城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年12月17日          関根弘興牧師
                マタイ1章17節
 イエスの生涯1
     「系図」

17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。(新改訳聖書)


 もうすぐクリスマスですね。クリスマスは、暗闇を照らすまことの光なるイエス・キリストが私たち一人一人のために来てくださったことを心から喜び、礼拝をささげるときです。
 では、イエス・キリストとは、どのような方なのでしょうか。これからしばらくの間、イエス様とはどのような方なのか、そして、イエス様は私たちのために何をしてくださったのかということを少しずつ学びながら、イエス様の素晴らしさを深く味わっていくことにしましょう。
 さて、イエス様の生涯は、新約聖書の四つの福音書に記録されています。その中のマタイの福音書とルカの福音書には、イエス様の誕生の経緯が詳しく書かれていて、それぞれ系図も記されています。
 さあ、新約聖書を読もうと思って最初のページを開くと、まず、マタイの福音書1章の系図があります。私たちには意味のわからない、ほとんど聞いたことのない名前が羅列されているだけなので、ここで読む気をなくしてしまう人もいるでしょうね。
 しかし、私たちは、この系図から、すばらしいニュースを知ることができるのです。今日は、この系図に意味を学んでいくことにしましょう。

1 系図が記されている意味

①歴史上の事実であることを示す

 おとぎ話の場合は、普通は、系図など載っていませんね。「昔々、ある所におじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ柴刈りに行きました。・・・」という具合に話が始まります。子供たちに桃太郎の話をするとき、「西暦何年何月何日に、何々という場所に何々家出身の何々という名前のおじいさんとおばあさんがいました。おばあさんが何々川にいって洗濯していると、むこうから大きな桃が流れてきました」という風には話しませんね。どうしてかと言えば、それは歴史の事実ではないので、はっきりとした時代や場所や系図を書く必要がなし、また、詳しく書くことができないのです。
 しかし、マタイは、イエス・キリストの生涯を書き始めるときに、まず最初に系図を記しました。なぜでしょうか。それは、読者に大切な前提を教えようとしているのです。つまり、「これから紹介するイエス様は、決して空想や夢物語の中の架空の人物ではありません。歴史の中に実在された方であり、この福音書に記録されていることを実際に語ったり行ったりした方なのですよ」と言っているのです。

②旧約聖書の預言の通りであることを示す

 旧約聖書には、救い主についての預言がたくさん書かれていますが、その中で、救い主の系図に関係する預言もあります。
 まず、アダムの子孫から救い主が生まれると約束されました。次に、アブラハムの子孫から救い主が生まれることがわかりました。そして、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブの子ユダの子孫から救い主が生まれることがわかり、ユダの子孫であるダビデ王の子孫から救い主が生まれることが約束されました。その旧約聖書の神様の約束の通りに救い主イエスがお生まれになったということを示すために、マタイもルカも系図を記しているのです。
 ただ、マタイの福音書の系図とルカの福音書の系図には、違いがあります。マタイの福音書は、ユダヤ人たちに対してイエス様が救い主であることを知らせるために書かれたと言われます。ですから、ユダヤ人の父祖であるアブラハムから系図が始まっています。
 一方、ルカの福音書3章の系図は、そのアブラハムよりもさらに遡って、全人類の父祖であるアダムから始まっています。ルカの福音書は、すべての国の人々を対象にして書かれているからです。
 つまり、マタイの福音書の系図は、イエス様こそ、ユダヤ人たちが旧約聖書の時代からずっと待ち望んでいた救い主だということを示すために書かれ、ルカの福音書の系図は、イエス様がユダヤ人だけでなくすべての人の救い主として来てくださったということを示すために書かれたわけですね。
 そういう違いはあっても、どちらの系図も、神様が何千年も前から約束しておられた通りにイエス様は来られたのだ、だから、イエス様こそまことの救い主なのだということを示すために記されているわけです。
 
2 マタイの系図の特徴

 マタイの福音書の系図には、その他にもルカの福音書の系図にはない特徴があります。今日は、それを見ていきましょう。

(1)三つの時代区分

マタイの福音書の系図は、大きく三つの時代に区切られています。17節に「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」というふうに、十四代ずつ三つに分かれているのですね。
 しかし、旧約聖書をよく読むと、11節ではエホヤキムという人が抜けていますし、13節のところでも、ベダヤという人が抜けていることがわかります。「マタイが間違って入れ忘れたのかもしれない」と思う方がいるかもしれませんが、マタイはユダヤ人たちを意識してこの福音書を書いたので、ユダヤ人がすぐにわかるようなミスをするとは考えられません。マタイは、わざと途中の人物を省略して、三つの時代を十四代ずつに整えたのでしょう。それは、ユダヤ人たちがよく知っている旧約の歴史を十四代毎に三つに区切って、イエス様の誕生の歴史的な意味を教えたかったからだと考えられます。
聖書では、七という数字は特別な数字です。たとえば、七日ごとに一週間という時の区切りをつけていますね。これは、神様は六日で世界を創造されて七日目に休まれたという旧約聖書の記述から来ています。七という数字が、完全な一回りの時間であり、完全を意味する象徴的な数なのです。そして、十四は、その七の二倍ですから、全く完全なひと区切りという意味なんです。つまり、マタイは、アブラハムからダビデ王までが一つの歴史的な区切りであり、ダビデからバビロン捕囚までが次の区切り、そしてバビロン捕囚からキリストが来られた時までがもう一つの区切りとなっているのだと言いたいわけです。
 では、三つの区切りそれぞれの内容を見ていきましょう。

①アブラハムからダビデまで

先ほどもお話ししましたように、マタイは、ユダヤ人の読者が最もよく理解できるように、ユダヤ民族の先祖であるアブラハムから系図を始めています。
 アブラハムは、今から四千年も前の人ですね。創世記12章で、神様はアブラハムに「地上の全ての民族はあなたによって祝福される」と約束なさいました。これは、つまり、救い主がアブラハムの子孫を通して来るという約束です。
 そして、聖書を読み進めていくと、救い主は、アブラハムの子イサクの家系から、その子ヤコブの家系から、その子ユダの家系から出るということが少しづつ明らかにされていくのです。 このユダの家系からダビデが生まれました。このダビデは、イスラエルの国を統一した王様です。第二サムエル7章12節では、神様がダビデにこう約束なさいました。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
この約束以降、ユダヤ人たちは、救い主を「ダビデの子」と呼んで、待ち望むようになりました。ですから、新約聖書でイエス様が「ダビデの子」と呼ばれているのは、「救い主」という意味なのです。
このアブラハムからダビデまでの時代は、神様の様々な約束が語られ、アブラハムの子孫であるイスラエル民族が幾多の困難を乗り越えて、ついにダビデ王によって国が統一され、このダビデ王の子孫から救い主が生まれるということが明確に約束された、右肩上がりの期間だったと言えるでしょう。

②ダビデからバビロン移住まで

しかし、ダビデ王様以降は、どうだったでしょうか。
 ダビデ王の後にソロモン王が即位し、国は勢力を拡大して繫栄しましたが、その後は、坂を転がり落ちるように下降線をたどっていったのです。ソロモン王の死後すぐに、国は、北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂てしまいます。北イスラエルの王は、神様に逆らい偶像礼拝を続けたためにアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。南ユダ王国には、神様に従う良い王も出ましたが、ほどんどの王が神様に背いたためにバビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。礼拝の中心であった神殿は破壊され、多くの人が捕虜としてバビロンに連れて行かれてしまいました。国を失い、神殿も失い、異国の地で奴隷状態となり、すべてを失ってしまったかのような時代でした。神様が救い主を送ってくださるという約束は、いったいどこにいってしまったのかという状態でした。つまり、このダビデからバビロン移住までの期間は、下降の一途をたどった歴史だったわけです。

③バビロン移住からキリストまで

 それでは、その後はどうなったでしょう。三番目の区切りはバビロン移住からキリストまでとありますね。
 バビロンで約七十年間捕虜として生活していた人々は、ペルシア帝国の時代になって故郷に戻ることがゆるされました。神殿を建て直すこともできました。しかし、以前のような勢いを取り戻すことはできません。周りの国の属国として支配される状態が続きました。ですから、ダビデ王の子孫ではあっても、王になる人は一人もいませんでした。しかも、12節に書かれているゾロバベル以降の子孫たちは、旧約聖書にまったく記録されていません。ダビデの子孫として注目されることはまったくありませんでした。ダビデの家系であったヨセフとマリヤも、どこにでもいる普通の人として、辺鄙なガリラヤ地方のナザレという田舎で暮らしていたのです。つまり、この時代の系図に名前が載っている人々は、ダビデ王の家系でありながら、まったく埋もれてしまっていたわけですね。
 この時代の人々は、アブラハムやダビデに与えられた救い主の約束を漠然と期待してはいたでしょう。しかし、目の前の現実を見るなら、その約束が実現するとは誰が思えたでしょうか。 しかし、その世間からも全く忘れられてしまっているかのようなダビデの子孫から、救い主が生まれました。真っ暗闇で希望を持つことができないようなこの時に、救い主は約束通りに来てくださったのです。
 イザヤ9章1節ー2節で、預言者イザヤは、キリスト誕生の七百年前にこう預言しています。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
 私たちは、この系図を見るときに、私たちがどんな状態であっても、神様は約束をかならず実行してくださる、ということを知ることができるのです。
 第二テモテ2章13節には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」と書かれています。神様は、ご自身の約束を破ったり取り消すことは決してなさいません。
 天地を創造された真実な神様が、救い主を遣わすと約束してくださいました。神様は、その約束を必ず守ってくださいます。私たちにとって遅いと思われるような時でも、神様は決して約束を忘れてしまう方ではありません。イエス様の誕生のはるか昔から、たくさんの預言者が救い主が来られることを預言していました。そして、救い主は、繁栄と豊かさの時にではなく、苦しみや束縛の暗い時代に約束通り来てくださったのです。
 私たちの人生も、山あり谷ありです。右肩上がりの時もあれば、下降の一途をたどることもあります。しかし、救い主が来てくださった今、詩篇23篇4節にあるように、「たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても私はわざわいを恐れません。あなたが私と共にいてくださいます」と大胆に告白し、勇気をもって歩むことができるのです。

(2)四人の女性たち

 さて、この系図のもう一つの特徴は、当時の系図にはない例外的なことが記されているということです。
 通常のユダヤの社会では、父親だけ系図に載ります。ですから、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、というように書かれているのですね。イサクは、実際には、アブラハムではなく奥さんのサラから生まれたわけですが、サラの名前は載っていません。系図には女性は載らないからです。 しかし、このマタイの系図には、四人の女性たちの名が記されています。タマルとラハブとルツとウリヤの妻です。
 この四人は皆、今ならワイドショーのネタになるような人たちです。タマルは、創世記38章に出てきますが、夫が死んで子供がいなかったのに放っておかれたので、仕方なく遊女のふりをして義理の父ユダを騙して関係をもち、パレスとザラという双子を生みました。ラハブは、ヨシュア記2章と6章に出てくる遊女です。ヨシュア率いるイスラエルの民がエリコを攻める前に斥候を送り込んだとき、エリコの町に住んでいたラハブはその斥候たちをかくまったので、命を助けられ、イスラエルの民の中で暮らすようになったのです。また、ルツはルツ記の主人公ですが、モアブ人の女性でした。飢饉を逃れてモアブの地にやってきたイスラエル人と結婚し、夫が死んだ後に、姑のナオミに従順に従ってイスラエルの国に来て、ナオミの親戚と結婚してナオミのために子孫を残しました。それから、ウリヤの妻は、バテ・シェバという名前ですが、夫ウリヤの留守中にダビデ王と姦通して子供を宿した人物です。
 つまり、四人の女性のうち、ラハブとルツは、イスラエル人が忌み嫌っていた外国人であり、タマルとバテ・シェバは、正規の婚姻関係から外れたところで子供を宿したわけですね。普通は、そのようなことはなるべく隠しておきたいと思いますね。ところが、マタイは、あえてこの女性たちの名前をわざわざ付け加えたのです。また、ダビデ王の後、歴代の王様の名前が書かれていますが、この中には、愚かで邪悪な行いをした悪名高い王様もいます。つまり、この系図は、人間の罪や恥や欲望をを表す系図でもあるのです。
 その系図の最後に、イエス様がお生まれになりました。罪も汚れもない聖いお方が、神の栄光を捨てて、人となって来てくださったのです。それは、この系図が示しているように、人間の罪深さのど真ん中に来てくださったということなのです。イエス様御自身は、聖霊によって処女マリヤから生まれた方、神の御性質を持った罪のない聖い方ですが、イエス様が背負った系図には罪と汚れが満ちているのです。それは、罪ある私たちと同じ立場にまで下りてきてくださり、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに罪の罰を受けて、神様の赦しをもたらしてくださるためでした。
ピリピ2章6節ー11節にこう書いてあるとうりです。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 人生どん底、と感じている人がいますか。罪の泥沼の中で抜け出せない人がいますか。私の人生など、どうあがいても変わらない、とあきらめている人はいませんか。そんな状態のただ中にイエス様は来てくださいます。この系図は、そのことを示しているのです。

3 系図の導くところ

先日、海外から注文した商品が届きました。商品を発送した人が知っているのは、私の住所だけです。でも、住所さえあれば、世界のどこからでも私の手元に届くのですね。でも、住所が「日本、神奈川県」だけなら、届きませんね。町名と番地まで詳しく書いてあれば、間違いなく私の元に届くのです。
 イエス様の系図もそれと同じです。先ほどお話ししましたように、旧約聖書には、イエス様が誰の子孫としてお生まれになるかという預言が書かれています。最初は、アダムの子孫の中からという漠然としたものでしたが、アブラハムの子孫、ユダの子孫、ダビデの子孫、というふうに次第に詳しく知らされていきます。そうして、ついにイエス様に行き着くのです。
 そして、この系図には、もう一行、追加することができます。
 ヨハネの福音書1章12節-13節に、こう書かれています。
「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 また、第二コリント5章17節には、こう書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 私たちは、キリストを信じることによって新しく生まれ、神の子とされました。ですから、この系図はイエス・キリストで終わりなのではありません。「イエス・キリストによって、私は神の子どもとして生まれました」という一文を追加することができるのです。
 クリスマスが近づきました。イエス様の誕生を祝うとともに、私たちが今、このイエス様によって新しいいのちを受けて生きていることを、心からの感謝し、賛美をささげていきましょう。