城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年1月28日           関根弘興牧師
                  マルコ1章21~39節
 イエスの生涯6
     「イエス様の一日」

 21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。29 イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られた。30 ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。31 イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。32 夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。33 こうして町中の者が戸口に集まって来た。34 イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。36 シモンとその仲間は、イエスを追って来て、37 彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
(新改訳聖書)

 先週お話ししましたが、イエス様の公けの活動は、エルサレムから離れたガリラヤ地方で始まりました。イエス様は、「時が満ちた。悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語り始められたのです。
 ガリラヤ地方はユダヤ地方の人々からは蔑視されていましたが、たびたび外国の侵略を経験した歴史があって血気盛んな人が多く、現体制を変革して新しい国家を造ることを熱望していました。ですから、イエス様が「天の御国が近づいた」と説教なさると、皆、興味を持つわけです。しかし、イエス様は、「戦いの準備をしなさい」とは言われませんでした。「悔い改めなさい。神様の方に向きを変えて、新しい人生を歩み出しなさい」と教えて回られたのです。
 そして、ガリラヤ湖で漁師をしていたペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネに「わたしについてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」と言って招かれました。「人間をとる漁師になる」というのは、羊飼いのいない羊のように迷い傷つき苦しむ人々を保護して、神様の豊かないのちの中に生きることができるようにする働きに加わるということです。ペテロたちは、すぐにイエス様について行き、イエス様の様々な教えや素晴らしいみわざを実際に見聞きすることになったのです。

1 イエス様の一日
 
 さて、今回の箇所には、イエス様がガリラヤ地方で活動された時のある一日の様子が記されています。舞台はカペナウムというガリラヤ湖畔の町です。そして、この日は、安息日でした。
 安息日は、ユダヤの社会では特別な日でした。一週間は日曜日から始まり七日目の土曜日で終わるのですが、土曜日が安息日として定められました。ユダヤの一日は夕方から始まりますから、私たちから見ると金曜日の夕方から土曜日の夕方までが安息日に当たるのです。
 安息日の戒めは、そもそもは神様がシナイ山でモーセにお与えになった十戒の中にあります。第四の戒めが安息日に関するもので、出エジプト記20章8ー11節にこう書かれています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も── それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」神様は、六日間で天地万物を創造され、七日目に休まれました。そして、その神様を思い、安息するために、安息日の戒めをお与えになったのです。
 ところが、ユダヤ人は、十戒をはじめとする様々な律法の規定を守ることによって救いが保証されると考えていたので、特に、宗教指導者たちは、この安息日の戒めを厳格に守ろうとしました。ですから、「どんな仕事もしてはならない」と書かれているけれど、「仕事」とは具体的に何を指すのか、細かい規定を作り上げていきました。たとえば、火をおこしたり薪を集めることは仕事だから禁止、出産や死の危険がある場合を除いては医療行為も禁止、一定以上の距離を歩くことも禁止、という具合です。そして、そういう規定を守らない人々を厳しく非難しました。その結果、本来安息できるはずの安息日が、厳格な細かい規則に縛られて、とても不自由な日になっていたのです。神様の意図とはまったくかけ離れた状態になっていたわけですね。
 ですから、この安息日については、イエス様とユダヤ人の宗教指導者たちの間にたびたび論争が起こっていたことが福音書に記録されています。今日の出来事も安息日に起こりました。

(1)会堂で

①権威ある教え

 イエス様は、まず、弟子たちと共にカペナウムの会堂に行かれました。
 「会堂(シナゴーグ)というのは、ユダヤ人の集会所です。当時、ユダヤ人が十家族以上いる所には必ず会堂が造られ、安息日になると、そこに集まって神様にお祈りをし、旧約聖書が朗読され、聖書の言葉の解説や説教が行なわれたのです。
 会堂には会堂管理者がいました。会堂管理者は、会堂の管理をしたり、人々が持ってきた施し物をどの地域の人々に配分するか決めたり、安息日を知らせるために銀のラッパを吹いたりする仕事がありました。また、礼拝の準備をするわけですが、礼拝のときに聖書を朗読し解説する人を指名する特権を持っていました。普通は、律法学者たちが入れ替わり立ち替わり来て聖書の朗読と解説をしていました。
 この日、イエス様が会堂に入られると、会堂管理者は、イエス様のことを知っていたのでしょうね、イエス様を指名しました。そこで、イエス様は人々に教え始められたのです。
 当時の律法学者たちは、旧約聖書を引用し、その箇所の詳しい解説はできましたが、権威を持って語ることはできませんでした。「この箇所は、こういう風に解釈することができる」というような話し方だったのでしょうね。
 ところが、イエス様は「権威ある者」のように教えられたので、人々は驚いた、と書かれていますね。どんな教え方だったかというと、ルカの福音書の4章に具体的な例が書かれています。イエス様が御自分の育ったナザレに行って会堂に入られたとき、預言者イザヤの書が手渡されたので、イザヤ書61章1節ー2節の言葉を朗読されました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」そして、「きょう、このみことばが実現しました」とはっきり宣言なさったのです。イエス様が朗読されたイザヤ書の言葉は「救い主が遣わされた」時のことを預言するものです。ですから、イエス様は、「きょう、救い主が実際に遣わされて来たのです」と宣言されたわけですね。ですから、皆、びっくり仰天してしまったのです。そして、ナザレでは、様々な反応が起こりました。「素晴らしい。私たちの待ち望んでいたことが実現した」とイエス様をほめたたえる人もいましたが、一方では、「このイエスは、同じ町に住んでいる大工のヨセフ息子じゃないか。何を言い出すんだ。頭がおかしくなったんじゃないか」とあざけった人もいました。それどころか、腹を立てて崖から突き落とそうとした人までいたのです。
 人々の反応は様々でしたが、イエス様は、どこに行っても権威をもって教えておられたので、今日のカペナウムの会堂でも、人々は皆、非常に驚いたわけですね。

②権威の証

 そして、今日の箇所では、イエス様の権威を立証するかのような出来事が起こりました。カペナウムの会堂には、汚れた霊につかれた人がいて、イエス様に向かって急に叫び始めたのですが、イエス様が「黙れ。この人から出て行け」と命じると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行ったというのですね。
 誤解しないでいただきたいのですが、病気や精神的な問題をすべて汚れた霊のせいにするのは間違いです。もちろん霊的な問題のために苦しんでいる人もいますが、汚れた霊を追い出しさえすれば問題はすべて解決すると考えるのも間違っています。その人のもっている様々な問題を見分け、適切な対処をし、また元の状態に戻ってしまうことがないようにアフターケアをする必要があるのです。当時は、呪術師や魔術師のような人がたくさんいて、何でも汚れた霊や本人の罪のせいにして、様々ないかがわしい儀式を行なっていました。人々は、そういうものによって、かえって束縛されていたのです。
 しかし、イエス様は、権威ある言葉によって、いとも簡単にその人をいやされました。そして、イエス様は、いやすだけでなく、いつも新しい生き方を示してくださるのです。
 この出来事を見た人々は、汚れた霊さえ従わせる権威をもっておられるイエス様に驚き、イエス様の評判はガリラヤ全地に広まっていきました。 

(2)シモン・ペテロの家で

①シモンの姑のいやし

 さて、イエス様一行は、会堂を出ると、シモン、つまり、ペテロの家に行かれました。イスラエル旅行に行くと、会堂とペテロの家を案内してくれるのですが、ペテロの家は会堂のすぐ前にあったようです。
 その時、ペテロの姑が熱を出して寝ていました。姑がいたということは、ペテロが結婚していたことがわかりますね。イエス様が姑の手を取って起こされると、すぐに熱がひき、彼女はイエス様たちをもてなすほど元気になりました。

②多くの人々のいやし

32節に、夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た、と書かれていますね。不思議に思いませんか。普通は、日が沈んだら家に帰りますね。ところが、日が沈んだら人々が押し寄せてきたのです。なぜでしょうか。それは、安息日が終わったからです。
 安息日には、約一キロ以上は歩いてはいけないことになっていました。だから、安息日が終わる土曜日の日没までは、自由に行動することが出来なかったのです。しかし、日が沈んで、星が三つ見えたら安息日は終わりということになっていましたから、人々が押しかけてきたわけですね。イエス様なら、助けてくださるということで、必死の思いでやって来たのでしょう。
 するとイエス様は、多くの病人を癒やされ、悪しき霊につかれている人を解放されたのです。それは、夜更けまで続いたことでしょう。

(3)寂しい所で

 35節からは、次の朝のことも記されています。
 前の晩、何時までいやしのわざが続いたのか分かりませんけれども、イエス様は朝早く起きて寂しい所に出て行き、祈っておられたと書いてありますね。
 弟子たちは、イエス様が見当たらないので驚いて捜し回ったことでしょう。「人が集まりすぎて大変だから、イエス様はどこかへ雲隠れしてしまったのではないか」と思ったかもしれません。そして、イエス様を見つけると、「みんなが捜していますよ。早く来てください」とせき立てたのです。すると、イエス様はこう言われました。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
イエス様は、大変忙しい生活の中でも、まず一人静かな時間を大切にされ、次の行動へと移られていきました。イエス様が来られた目的は、多くの人々に天の御国が近づいたという福音を知らせることです。ですから、イエス様は、このあと、別の場所に行って多くの人に福音を知らせるために、新たな一日を出発なさったのです。
 

2 イエス様の姿から学ぶこと

 さて、私たちは、今日の箇所に記されているイエス様の一日の行動を通して、何を学ぶことができるでしょうか。

①人に仕える姿

 マタイの福音書28章18節には、イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われました。
 でも、権威という言葉には、普通、あまりいいイメージがありませんね。人は、権威を持つと高慢になりがちです。権威を振りかざして自分の好き勝手なことをしたり、人を服従させようとする傾向があるのです。
 しかし、イエス様は違います。イエス様は、最高の権威を持っておられる方であるにもかかわらず、その権威を御自分のためではなく、人のためにお使いになりました。イエス様御自身が「わたしは、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われたとおり、徹底的に人にお仕えになりました。どんなに忙しい時も、どんなに御自分の身が危険な状態にある時も、必要のある人、求める人の傍らに立ち止まって、いやし、恵みをお与えになったのです。相手の身分や財力や功績や年齢に関係なく、一人一人の痛みを理解し、最も必要としているものをお与えになりました。そして、見返りを求めることは一切なさらなかったのです。イエス様は、決して権威を笠にして、威張り散らすお方ではなく、私たちを無理矢理に服従させる方ではありません。このイエス様が今も生きて働かれているのです。イエス様は、私たち一人一人の状況を見て見ぬふりをして通り過ぎる方ではありません。
 使徒の働き20章35節で、パウロは、イエス様が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と教えておられたと記しています。神様の恵みを受けた私たちも、イエス様を見本として、仕える者、与える者と主によって変えていただきましょう。 

②神様との関係を第一にする姿

 福音書には、イエス様が一人で神様に祈っておられる姿を記している箇所がいくつかあります。イエス様は、どんなに忙しくても、神様の前で心静めて祈ることを大切にしておられました。そして、いつも神様のみこころがなるようにと願い、行動しておられたのです。
 イエス様は、また、安息日には会堂に行って礼拝の時を持たれました。
 今は、本当に忙しい時代です。しかし、忙しいからこそ、神様の前で静まる時間を取ることが大切です。忙しさに流されないで、生活のリズムを作ることを意識する必要があるのです。
 神様が一週間に一度の安息日をお命じになったのは、私たちを縛り付けるためではありません。私たちに必要だからです。定期的に神様の御前に静まり、礼拝をささげ、神様の豊かな愛と恵みをあらめて思い起こすことによって、私たちの人生が守られ導かれていくのです。
 一週間に一度集まって礼拝をささげ、また、一日の中のほんの数分でも神様の御前で心を静める、そういう生活のリズムができるといいですね。もちろん仕事や病気で教会に来られないこともあるでしょう。でも、神様に感謝と賛美をささげて礼拝することは、どこにいてもできますね。
 詩篇143篇8節にこういう祈りがあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
 また、イザヤ書30章15節には、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」という約束が書かれています。
 人として本来の生き方をしていくためには、神様との静かな時を持つことが大切なのですね。イエス様は、自らその模範を示してくださったのです。

 イエス様は、いっさいの権威をお持ちです。そのイエス様の言葉は必ず実現します。
 イエス様は、私たち一人一人に福音を知らせるために来てくださいました。つまり、一人一人が権威あるみことばによっていやされ、生かされ、新鮮な驚きと感動を受け取りながら歩むために、私たちの生活のただ中に来てくださったのです。
 そのイエス様を模範としながら、イエス様の豊かな恵みを受け取りつつ、イエス様と共に歩んでいきましょう。