城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年11月5日           関根弘興牧師
                 ヘブル12章18節ー29節
  ヘブル人への手紙連続説教35
    「揺り動かされない御国」

18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。29 私たちの神は焼き尽くす火です。(新改訳聖書)

この12章には、信仰生活を最後まで継続していくことの大切さが記されています。1節に「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあるように、信仰生活はマラソンのようなものです。信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないで、ゴールを目指して、それぞれのペースで走り続けていくのです。途中で様々な困難や試練に遭遇することもありますが、それは私たちを成長させるために神様が訓練してくださっているのだというのです。でも、訓練とわかっていても失望落胆してしまうこともありますね。そんなときには、イエス様御自身が御手を伸ばして私たちの手を取り、弱った膝を強め、立ち上げらせてくださると約束されています。また、イエス様御自身が私たちのためにまっすぐな道を備えてくださっているのですから、途中で違う方向に逸れていってしまうことのないように、聖書の言葉によってお互いに気をつけ励まし合いながら、神様の恵みの中で走り続けていこう、というのですね。
 
 さて、今日は12章の後半部分です。この手紙の中でこれまでも何度も書かれていたことですが、ここでも、旧約の律法に生きることと新約のキリストの恵みの中で生きることの違いが書かれています。そして、私たちの信仰のマラソンのゴールに何が待っているのかということが説明されているのです。

1 信仰生活のゴール

まず、18節から21節までは、昔、神様がシナイ山でモーセを通して律法をお与えになり、イスラエルの民と契約を結ばれた時の光景が描かれています。
 エジプトを脱出して荒野を旅していたイスラエルの民は、神様に導かれてシナイ山にやってきました。そして、神様と契約を結ぶために身をきよめて山のふもとに集まったのですが、その時、神様は、モーセにこう言われました。「あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。」
 そして、神様が燃える火、黒雲、暗闇、あらしの中でシナイ山の頂に降りてこられ、ラッパの響きとことばのとどろきが聞こえたのです。民は、皆震え上がりました。
なぜなら、神様はあまりにも聖い方であり、罪ある人間はそのままでは神様に近づくことなどできないからです。神様は聖なる方なので、罪と妥協することはなさいません。罪ある人が少しでも近づいたら、死んでしまうのです。 
 ですから、イスラエルの民は、神様の律法と戒めを守って生活するという契約を結びました。もし、律法を完全に守る事ができれば、神様に近づくことができるでしょう。しかし、完全に守ることことができる人など一人もいません。人は、そのままでは聖なる神様に近づくことなどできない存在だということを旧約聖書は徹底的に教えているのです。そして、もし律法を守ることによって生きようとするなら、それは、どんなに頑張っても決してたどり着けないゴールに向かって走っているようなものです。
 しかし、イエス様によって、私たちはそのような虚しいマラソンをする必要がなくなりました。律法によっては誰も神様に近づくことができなかったのに、今では、イエス・キリストによって大胆に神様に近づくことができるのだ、ということがこの手紙には繰り返し記されています。
 神であるイエス様が私たちと同じ人となって来てくださり、私たち代わりに十字架についてくださり、また、復活して私たちに新しいいのちを与えてくださったので、私たちは、神様の前で罪の無い者、聖なる者と認められ、神様の子供として恐れることなく安心して大胆に神様に近づいて、神様の豊かな恵みを受け取りながら生きることができるようになったのです。
 ヘブル7章19節にこう書かれていましたね。「 ──律法は何事も全うしなかったのです──他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」私たちは、律法を守ろうとしても守れず神様に近づくことはできません。しかし、「さらにすぐれた希望」、つまり、救い主イエス様が来てくださったことによって、神様に近づくことができるようになったのです。
 では、信仰のゴールにはどんなことが待っているのでしょうか。それが、22節ー24節に書かれています。

①天のエルサレム

 まず、22節に、「シオンの山」「生ける神の都」「天にあるエルサレム」という言葉が出てきますが、これらは、どれも同じ内容を表しています。
 ヨハネの黙示録21章1節ー4節にこう書かれています。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
 旧約の時代にエルサレムのシオンの山に神殿が建てられ、エルサレムは神の都と呼ばれていました。しかし、世の終わりにその古いエルサレムは滅びて、新しいエルサレムが天から下って来るというのです。古いものがすべて過ぎ去り、新しくされた世界です。そこは、死も苦しみもなく、神様とともに永遠に住むことができる場所です。そして、第二ペテロ1章11節に「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです」とあるように、私たちはイエス・キリストによってその永遠の御国に入ることができるのです。つまり、私たちは、このゴールを目指してマラソンをしているわけですね。

②無数の御使いたちの大祝会

 そして、ゴールをした一人一人のために、御使いの大祝会が開かれます。「大祝会」とは、「喜びの集い」とも訳されます。いま日本シリーズが行われていますが、勝利チームのためには祝勝会が行われます。みんなで喜び合うわけですね。私たちの信仰生活というマラソンレースにおいても、ゴールした私たちのために御使いが祝勝会を開いて、共に喜んでくれるのです。

③私たち待つ人々

 それから、23節に「天に登録されている長子たちの教会」、そして「全うされた義人たちの霊」とあります。
 「長子」とは、父親の財産を受け継ぐ者です。イエス・キリストを信じて神の子とされた人々は、皆、天の戸籍簿に名前を登録され、神様の財産を受け継ぐ権利を持つ長子とされたのです。また、「義人」とは、神様の約束を信じて義と認められた人々です。ですから、クリスチャンは皆、長子であり義人なのですね。天のエルサレムで私たちを待っている人々がいて、私たちは、いつかその人々の仲間として迎え入れられるのです。 教会の葬儀でいつも「また会う日まで」という讃美歌を歌います。それは天において再会できるという希望があるからです。

④万民の審判者である神

 そして、天には「万民の審判者である神」がおられます。野球でもサッカーでも思い切りプレーするためには、信頼できる公平で正しい審判が必要です。審判が不正をしたり間違っていたら、競技は台無しになってしまいますね。神様は、正しい審判者です。だから、私たちは安心して与えられた人生を思い切り生きることができるのです。ファウルすれば警告が出ます。だから、フェアプレーをすることができるのです。その正しい審判者である神様がゴールで待っていてくださるというのですね。

⑤新しい契約の仲介者であるイエス

 しかし、その正しい審判者である神様の前に、人はそのまま出ることができるでしょうか。本来の私たちは皆、退場処分にされても文句が言えないような者でした。しかし、24節に「新しい契約の仲介者イエス」、そして、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」と書かれていますね。
 ここで、イエス様が十字架で流された血と旧約聖書に登場したアベルの血とが比べられています。イエス様の血は、アベルの血よりもすぐれたことを語っている、というのです。どういうことでしょうか。
 アベルは、創世記4章に登場します。アベルと兄のカインがそれぞれ神様にささげものをして礼拝したとき、神様は、アベルのささげものは喜ばれましたが、カインのささげものには目を留められませんでした。カインが心から喜んでささげているのではないことを見抜いておられたからです。すると、カインは弟のアベルを逆恨みして殺してしまったのです。神様は、カインに言われました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。」つまり、アベルの血は、カインの罪を糾弾し、カインへの呪いを叫ぶものとなったのです。
 一方、イエス様の流された血はどうでしょうか。イエス様は全く罪のないお方なのに、あざけられ、鞭打たれ、唾をかけられ、想像を絶する苦しみを受けて十字架につけられました。しかし、イエス様がその十字架上で語られたのは、人々の罪を糾弾したり呪ったりする言葉ではありませんでした。「父よ、彼らを赦したまえ」という赦しの言葉だったのです。罪のない方が私たちの罪を背負って血を流し、赦しの道を開いてくださいました。それによって、私たちは、罪赦され、義なる者、聖なる者として神様の御前に出ることができるようにされたのです。 旧約聖書の律法による契約では、私たちが律法を完全に守らない限り神様の前にでることはできません。でも、新しい契約では、イエス様が私たちと神様の間の仲介者となってくださるので、そのイエス様に信頼していくとき、神様の御前に安心して出ることができるのです。ですから、私たちは、イエス様と共にマラソンを走り、ゴールで待っておられる審判者である神様の胸に安心して飛び込むことができるのですね。

2 私たちがすべきこと

 私たちには、そのような素晴らしいゴールが備えられています。そのゴールを目指して走っているときに心がけるべきことが、25節から教えられています。

①語っておられる方を拒まないように注意しなさい。

25節に「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」
 旧約聖書の時代には、神様はモーセを通して人々にお語りになりました。モーセは私たちと同じ人間にすぎず、ただ神様の言葉をそのまま取り次いだだけです。それでも、モーセが語った神様からの命令に背いた者は神様の罰を逃れることはできませんでした。
 これに対して、イエス様は、神様の言葉そのものなる方です。この手紙の1章2節に神様は「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」と書かれていたように、神様は、最後に御自身の御子イエス様を通して完全な言葉を語られたのです。これほどはっきりと明らかに示された神の言葉なるイエス様に背を向けるなら、滅びに向かうしかないではないか、とこの手紙の記者は警告しているのです。

②揺り動かされない御国を感謝し、礼拝しよう。

 26節に「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが」とありますが、これは、出エジプト19章18節の「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」という箇所の引用です。神様がシナイ山から語られたとき、地が揺れ動いたというのですね。この出来事は、イスラエルの民の記憶に深く刻まれ、旧約聖書のいろいろな箇所に記録されています。
 一方、預言者ハガイは、ハガイ書2章6節でこう預言しています。「まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。」この神様の言葉を引用して、この手紙の記者は、27節で「この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています」と記しているのです。
 なんだか、とても回りくどい言い方をしていますが、この世界にあるすべてのものは、いつか揺り動かされ取り除かれてしまうということです。この世界はいつかは終わるのです。しかし、決して揺り動かされることのないものが残ります。それが28節にある「揺り動かされない御国」です。
 これまで、この手紙を通して、イエス・キリストこそ偉大な大祭司であり、至高の王なる方であることを学んできました。この王の王であるイエス様の御国こそ、どんなことがあっても揺り動かされることのない永遠の御国なのです。そして、私たちは、その揺り動かされない御国を受け継ぐことができるのです。私たちの人生のゴールに待っているのは、揺り動かされない御国です。それとともに、イエス様が私たちのもとに来られたとき、「神の国はあなたのただ中にある」と言われました。信じる一人一人の内に聖霊が与えられ、イエス様がいつも共にいると約束してくださっています。今、私たちのただ中に揺り動かされない御国が与えられているのです。
 私たちはすぐに揺れ動いてしまうような弱い存在ですが、決して揺り動かされない御国を与えられている者として、感謝しつつ生きていきましょう。
 この説教を準備しているとき、聖歌五六〇番が私の心の中にずっと流れていました。

   心にあるこの安きを 奪うもの地になし
   試みにて苦しむとも 我が安き動かじ
   我がものなる主を宿す その喜び 言い難し
   主宣えり「我などて汝を捨てて去るべき」

 さて、28節の後半に、「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」と書かれていますが、この「神に喜ばれる奉仕をする」という言葉は、新改訳聖書二〇一七では「神に喜ばれる礼拝をささげる」と訳されています。「奉仕する」とは「礼拝する」とも訳すことができる言葉なのです。
 礼拝は、神様へのささげものであるとともに、神様への奉仕でもあるのです。時々、「私は何も奉仕ができない」とおっしゃる方がいますが、大丈夫です。誰もができる素晴らしい奉仕があります。感謝しつつ神様に喜ばれる心からの礼拝をささげることです。私たち一人一人が心から礼拝をささげていくなら、それが人々をキリストへと導く働きにもつながっていくのです。もし、礼拝に神様への感謝も賛美もなく、喜びも感動もないなら、神様はその姿をお喜びになりません。神様に喜ばれる礼拝とは、私たちが心から感謝と賛美をもって、神様の恵みに生かされていることを喜び、主をほめたたえていくことなのです。

 最後に、29節に「私たちの神は焼き尽くす火です」と記されています。パウロは、第一コリント3章9節ー13節でこう書いています。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
 私たちの人生の土台はイエス・キリストですが、その上にどのような建物を建てていくでしょうか。燃えて失われてしまうことのないもの、いつまでも続く信仰、希望、愛をもって、感謝と賛美とともに神様に喜ばれる礼拝をささげていきましょう。