城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年10月22日           関根弘興牧師
                 ヘブル12章4節ー11節
 ヘブル人への手紙連続説教33
    「主の訓練」

4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(新改訳聖書)


先週は、へブル書12章2節の言葉「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」をご一緒に考えました。イエス様こそ、救いの創始者であり完成者です。イエス様こそ、私たちの信仰生活を出発させてくださり、完成させてくださる方です。だから、私たちは、この恵みと真実に満ち溢れたイエス様から目を離さないで歩んでいくのです。
 イエス様は十字架と復活によって救いを完成してくださいました。私たちの信仰の始まりも完成も、イエス様の十字架と復活にあります。それなのに、そのイエス様から目を離してしまうと、いつのまにか自分の力や功績や努力によって救いを得なければいけないのではないだろうかと考えてしまったり、ただ信じるだけでは足りないのではないだろうかと疑うようになってしまいます。また、イエス様の一方的な恵みを忘れて、こうあれねばならない、こうでなければならないといった律法を自分自身に課して縛り付けて不自由になってしまうことになります。
 ですから、私たちは信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないで歩んでいくことが大切なのです。

1 信仰の訓練

 さて、今日の箇所の最初に、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」と書かれていますね。この手紙はユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた手紙です。当時、彼らはユダヤ社会から追放されたり、ローマ政府から理不尽な迫害を受けたりしていました。しかし、これからは、今まで直面した以上の厳しい試練に会うだろう、ということがここで示唆されているのです。「あなたがたが今受けている試練は、まだまだ序の口です。それなのに、もう聖書の教えを忘れてしまって落ち込んでいるのですか。さあ、もう一度、聖書に書かれていることを思い出しなさい。神様は、私たちを愛するが故に、試練を与えて成長させようとしてくださっているのです。だから、失望しないで、将来に希望を持って、信仰に生きていきなさい」と勧めているわけですね。
 さて、私たちは、イエス・キリストを信じ受け入れたとき、神の子供としての歩みを始めました。ヨハネの福音書1章12節には、こう書かれています。「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」また、ガラテヤ4章6節で、パウロはこう言っています。「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷でなく、子です。」イエス様も「主の祈り」の中で、「天にましますわれらの父よ」と祈るようにと教えてくださいましたね。そして、今日の箇所の7節にも「神はあなたがたを子として扱っておられるのです」と書かれています。神様は私たちを愛する御自身の子として見ておられるのです。そして、本当の父親だからこそ、わが子を懲らしめるのだというのですね。
 ところで、「懲らしめ」とか「むちを加える」などの言葉が出てきますが、こういう言葉を見ると、神様は恐そうな方だなと感じる方もおられるかもしれませんね。
 でも、この「懲らしめ」という言葉は、「訓練」「鍛錬」「教育」「指導」とも訳される言葉です。ですから、「主の懲らしめを軽んじてはならない」という言葉は、「主の訓練を軽んじてはならない」と訳すこともできるのですね。訓練や教育が誰にも必要だということは、皆さん、うなずくことができるでしょう。同じように、神の子として新しく生まれたクリスチャンにも、天の父なる神様の訓練や教育が必要なのですね。
 しかも、10節にあるように、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに懲らしめるだけですが、霊の父である神様は、深い愛と叡智をもって、私たちの益、私たちの最善のために、必要な訓練を正しい方法で与えてくださるというのです。人間の父親は、知識にも能力にも限界があります。自分で良いと思って子供を教育しても、それが間違っていたり、実は子供のためになっていないこともありますね。子供のためにと思ってしたことが、かえって良くなかったなあ、という反省を親ならだれでも感じることがあるでしょう。しかし、神様は、私たち一人一人に必要なものをよくご存じですから、適切な訓練や指導をして私たちを成長させることがお出来になるのです。
 この手紙が書かれた当時のクリスチャンたちには、迫害や困難が差し迫ってきていました。しかし、聖書は、そうした困難や苦難という試練は、一人一人を訓練し成長させる機会となるのだと教えているのです。苦しみの意味を、とても積極的にとらえているわけですね。
 ヤコブの手紙1章12節には、こう書かれています。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
 この言葉をもとに、ある聖書学者は「困難はいのちの冠を受けるための貴重な学舎である」と語りました。
 また、神様は私たちを真実の愛をもって愛しておられますから、むやみにやたらに厳しい試練を味わわせるようなことはなさらない、ということも覚えておくことが大切です。第一コリント10章13節に、こう書かれています。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」神様は、私たちが絶えられるだけの試練しかお与えにならないし、どんな試練があっても必ず脱出の道を備えてくださるというのです。
 以前に読んだ11章では、旧約聖書に登場する人物たちの名前が列挙されていましたね。彼らは、信仰によって歩んでいましたが、様々な試練に会いました。しかし、その試練を通して神様から大切なことを教えられ、成長していったのです。また、試練の中でも神様に信頼続けることによって、脱出の道を見いだすことができました。
 アブラハムはどうでしょう。神様に従って、行き先も知らずに生まれ故郷を出て行きました。神様を信頼していましたが、だからといって、順風満帆な生涯を送ったわけではありません。様々な問題が立ちはだかりました。失敗もしました。しかし、それによってアブラハムは、より謙遜になり、神様への信頼を深めていったのです。アブラハムが味わった最大の試練は、神様から「ひとり息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげよ」と命じられたことでした。百歳になってやっと与えられた大切な息子のいのちを奪って神様にささげなければならないというのです。アブラハムの信仰の本気度を試される試練でした。アブラハムは苦悩します。しかし、神様は死者を生き返らせることのできる方だから大丈夫だ、という信頼をもってイサクをささげる決心をしたのです。その時、神様はアブラハムの信仰を称賛し、イサクの代わりにささげる羊を備えてくださいました。アブラハムは、この試練を通して、「主の山に備えあり」、神様が万全の備えをしてくださる、ということを知ったのです。
 では、モーセはどうでしょう。モーセは、イスラエル人の両親のもとに生まれましたが、不思議な経緯でエジプトの王女の息子として育てられました。40歳の時に、エジプトで奴隷として苦しめられている同胞イスラエル人の救いのために立ち上がりましたが、見事に失敗してしまい、エジプトから逃亡して、その後40年間荒野で羊飼いの生活をしていました。モーセは、自分の人生はこの荒野で終わるのだと思っていたことでしょう。しかし、モーセが80歳になった時、神様は、モーセに「イスラエル人たちをエジプトから脱出させよ」という命令をお与えになりました。モーセは、勇気を出してエジプトに行き、エジプト王と対決し、神様の様々な奇跡によって、イスラエル人を率いてエジプトを出て、約束の地に向けて荒野を旅することになりました。その荒野の旅は40年間も続いたのです。
 その間にモーセは、様々な困難を経験しました。二百万人近い人々を率いて荒野を旅して行くだけでも大変ですが、食料や水の心配、人々の不平や批判、敵の攻撃など、神様に助けを叫び求めなければならないことが何度もあったのです。しかし、モーセは、困難につぐ困難を通して、神様への信頼を深め、神様が身近にいて必要を満たしてくださる方であることを寄り深く味わうことができました。
 私たちも信仰に歩むとき、様々な試練を経験します。まるで鞭でたたかれているかのような苦しみを味わうこともあります。健康問題で悩むこともあります。苦しみや悩みがまったくないという人生はないでしょう。
 問題は、試練に直面したとき、どのように受けとめるかということです。
 神様を知らない人々は、苦しみに会うと、先祖のたたりだとか、何かの罰が当たったとか、呪われたとか、星の巡り合わせがわるいとか、因果応報だとかいろいろ考えますね。クリスチャンでも、「私の信仰が弱いからだ」とか、「私がきちんと信仰生活を送っていないからだ」とか、「神様に嫌われているのではないか」などと考えてしまうことがあります。
 しかし、聖書は、「神様はあなたを愛していて、あなたのために試練をお与えになるのだ」と教えているのです。ローマ8章28節で「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロが言っているように、試練や苦しみさえも神様が私たちの益となるために与えてくださっているのだ、というのです。
 今日の5節に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない」と書かれていますが、ここに出てくる「責める」という言葉は、「さらけだす」「誤りを認めさせる」という意味があります。つまり、私たちに襲う試練や苦難は、本当の自分自身がさらけ出される時でもあるということです。神様は、私たちの心の状態を明らかにし、私たちが自分の心を見つめ直すことができるように試練を与えてくださるのです。
 例えば、イエス様の十二弟子の中でもリーダー格のペテロは、自分こそ最も忠実で熱心な弟子だという自負心を持っていました。「たとえ他の弟子たちが皆イエス様を裏切ったとしても、自分は絶対に裏切らない」と断言していたのです。ところが、実際にイエス様が逮捕されてしまうと、「私は、イエスなど知らない」と三度も否定してしまいました。ペテロは、この出来事を通して、自分が愚かにも虚勢を張っていただけだったこと、そして、本当は臆病で弱い者だということを知ったのです。しかし、この失敗は、ペテロのその後の働きにために大切なものでした。その後、神様はペテロを通して様々な素晴らしいみわざを表してくださいましたが、もしペテロに挫折の経験がなかったら、「自分の信仰が素晴らしいから神様が用いてくださるのだ」と勘違いして高慢になっていたことでしょう。神様は、ペテロを豊かに用いるために、まずペテロに試練を与えて挫折を味わわさせ、本当の姿に気付かせ、ただ神様に頼ることが大切であることを教えてくださったのです。その結果、ペテロはすばらしい働きをする人になりました。
 神様は、私たちにも同じようにしてくださいます。
 私は、26歳の時に小田原に来て開拓伝道の働きを始めました。最初は、順風満帆に物事が進んでいくに違いないと考えていました。すぐに人がたくさん集まってきて、教会はどんどん成長していくだろうと思っていたのです。今、考えれば、何の根拠もない自信を持っていたのですね。しかし、現実は思い描いたようにはいきませんでした。何をやってもうまくいかず、三年目には、「もう牧師をやめよう」と強く思ったのです。この三年間は思い通りにならない挫折の時でした。しかし、同時に、それは、主の訓練の時でもあったのです。私はこの挫折の三年間を通して自らの姿をいやというほど知ることになりました。主は、挫折を通して私の心の誤りを認めさせ、訓練してくださったのです。そして、落ち込んでいる私を励ましてくださっったのも神様でした。
ある日、聖書を読んでいて、エレミヤ章30章18節、19節の言葉が目に留まりました。「見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。」
また、エレミヤ書33章6節、7節には、「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。」と書かれていました。これを読んだとき、神様が私に語りかけてくださっているように感じました。神様が、これから、私を、そして、教会を建て直すと約束してくださっていると思ったのです。この後、私の牧師としての姿勢は大きく変わりました。教会は神様のものであり、神様によって建てられるものなのだから、それを信頼して委ねればいいのだ、と思うようになったのです。
 神様は、そのように一人一人を訓練し、成長させてくださるのです。ですから、試練や苦しみが襲ってくるとき、訓練と思って堪え忍んでいきましょう。神様は、必ず脱出の道を備えてくださっているし、その試練の先には、すばらしいものが約束されているからです。

2 訓練の結果

 今日の箇所には、訓練の結果としてどのようなことが起こると書かれているでしょうか。

①神の聖さにあずかる

 一つは、10節に書かれていますが、神様が私たちを訓練なさるのは、「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」だというのですね。
 神様の聖さにあずかるとは、どういうことでしょうか。神様は聖いお方です。一点の曇りも汚れもありません。その神様の聖さにあずかるというのは、品性が豊かに磨き上げられていくということです。試練や艱難によって、私たちの品性が磨かれていくのです。
 ローマ5章3節ー5節には、こう書かれています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
 また、第一ペテロ1章7節には、こう書かれています。「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」私たちは、試練の中で不純物が取り除かれ精錬されて、最終的に称賛と光栄と栄誉を受ける者になることができるのです。

②平安な義の実を結ぶ

もう一つは、11節に書かれています。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
試練や苦難は、だれもが避けたいものです。ここに書かれているように、試練を喜ぶ人はいません。試練を受ければ悲しみますね。しかし、試練によって訓練されることにより、後には平安な義の実を結ぶことができるというのです。
 「平安な義の実」とは、何でしょうか。「義」とは「正しい」ということです。それとともに、「神様と正しい関係を持っている」ということを表す言葉でもあります。
 つまり、私たちに様々な試練や困難が襲ってきたとき、父なる神様とのさらに強い、まっすぐな関係の絆が生まれてくるということなのです。そして、神様との関係が強まれば強まるほど、深い平安を味わうことができるようになるのです。
 詩篇119篇67節には、こんな言葉が書かれています。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」また、同じく詩篇119篇71節には、こうあります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 私たちは、苦しみに会うことによって、正しい生き方を学ぶことができます。苦しみの中で、神様との正しい関係を持つことができるようになります。人としての本来の生き方を学んでいくのです。そして、後の日に、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言えるようになるのです。
今、辛い試練や困難の中にいる方もおられるでしょう。悲しみの中にいる方もおられるでしょう。しかし、その試練を通して平安な義の実を結ぶことができるようになるのです。その聖書の約束を信頼していきましょう。

 神様は、一人一人を訓練し成長させてくださるだけでなく、キリストのからだである教会も訓練し成長させてくださいます。ですから、教会がいつも順調ではないということも、実は恵みなのですね。教会に問題が起こるときは、何かを学び成長するよい機会なのです。神様が教会を整え、キリストの香りを放つことができるように訓練してくださるのです。
 試練も苦しみもすべてのことを益としてくださる神様に信頼し、また、神御自身の聖さにあずからせてくださり、平安な義の実を結ばせてくださることを喜び期待しつつ、今週も歩んでいきましょう。