城城キリスト教会 礼拝説教    
2018年1月7日           関根弘興牧師
                   マルコ1章1~12節
 イエスの生涯3
     「イエス様の洗礼」

 1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。(新改訳聖書)


昨年末から「イエスの生涯」と題する連続説教を始めました。これからしばらくの間、四つの福音書の中からイエス様の姿を学び、イエス様の素晴らしさをご一緒に味わっていけたらと思っています。
 一回目と二回目では、イエス様の誕生の経緯と意味についてお話しましたね。イエス様は、旧約聖書の預言の通りにベツレヘムで生まれ、ヘロデ王の迫害を逃れてしばらくエジプトに滞在した後に、両親の家のあるガリラヤ地方のナザレに戻って、そこで一般の人々と同じように生活しておられました。
 そして、成人してから、いよいよ救い主としての公の活動を開始されるわけですが、ルカの福音書3章23節に「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で」と書かれています。
 この三十歳という年齢は、ユダヤの社会では意味がありました。神殿で仕えるレビ人たちは、三十歳から仕事を始めることが規定されていました。また、あの有名なダビデ王が王位に就いたのは三十歳の時でした。ですから、当時、三十歳という年齢は、神様の働きを始めるにあたって人々から一人前と認められる年齢であったわけです。
 さて、イエス様は、公の活動を開始される前に、まず、バプテスマのヨハネのもとに行ってバプテスマ(洗礼)をお受けになりました。今日は、マルコの福音書から、そのイエス様の洗礼について見ていきましょう。

1 イエス・キリストの福音

 まず、1節に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書かれていますね。この福音書を書いたマルコは、「これから、イエス・キリストの生涯を書き記していくけれど、それは、私たちにとって福音なのですよ」と言っているわけです。
 では、「福音」とは、何でしょうか。「福音」はギリシャ語で「ユアンゲリオン」と言いますが、これは「良い」という言葉と「知らせ」という言葉の合成語です。つまり、「福音」は「良い知らせ」「良きおとずれ」「Good News」という意味なのです。
 昔、ギリシャでは、たくさんの戦争がありました。どちらが勝ったか負けたかということは、一刻も早く知りたい重大なことです。ですから、戦争に勝つと、伝令が自分の町に向かって一生懸命に走るのです。そして、町に着くと戦勝報告をするのです。「俺たちは勝利したぞう!」これが「良い知らせ」(ユアンゲリオン)なわけです。ですから、福音というのは、単なる朗報ではありません。勝利報告であり、解放の宣言でもあったのです。ですから、この知らせを聞いた人たちは、「やったあ。万歳!」と大喜びして祝うわけですね。
 それと同じように、イエス様のもたらす「福音」も、それを受け取った人の中に、大きな喜びをもたらし、「なんと素晴らしい知らせだろう」という歓喜が湧き上がるものなのです。
ルカの福音書に、イエス様が公の活動を始められたとき、会堂で聖書を朗読なさったことが書かれています。ちょうどその時にイエス様に手渡されたのは、「イザヤ書」でした。イエス様は、その中から、次の箇所を朗読されました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4章18節ー19節)そして、イエス様は、人々にこう言われたのです。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
 イエス様は、「イザヤ書で『人々に福音を伝えるために油注がれた』と預言されているのは、私のことなのだ」と宣言なさったのです。「油を注がれた者」とは、ヘブル語では「メシヤ」、ギリシャ語では「キリスト」で、神様に選ばれた印に頭に油を注がれた者のことですが、次第に「救い主」を意味するようになりました。イエス様こそ、人々を赦し、癒やし、解放する救い主として神様から遣わされた方だというのです。そのイエス様が来られた、ということこそ私たちにとって素晴らしい知らせです。そして、このイエス様を救い主としてお迎えするときに、私たちは、様々な束縛から自由になって、神様の恵みを味わうことができるのです。

2 バプテスマのヨハネ

 さて、イエス様の福音を語り始めるにあたって、マルコは、まず、バプテスマのヨハネを紹介します。ヨハネという名前は当時はよくある名前で、イエス様の弟子の中にもヨハネがいますね。ですから、区別するために「バプテスマのヨハネ」とか「洗礼者ヨハネ」と呼んでいるわけです。このヨハネは、どういう人物だったでしょうか。
 
(1)旧約聖書の預言通りに登場した預言者

 2節-4節に、イザヤの預言の通りにバプテスマのヨハネが現れたと書かれていますね。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」という預言です。実は、これは、イザヤだけでなく他の人物の預言も混ざっています。当時、聖書の中の関連した聖句をまとめた聖句集のようなものがあったようです。その中では、代表として有名な預言者の名を一人だけ挙げるのが普通でした。ですから、ここではイザヤの名が代表として挙げられているわけですね。詳しく見ていきましょう。

①「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし」

 これは、出エジプト記23章20節からの引用です。モーセに率いられてエジプトの奴隷状態から脱出した後、困難な荒野の旅をしていたイスラエルの民に、神様が「荒野であなた方を導くために、わたしは使いを遣わす」と約束してくださったのです。

②「あなたの道を整えさせよう」

 これはマラキ書3章1節の引用です。神様から遣わされた使者が道を整えるというのです。同じマラキ書の4章5節には、この世の終末の時代に、神様が「預言者エリヤを遣わす」と約束しておられます。エリヤというのは、旧約聖書の預言者の代表です。つまり、世の終わりに、神様はエリヤのような預言者をあなたがたのために遣わす、というのです。

③「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

 これは、イザヤ書40章3節からの引用です。イザヤがこの言葉を語った当時は、人々は非常に暗くて辛い困難な時代背景の中にいました。そんな状況の中で、「主が来られるから、主をお迎えする準備をしなさい」という声が聞こえてくる、とイザヤは預言したのです。

 さて、マルコは、その預言の通りにバプテスマのヨハネが来たのだと書いていますね。
 バプテスマのヨハネは、荒野で生活していました。6節にあるように、いなごと野蜜を食べていましたが、どちらも栄養は満点です。そして、らくだの毛で織った物を着て、皮の帯を締めていましたが、これは預言者エリヤと同じ服装です。そして、「罪を赦していただくために悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫び、ヨルダン川で人々に悔い改めのしるしであるバプテスマを授けていたのです。ですから、多くの人が「この人こそ、旧約聖書に預言されていた荒野で叫ぶエリヤのような預言者ではないか」と思い、5節にあるように、「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」がヨハネのもとにやってきました。ちょっと大げさな表現ですが、それほど多くの人が押し寄せたのですね。
 実は、このヨハネの誕生にあたっては、特別な出来事がありました。祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦は、年を取って子供ができないと諦めていたのですが、ザカリヤに御使いが現れ、「あなたたちに男の子が生まれます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」と語ったのです。つまり、ヨハネは、まさしく旧約聖書で預言されていたエリヤのような預言者として生まれたわけですね。ですから、ヨハネは、自分の使命をしっかりと自覚していました。ヨハネの使命とは何でしょうか。

(2)ヨハネの使命

①人々に救い主をお迎えする準備をさせる

 4節にヨハネは、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたと書かれていますが、これは、どういうことでしょうか。「悔い改める」とは、「方向を変える」という意味があります。ヨハネは、「皆さん。今までの神様を無視するような生き方はやめなさい。神様の方に向きを変えなさい。そして、神様との正しい関係に戻るために反省し、そのしるしとして洗礼を受けなさい」と語っていたのです。
 もし人が人らしく生きていこうとするならば、ヨハネの言葉に耳を傾ける必要があります。なぜなら、すべての人は罪人だからです。私たちは、神様の方に向きを変えて正直に自分を見るとき、自分の力ではどうにも解決できない問題が内側にあることに気づきます。良いことをしたいと思ってもできなかったり、悪いとわかっていることをしてしまう。また、人を憎んだり、うらやんだり、否定的な思いや罪責感に縛られていたり。しかし、だからこそ、自分には救い主が必要だということに気づくのです。
 ヨハネは、そういう意味で、人々に救い主をお迎えする準備をさせる働きをしました。まさに、救い主の通られる道を用意する役割を果たしたのです。

②イエス様が救い主であることを証言する

 聖書の大きな目的は、イエスという方こそまことの救い主であるということを証言することです。そのために聖書が書かれたと言ってもいいでしょう。
 科学的な事実の場合は、何回も実験を繰り返して証明することができますね。でも、歴史的な事実の場合は、同じ出来事を繰り返し起こすことはできませんから、法律的な証明の方法を使うのです。つまり、信頼できる証人がたくさんいれば、その出来事が確実であることを証明できるわけですね。そして、証人たちの証言が書かれている文書が信頼できるものであるかどうかも検証する必要があります。
 ですから、聖書が本当に信頼できるかどうかを多くの学者が研究してきました。詳しくお話する時間がありませんが、聖書は同時代に書かれたどの文書よりも信頼性があることがわかっています。
 そして、その聖書には、イエス様がキリストであることを証言する人物がたくさん登場しますが、バプテスマのヨハネもその一人なのです。
 7節ー8節で、ヨハネは、こう言っていますね。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
 ヨハネは、エリヤと匹敵する最高の預言者でしたが、自分よりももっと力のある方が来られるというのです。当時、靴のひもを解くことは奴隷の仕事でしたから、ヨハネは、「私はその方と比べたら、奴隷以下の者でしかない。この方は、私とは比べることができないほど優れた方なのだ」と言ったわけです。 そして、「私は、悔い改めのしるしとして水でバプテスマを授けているだけだけれど、その方は、聖霊のバプテスマを授ける方だ」と言っていますね。それは、「これから来る救い主は、外側をきよめるだけでなく、内側もきよめて神様の聖霊を一人一人に満たし、新しく変え、神様の永遠のいのちを与えることのできる方だ」ということなのです。
 そして、ヨハネの福音書1章に書かれていますが、イエス様が来られるのを見たとき、バプテスマのヨハネは「私が言っていたのは、この方のことです」とはっきり証言しました。そのヨハネの証言を聞いて、多くの人がイエス様を信じたのです。

3 イエス・キリストの洗礼

①イエス様の洗礼の意味

 さて、マタイの福音書によると、イエス様がヨハネのもとに来て、洗礼を受けようとなさったとき、ヨハネは、最初それを断りました。なぜなら、イエス様は、罪のない方ですから、悔い改めて洗礼をうける必要がないからです。しかし、イエス様は、あえてバプテスマを受けられました。なぜでしょうか。
 実は、ここに素晴らしい神様の恵みが示されているのです。
 イエス・キリストは、神が人となって来てくださったかたです。神である方が、私たちと同じ立場にまで降りてきてくださったのです。
 「子どもが遊園地で泣いている時、どうしたらいいか」という社内教育があるそうです。泣いている子に、後からポンと肩を叩いて「どうして泣いているの」と聞いてはいけないというのです。上から「泣くんじゃない」と言ってもいけないというのです。まず腰をかがめて、子どもと目と目を合わせて、「どうしたの」と聞くのだそうです。子供と同じ目の高さになることが、大切なのだそうです。
 イエス様が洗礼を受けられたのは、悔い改める必要があったからではなく、「私はあなたがたと同じ仲間なんだよ。あなたがたと共に同じ場所にいるのだよ」ということをお示しになったのです。
 イエス様の最初の働きは、派手な奇跡を見せることでもなく、巧みな説教をすることでもありませんでした。イエス様は、まず、「私はあなたの傍らにいる。私はあなたの仲間として来たのだ」と示してくださったのです。また、イエス様は、人としての本来の生き方の模範を身をもって示してくださいました。
 皆さん、「イエス・キリストは、遠い遠い昔の、私たちからはものすごく懸け離れた存在だ」と思っていたら、今日からその思いを変えてください。なぜなら、イエス・キリストは、いつも私たちと共にいてくださるからです。そして、私たちは、いつもイエス様を模範として、人としての本来の生き方をすることができるようになっていくのです。

②神様の証言

 さて、イエス様が洗礼を受けられると、不思議なことが起こりました。10節ー11節に「水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上にくだられるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」と書いてありますね。これはいったい、何を意味するのでしょうか。
 「天が裂ける」という表現は、イスラエルの人たちには大変なじみ深いものでした。旧約聖書の中によく出てくる表現だからです。
 例えば、イザヤ書64章1節に、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう」とあります。どういうことかと言いますと、その当時のイスラエルは、歴史上、最も暗い困難な時代でした。それで、「神様。いま私たちの状況をご覧ください。苦しい状況です。天を裂いて、降りて来てください。そして、この状況に介入して、大きなみわざを行ってください。そうしたら、山々もびっくりして揺れ動くでしょう」という祈りの言葉です。
 ですから、「天が裂ける」という表現には、「歴史の中に神様が深く介入してくださる」という大きな意味がありました。イエス様が洗礼を受けた後、天が裂けて、聖霊が鳩のように下られたというのは、今まさに、神様の働きがここから大きく展開されようとしているということを象徴する出来事でした。罪と死の力に支配されている世に、神である方が降りて来られ、救いのみわざがいよいよ具体的に始まろうとしていることを示す、まさしく、天の幕が切って落とされる出来事だったのです。
 そして、聖霊が下られたのは、イエス様が神様の御性質をもち、神様のみわざをなさる方であることを保証するものでした。 そして、それに続いて、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がありました。
 これは、詩篇2篇7節にある言葉と同じです。詩篇2篇は、「即位の詩篇」と呼ばれ、メシヤ(救い主)が到来したときに、メシヤに対して歌われる歌だと言われていました。ですから、この天からの声は、「まことに、ここにいるイエスは、まことの救い主であり、来たるべき王である」というイエス様の即位を承認する神様の言葉であったのです。
 
 さて、今日の箇所の最後に「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」と書かれていますね。私たちと同じように洗礼をお受けになったイエス様は、次に、御霊に導かれて荒野に行き、そこで、私たちと同じような悪魔の試みを受けられるのです。それについては、次回、お話しします。

 イエス様がまことの救い主であることを、バプテスマのヨハネも証言しましたし、神様御自身も証言しておられます。
 神である方が私たちと同じ人となって来てくださり、私たちと共に歩んでくださいました。イエス様は、御自分がを私たちと同じ罪人の一人と見られることを決して厭わなかった方です。
 このイエス様が来られたとき、天が裂けました。私たちの救う神様のみわざがいよいよ具体的に始まったのです。そして、その豊かな恵みは、今も天からあふれるばかりに私たち一人一人の上に注がれています。
 いつも共にいてくださる救い主を心から喜び、安心して今週も歩んでいきましょう。