城城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年11月12日          関根弘興牧師
                  ヘブル13章1節ー8節
 ヘブル人への手紙連続説教36
    「いつまでも同じです」

 1 兄弟愛をいつも持っていなさい。2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。4 結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(新改訳聖書)

                 
 ヘブル人への手紙の連続説教をしてきましたが、今日はいよいよ最後の13章に入ります。この手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンたち宛てに書かれたものですから、この手紙を理解するためには、ユダヤ人クリスチャンたちが置かれていた状況を知る必要があります。彼らは、生まれ育ったユダヤ人コミュニティーから追い出され、また、ローマ政府からの迫害も始まっていました。ですから、困難の中で、本当にこのままクリスチャンとして生きていって大丈夫だろうか、と不安や恐れを持つ人たちがいたのです。
 そこで、この手紙は、イエス様こそ、御使いより、旧約聖書の偉大なモーセより、どんなにすぐれた預言者より、遥かに勝る方であり、至高のお方、王の王なるお方、信仰の創始者であり完成者である方なのだから、このイエス様を信頼して生きることが最も幸いで確実な道なのだ、と教えているのです。
 私たちも、困難や試練に会うと、このまま信仰生活を続けていて大丈夫だろうか、信仰に生きる意味がどこにあるのだろうか、と不安や戸惑いを持つことがありますね。この手紙は、当時のユダヤ人クリスチャンたちだけでなく、現代に生きる私たちにも励ましと希望を与えてくれるのです。
 聖書は、「イエス・キリストに信頼する者は、失望に終わることがない」と教えています。私たちは、人生の中でたびたび失望を味わうことがあるでしょう。しかし、イエス様から目を離さないで信頼して生きていくなら、決して失望で終わることはない、と神様が保証してくださっています。だから、どんな状況にあっても希望を持って生きていくことができるのですね。
 さて、今日の13章では、イエス・キリストを信頼して生きる私たちが具体的にどのような生き方をしていったらいいのか、ということが教えられています。

1 クリスチャンの生き方

(1)兄弟愛をいつも持っている

 まず、1節に「兄弟愛をいつも持っていなさい」と書かれていますね。聖書には、兄弟愛のことが繰り返し記されています。 たとえば、詩篇133篇1節に「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」とあります。主にある兄弟姉妹が共に集い、主を見上げて礼拝をささげることの中に幸いと喜びがあるというのですね。
 また、箴言17章17節「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」とあります。困難な時には、互いに支え合う存在となるのですね。
 そして、新約聖書の中では、パウロもペテロもヨハネも、互いに愛し合い、励まし合い、助け合うことの大切さを教えています。
 ということは、信仰生活は、自分一人で続けることは難しいということでもあるのですね。私たちは、共に集まることによってキリストのからだを建て上げ、それぞれが自分の役割を果たし、お互いの必要を補い合いながら成長していくことができます。また、厳しい困難や迫害の中にいるときには、主にある仲間たちの励ましや支えや祈りによって、信仰生活を継続していくことができるのです。
 ただ、兄弟愛を示さなければならないと意気込みすぎて、自分の限界を越えて無理をしてしまうことがないように、気を付ける必要があります。無理は続きません。自分が出来ることを継続可能な範囲で行っていけばいいのです。人と比べる必要はありません。皆、それぞれの持ち味があるのですから。ほんのひと言声をかけることが、相手にとって大きな励ましになることもあります。誰かのためにひそかに祈り続けることも大切です。それぞれが自分なりの方法で互いに励まし合い、恵みを分かち合う者とされていきましょう。
 さて、今日の箇所では、兄弟愛を示す具体的例として、2節に「旅人をもてなす」こと、3節に「牢につながれている人々や苦しめられている人々を思いやる」ことが挙げられています。

①旅人をもてなす

 当時の旅館は、今とはまったく違っていました。非常に非衛生で、しばしば不道徳の巣になっていたと言われます。ですから、伝道のために各地域を回っている伝道者や仕事で旅行するクリスチャンにとっては、安心して泊まれる宿が提供されることはたいへんありがたいことでした。
 考えてみてください。教会は、最初から立派な建物を持っていたわけではありません。パウロたち一行がピリピの町に初めて伝道に行ったとき、紫布の商人ルデヤの家族がクリスチャンになり、パウロたちはその家に滞在しました。そして、その家からピリピ教会が始まったのです。パウロたちは各地を旅して回りましたが、彼らを迎え入れる家があったからこそ、福音が広く伝えられ、また、そういう家から教会が生み出されていったのです。ですから、「旅人をもてなしなさい」という勧めは、パウロの手紙の中でもたびたび記されています。当時、旅人をもてなすことが、主の働きに対する大切な奉仕となり、福音が広められていくための大切な役割の一つであったのです。
 しかし、誤解しないでいただきたいのですが、これは、見ず知らずのどんな旅人でももてなしなさい、という意味ではありません。
 当時、「旅人をもてなしなさい」ということが教会のなすべき大切なこととして広く伝えられていきました。すると、それを悪用する人たちも増えていったそうです。教会で無料の食事と宿泊が提供されるということで、クリスチャンと名乗って何日も滞在し、教会を渡り歩いて生活した人たちも出てきたそうです。また、自分は教会の指導者だと偽って伝道のために金銭を要求する詐欺まがいの手口まで出てきたというのです。教会の古い文書の中には、こうした人たちに注意するようにと促す文書もあるくらいでした。
 今、わたしたちにとって旅人をもてなしなさい、とはどのような意味があるのでしょう。まず、お互いがお互いを歓迎し、お互いの存在を喜んでいくのです。私たちは一人一人違いがあります。でも、この多様性があるからこそ、主の福音はいろいろな形で分かち合われていくのです。

②人々を思いやる

3節には、「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」とあります。
 クリスチャンになったがゆえに、迫害され、牢につながれている人たちがいました。聖書には、福音が伝えられていくとき、数々の困難や迫害があったことが記されています。ペテロもパウロも逮捕され投獄されたり、瀕死の目に遭ったこともあります。そのとき、教会は彼らのために熱心な祈りをささげていました。
第一コリント12章26節には、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」とあります。兄弟愛に生きるとは、相手を思いやることでもあるのです。私たちは人の痛みをなかなか理解できません。軽々しく「あなたの痛みはわかりますよ」などということはできません。しかし、自分も肉体を持っているので、もし同じ苦しみを受けたら痛みがどれほどかを想像することはできます。相手の立場に立って想像するのです。そうすると、おのずから祈りへと導かれます。
 第二コリント1章4節でパウロはこう書いています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」私たちが苦しみの中にいるときは、兄弟姉妹が私たちを思いやり祈ってくれます。そして、主から慰めを受けることができます。だから、私たちも兄弟姉妹を思いやり、主の慰めと支えを祈っていくのです。

 このように、兄弟愛を具体的に示す方法として、互いにもてなし、思いやっていこうと書かれているわけですが、2節の後半に「こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」と書かれていますね。これを読んだユダヤ人クリスチャンたちは、きっと旧約聖書のアブラハムを思い起こしたことでしょう。創世記18章に、アブラハムが三人の旅人を迎え入れて手厚くもてなした出来事が記されています。その三人の中の一人は主御自身で、あとの二人は御使いであったと書かれています。(この「主」は「受肉以前のキリストだ」と考える学者もいます。)主は、この時、アブラハムに「来年の今頃、あなたの妻サラが男の子を産む」という約束をされたのでしたね。もし、この時、アブラハムがこの三人を無視していたらどうだったでしょうね。
 マタイ25章31節ー40節で、イエス様は、世の終わりの時に起こることについて、次のような話をなさいました。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 」
 兄弟にすることは、神様に対してすることと同じなのだというのですね。だから、パウロは、コロサイ3章23節で「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」といいました。ヨハネも第一ヨハネ4章19節ー21節にこう書いています。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」神への愛と兄弟愛は、切り離すことのできないものなのですね。ですから、聖書には、兄弟愛の大切さが繰り返し書かれているわけです。

(2)結婚を尊ぶ

 それから、4節には、結婚が尊ばれるように、そして、不品行や姦淫を避けるようにと教えられています。
 創世記2章24節には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と書かれています。また、旧約聖書の時代は一夫多妻制でダビデもソロモンも多くの妻を持っていましたが、その結果家庭内が混乱し多くの問題が起こったことが書かれています。つまり、聖書は、一人の夫と一人の妻が堅く結びついて一体となることが大切だと教えているのです。 また、夫と妻の関係は、キリストと教会との関係を表すたとえとして使われています。キリストと教会が夫婦のように一体となるのです。不品行や姦淫は、麗しい結婚の絆を破壊します。ですから、結婚を尊ぶことが信仰生活において大切なこととして挙げられているのです。
 しかし、いろいろ理由で結婚生活が破綻し、苦しみや痛みを心に抱えながら歩んでいる方もおられるでしょう。どうか自分を責めないでください。むしろ、その苦しい経験によって学んだことを大切にしながら、新しく踏み出した人生を前向きに進んでいっていただきたいのです。

(3)金銭から自由になる

 次に、5節に「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」とあります。これは、金銭を
これは、金銭を完全に否定しなさいということではありません。金銭を得たいと誰もが思います。しかし、金銭に支配され、奴隷のようになってはいけない、ということです。神様は、一人一人に必要なものを備えてくださると約束しているのですから、そのことを信頼して、今与えられているものに満足し、感謝して生きることが大切だというのです。
 もちろん、金銭は私たちの生活のために大切です。金銭がなければ、生活は成り立っていきません。教会を運営していくこともできません。また、金銭が少なくなれば将来に対する不安も起こるでしょう。ですから、私たちは金銭を適切に管理し、将来のために備え、蓄えることは必要なことです。そして、もし多くの金銭を得たら、賢く用いていけばいいのです。
 しかし、金銭は、万能ではありません。もし、金銭を多く持ている人のほうが価値があるとか、お金さえあれば大丈夫だと考えていたら、本当の満足や安心を得ることはできないでしょう。
 一つの詩を紹介しましょう。

食物はお金で買えるが、食欲は買えない
薬はお金で買えるが、健康は買えない
ベットはお金で買えるが、睡眠は買えない
化粧品はお金で買えるが、美しさは買えない
別荘はお金で買えるが、くつろぎは買えない
快楽はお金で得られても、喜びは買えない
友だちはお金で得られても、友情は買えない
使用人はお金で得られても、誠実は買えない
静かな日々はお金で買えても、やすらぎはお金で買えない

ルカ12章15節で、イエス様はこう言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」また、パウロは第一テモテ6章6節ー7節でこう言っています。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」
 いくら金銭があっても、永遠のいのちにはつながりません。もっと大切なものがある、それを忘れてはいけないのです。
 イエス様が公の生涯に入られる前に悪魔の試みを受けられました。たことが福音書に記されています。悪魔は、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしわたしをひれ伏して拝むなら、これを全部あなたに差し上げよう」と誘惑しました。この世の栄華をすべて自分のものにできなら、これ以上の幸せはない、何でもできる、と思いますね。
 しかし、教会がこの世の莫大な富と強大な権力を持った中世の時代は、教会史の中で最も暗黒の時代と言われています。富と権力を持ったがゆえに、神様への純粋な信仰と愛が失われてしまったのです。
 イエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」と言ってサタンの誘惑を退けられました。私たちは、金銭ではなく、主を拝み、主にだけ仕えることを人生の中心に据える必要があるのです。
 イエス様はこう約束しています。
 マタイ6章33節「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 また、パウロは、ピリピ4章19節でこう書いています。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」主イエスの内に神様の栄光の富が満ちているので、主は私たちの必要をすべて満たすことがおできになります。そして、5節後半にあるように、その主御自身が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言ってくださっているのです。ですから、私たちは6節にあるように、「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう」と宣言しつつ安心して生きていくことができるのですね。

2 信仰の模範

さて、7節に「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」とあります。福音を伝え、教会の基礎を築き、すでに天に帰った指導者たちのことを思い出すことによって、信仰に生きることの幸いを覚えることができたのでしょうね。
 私は、ここを読むたびにプレッシャーを感じます。皆さんが、関根牧師のことを思い出しなさい、と言われたらどうでしょう。「牧師は、いつもお気楽に遊んでたな」とか「おやじギャグばかり言ってたな」など、いろいろ思い出すでしょうね。でも、「牧師は、いつもニコニコして、イエス様は恵みとまことに満ちておられた、イエス様がいてくれるから大丈夫だ、と言っていたな」というようなことを思い出してくださる方が一人でもおられたら十分だと私は思っています。
皆さんは、自分についてどんなことを一番思い出してもらいたいですか。「あの人はいつも愚痴ばかり言ってたね」「自慢話が多かったね」「あの人は、いつも感謝、感謝って言っていたね」・・・。いろいろでしょうが、願わくば、信仰に生きる幸いを互いに伝えることができる仲間とされたいものですね。
 ただ、どんなすばらしい指導者であっても、いつかはこの世を去っていきます。しかし、私たちには決して変わることのない主イエス様がいつも共にいてくださいます。8節に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と書かれているように、イエス様の恵み、助け、導きは、いつも変わらずに私たちとともにあります。ですから、いつもこの方を心から信頼し、安心して生きていこうではありませんか。