城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年12月24日          関根弘興牧師
                   ルカ1章26節-38節
 イエスの生涯2
     「しあわせ者」

 26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
                     (新改訳聖書)


イエス様がお生まれになったのは、ユダヤ地方のエルサレムに近いベツレヘムという町でした。しかし、イエス様の母となるマリヤと婚約者のヨセフが住んでいたのは、ベツレヘムではなく、ガリラヤ地方のナザレという町でした。そこは、エルサレムの都から遠く離れた片田舎で、「ナザレから何の良きものが出ようか」と蔑まれていた地域です。
 マリヤもヨセフも、由緒あるダビデの家系ではありましたが、特に学問も地位も財産もありませんでした。マリヤは、まだ十代だったかもしれませんが、ヨセフと婚約中でした。これから、ヨセフと普通に結婚して家庭を築き、貧しいながらも幸せに暮らしていこうと思っていたことでしょう。
 ところが、或る日突然、マリヤのもとにみ使いが現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」と告げたのです。マリヤが戸惑っていると、御使いはさらにこう言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」
 結婚前の処女が聖霊によって神の子を身ごもる、というのです。驚くべき知らせですね。こんなことを誰が信じるでしょう。マリヤは、婚約者がいるのに姦淫して身ごもったということで、人々から非難されるでしょう。それどころか、ユダヤの律法では、姦淫の罪を犯した者は石打ちによって死刑にすると決まっていたのです。何が「恵まれた方」なのでしょう。何が「おめでとう」なのでしょう。
 しかし、マリヤは「神にとって不可能なことは一つもありません」という御使いの言葉を信じ、神様にすべてをお任せして、「おことばどおりこの身になりますように」と応答したのです。
 一方、マリヤが身ごもったことを知った婚約者のヨセフはどうだったでしょうか。それは、マタイの1章に記されています。
 ユダヤでは、婚約する時、二人以上の証人が立ち会って神の前で夫婦の約束をするそうです。婚約した二人は、当時の法律上では夫婦になったと見なされ、その後約一年の準備期間の後に一緒に住み始めることになっていました。ですから、婚約中のマリヤとヨセフは、まだ一緒には住んでいなくても、法律上は夫婦になっていたわけです。ですから、ルカの福音書では「いいなずけ」と書かれていますが、マタイの福音書では、ヨセフを「夫」、マリヤを「妻」と記しているのです。
ヨセフは、マリヤ以上に戸惑い、苦悩したと思います。正式に婚約し法律上の妻となったマリヤが、新しい生活が始まろうとしている矢先に身重になったのですから、大変な衝撃を受けたことでしょう。聖霊によって身ごもったなどという話は、信じがたいことでした。
ヨセフが考えられる選択肢は二つしかありませんでした。一つは、ユダヤの律法に従って、姦淫の罪を犯した女としてマリヤを突き出すことです。それは、マリヤを公衆の面前にさらし、石打ちの刑にすることを意味していました。ヨセフは、それはしたくありませんでした。ですから、もう一つの選択、内密に去らせることに決めたのです。しかし、噂が広まり、ヨセフ自身もナザレで生活することができなくなるかもしれません。ヨセフは悩み苦しんだことでしょう。
 しかし、主の使いが夢に現れてこう告げました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
 ヨセフは、その言葉を信じて進む決断をしました。彼は、マリヤを妻として迎え入れ、マリヤが無事に出産できるように、できる限りのことをしました。マリヤが臨月を迎えた頃、ローマ皇帝から人口調査の命令が出て、本籍地であるペツレヘムへ行かなければならなくなった時には、身重のマリヤを支えながら遠いベツレヘムに連れて行きました。そして、そこで生まれた子どもを大切に守り育てたのです。
 クリスマスは、大きな喜びの訪れの時ですが、その背後には、若いマリヤとヨセフの大きな戸惑い、苦悩、そして、神に信頼して従っていこうとする勇気ある決断があったのですね。
 今日は、この若いマリヤとヨセフの姿を通して、三つの幸いについて考えていきましょう。

1 ゆだねて生きる幸い

 マリヤもヨセフも、先のことを考えたら、数え切れないほどの不安や恐れが襲ってきたと思います。でも、先がどのようになろうとも、主にゆだねて歩んでいこうと決心して進んでいきました。
 第一ペテロ5章3節には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書かれています。「ゆだねる」とは、「お任せする」ということですね。つまり、「私の人生の最終保証人は、天地を創造された神様ご自身ですから、すべて神様にお任せします」と告白していくことなんです。
 今日の箇所の37節では、御使いがマリヤに「神にとって不可能なことは一つもありません」と言っていますね。無から天地万物すべてを造ることのできる神様に不可能なことは一つもありません。それを信じて、おゆだねするのです。マリヤも「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って、おゆだねしましたね。
 このルカの福音書を書いたルカは医者でした。しかし、何の躊躇もなく「処女マリヤが聖霊によって身ごもった」と記録しています。それは、ルカも「神にとって不可能なことは一つもない」と信じていたからです。
 それから、ルカ1章38節で御使いはマリヤにこう言っていますね。「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。」
 マリヤの親戚のエリサベツとその夫のザカリヤは高齢で、もう子どもはできないと思っていました。しかし、夫ザカリヤに御使いが現れ、エリサベツが男の子を身ごもると告げました。そして、その通りになったのです。ちなみに、このエリサベツから生まれた男の子がバプテスマのヨハネです。
 エリサベツが身ごもってから六ヶ月目にマリヤも身ごもりました。マリヤは、自分が身ごもってから親戚のエリサベツのもとに行って、そこで三ヶ月間、共に生活しました。そして、エリサベツの身に起こった出来事からも、「神にとって不可能なことはない」ということを学ぶことができたのでしょう。神様は、時々、私たちに信仰の確信を与えるために、まわりの出来事や人々を通して、神様がどれほど信頼に足るお方であるかを示してくださるのです。
 箴言29章25節には、「主に信頼するものは、安らかである」(口語訳)とあります。私たちはいろいろな「不安」に直面します。不安が不安を呼び、恐れを生み出してきます。どうしたらよいかわからなくなってしまうことあります。そのとき、ぜひ知っていただきたいことがあります。それは、「ゆだねて生きる」という世界があるということです。これは、クリスチャンに与えられた人生の秘訣だと思います。不安や恐れを持つことは悪いわけではありません。先がわからず、戸惑い苦悩することは誰にでもあります。でも、だからこそ、「主よ。あなたにとって不可能なことは一つもありません」と告白し、ゆだねて進んでいくことが大切なのです。

2 救い主を宿す幸い

ところで、神様は、なぜマリヤとヨセフを選ばれたのでしょうか。世界の王、主の主として来てくださる救い主ですから、もっと有名で地位も権力もある人の子として生まれてもよさそうなものですね。しかし、神様は、ダビデの家系であったとはいえ、田舎の無名の貧しい二人を選ばれたのです。
 人は、上りたがる癖をもっています。上へ上へと行きたがり、それが高じると「神のようになろう」と高慢な野望を抱きます。
 しかし、救い主イエス様は、そうではありませんでした。ピリピ2章6節ー7節に、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」と書かれています。最も高き所におられる神なる方が、最も低いところに来てくださったのです。これがクリスマスです。クリスマスは、キリストが示された謙遜の姿を学ぶ時なのです。
 神が人となって来てくださった方、それがイエス様です。でも、こう言う人がいます。「もし天地を造り、全宇宙を支配しているほどの神なら、自分が降りてくるのでなく、家来の御使いにでもやらせればいいではないか」と。でも、愛は自ら行動を起こさせるものなのです。神様の愛は、自らがいのちをかけて乗り出す愛です。神様御自身が人となって来てくださるほどに私たちを愛してくださっている、それを私たちはクリスマスの出来事を通して知ることができるのです。神なるイエス様が人となり、私たちの救いのためにご自分のいのちをかけてくださることによって、神様の大きな愛が示されたのです。
 イエス様は、立派な宮殿の王ではなく、片田舎の貧しいマリヤを通して来てくださいました。そのイエス様を宿したマリヤは、ルカ1章48節で「わたしはしあわせ者です」と告白しています。しかし、そのしあわせは、私たちが普通に想像するものとは違いました。この後、マリヤは様々な困難や苦しみを味わうことになるのです。
 まず、当時、世界を支配していたローマ皇帝が、人口調査をせよ、という勅令を出しました。それも、現住所登録ではなく、本籍地登録をせよ、というのです。ですから、ヨセフは臨月のマリヤを連れて、本籍地であるベツレヘムまで行かなくてはならなかったのです。皇帝の命令に逆らうことはできません。ベツレヘムはナザレから遠く、山を越え谷を越え、ようやくベツレヘムに着きましたが、町は登録に来た人〃でごった返していました。宿屋はどこも満員で、家畜小屋に泊まるしかありませんでした。そこで、マリヤは出産したのです。
 家畜小屋で出産するというのは、あまり「しあわせ者」だとは思えませんね。家畜や糞の臭いが漂っていたでしょう。ベッドもないので、生まれたイエス様は飼い葉桶に寝かされました。
 そして、最初に幼子イエス様のもとに駆けつけたのは、羊飼いたちでした。社会の最下層で誰にも相手にされず、人口調査の対象にもならないような貧しい人たちです。その次にやってきたのは、東方の博士たちでした。星を観察している時に明るく輝く不思議な星を見つけ、お生まれになった救い主を探してはるばるやってきたのです。しかし、この博士たちは、ユダヤ人たちが軽蔑している異邦人でした。つまり、貧しい羊飼いと異邦人の博士たちだけが救い主を礼拝するためにやって来たのです。すべての人々を救う神の御子が来られたというのに、礼拝にやって来た人は他に誰もいませんでした。何とも寂しい光景ですね。
 そして、そのすぐ後に、大変なことが起こりました。当時その地方を支配していたヘロデ王が、救い主が生まれたと聞くと、自分の王位が脅かされるのを恐れて、「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をすべて虐殺せよ」という命令を下したのです。マリヤとヨセフは、御使いの警告を受け、イエス様を連れてエジプトに逃げました。この旅は彼らにとって、どれほど心を痛める辛いものとなったことでしょう。異国での慣れない生活も様々な苦労があったことでしょう。
 その後、ヘロデ王が死ぬと、彼らはガリラヤのナザレに戻りました。ようやくナザレで落ち着いた生活が始まったはずです。しかし、言い伝えによれば、夫のヨセフは若くして死んでしまったようです。ですから、マリヤは、子供たちをかかえて苦労したことでしょう。周りの人たちからは、幸せからほど遠い家族と見られていたかもしれません。
 イエス様は、母を助け、一家の大黒柱として大工の仕事をしていたようです。しかし、三十歳を過ぎた頃、イエス様は突然家を離れ、旅回りの説教者のような生活を始められました。弟たちには、理解出来なかったでしょう。兄であるイエス様を非難の目で見ていたのではないかと思います。
 その後、イエス様は目覚ましい働きをされ、多くの群衆がイエス様に付き従うようになりましたが、当時の宗教家たちはイエス様をねたみ、イエス様を殺そうとする不穏な動きが広がっていきました。母マリヤは、こうした有様をどれほど複雑な思いで見ていたことでしょう。
 そして、ついにイエス様は逮捕されてしまいました。イエス様は、むち打たれ、十字架につけられ、むごたらしい姿を民衆の前にさらすことになったわけです。マリヤは自分の息子の無惨な姿の前で涙を流すしかありませんでした。このように十字架につけられた我が子を見なければならない母親が、どうして「しあわせ者」と言えるでしょうか。
 しかし、イエス様は、十字架で死んで葬られた後、三日目によみがえられました。そして、天に昇って行かれる前に、弟子たちに、すばらしい約束をお与えになったのです。それは、「わたしはあなたを決して離れず、決して捨てない。いつもあなたと共にいる。あなたがた一人一人は、わたしがまことの救い主であることの証人となるのだ。そのために、わたしは、もうひとりの助け主である聖霊をあなたがた一人一人に与えよう」という約束でした。弟子たちは、その約束を信じ、エルサレムで祈りつつ、聖霊が与えられるのを待っていました。使徒の働き1章には、その弟子たちの中に母マリヤの姿もあったと書かれています。
 マリヤは、それ以降は、聖書にはいっさい登場しません。マリヤは、イエス・キリストの生涯を語るのに最も適切な人のように思えます。生まれたときから、いえ、生まれる前からイエス様のことを一番よく知っていたのですから。しかし、マリヤはその生涯を沈黙の中で過ごしました。イエス様の母として表舞台に出ることはありませんでした。不必要にあがめられてしまうこともありませんでした。マリヤは、自分の栄誉を求めたり、功績を誇ろうとはしませんでした。「イエス様は救い主としてあがめられるべき方、でも、自分は、ただ主に用いられたしもべにすぎない。でも、私は、本当にしあわせ生涯を送ることができた」とうなずきながら歩んだことでしょう。
 マリヤは、イエス様を宿して、「私は、しあわせ者です」と告白しました。では、私たちはどうでしょうか。私たちがよみがえって今も生きておられるイエス様を信じ受け入れたとき、イエス様御自身が私たちの内に宿ってくださいました。ですから、みんな「しあわせ者」なのです。
 といっても、困難や悲しみがないわけではありません。いろいろと辛い経験もあるでしょう。しかし、詩篇73篇28節にこう書かれています。 「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」
 私たちにとってのしあわせは、「神の近くいる」こと、「神が我らと共におられる」ということです。イエス様が私たちの内にいつもいてくださるのです。だから、「私は、しあわせ者です」と宣言することができるのです。

3 救いを確信する幸い

御使いは、ヨセフに「生まれてくる子をイエスと名付けなさい」と言いました。「イエス」とは、「主は救い」という意味です。また、御使いは続けてこう言いました。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
ユダヤの人々は、自分たちだけが神の民だと思っていました。そして、ローマ帝国の支配を脱して独立国家となることを夢見ていました。ですから、救い主とは、自分たちをローマの圧政から救ってくださる方だと期待していたのです。
しかし、ヨセフに知らされたのは、「救い主とは、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だ」ということでした。神様にとって「ご自分の民」とは、ユダヤ人だけはありません。すべての人です。つまり、救い主は、すべての人を「罪」から救うために来られたのです。
 では、「罪」とは何でしょうか。「罪」という言葉は、「的外れ」「ずれている」という意味です。神様との関係がずれてしまったために人生の基準がずれているのです。基準がずれていると大変ですね。もし寸法がでたらめな定規を使って家を建てたら、こちらも合わない、あちらも合わない、歪んだ家になってしまいます。私たちの人生も同じです。基準がずれていたら歪んでしまいます。だから、ずれた基準を正しくする必要があるのです。正しい基準の源は神様です。ですから、神様と正しい関係を回復する必要があるのです。イエス様は、そのために来てくださったのです。
 ところで、すべての人を罪から救うことができる救い主として必要な大切な条件があります。
 一つは、旧約聖書で預言されている神様の約束の通りに来られた方であることです。
 もう一つは、罪のない聖い方であることです。もし、自分に罪があれば、自分の罪のためにさばきを受けなければなりませんから、他人の身代わりになることはできません。死刑囚が別の死刑囚に「俺はどうせ死刑になるのだから、お前のために身代わりに死んであげるよ」と言っても、それは不可能ですね。ルカはイエス様が聖霊によって処女から生まれたと記しました。「処女」とは、「純潔」と同じ意味の言葉です。つまり、ルカは、イエス様が罪のない聖い方としてお生まれになったということを、はっきりと記したかったわけですね。
 イエス様が神の御性質を持った聖い方であることは、イエス様と生活を共にし、十字架で死んだ後によみがえったイエス様に実際にお会いした弟子たちが証言しています。
 イエス様は、旧約聖書の預言通りに来られた方であり、罪のない聖いお方です。つまり、イエス様こそ、まことの救い主です。私たちは、この方の与える救いを喜び、祝い、この方に人生をゆだねて歩む者とされているのです。なんと幸いなことでしょうか。城山キリスト教会 礼拝説教