城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年10月29日           関根弘興牧師
                 ヘブル12章12節ー17節
 ヘブル人への手紙連続説教34

    「まっすぐに」

 12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。(新改訳聖書)


この12章は、信仰生活を最後まで継続していくことの大切さを記した章です。1節に「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあるように、信仰生活はマラソンのようなものです。信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないようにしながら、ゴールを目指してそれぞれのペースで走り続けていくのです。
 しかし、先週お話ししたように、信仰生活には、様々な困難や試練に遭遇することもあります。その時には、その困難や試練を主の訓練として受け取って行きなさいとこの手紙は教えています。神様は、私たちを愛する子として見ていてくださいますから、私たちの心の状態を明らかにし、さらに成長していくことができるように、試練を与えて訓練してくださるというのです。
 そして、訓練の結果として、二つのことが書かれていましたね。一つは、私たちは訓練を通して神様の聖さにあずかる実を結ぶことができるということです。訓練によって、私たちの品性が磨き上げられていくというのですね。そして、もう一つは、私たちは訓練によって平安な義の実を結ぶことができるようになるということです。困難や試練の中にあるときは、平安などどこかに吹っ飛んでしまいますね。ですから、私たちは必死に神様に叫び求めます。すると、神様は、私たちの叫びを聞いて、私たちを試練から脱出させ、涙をぬぐい、それによって、神様がいつも私たちと共にいてくださることをわからせてくださり、それによって平安が生まれてくるわけです。
 そして、今日の箇所では、私たちが信仰のマラソンから途中で脱落してしまうことのないように、さらに励ましの言葉が記されています。

1 弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい

まず、12節に「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」とありますね。これは、イザヤ35章3節の「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」という言葉の引用です。「弱った手」と「衰えたひざ」とは、失望落胆を意味しています。歩こうにも歩けない意気消沈している姿です。この手紙は、ユダヤ人クリスチャンに向けて書かれているわけですが、読者の中には、様々なの困難の中で失望落胆している人たちがいたので、そのような人たちに向けて「手とひざをまっすぐにしなさなさい」と励ましているのです。
 ここで引用されているイザヤ35章3節の次の4節には、こう書かれています。「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』」この4節の言葉は、この手紙には引用されていませんが、旧約聖書をよく知っているユダヤ人に対して書かれているわけですから、当然のこととして意識されていたはずです。つまり、いま弱り疲れて歩くこともできないような困難にある人々に対して、「神様が必ず来て救ってくださるのだから、失望せずに、しっかりと信仰に立って歩んでいきなさい」と励ましているわけですね。
 この手紙の10章37節にも、これと同じような言葉がハバクク書から引用されていましたね。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」という言葉です。「救いをもたらし、正しいさばきを行う方が必ず来られる。あなたがたは遅いと思っているかもしれないが、決しておそくなることはない。ちょうどいい時に来られるのだ。だから、希望をもって、しっかり歩んでいきなさい」という励ましです。
 しかし、いくら励まされても、落ち込んでいる時には、自分で頑張って気合を入れようとしてもなかなかできない、立ち上がろうとしても立ち上がれないような現実に直面してしまいますね。でも、大丈夫です。私たちは、見栄を張って、無理して元気ぶる必要はないのです。感謝なことに、弱り衰えている私たちに手を差し伸ばして立たせ、歩けるようにしてくださる方がいるのです。その方こそイエス・キリストです。
 マタイ12章20節には、イエス様は「痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」方だと書かれています。 「痛んだ葦」とは、もう使い物にならない葦で、普通なら折って捨てられてしまうものです。また、「くすぶる燈心」とは、今にも消えそうな燈心ですね。つまり、イエス様は、もう駄目になってしまいそうなものでも見捨てずに大切に取り扱ってくださり、再び明るく光ることができるように回復させてくださるのです。そして、このイエス様がともにいてくださるからこそ、私たちは弱った手を伸ばし、衰えたひざに力を入れて立ち上がることができるのです。
 使徒の働き3章に、こういう出来事が記されています。
 ペテロとヨハネが祈りのために宮に上って行きました。すると、美しの門という場所で生まれつき足の不自由な男が物乞いをしていました。ペテロは、その男を見つめて、こう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」そして、彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩いたり跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいっていったのです。
私たちも、イエス・キリストの御名によって、弱った手と衰えたひざをまっすぐにすることができます。人生には、多くの試練があり困難があります。弱り疲れ果ててしまうことがあります。でも、イエス様は、私たちに「あなたの手を伸ばし、膝をまっすぐにしなさい」と言って手を取り、立ち上がらせてくださるのです。

2 まっすぐな道を作りなさい

 次に、13節にこう書かれています。「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」
 皆さん、道を歩いていてつまずいたり、捻挫したり、脱臼したりした経験がありますか。もし、陸上競技場のトラックがでこぼこになっていたら、そこを走る選手は足を痛めるでしょうね。そうならないように、競技をするときには、まず、トラックがちゃんと平らになるよう整備するわけです。
 信仰生活も同じです。まっすぐな道を整備しておかないと、捻挫や脱臼や骨折で動けなくなってしまいます。だから、まっすぐな道を作りなさいというのですが、それは、具体的には、どのようなことでしょうか。

(1)悔い改め

 新約聖書の福音書に、バプテスマのヨハネという人物が登場します。彼は、人々に「もうすぐ救い主が来られるから、悔い改めて救い主をお迎えする準備をしなさい」と説教し、ヨルダン川で洗礼を授けていました。
 このヨハネについて、マルコの福音書1章2節ー4節には、このような説明が書かれています。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」』 そのとおりに、
バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」
 旧約聖書の預言者イザヤは、約七百年も前に、将来、救い主が来られることと、救い主をお迎えするためにまっすぐな道を用意するよう人々に教える人物が現れることを預言していました。その預言の通りに、バプテスマのヨハネが登場し「救い主イエスをお迎えする準備をするために悔い改めなさい」と人々に呼びかけたのです。つまり、「まっすぐな道を作りなさい」とは「悔い改めなさい」という意味が含まれているのですね。
 では、「悔い改める」とは、どういうことでしょうか。「悔い改める」という言葉のもともとの意味は、「向きを変える」ということです。神様に背を向けているのではなく、神様の方に向きを変えなさい、ということです。つまり、神様とのまっすぐな関係に立ち返りなさいということなのです。聖書では、神様との関係がずれて、的はずれな生き方をしている状態を「罪」と言います。「もしあなたと神様との関係がずれているなら、それを認め、方向を変えて神様とまっすぐな関係に戻りなさい。それが、まっすぐな道を作ることになるのですよ」と聖書は教えているのですね。

(2)イエス様の備えてくださる道

さて、私たちは、悔い改めて、つまり、神様の方向に向きを変えて進んでいくのですが、その道は、自分で一生懸命まっすぐにしていかなければならないというのではありません。自分でまっすぐな道を作ろうと思っていても、いつのまにか曲がってしまっていたり、まっすぐに歩いているつもりでも、いつのまにかずれてしまっているということになります。
 私たちが歩むまっすぐな道は、実は、すでにイエス様によって用意されているのです。イエス様は、ヨハネ14章6節で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とはっきり言われました。イエス・キリストこそが道となってくださり、私たちの前にあるでこぼこした道を平らなまっすぐな道にならしてくださるのです。
 13節に「なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです」とありますね。でこぼこ道を走り続けたら、足を痛めてしまいます。しかし、イエス様が備えてくださった道、十字架と復活によって完成してくださった救いの道、恵みの道を走り続けるなら、足を痛めないだけでなく、さらに癒しにまでつながっていくと約束されているのです。

3 神の恵みから落ちる者がないように

 そして、14節からは、そのまっすぐな道から外れて恵みから落ちることがないように、どのようなことに注意すべきかが書かれています。

(1)平和と聖さを求める

 まず、14節に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」と書かれていますね。
イエス様はマタイ5章9節で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と言われました。
 また、パウロは、 ローマ12章18節で「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と教えています。 恵みの中に生きるためには、自分自身がすべての人と平和を保っていくことが大切なのだというのです。私たちは主の備えたもう道を歩みながらも、自分で穴を作ってでこぼこにしてしまい、その穴に自分がつまずいてしまうことがあるのですね。そうならないように、自分の身近な人々との平和を保つことを大切にしていきましょう。相手のために主の最善と祝福を祈ることができる者へと変えていただきましょう。
 また、「聖められることを追い求めなさい」とありますね。 パウロは、第一テサロニケ4章3節ー4節で「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」と記しています。私たちがきよめられることは、神様の願いでもあるわけですね。
 では、「聖められる」とは、どういうことでしょうか。
 今までもたびたび説教してきましたが、「聖くなる」という言葉の基本的な意味は、「専用品になる」ということです。ですから、「聖くなる」とは「自分が神様の専用品として区別され生かされているという自覚を持って歩む」ということです。
イエス様が、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、罪の罰を受けてくださったので、私たちは赦され、神のみ前で義とされ、聖い者とされました。そして、一人一人に与えられた聖霊によって日々聖められ続けています。だから、私たちは、聖なる神様の子どもとして、神様に向かって「天のお父様」と呼び求めることができるのです。
 パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体をもって、神の栄光を現しなさい」と記しています。神様が、私たちの罪のためにキリストのいのちという尊い代価を払って私たちを買い取ってくださったというのです。それは何のためでしょうか。私たちが神様の専用品として生きていくためです。
 今日の箇所にある「平和を求め、聖められることを追い求めなさい」とは、努力して立派なことをして生きていきなさい、ということではなく、神様から与えられたすばらしい恵みによって赦され、義とされ、神様の専用品として生かされていることを、さらに深く味わい知り、それにふさわしい生き方をしていきなさい、ということなのです。

(2)よく監督する

それから、15節に「そのためには、あなたがたはよく監督して」とあります。この「監督する」というのは「気をつける」という言葉です。自分や仲間や教会の状態に心を配り、気をつけよう、ということです。今日の箇所には、特に、二つのことに気をつけようと書かれています。

①苦い根に気をつける

 15節に「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。
 「苦い根」とは何でしょうか。これは、旧約聖書の申命記29章18節の言葉から来たものなのですが、まことの神様を忘れ、他の神々を拝み、ほかの人々をも間違った方向に誘惑するような行動のことです。
 「苦い根」とは、また、聖書の教えと異なる様々な教えのことも指しています。新約聖書の中にも、そういう教えによって教会の中に様々な問題が起こっていたことが書かれています。
 それらの教えでは、ほとんどの場合、イエス様の一方的な救いの恵みを否定します。そして、イエスを信じるだけでは救われない、熱心に努力しなければならないと主張し始めるのです。また、偽りの指導者や教師たちは、聖書の教えを歪めたり、聖書に教えていないことを付け加えて自分たちに都合のいい教理をつくり人々を支配しようとします。その一方で、クリスチャンは救われているのだから何をしてもかまわない、霊がきよめられているから肉体は快楽におぼれてもいいのだという教えや、肉体に苦行を課して霊をきよめなければならない、という極端な教えもあります。しかし、これらの教えは、聖書の教えとはまったく異なる苦い根なのです。こうした苦い根に振り回されてしまうとき、いつの間にイエス様のすばらしい恵みから離れてしまうのです。そして、この苦い根は、気を付けていないと、いつの間にか芽を出して私たちの信仰生活も教会も混乱させる原因になります。
 では、苦い根を防ぐためには、どうすればいいのでしょうか。 パウロは、使徒の働き20章32節でこう言っています。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
 聖書の言葉によって、自分自身を、そして、教会をチェックしていくことが大切なのです。聖書の言葉によって、私たちは苦い根を見分け、取り除くことができるのです。

②不品行な者、俗悪な者になるな

 それから、16節に、不品行な者や俗悪な者にならないようにと警告されていますね。
 「不品行」と訳されているのは、もともとは神殿娼婦を指す「ポルネイア」という言葉で、現代の「ポルノ」の語源となった言葉です。異教の神殿には神殿娼婦がいて、その神殿娼婦と性的な関係を持つことは偶像礼拝と直結していました。当時の人々は、当たり前のように神殿娼婦と関係を持っていたのです。その結果、夫婦間の麗しい関係は破壊されていきました。ローマでは「婦人は、離婚をするために結婚し、結婚するために離婚をした」と言われているほどでした。
 しかし、そのような社会の中に、教会が誕生しました。そして、大きな社会変革を起こしていったのです。神様のことばが伝えられていくことによって、人々は、今まで当たり前と考えていたことが、実は、大きな罪であり、悲惨さの原因であることを知るようになったのです。
 また、聖書では、神様にそむいて偶像に引かれていく人々を「姦淫の女」にたとえています。不品行は、ただ結婚生活を破壊するだけでなく、神様と私たちの関係を破壊するものでもあるのです。ですから、不品行な者にならないように、と厳しく注意されているわけですね。
 それから、「俗悪な者」についてですが、旧約聖書のエサウという人物が例として挙げられていますね。これは、創世記25章に書かれている出来事を指しています。
 アブラハムの息子イサクから双子のエサウとヤコブが生まれました。ある時、兄のエサウがお腹をすかせて野から帰ってきたとき、弟ヤコブが豆を煮ていました。エサウがその煮物を食べさせてくれと頼むと、ヤコブはエサウの持っている長子の権利をくれるなら食べさせてもいいと答えました。長子の権利とは、神様の祝福を受け継ぐ大切な権利でした。それなのに、エサウは、一時の空腹を満たすために、一杯の煮物と引き替えに大切な長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまったのです。この出来事から、エサウは、「大切なものの価値を理解せず、目先のことだけにとらわれて祝福を失ってしまう俗悪な者」の代名詞のように言われるようになりました。つまり、「エサウのような俗悪な者ではあってはならない」とは、「目先の利害にとらわれて、イエス・キリストの素晴らしい祝福を手放すなら、それは永遠の損失で、取り返しがつかないことになってしまうのだ」という警告なのです。
 この手紙には、最も大切な信仰から離れないようにという警告が、今日の箇所だけでなく、3章にも6章にも10章にも繰り返し書かれています。信仰生活の中で、私たちを信仰から引き離そうとする様々なことが起こるでしょう。しかし、私たちは、聖書を通してイエスキリストの福音を知り、赦され、神様のいのちの中に生かされています。互いの平和を求め、神様の専用品としての生涯を生かされていることを喜びながら、聖書のみことばを通して信仰生活をチェックしつつ、主と共に歩んでいきましょう。