城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年12月10日          関根弘興牧師
                ヘブル13章18節ー25節
 ヘブル人への手紙連続説教38
     「恵みあれ」

18 私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。19 また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、21 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。22 兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。23 私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。25 恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。(新改訳聖書)

 今日は、アドベント第二週です。約一年をかけてヘブル人への手紙の連続説教をしてきましたが、今日が最終回です。
 この13章には、忘れてはいけない大切な二つのことが書かれています。一つは、「イエス・キリストは決してあなたを離れず、見捨てない」という約束です。もう一つは、「イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがない」という事実です。だから、私たちは、この約束と事実の中に歩んでいる者として、兄弟愛を持って互いに歓迎し、思いやり、また、恵みによって強められ、神様をたたえる賛美のいけにえをささげながら歩んでいこうではないか、とこの手紙は勧めているわけですね。
 また、指導者たちについても書かれていますね。指導者たちは、神様から委ねられた一人一人が霊的な幸いを守っていくために、とりなしの祈りをし、みことばを丁寧に語っていく責任があるというのです。そして、指導を受ける人々は、指導者がその責任を正しく果たしている限りにおいて、「指導者に従いなさい」と勧められているのです。
 さて、今日は、手紙の締めくくりの箇所ですが三つに分けることができます。18ー19節は、この手紙を書いた人とその仲間たちからの祈りの要請、20ー21節は、祝福の祈り、22-25節は、追伸です。

1 祈りの要請

 まず、18節に「私たちのために祈ってください」とありますね。クリスチャンは、お互いに祈りによって支え合いながら歩んでいくことができます。素晴らしいですね。一部の特別な人の祈りだけに力があるのではありません。一人一人の祈りを神様が聞いて答えてくださるのですから、お互いに「祈ってください」と頼んだり、祈りによって支えることができるのです。
 では、今日の箇所には、どのような祈りの要請が書かれているでしょうか。
18節に、こうありますね。「私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」つまり、「私たちが正しい良心を持って正しく行動できるように祈ってください」というのですね。
 私たちが何かを行うとき、正しい動機によって行うことは大切です。しかし、どんなにすばらしい動機があったとしても、手段となる行動が間違っているなら、マイナスの結果にしかならないことがあります。
 例えば、「伝道」ということについて考えてみてください。イエス様の福音を伝えようということですから、動機は良いわけですね。しかし、伝える手段が間違っているということが時々あるのです。
 教会がこちらに移転をする前のことですが、大きなスピーカーを積んだ車に乗った人が教会のすぐ近くに来て、「悔い改めて、主イエスを信じなさい」と大音量で呼びかけていました。私は、すぐに行って、止めさせました。その人は、私にこう言うのです。「日本の教会が伝道をしないので、私が全国を回って、こうして拡声器を使って多くの人に福音を伝えているのです」と。私は、それを聞いて、「あなたが伝道をしようとする思いは理解できるけれど、あなたの行っていることは伝道ではありません。ただの自己満足ですよ。見てください。目の前には中学校があるのですよ。それも授業中ですよ。すぐに止めてください。これは、伝道ではなく、伝道の妨げです」と厳しく注意をしたのです。
 「主の福音を伝えたい」という思いは、純粋なのかもしれません。しかし、知恵と配慮の欠く行動は、福音の妨げとなるだけなのです。だから、正しい良心を持っているだけでなく、正しい行動ができるように祈り合うことが必要なのですね。
 教会の働きにもクリスチャン一人一人の働きにも祈りが必要です。純粋な主への愛と主の恵みによって志が与えられたら、配慮と知恵を持って適切な行動ができるように主の導きを祈っていくのです。正しい良心をもって、正しく行動するために、お互いが祈り合う者とされていきましょう。 
そして、19節には、「私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです」と書かれていますが、仲間との再会を願っているのですね。パウロもしばしばこれと同じようなことを書いていますが、当時は、便利に移動できる時代ではありませんから、会いたくてもなかなかすぐに会えませんでした。ですから、主にある兄弟姉妹と再会したいという願いは今よりも切実だったのでしょうし、再会のために熱心に祈る必要を今よりも感じていたのでしょう。

2 祝祷

さて、次に、20節ー21節には、この手紙を締めくくるにあたっての祝祷の言葉が記されています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」
この祈りの中には三つの大切なことが教えられています。

①平和の神

 「永遠の契約の血による羊の大牧者」とは、イエス様のことです。これは、このへブル人への手紙の大きなテーマでしたね。 旧約聖書の時代、幕屋や神殿でたくさんの動物が罪のためのいけにえとしてささげられていました。しかし、動物の血は人の罪を完全に贖うことはできないので、常に繰り返しささげる必要があったのです。
 しかし、神のもとからこられた罪も汚れもないイエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、御自身をささげてくださいました。そのイエス様の血が私たちの罪を完全にきよめてくださったので、私たちは、神様に義なる者と認められ、神様と永遠の契約、つまり、罪が完全に赦され、神様の永遠のいのちを与えられ、永遠に神様と共に生きることができるという契約を結ぶことができたのです。そのことは、イエス様が死からよみがえられたことによって証明されました。イエス様は、十字架によって死んでくださっただけでなく、よみがえって死を打ち破り、永遠のいのちを与えることができるということを示してくださったのです。神様は、イエス・キリストによって私たちにまことの平和をもたらしてくださいました。私たちは、神様との平和の中で安息し、人との平和を作り出す者へと成長させていただくことができるのです。

 マタイ22章31節ー32節でイエス様はこう言っておられます。「死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
 「神は生きている者の神です」とイエス様は言われました。神様は、すべてのものにいのちを与え、すべてのものを支え、生かしておられる方です。その神様と共に生きる私たちは、この世にあっても、この肉体が死んだ後も、生きることができるのです。
 ある本にこう書かれていました。「ですから、この方の前では、すべてが生きるのです。つまらぬ雑用と思えることも生きるのです。無駄と思える努力も生きるのです。むなしく過ぎたと思える時間も生きるのです。報いられなかった忍耐も生きるのです。はかなく消えた希望も生きるのです。皆生きるのです。孤独も生きる、病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、痛みも生きる、私たちのこの命が尽きてもなお生きるのです。」
 イエス・キリストを死者の中から導き出された平和の神が、私たちのすべてを生かしてくださるのです。

②みこころに生きる備え

 次に、21節にこうありますね。「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。」
 この中には「イエス・キリストによって私たちのうちにみこころを行ってください」という祈りと、「私たちをみこころを行うことができるものにしてください」という祈りが含まれています。
 私たちにとって一番大切なことは、神様のみこころにかなうように生きることですね。そのためには、どうすればいいのでしょうか。
 ヨハネ6章28節ー29節に、群衆がイエス様に質問したことが書かれています。「彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」
 私たちが神様が遣わした方であるイエス・キリストを信じること、それが神様のみわざであり、神様のみこころだというのですね。
 私たちは、「神様のみこころを行う」というと、何か立派なことや素晴らしいことを行わなければならないと思ってしまうことがありますが、そうではありません。ただ、救い主イエス様によって罪が赦されたことを信じ、神様の恵みを感謝し、神様の愛と導きを信頼し、神様との親しい関わりの中で生きていくことが、神様のみこころを行うことになるのです。クリスチャンとして生きていることが、神様のみこころを行っていることなのですね。
 そして、そのように生きていく時、神様が私たちにみこころを行わせてくださるのです。
エペソ2章10節にこう書かれています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
また、ピリピ2章13節にはこうあります。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
 イエス・キリストを信じて歩んでいる中で、神様がその時々に私たちの内に志を与えてくださり、また、それを行うことができるように道を開いてくださるのです。ですから、「神様のみこころを行うぞ」といたずらに気負う必要はありません。神様にお任せしていればいいのです。
 クリスチャンになると、何かの決断や選択をする時に、「これは神のみこころだろうか」「どれが神のみこころだろうか」と迷い悩むことがあるでしょう。いくら考えてもなかなか答えが出ないことも多いでしょうし、「これは神のみこころだ」と思っても、しばらくすると「やっぱり違っていたかな」と思ってしまったりすることもありますね。
 でも、もし、主を信頼し歩んでいる中で、何かの志や思いが与えられたなら、それを大切にして進んでいったらいいのです。もし、その道が違うなら、神様は道を閉ざされます。その道がみこころなら、道は開かれていくでしょう。それに、もし失敗したとしても、神様はその失敗をも益にしてくださる方です。ですから、志を与えられたら、祈りつつ勇気を持って踏み出していきましょう。
 第一テサロニケ5章23節ー24節には、こう書かれています。  「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
 私たちがどんなに迷ったり間違ったり失敗したりしても、神様は私たちを完全に守ることがお出来になります。その神様を信頼して歩んでいくことを、神様は喜んでくださるのです。

③キリストに栄光あれ

 そして、祝祷の最後は「どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」という言葉で締めくくられています。
 栄光は、いつもキリストに帰せられるものです。それも永遠にです。
 このへブル人の手紙は、イエス・キリストがいかに栄光に満ちた方であるかということを繰り返し説明していましたね。イエス様は、旧約聖書に登場するどの人物よりも遙かに優れたお方であり、王の王、主の主、至高のお方です。神の御子であり、永遠の救いを完成してくださり、私たちと共に歩んでくださるお方です。キリスト抜きに救いはなく、キリスト抜きにクリスチャン生活はあり得ません。また、キリスト抜きに教会は存在しません。イエス様にすべての誉れと栄光が帰せられ、賛美されていくのです。
 黙示録5章12節「ほふられた小羊(キリスト)は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

3 追伸

 さて、祝祷で締めくくったこの手紙ですが、その後に追伸が付け加えられています。その内容を見ていきましょう。

①勧めのことばを受けてください

まず、22節に「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください」と書かれていますね。
「勧めのことば」とは、今でいうなら「説教」です。「あなたがたにぜひ知っておいてもらいたいことをこの手紙に書きました。それを一人一人が受け取ってくださいね」というわけです。
 そして、「私はただ手短に書きました」とありますが、この手紙は13章もあるのですから、かなり長いですね。でも、もしこの手紙を朗読するとしたら、一時間以内には終わります。そう考えると、当時としては短い説教だったのかもしれません。使徒20章には、パウロがトロアスという町で説教をしたことが書かれていますが、その時、パウロは夜中まで語り続けたとあります。パウロの話が長く続くので、ユテコという人は三階の窓のところに腰掛けて聞いている途中に眠り込んで下に落ちてしまったと書かれているくらいです。勧めのことばは、時には忍耐をもって聞くことも必要かもしれませんね。
 聖書は、休みなしに読むと三日半で読めるそうです。聖書にはたくさんの素晴らしい言葉が溢れています。聖書を読み、説教を聞き、多くのものを受け取っていきましょう。
 
②安否とあいさつ

 次に、23節では、テモテという人物の消息が記されています。テモテは二十歳前後でパウロの同労者となりました。パウロの伝道旅行に随行し、年齢は離れていましたが、パウロが最も信頼を寄せた人物のひとりでした。この手紙が書かれたとき、テモテは牢獄から釈放されたばかりだったようです。きっとこの手紙の宛先の教会の人々もテモテのために祈っていたのでしょう。ですから、テモテの安否を知らせているのです。
 また、24節には、「イタリヤから来た人たちが、あなた方によろしくと言っています」と書かれていますね。クリスチャンは、目に見えない大きなキリストのからだの一員とされています。国境を越え、言語や肌の色を超えて、主にあって兄弟姉妹とされているのです。ですから、互いの安否を問いながら歩んでいきましょう。

③恵みがありますように

 そして、最後の25節には、「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」とあります。この手紙を締めくくるのにふさわしい言葉ですね。
 なぜなら、私たちが救いを得たのは、細かい律法を守ることによってではなく、ただ神の恵みによるからです。神様が御子イエスを遣わし、誰でも信じれば救われるという道を備えてくださいました。キリストの十字架によって罪が赦され、キリストの復活によって永遠のいのちが与えられ、神と共に歩むことができる者になりました。ですから、私たちの生涯は、どこを切っても「恵み」なんです。恵み抜きの人生を歩むことなどできないのです。罪赦されている恵み、神のみ前に義とされ聖なる者とされている恵み、生かされている恵み、愛されている恵み、主の圧倒的な尽きることのない恵みによって、今、私たちはここにいるのです。そして、これからも、恵みとまことに満ちた主イエス様と共に歩む幸いを味わっていく者とされているのです。
 ですから、その神様の豊かな恵みが一人一人の上にあふれていきますようにと、この手紙の記者も祈っているのです。

 最後に、神様の恵みを記した聖書の箇所を読みましょう。
 哀歌3章22節「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」
 第二テモテ1章9節「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。」