城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年2月4日           関根弘興牧師
                  マタイ5章1~10節
 イエスの生涯7
     「幸いなるかな1」

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(新改訳聖書)


 イエス様は、ガリラヤ地方で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語り始められました。そして、前回は、イエス様がどんな一日を過ごされたのかを見ましたね。その日は安息日でした。イエス様は、まず会堂に入られ、聖書を朗読し、人々に権威をもってお語りになりました。そして、その権威を証しするように、汚れた霊につかれた人を癒やされました。すると、評判を聞いた人々がイエス様のもとに押しかけてきたので、イエス様は多くの人の病を癒やされました。ですから、大変忙しい一日で、お疲れになったでしょう。しかし、翌朝、イエス様は、ひとり静かな場所に退き、祈っておられました。いつも神様との関わりを第一にされていたのです。そして、多くの人に福音を知らせるために、ガリラヤ全地を回って行かれました。
 さて、今日の5章から7章までには、イエス様が、ガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上でお語りになった説教が詳しく記録されています。1節ー2節に「イエスは、山に登り・・・教えて、言われた」と書かれているので、「山上の説教」と呼ばれています。
 ところで、1節を見ると、イエス様がお座りになり、身近な弟子たちに語られたように書かれていますが、この説教の最後の7章28節には、「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた」と書かれているので、この山上の説教は、特定の限られた人たちに語られたのではなく、そこに集まってきた全員に語りかけられたものだったのです。
 その山上の説教の中で、イエス様がまず最初にお語りになったのは、「本当に幸いなのは、どのような人か」ということでした。イエス様が教える幸いとは何かを学んでいきましょう。

1 「幸い」とは

 この日本語訳を読むと、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」「柔和な者は幸いです」とイエス様が淡々と語っておられるような感じがしますね。しかし、原文は、かなり雰囲気が違います。まず、「ああ、幸いなるかな」という感嘆詞から始まっているのです。「ああ、幸いなるかな。心の貧しい者」「ああ、幸いなるかな。悲しむ者」というふうになっているのですね。
 イエス様が、まず「ああ、幸いなるかな」と言われると、人々は皆、耳をそばだてたことでしょう。皆、「幸い」を求めていますからね。
 ところで、こんなアンケート調査があったそうです。「あなたは幸せですか」という質問に、なんと八割以上の人が「まあ幸せですかね」と答えたそうです。よく理由を聞いてみると、「海外の飢餓で苦しんでいる子供達に比べれば、私なんて幸せですよ」「家の中に大きなもめ事があって大変な人がいますが、それに比べれば私は幸せですよ」「知り合いが闘病中ですが、それに比べれば私は幸せですよ」という具合に、自分よりも大変な状態にある人と比べて「幸せです」と答える人が多かったのだそうです。
 皆さんは、どう考えますか。健康でいられるとき、希望が叶えられたとき、すべてのことが順調にうまくいっているとき、こういうときこそ「幸いだ」と思うのではないでしょうか。でも、残念ながら、健康は失われるときもありますし、希望が叶えられないときもあります。失敗するときもあるし、思わぬ逆風が吹くこともあります。まるで幸せが翼をつけてどこかに飛んでいってしまったかのように思える時もあるでしょう。私たちが考える「幸い」は、いろいろなものに左右されてしまう移ろいやすいものなのですね。
 しかし、イエス様が教えられた「幸い」は、違います。どんな状況にあっても変わることのない、この世の誰も奪うことの出来ない「幸い」があるというのです。しかも、それは、特別な人だけでなく、誰もが手に入れることのできる「幸い」です。 その「幸い」とはどのようなものなのでしょう。イエス様は、ここで八つの幸いを挙げておられますが、今日は、最初の三つについて詳しく見ていきましょう。

1 幸いな人

(1)心の貧しい者

 イエス様は、まず、3節で「心の貧しい者は幸いです」とお語りになりました。
 私たちは、この言葉を聞くと驚きますね。なぜなら、日頃「どんなに貧しくなっても、心だけは貧しくなってはいけません」という言葉を耳にしているからです。「心が貧しい人」という言葉には、「心が卑しい人」「不平不満の多い人」「ひがみやすい人」「人をうらやんでばかりいる人」などのイメージがありますね。ですから、「そんな人がどうして幸いなのかと思ってしまうのです。しかし、イエス様は、そういう意味で言われているのではありません。
 また、誤解しないでいただきたいのですが、イエス様は、貧困を是認しておられるわけでもありません。飢えに苦しむ人々をご覧になって「あなたがたは幸いだ」と言っておられるのではありません。あくまでも、「心」の貧しさについて言っておられるのです。
 では、イエス様が言われる「心が貧しい」とは、どういう意味なのでしょうか。
 ここで「貧しい」と訳されている言葉には、「無一物で無力な状態」という意味があります。ですから、「心が貧しい」とは、心に何もなくて無力な状態ということですね。
 この「貧しい」という表現は、旧約聖書の詩篇の中にたびたび出てきます。
「主よ あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くてくださいます。」(詩篇 10章17節)
「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。」(詩篇40篇17節)
「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。主は、貧しい者に耳を傾け、その捕らわれ人らをさげすみなさらないのだから。」(詩篇69篇32節ー33節)
 このような詩篇を読んでわかるとおり、「心が貧しい者」とは、自分がまったく無力であることを自覚し、希望も進むべき道も見失い、ついには神様により頼むことしかできない状態にある人のことなのです。
 人間は、高慢になりやすく、「神を信じるのは弱い人だけだ。私は、神に頼らなくても自分の力で生きていける」と思ったり、「困ったときだけ神様に頼って、あとは自分の好きなように生きていけばいい」と思ってしまうことがあります。そして、せっかく神様が与えようとなさっている恵みや祝福の受け取りを拒否してしまうのです。
 しかし、自分の無力さを認め、いつも神様に力と助けを求めていくとき、神様の恵みと祝福を十分に受け取っていくことができるのです。ですから、心の貧しい者こそ幸いなのだ、とイエス様は言われるのですね。
 そして、イエス様は、「天の御国はその人たちのものだから」と言われました。これは、「いつか天国に入れますよ」という意味ではありません。「天の御国」とは、「神様の支配」を表す言葉です。つまり、心の貧しい人々は、神様の愛と恵みの支配を実際の生活の中で具体的に体験することができる、だから「幸い」なのだということなのです。
 
(2)悲しむ者

続いて、イエス様は、4節で「ああ、幸いなるかな。悲しむ者」と言われました。悲しむ者がどうして幸いなのでしょう。
ここで「悲しむ」と訳されている言葉は、「強い悲しみ」を表す言葉です。大声で泣き叫ぶような悲しみです。絶望と無力感でどうしようもないという悲しみです。
 詩篇には、そのような悲しみの姿が繰り返し出てきます。
「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(詩篇6篇6節)
「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」(詩篇39篇12節)
 その中には、外部から襲ってくる様々な悲しみもありますが、また、自分自身に対する悲しみもあります。自分自身を見つめると、自分の中に罪があり、それを自分ではどうすることもできないということに気づきます。憎しみや妬みや恐れや失望から脱することのできない自分の弱さに気づきます。そして、そういう自分自身に嘆き悲しむのです。
 しかし、イエス様は、そのように悲しむ者は幸いだと言われます。なぜでしょうか。
 一つには、悲しみが悔い改めにつながるからです。自分の罪や弱さを悲しむ時、「このままではだめだ。向きを変えよう」という決断をすることができるからです。それを、聖書では「悔い改め」という言葉で表しています。イエス様が公生涯を開始されたとき、まず、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われましたね。それは、「そのままの状態ではだめだということを自覚して神様の方に向きを変える決断をしなさい」ということなのです。つまり、自分自身の状態を自覚して悲しむ者は、悔い改めて神様に立ち返ることができるから幸いだということなのですね。
 第二コリント7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」とあります。ただ後悔したり過去の問題に縛られていつまでも悲しんでいるのではなく、悲しみをきっかけにして人生の方向を変え、神様の救いを受け取っていくときに、幸いを味わうことができるのですね。
 もう一つ、悲しむ者が幸いな理由があります。
 第二コリント1章4節にこう書かれています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」
 私たちは、悲しむ時にこそ、神様の慰めを経験することができます。そして、その結果、こんどは他の人々を慰めることができる者にされていくというのです。
 ですから、悲しみの後には、必ず喜びや祝福があります。そのことが詩篇のいろいろな箇所に書かれています。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30篇5節)
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84篇6節)
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126篇5節)

(3)柔和な者

次に、5節に「柔和な者」が挙げられています。
 「柔和」というと、優しいけれど少し弱々しいイメージがありますね。
 しかし、ギリシャの世界では「柔和」という言葉には、「中庸」という意味があるそうです。これは、「極端にならない」ということです。怒り出したら止まらない、とか、浪費し出したら止まらない、といった過激で制御不能な状態でもなく、また逆に、怒りや悲しみやいろいろな感情をまったく表に出そうとしない極端な状態でもありません。怒るべき時に怒り、怒るべきでないときに怒らない、それが中庸です。
 また、この「柔和」という言葉は、動物が「飼い慣らされ、命令に従うように訓練されている」とか「他の者の支配を受け入れることを学んでいる」という姿を表すものでもあったそうです。それを人に当てはめると、神様に素直に従い神様の支配を従順に受け入れるということが「柔和」という意味に含まれているわけですね。ですから、「柔和」は、「謙虚」「謙遜」を表す言葉と同じように使われます。
 「謙遜」は「自己卑下」とは違います。自分の弱さを正直に認め、神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れることなのです。
 その反対の言葉は、「高慢」ですね。「自分は大丈夫。神の助けなど必要ない。神に従いたくない。自分勝手に生きればいいのだ」という態度です。箴言18章12節に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」とあるように、そのような「高慢」は破滅につながるのだと聖書は繰り返し忠告しているのです。
 その逆に、「謙遜は栄誉に先立つ」とありますね。
 例えば、モーセは、旧約聖書の中で最も有名な人物の一人ですが、民数記12章3節に「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と書かれています。この「謙遜」という言葉が、最近出版された新改訳聖書二〇一七版では、「柔和」と訳されています。「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった」というのですね。モーセは、エジプトで奴隷状態になっているイスラエルの民を見て、最初は感情にまかせて自分の力で救おうとしましたが、失敗して徹底的な挫折を味わいました。その結果、自分の弱さと無力さを知り、地上のだれにもまさって柔和な人へと変わっていったのです。だからこそ、神様は、イスラエルの民をエジプトから脱出させるという偉大なみわざをなさるときに、モーセを大いに用いてくださいました。しかも、シナイ山の上でモーセと直接語り合うことさえなさったのです。もしモーセが高慢だったら、このような栄誉を受けることはできなかったでしょう。
 とは、いっても、モーセはやはり私たちと同じ人間ですから、怒りを制御しきれずに自分勝手な行動をして失敗してしまうことがありました。
 でも、私たちには、モーセよりもさらにすぐれた模範があります。マタイ11章29節で、イエス様御自身がこう言っておられます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」この「心優しく」という言葉は、新改訳聖書二〇一七版では「柔和」と訳されています。 イエス様こそ、柔和のお手本なのですね。
 イエス様は人々に優しく語りかけ、多くの人に慰めを与えられました。その一方で、怒るべき時にはお怒りになりました。本来、祈りの家であるはずの神殿が不正な利益を得る商売の場と化してしまっているのを見て、イエス様は本気でお怒りになりました。また、当時の宗教家たちの偽善的な姿を厳しく糾弾なさいました。その一方で、一貫して父なる神様のみこころとご計画に従い、人々の救いの成就のために十字架への道を従順に進んで行かれたのです。
 イエス様は、神の本質をもっておられる方なのに、私たちのために人としての柔和さの模範を身をもって示してくださいました。柔和とは、どんなときも、神様に信頼し、神様から教えられ、行動していくこと、そして、あらゆる面で神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れる謙虚さを持ち続けるということなのです。
 そして、「柔和な者は、地を受け継ぐ」とイエス様は言われました。
 「地を受け継ぐ」とは、どのような意味なのでしょう。これは、この地上のどこかの土地を自分の名義にするという意味ではありません。「地上のだれにもまさって柔和であった」と言われるモーセも、ほんのわずかな土地さえ相続することはありませんでした。彼は、約束の地に入る前に天に召されたのです。イエス様は、まことの柔和なるお方ですが、イエス様御自身もこの地上のどこかの土地の名義人となることはありませんでした。世界中の法務局に行って調べてもイエス様名義の土地などありません。
 地を受け継ぐとは、この地上で自分の居場所が備えられているということです。「私は、神様によってこの場所に遣わされ、ここで生かされている。私がここにいることには意味があるのだ。私はここにいていいのだ」と告白できる者とされるということです。「私なんて生きている価値がない。居場所がない」と感じている人がたくさんいますが、神様を信頼し、神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れる謙虚さを持って生きていくなら、神様が一人一人に安心して、自分らしく生きる場所を備えてくださるのです。この地もすべて神様が治めておられるからです。
 でも、この天地はいつかは終わります。私たちの人生もいつかは終わります。ですから、私たちが今いる場所は、仮の住まいです。
 しかし、この地上での生涯が閉じた後には、永遠の天の御国が約束されています。モーセが約束の地を目指して旅したように、私たちは天の御国を目指して旅する旅人です。でも、幸いなことに、私たちが永遠の天の御国の地を受け継ぐことは、神様が保証してくださっています。ですから、今、与えられている場所を感謝しつつ、永遠の希望を持って、柔和に神様に従っていきましょう。

 さて、今日は、最初の三つの幸いについてお話ししました。「幸いなど、どこにもない」と考えている人もたくさんいます。しかし、イエス様の教える幸いは、まわりの状況によって生まれたり消えたりするようなものではありません。決して揺るぐことのない、誰も奪うことのできない幸いなのです。その「幸い」は、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者に与えられます。自分の無力さを認め、悲しみ、神様の助けが必要であることを認めて、神様に呼び求め、聞き従っていく者に与えられるのです。
 今週も神様の御支配の中で生きることの幸いを味わいつつ、希望をもって歩んでいきましょう。