城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年1月21日           関根弘興牧師
                  マタイ4章12~22節
 イエスの生涯5
     「イエス様の第一声」

12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」20 彼らはすぐに網を捨てて従った。21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(新改訳聖書)


前回は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けられたことをお話しました。イエス様が四十日四十夜断食をなさった後、試みる者がやってきて、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と誘惑しました。「神の子なら、自分のために、自分の思い通りに力を使えばいいではないか」という誘惑ですね。突き詰めれば「父なる神様から離れて、自分の好きなように生きていけばよいではないか」という誘惑なのです。しかし、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる』と聖書に書いてある」と言って、誘惑を退けられました。
 次の誘惑は、「あなたが神の子なら、神殿の頂から身を投げてみなさい。聖書に、神様が守ってくださるという約束が書いてあるから大丈夫ですよ」というものでした。それは、自分の都合のいいように神様の言葉を利用して、自分勝手に生きればいい、という誘惑です。しかし、イエス様は、「『あなたの神である主を試みてはならない』と聖書に書いてある」と言ってその誘惑も退けられました。
 すると、悪魔は、この世のすべての国々と富と栄華を見せ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これらのものを全部あなたにあげましょう」と誘惑してきました。これは、「目的の達成のためなら、誰を礼拝しようが関係ない、不正な手段を使ってもかまわない」という誘惑です。しかし、イエス様は、大変強い口調で「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある」と言って、この誘惑をきっぱり退けられたのです。
 この三つの誘惑に対するイエス様の態度は、これから始まろうとしているイエス様の公の働きの基本姿勢を示しています。イエス様は、神様のことばに養われること、自分勝手な目的のためでなく神様のみこころに従って生きること、そして、神様だけを礼拝すること、それが大切であり幸いな生き方であることを、自らを模範として教えていかれたのです。
 荒野の試みが終わり、いよいよイエス様の公の働きが開始される訳ですが、今日の箇所には、その契機になった出来事が記されています。

1 バプテスマのヨハネの逮捕

 12節に「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」とありますね。このヨハネとは、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことです。
 イエス様がお生まれになった時にユダヤ地方とその周辺地域を治めていたのはヘロデ大王ですが、ヘロデ大王の死後、その領土は分割統治されることになりました。ですから、イエス様が公の働きを開始された頃は、ユダヤ地方はローマ帝国の総督ピラトが治め、その北のガリラヤとベレア地方はヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスが、その北東の地方はヘロデ大王の息子のピリポが治めていたのです。
 バプテスマのヨハネを捕らえたのは、ガリラヤとベレア地方を治めていたヘロデ・アンティパスです。彼は、最初、アラビアのアレタス王の娘と結婚したのですが、兄弟ピリポの妻ヘロデヤを愛するようになり、ヘロデヤをピリポから奪って自分の妻とし、アレタス王の娘をアラビアに追い返してしまったのです。しかも、ヘロデ・アンティパスとヘロデヤは、おじと姪の関係でした。律法では、「隣人の妻を欲しがってはならない」「兄弟の妻を犯してはならない」という戒めがあり、また、近親者と結婚することも禁じられていましたから、バプテスマのヨハネは、「この結婚は間違っている」と激しく非難しました。それで、ヘロデ・アンティパスは、ヨハネを逮捕してしまったわけです。
 それを聞いたイエス様は「ガリラヤへ立ちのかれた」と書かれていますが、これを読むと、イエス様が身の危険を感じてガリラヤへ逃げて行かれたような印象を受けますね。
 しかし、実は、そのガリラヤこそ、ヘロデ・アンティパスが治めている地でした。ガリラヤ湖畔には彼の王宮もあったのです。ですから、イエス様は、ユダヤの地域に行ってバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、荒野での試みを受けられた後に、こんどは、わざわざ敵の本拠地であるガリラヤに乗り込んで行かれたわけですね。
 バプテスマのヨハネは、このしばらく後に、ヘロデ・アンティパスの命令で殺されてしまいます。ヨハネの働きが終わろうとしている時に、イエス様の公の働きが開始されたわけです。

2 ガリラヤ

 17節にあるように、イエス様が宣教の第一声を発せられたのは、ガリラヤ地方でした。
 昨年は、衆議院選挙がありましたが、党首がどこで第一声を発するかは、必ずニュースになりますね。普通は、新宿とか渋谷とか、とにかく人の多い目立つ場所を選びますね。
 イエス様は、王の王、まことの救い主として来てくださったお方です。ですから、第一声を発する場所としては、人々が目を見張るような場所がふさわしいように思えます。エルサレムの神殿の前とか、当時の世界の中心であるローマなどがいいように思えますね。
 ところが、イエス様が宣教を開始されたのはエルサレムから遠くはなれた田舎のガリラヤ地方でした。
 ユダヤ人の歴史家で、ヨセフスという人がいました。彼は、新約聖書が書かれた同時代の人ですが、ガリラヤについて、こんな風に書いています。「ガリラヤの住民は、強力な異民族に四方から脅かされていたために、外部の攻撃には、常に抗してきた。彼らは幼い時から好戦的であり、いったん戦闘が起これば多数の住民が武器を手にしてきた。」 ですから、ガリラヤ地方には、血の気の多い人がたくさんいたはずです。また、ガリラヤ湖があり土地は肥沃でしたが、異民族が多く入ってきたので、ユダヤ社会からは純粋なユダヤ人とは認められず、異邦人呼ばわりされていました。当時のユダヤ人たちは、「ガリラヤから良いものが出るはずがない」と思っていたのです。
 そんなガリラヤでイエス様は宣教を開始されたわけですが、それは、旧約聖書の預言の成就なのだとマタイは説明しています。15節ー16節の預言は、イザヤ章9章1節-2節の引用です。クリスマスによく朗読される有名な預言です。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」ユダヤ地方の人々からは蔑みの目で見られていたガリラヤ地方にイエス様の栄光が輝いたのです。

3 イエス様の第一声

 イエス様の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。
 先ほどお話ししましたように、ガリラヤ地方には、血の気の多い人がたくさんいました。彼らは、ローマ帝国の属国となり、ローマの権威のもとで王になったヘロデ・アンディパスに支配されて不満を抱いていました。ですから、ローマ政府を打ち倒して自分たちの国を建設してくれるリーダーを待ち望んでいたのです。実際に、この地方では、しばしば「ローマ政府打倒」を掲げる騒動が起こっていました。
 そういう人たちに、イエス様が「天の御国が近づいた」と言われたら、みんな振り向いたことでしょう。「えっ、何だ。何だ」ということになるでしょうね。しかし、イエス様を見ると、どう見ても、「これから戦いに行くぞ」という出で立ちではありません。鎧を着ているわけでもなく、槍を持っているわけでもなく、「ローマ政府打倒」と書いたプラカードを持っているわけでもありません。
 そして、イエス様は、何とも拍子抜けするようなことを言われたのです。「悔い改めなさい」と。
 「悔い改め」とは、「方向転換」です。「悔い改め」は、まず自分自身を見つめることから始まります。自分がどいう方向に進んでいるのか、自分自身の現状と正直に向き合うことが求められるわけです。その結果、自分がやみの中を歩んでいることを認めることになるでしょう。また、自分で自分を救うことができない、まるで死の陰の地に住んでいるような者であることを認めざるをえなくなるでしょう。そのとき、このまま進んで行ってはいけない、方向を変えなくてはならない、ということに気づくのです。
 つまり、イエス様が言われる「悔い改め」とは、ただ嘆き悲しみ後悔することではなく、自分を知り、方向を変えて、恵みと愛にあるれる真実な神様の方に向きを変えることなのです。
 それから、「天の御国」とは、神様の支配を意味しています。「天の御国が近づいた」というのは、罪と死の支配から解放されて、神様の支配の中で生きることができる時がやってきた、ということなのです。イエス様は、私たちを暗闇から解放し、光の中で安心して自由に本来の生き方ができるようにしてくださいます。そのために、「悔い改めなさい。神様の方に向きをかえなさい」とイエス様は呼びかけておられるのです。

4 最初の弟子たち

①わたしについて来なさい

 さて、イエス様は、ガリラヤ湖に行かれ、漁師のシモン(後のペテロ)とその兄弟アンデレをご覧になりました。そして、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。すると、彼らは、すぐに網を捨てて従いました。次に、イエス様は、ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になって、お呼びになると、彼らもすぐに舟も父も残してイエスに従った、と書かれていますね。すごいですね。仕事を捨て、家族を離れてイエス様に従っていったのです。
 ただし、ここでは、ごく簡単に書かれているので、まるで初対面の相手に急に従っていったかのように思ってしまいますが、実は、彼らがイエス様に従う決心をする前に、いくつかの出来事があったのです。
 ヨハネの福音書を見ると、ペテロの兄弟アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でした。バプテスマのヨハネがイエス様を見て「見よ、神の小羊」というのを聞いて、アンデレはイエス様についていき、イエス様と話をしました。そして、兄弟のペテロに「私は救い主にあった」と知らせ、ペテロをイエス様の元に連れて行ったのです。その時からペテロたちはイエス様を救い主だと知っていたわけですね。ヤコブとヨハネもその仲間だったのではないかと思われます。
 そのイエス様がガリラヤに来て、いろいろな場所で神の国のことを宣べ伝え、多くの病人をいやしておられました。彼らは、それを実際に目撃したことでしょう。
 また、ルカの福音書にありますが、ペテロたちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れない時がありました。朝、漁から戻って虚しく網を洗っていると、イエス様が来られました。そして、もう一度「舟を出して網をおろしなさい」と言われたのです。ペテロたちはガリラヤ湖を知り尽くしているプロの漁師です。しかし、ペテロは、イエス様の言葉に素直に従って網をおろしました。すると、網が破れそうになるほどたくさんの魚が捕れたのです。自分がどんなに努力してもだめだったのに、イエス様のことばに従ったら、大漁だったのです。ペテロはあまりにも驚いて、イエス様の足もとにひれ伏しました。「これは神のわざだ」と感じたのでしょう。そこには、仲間のヤコブやヨハネもいたと書かれています。
 このような背景があったので、イエス様が「わたしについて来なさい」と言われたとき、彼らは躊躇することなく従ったのです。
 彼らは、それまでにイエス様について様々なことを知りました。バプテスマのヨハネの証言を聞き、実際に、イエス様にお会いしてイエス様の言葉を聞き、すばらしいみわざを目撃しました。でも、「イエス様について知っている」だけでなく、実際に「イエス様について行く」ことが大切なのですね。それは、私たちも同じです。イエス様は、私たちにも「わたしについて来なさい」と語りかけてくださる方なのです。

②何もかも捨てて

 イエス様の招きの言葉を聞いたペテロたちは、「網を捨てて」「舟も父も残して」従ったと書かれていますね。ルカの福音書では、「何もかも捨てて、イエスに従った」とあります。 これを読むと、イエス様に従うためには、大切な物や家族を捨てなくてはいけないのか、と思う方がおられるでしょう。
 しかし、「何もかも捨てて」というのは、文字通り、すべてを捨てて何も持たないということではありません。今まで自分のものだと思っていたものを、神様のものとして認めて生きていくことなのです。自分自身の存在も、今おかれている場所も、所有している様々な物も家族や友人も、本来、神様のものであり、神様が私に託してくださっているのだという意識を持って生きることなのです。それは、結果的に、自分を、そして、他人を大切にすることにつながっていくのです。
 また、イエス様は、それぞれにふさわしい場所でそれぞれにふさわしい方法で招いてくださいます。ペテロたちは、頑張りが報われずにむなしさを感じていたときに招かれました。一生懸命祈っているときに招かれる人もいます。神様のことなどまったく無関心だったのに、突然イエス様に出会って招かれる人もいます。また、イエス様は、ペテロたちには「わたしについて来なさい」と言われましたが、別の人には「あなたの家族のところに帰って、主があなたにしてくださったことを知らせなさい」と言われました。私たちも、牧師になりなさいと招かれる人もいれば、良き社会人、家庭人として生活しなさいと招かれる人もいます。イエス様の招きは一人一人違うのです。
 でも、大切なのは、「私は、イエス様によって、ここに遣わされている」という意識を持つことなのです。どんな方法でどんな場所に導かれたとしても、「イエス様、あなたに従っていきます」という応答をもって歩んでいきましょう。
 イエス様の招きに応えてついていくためには、何かしらの勇気と決断が必要ですね。ペテロたちも、いろいろな葛藤があったでしょう。「これから自分たちの生活はどうなるのだろう」「本当に、この人についていって大丈夫だろうか」「まわりの人は、何と言うだろう」「家族はどうなるだろう」などいろいろな不安や懸念の思いが湧いてきたかも知れません。ペテロは妻帯者でしたから、奥さんのことも心配だったでしょうね。
 しかし、彼らは、思い切ってイエス様に従う道を選び、いつもイエス様と行動を共にする弟子として歩んでいきました。彼らが、イエス様の目撃証言者となることが神様のご計画だったからです。そして、イエス様に従っていったとき、彼らは、さらに深くイエス様の素晴らしさを味わうことができたのです。私たちも、人生を主にお委ねしつつ、さらに主のすばらしさを味わえることを期待して従っていきましょう。

③人間をとる漁師

 イエス様は、「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。
 誤解の無いように言っておきますが、これは、人を捕まえて塩焼きにしようというような意味ではありません。また、無理矢理に連れてきて有無を言わせずイエス様に従わせようとすることでもありません。
 何かを捕まえる目的は、いろいろですね。食べるために捕まえることもあれば、有害な動物を駆除するために捕まえることもあります。その反対に、傷を治療し生かすためにつかまえることもありますね。
 イエス様がここで「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのは、弟子たちによって集められた人々が、傷をいやされ、本来の自分を取り戻し、神様のいのちによって生かされるようになるためなのです。

 ペテロたちは、イエス様の呼びかけに応じて、すぐに従いました。この時、彼らがイエス様について知っていることは、まだごくわずかだったと思います。しかし、イエス様を見て、「この方は、私たちに必要なものを与えることのできる方だ。私たちを正しい道に導くことができる方だ」と感じていたのでしょう。自分の生涯をこのイエス様に委ねていこうと決心したのです。今日、イエス様は、私たちにも「わたしについて来なさい」と呼びかけておられます。そして、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われるのです。イエス様の福音によって、人々が本当の意味で生きる者となるための働きに加わりなさい、と言われるのですね。
 といっても、方法は様々です。誠実に礼拝を続けること、キリストのからだである教会を建て上げるために自分のできることをしていくこと、それに、イエス様が自分にどんなことをしてくださったかを話すことなど、いろいろありますね。
私たちは、置かれているそれぞれの場所で単純に「はい、従います」と応答し、イエス様の導かれる道を誠実に歩みながら、イエス様のすばらしいみわざを見させていただこうではありませんか。