城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年11月19日          関根弘興牧師
                 ヘブル13章9節ー17節
 ヘブル人への手紙連続説教37
    「恵みによって強められる」

9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。10 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。16 善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(新改訳聖書)


先週、私たちは、二つの大切なことを学びました。イエス・キリストは決して私たちを離れず見捨てないということ、そして、そのイエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがないということです。すべてのものは変わりますが、イエス様だけは変わることがありません。私たちは、そのイエス様と共に歩んでいくのです。
 そういう私たちは、具体的にどのような歩みをしていけばいいでしょうか。先週は、兄弟愛を持って生きること、具体的には、お互いの存在を歓迎し、思いやることの大切さを学びましたね。また、結婚を尊ぶこと、そして、金銭の束縛から自由になることも学びました。今日は、その続きです。

1 食物の規則によらず

 まず、9節に「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません」とありますね。「さまざまの異なった教え」とは、どのような教えでしょうか。続きを読むと食物に関する教えのようです。
 この手紙の宛先であるユダヤ人クリスチャンたちは、ユダヤ人社会の中で生まれ育ちましたから、小さい頃から旧約聖書の戒めを大切に守ってきました。中でも食物に関する規定は、日常の当たり前のこととして守ってきたわけです。
 旧約聖書のレビ記11章には、食べてよいきよい物と食べてはならない汚れた物のリストがあります。彼らはそのリストに沿って食生活をしていたわけです。
 ところで、神様は、なぜ、きよい食物と汚れた食物についての戒めをお与えになったのでしょうか。それは、「神様の聖さ」について体験的に教えるためでした。実際の生活の中で、聖いものと汚れたものを厳密に区別することによって、神様の聖さとは決してあいまいなものでなく、きちんと区別されるべきものなのだ、ということを学ばせたのです。
 それは、人間の罪ということを考えるとよくわかります。神様は義なる方、完全に正しい方ですから、罪ある者をそのまま受け入れることはなさいません。罪をあいまいにしたままで、受け入れることはできないのです。とういことは、本来、人間は罪ある者ですから、そのままでは汚れた者であり、神様に受け入れられることはできません。神様に受け入れられるためには、罪の問題を解決してきよい者となる必要があるのです。そのことを教えるために神様は、きよい食物は食べてもいいが、と汚れた食物は食べてはならない、という戒めをお与えになったのです。
 しかし、イエス・キリストの十字架と復活によって、キリストを信じる者は皆、罪が赦され、きよい者と認められ、神様の子として自由に神様のみもとに近づけるようになりました。ですから、食物規定を守る必要はなくなったのです。
 しかし、幼い頃から旧約の戒めを守って生活してきたユダヤ人たちは、クリスチャンになってからも食物規定を守り続けました。例えば、牛の肉は食べられますが、豚肉は駄目です。うろこのある魚は食べますが、ウナギは駄目ですね。そういう戒めを守る生活が身についていたのです。また、特に異教の社会においては、市場に売っている肉は異教の神殿に備えられたものがそのまま売られている場合があありました。そうするとそれらの肉は宗教的に汚れているかも知れないので、肉は食べずに野菜だけ食べる人たちもいたのです。そういう人たちの中には、今まで禁じられていた物を食べてしまったら、大きな罪を犯したかのように感じる人もいたのです。食べ物で汚れたら神様に受け入れてもらえなくなる、と心配したわけですね。
 しかし、私たちは、食物規定やその他の律法の戒めを守っても、きよい者になることはできません。先ほどお話ししましたように、ただイエス・キリストを信じる事によってきよい者となるのですから、もはや食べ物のことで心を煩わす必要はないのです。
 ですから、パウロは、第一コリント8章8節でこう言っています。「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」また、ローマ14章17節では、こう言っています。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
 今日の箇所の9節には、「恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした」とありますね。神様に受け入れられる聖い者として生きていくために必要なのは、食物の規定を守ることではなく、神様の恵みによるのだというのです。だから、「これは食べていいが、あれば食べてはいけない」などというようなに教えに気を取られたり、迷わされたりしないように、と教えているのですね。

2 恵みによって強められる

 では、「恵みによって心を強める」とは、どういうことでしょうか。この「恵み」とはどのようなものなのでしょうか。
 今日の箇所では、旧約時代に行われた罪の贖いのいけにえとイエス・キリストを比べて説明しています。

①私たちに与えられた祭壇

10節に「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません」と書かれていますね。
 旧約聖書には、年に一度、贖いの日が定められていました。その日には、祭司の罪をあがなうための雄牛と、民の罪をあがなうためのやぎがいけにえとしてほふられ、その血は、聖所と祭壇をきよめるためにつかわれ、脂肪は祭壇の上で焼かれます。そして、残った皮や肉は宿営の外に持ち出されて火で焼かれるのです。他のいけにえの場合は、祭司たちや幕屋で仕える者たちが肉を食べることができましたが、このいけにえの場合は食べることは禁じられていました。「幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません」というのは、このことを指しているのですね。
 じつは、この贖いの日の儀式は、将来、キリストの十字架によって行われる完全な罪の贖いを示す原型のようなものでした。10節の「私たちには一つの祭壇があります」というのは、そのキリストの十字架のことです。「祭壇」とは、動物が私たちの罪の贖いのためにほふられ神様にささげられる場所ですが、私たちの祭壇は、イエス様が私たちの罪を負い、すべての罪のあがないを成し遂げるために、御自身をささげてくださった十字架にあるのです。
 そして、旧約聖書の贖いの日にささげられた動物は、誰も食べることはできませんでしたが、私たちは、十字架で御自身をささげ、よみがえられたイエス様によって永遠の養いを受けることができるのです。
 イエス様ご自身がヨハネ6章で「わたしはいのちのパンです」と言い、また、こう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
 また、イエス様は、十字架につけられる前の最後の晩餐の時に、パンを取り、弟子たちにこう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」と。そして、杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
 私たちは、このイエス様の言葉に従って聖餐式を行っています。聖餐式は、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むことを象徴する儀式なわけですが、イエス様を食するというのは、イエス様が十字架で私たちの罪を完全に贖ってくださったことを信じ、復活して罪と死を打ち破ってくださったイエス様のいのちを受け取り、その恵みをいつも味わいながら生きることなのです。
 動物のいけにえは、いくらささげても神様のいのちをうけとることはできませんでした。しかし、神様の愛と恵みによって与えられたいつまでも変わらないいのちのパンであるイエス様を食するなら、永遠のいのちをもって生きていくことができるのですね。

②宿営の外に出てみもとに行こう

 それから、13節に「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」と書かれていますね。
 キリストは、罪のない方なのに、嘲られ、鞭打たれ、十字架にまでつけられました。そのキリストに従う私たちの人生も決して順調でバラ色ではありません。特に、当時のクリスチャンたちは、さまざまな迫害や辱めを受けていたでしょう。しかし、そういうものを背負って、宿営の外に出て、主のもとに行こうというのですね。
 この言葉は、二つの意味に解釈することができます。
 一つは、イエス様はエルサレムの城壁の外で十字架につけられました。ですから、私たちも古い生き方の外に出て、辱めを受けることを厭わずに、キリストの十字架のもとに行こうという意味の解釈です。
 もう一つ、この手紙の記者は、旧約聖書のモーセのことも思い起こしていたのかも知れません。むかし、モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させて荒野を旅している時に、金の子牛事件が起こりました。モーセが神様に招かれてシナイ山に上っていった後、なかなか戻って来ないので、民は不安になり、モーセの兄のアロンに「モーセの代わりに私たちを導く別の神様を造ってください」と懇願しました。すると、アロンは民から金の飾りを集めて金の子牛を造り、民はその子牛を礼拝し始めた、というとんでもない出来事です。
 この出来事のすぐ後のことですが、出エジプト記33章7節にはこう書かれています。「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。」この会見の天幕とは、後に宿営の真ん中におかれる会見の天幕(幕屋)とは別の物で、モーセの霊的な信仰生活と深く結び付けられた場であったようです。その天幕の中で、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」と書かれています。
 ヘブル人への手紙の記者は、このモーセの姿を当時のユダヤ人クリスチャンたちの状態と重ね合わせていたのかも知れません。一般のユダヤ人たちは、自分たちの社会は聖く、外側のものは世俗的で汚れている、と考えていましたが、クリスチャンになったユダヤ人たちは、そのユダヤの社会や会堂から追い出されてしまっていたのです。そんな彼らに、この手紙は、「あなたがたは、今ままで生きてきた枠を抜け出し、あなたを縛っているさまざまな宗教的な規則から抜け出し、古い価値観や迷信の世界からも抜け出し、宿営の外に出て神様のみもとに行こうではないか」と大胆に勧めているのです。
 これは、私たちへのチャレンジでもあります。私たちも、いろいろな古い束縛、過去への執着、この世的な価値観などから抜け出して、勇気をもってみもとにいこうではないか、と勧められているのです。自分自身を点検し、もし自分を縛り付けているものがあるなら、そこから解放されて主に近づいていきましょう。14節にあるように「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」から。 

3 賛美のいけにえをささげる

 次に、15節に「賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実をささげよう」と書かれています。
 イエス様が私たちの罪を完全に贖ってくださったので、私たちは、もはや罪のためのいけにえをささげる必要はありません。しかし、ささげるべきいけにえがあります。「賛美のいけにえ」です。主の素晴らしさをほめたたえるのです。信仰生活の特徴の一つは「賛美」です。また、礼拝を特徴づけるものも「賛美」です。賛美のない礼拝は、礼拝ではありません。
 時々、落ち込んで賛美する気分になれない時があるかもしれません。しかし、意志的に「賛美をささげる」ことが大切なのです。気分がいいから賛美するのではなく、自分の状態にかかわらず、神様が賛美にふさわしい方だから賛美するのです。
 ある雑誌にこんなことが書かれていました。「努力放棄語と思考停止語がある。それは『どうせ』『やっぱり』『しょせん』だ。」このような言葉は、やる気を奪い、落ち込ませるのですね。しかし、聖書は、私たちに人生を回復させる言葉があると教えています。それは、神様への賛美の言葉です。神様の偉大さ、栄光、力、愛、恵みを賛美するとき、私たちの内には、喜びと勇気と希望が湧いてきます。だからこそ、賛美が難しい時にも、意志を用いて、あえて賛美をささげるのです。「主をほめたたえます。主よ、感謝します」と。
 第二歴代誌20章に書かれていますが、南ユダのヨシャパテ王の時代に敵の大軍勢が責めてきました。絶体絶命のピンチです。王も民も必死に主の助けを祈り求めました。すると、神様は、こう言われたのです。「恐れてたり気落ちしてはならない。これは神の戦いだ。しっかり立って動かずにいよ。そして、あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」王と民は主を礼拝し賛美しました。そして、戦いの最前線に賛美する者たちを立たせ、彼らが「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美し始めると、主は、伏兵を設けて、敵を打ち負かしてくださったのです。
 ネヘミヤ書8章10節には「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」と書かれています。クリスチャン生活の力の源は賛美です。賛美は恐れを取り除き、勇気を与え、主を愛する心、主に信頼する心を生み出していくのです。

4 分かち合って生きる

 それから、16には「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」と書かれています。これは、先週学んだ兄弟愛に生きることの具体的な例の一つですね。パウロも、使徒の働き20章35節で「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」と書いています。 私たちは、それぞれに賜物が分け与えられています。自分の持っているものを他者のために用いることを考える人生は幸いです。互いに励まし、祈り、時にはは訓戒し合いながら、麗しいキリストのからだとして成長していくのです。

4 指導者に従う

最後に17節に「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです」と書かれています。この「指導者たち」とは、7節で「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」と言われた指導者たちの後継者のことでしょう。
 ここに指導者たちの務めが書かれていますね。「神に弁明し、人々のたましいのために見張りする」とあります。
 「神に弁明する」とは、「神に申し開きをする」とも訳されます。指導者は、委ねられた一人一人について神様にとりなし、申し開きをする者として、一人一人の霊的な幸いを守っていく責任があるのです。ですから、イエス様の一方的な恵みをいつも懇切丁寧に語っていく責任がゆだねられているのです。
 また、見張りをするとは、「目を覚ましている」ということです。指導者は決して寝てはいけないということではありません。目を覚ましているとは、聖書に書かれている以外の異なった教えが、教会に、また、一人一人の中に入って来ないように見張っているということです。 9節に「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません」とありますね。異なった教えが入ってこないように、いつの時代でも、見張っている必要があるのです。なぜなら、異なった教えは、私たちの自由を奪い、神様の恵みから引き離そうとするからです。ですから、指導者が、その役割を果たす限りにおいて、指導者に従いなさい、と勧められているのです。
 しかし、もし、指導者が間違ったことを教え、恵みからそれていくような方向へと導くなら、その時は、「それは、まことの福音ではない。違います」と声を上げる勇気を一人一人が持つことも大切です。使徒17章11節に、パウロがベレヤという町に行ったとき、ベレヤの人々は「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」と書かれています。
 時々、「指導者に服従しなさい」という聖書の言葉を誤解して、指導者が必要以上の権威を持ち、まるで指導者の言葉が絶対であるかのように教え、盲目的な服従を強いることがあります。しかし、そうであってはいけません。指導者は、聖書の教えを丁寧に受け取りながら、豊かな神様の恵みを語るために用いられていくのです。
 ですから、私たちは、語られた聖書のメッセージに心を開き、自分でも聖書に親しみながら、神様の恵みに生かされていることを喜びつつ礼拝をささげいきましょう。そして、互いに尊敬と信頼を育みながら共に歩んでいく者とされていきましょう。