちの努力や功績とはまったく関係ありません。私たちが自分で救いの道に進むことは不可能でした。だからこそ、神であるイエス様が私たちと同じ人となって来てくださり、十字架について罪の問題を解決してくださり、復活して永遠のいのちを与えてくださり、天に昇って今では神の栄光の右の座に着座されて、天と地におけるいっさいの権威をもってすべてを支配し、栄光に満ち、私たちのために絶えず取りなしを続けてくださっています。また私たちのもとに聖霊を送り、いつも三位一体の神様が私たちと共にいて生かし、成長させ、導いてくださっているのです。人は、自分の力で救いを得ることはできない、だから、救い主が必要だ、ということを旧約聖書は教えていますが、その救い主イエス様が来られ、救いを完成してくださったのです。イエス様によって救いの道が開かれ、イエス様によって救いが完成しました。私たちは、ただそのイエス様を信じるだけでいいのです。
 イエス様が信仰の創始者であり完成者であるということは、私たちの信仰に生きる生涯の出発も完成もイエス様の働きの中にあるということです。私たちは、自分でイエス様を信じて生きる道を選び取ったように思っています。しかし、イエス様は、ヨハネ15章16節でこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」私たちがイエス様を信じることができたのは、イエス様が選び、導いてくださったからなのです。
 そして、私たちの信仰の生涯を守り導き完成させてくださるのもイエス様です。私たちの信仰の出発も完成もイエス・キリストによるのです。ですから、だれも自分を誇ることはできませんね。
 ですから、走り続けるためには、このイエス様から目を離さないでいることがとても大切なのです。自分の力で「あれをしなければならない」「これをしてはいけない」というような律法的な戒律の中で生きるのではなく、十字架と復活によって救いの道を備えてくださった創始者であり完成者であるイエス様を目を離さないようにしましょう。

②将来の喜びのゆえに、苦しみを忍ばれた方

 イエス様は、救いの完成のために来てくださいましたが、それと共に、私たちに人としての生き方の模範を示してくださいました。2節に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」とありますね。また、3節には、「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と書かれています。イエス様は、人として私たちのもとにおられたとき、様々な苦しみや困難を味わわれました。しかし、十字架の壮絶な苦しみも味わわれたのです。しかし、将来の喜びを見据えて堪え忍ばれました。だから、元気がなくなって来たときや疲れを覚えるときは、そのイエス様の姿をよく考えなさい、そして、忍耐強く走り続けなさい、あなたがたには将来の喜びが待っているのだから、とこの手紙は励ましているのです。

③いつも共にいてくださる方

 さて、今日の箇所には書かれていませんが、走り続けるためにもう一つ大切なことを覚えておいていただきたいと思います。 私たちは一人で走っているのではなく、いつもイエス様が共に走ってくださっているということです。
 ヘブル13章5節に書かれていますが、イエス様はこう約束してくださいました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
 イエス様は、私たちの信仰のスタートから完成まで、すべて責任をもって導いてくださる方です。私たちは遠く離れておられる方を見たり考えたりするのではありません。いつも共にいてくださり、語りかけてくださる方から目を離さずに、その方のことを考えながら、共に走っていくのです。

今週も恵みとまことに満ちたイエス様から目を離さず、イエス様がどのような方をじっくりと考えながら、それぞれのペースで与えられた信仰生活を送っていきましょう。