城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年2月11日         関根弘興牧師
                   マタイ5章1~10節
 イエスの生涯8
     「幸いなるかな2」

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(新改訳聖書)

 マタイの福音書5章から7章までは、イエス様がガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上でお語りになった説教が詳しく記録されていますが、これは「山上の説教」と呼ばれています。
 この説教でイエス様が最初にお語りになったのは、「本当に幸いなのは、どのような人か」ということでした。イエス様は、八つの幸いを挙げておられますが、先週は、3節から5節に書かれている最初の三つについて学びましたね。第一の「心の貧しい者」とは、自分がまったく無力であることを自覚し、希望も進むべき道も見失って、神様に呼び求め、より頼むことしかできない状態にある人のことです。そういう人は、神様の御支配を素直に受け入れ、神様の恵みと祝福を十分に受け取っていくことができる、だから幸いだ、というのです。
 第二は「悲しむ者」です。私たちは、まわりの状況のために悲しむこともありますし、自分自身の状態を見て悲しむこともありますね。でもその悲しみによって、悔い改めて神様の方に向きを変えることができます。また、悲しみの中で神様の慰めを知ることができ、その経験によって他の人々を慰めることのできる者へと成長させられるのです。つまり、悲しみは悲しみで終わることはなく、成長と希望をもたらします。だから、幸いだというのですね。
 そして、第三の「柔和な者」ですが、「柔和」とは、謙遜と同じような意味で、自分の姿を正直に認め、神様の愛と恵みの支配を喜んで受け入れる従順な姿です。柔和な者は、地を受け継ぐと約束されています。地を受け継ぐとは、この地上で自分の居場所が備えられているということです。つまり、「私は、神様によってこの場所に遣わされ、ここで生かされている。私がここにいることには意味があるのだ。私はここにいていいのだ」と告白できる者とされるということです。また、この地上での生涯が閉じた後には、永遠の天の御国を受け継ぐ者とされています。だから、幸いなのです。
さて、今日は、6節から10節に記されている残りの5つの幸いについて見ていきましょう。

(4)義に飢え渇く者

 第4番目に挙げられているのは「義に飢え渇く者」です。  「飢え渇く」とは、食べるものがなく餓死寸前で食べ物を探し求める姿であり、また、砂漠の中で喉の渇きのために必死に水を求める姿です。食料や水を今得ることが出来なければ生きていけない、というほどに求めている状態です。それと同じように必死で義を求めている人は幸いだとイエス様は言われるのですね。
それでは、「義」とは何でしょうか。「義」とは「正しい」という意味ですね。でも、私たちが正しいと思ったことが、実際には的外れであったり一方的であったりして、当てにならないことも多いですね。何が正しいことなのか、その基準はどこにあるのか、ということを突き詰めていくと、神様御自身の中にある義を求めていく、ということに繋がっていくのです。この世界は、不条理や不正がたくさんあります。何が正しいのかわからなくなってしまうこともたくさんあります。だから、私たちは、神様の義を飢え渇いて水を求めるように求めていくのです。
 また、「義」という言葉は、関係を表す言葉でもあります。神様を「アバ父よ」と呼び求めることのできる何の隔てもない関係が義なる関係です。その神様との親しい関係を飢え渇いて求める人は幸いだ、とイエス様は教えられたのです。
 詩篇42篇1節ー2節にこう書かれています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」この鹿のように神様が与えてくださる救いを必死に求める者こそ幸いだ、ということなのですね。
 そして、イエス様は、「義に飢え渇く人たちは満ち足りる」と言われました
 もし、私たちが自分の行いによって義を打ち立てようとしたらどうでしょう。決して満ち足りることはありません。これも足りない、あれも足りないというふうになるでしょう。いつも何かが足りない不安を抱えて生きることになるでしょう。
 だからこそ、神様に求めていくしかないのですが、マタイ7章7節でイエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます」とはっきり言っておられます。なぜなら、イエス様は私たちが義と認められるために来てくださったからです。イエス様が私たちのために十字架で罪の罰を受けてくださり、復活によって私たちに神様と共に歩むことのできる新しいいのちを与えてくださいます。そして、私たちは、そのイエス様を信じるだけで、義なる者と認められ、神様と義の関係を持つことができます。つまり、義に飢え渇き、神様の義を求めてイエス様を信じる者は誰でも、義を与えられて満ち足りるようになるということなのです。

(5)あわれみ深い者

 次に「あわれみ深い者」が幸いだと言われています。
 この「あわれみ」という言葉は誤解されやすいのですが、ただ可哀想に思うことではありません。イエス様が言っておられる「あわれみ深い」とは、相手の立場に立ち、相手の気持ちを思いやり、実際に行動を起こすことを意味しています。
 その「あわれみ深い」姿は、イエス様の中にはっきりと見ることが出来ます。イエス様は、神であられる方なのに、私たちと同じ人として来てくださいました。私たちと同じ立場にたって、共に歩み、人としての痛みや苦しみを味わわれました。そして、苦しんでいる人や悲しんでいる人を見ると、手を差し伸べて、助け、慰め、いやされました。そして、私たちを罪の束縛から解放するために、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみを受けてくださったのです。イエス様の人々をあわれむ心は、実際の行動によって示されたのです。
 聖書には、神様がどれほどあわれみ深い方であるかが繰り返し記されています。神様は、私たちをあわれんで救い主イエスを送ってくださいました。神様のあわれみによって、私たちは罪と死の束縛から解放され、希望と喜びを持って生きることができるようになったのです。
 ですから、イエス様は、ルカ6章36節でこう教えておられます。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
 ところで、「あわれみ」は「愛」から出てくるものです。相手を愛しているなら、相手の苦しみや悲しみを見たとき、何かせずにはいられなくなりますね。それが「あわれみ」です。
 第一ヨハネにはこう書かれています。
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(第一ヨハネ4章7節ー8節)
「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(第一ヨハネ3章17節ー18節)
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(第一ヨハネ4章11節ー12節)
 これらの箇所の「愛」という言葉を「あわれみ」と言う言葉に置き換えることもできるのですね。
 私たちは、神様に愛されていることを知れば知るほど、人を愛せる者になっていきます。そして、互いに愛し合っていくときに、さらに神様の愛を深く知っていくことが出来るのです。
 あわれみも同じです。神様の深いあわれみによって赦され救われたことを知るときに、私たちは他の人々に対してあわれみ深く接することができるようになっていきます。そして、互いにあわれみ深く接していくときに、さらに神様のあわれみの深さを知ることができるのです。
 だから、イエス様は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」と教えておられるのですね。

(6)心のきよい者

 次に出てくるのは「心のきよい者」です。
 「心がきよい」とは、どういう意味でしょうか。
 「あなたの心はきよいですか」と聞かれて、「はい、きよいです」と答えられる人はどれだけいるでしょうか、もし「心のきよさ」が「心に汚れがまったくない」という意味だとしたら、「心のきよい」人など一人もいませんね。
 しかし、ここで言われている「心のきよい」とは、「二心がない」、「心の中で二股をかけていない」、つまり、「ひたすら神様だけを求める心をもっている」という意味なのです。
 詩篇24篇4節ー5節にこうあります。「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」
 この詩篇の中の「心がきよらかな者」とは、「そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」です。神様以外のむなしいことに心を向けず、ただ純粋に神様を求め、神様に心から従おうとしている人のことなのです。
 日本にはたくさんの神々がありますね。どの神様にしようか、どっちが願いをかなえてくれそうかと、二股も三股もかけて、あちこちにお参りするわけですね。イエス様は、そうではなく、一心に神様を求め続けるなら、ついに神を見ることが出来る、と約束されたのです。
 では、「神を見る」とはどういう意味でしょうか。神様は、私たちの肉眼で見ることはできません。でも、毎日の様々な出来事の中に神様が生きて働いてくださっているという現実を味わい知りながら歩むことができるのです。神様は、自然を通して、また様々な出来事や出会いを通して、御自分を示してくださっています。すべては神様の御手の中にあり、偶然に見えるようなことの中に神様のみわざが働いているのです。心のきよい人は、あらゆるところに神が生きて共にいてくださること、また、すべてを益とするためにみわざをなしてくださっていることを知ることができるのです。

(7)平和をつくる者

「平和をつくる者」とは、どのような人でしょうか。
 「平和」は、ヘブル語では「シャローム」と言います。イエス様が来られた当時の人たちは、毎日「シャローム」と挨拶していました。今でも挨拶の言葉として使われています。
 「シャローム」とは、互いの間にあるべき良い関係を表す言葉です。ですから、「平和をつくる者」とは、相手と良い関係を築くという意味です。逆に喧嘩状態になったり敵対関係になったら、平和は壊れてしまいますね。
 平和のあるところには、安心や安らぎがあります。ですから、誰もが平和を求めています。「平和をつくる者は幸いです」という言葉に疑問を持つ人はいないでしょう。ところが、実際には、私たちには、相手を傷つけたり、敵意を持って罵り合ってしまうような弱さがあります。そんな私たちに、イエス様は、平和をつくる者になりなさいと言われるのです。そのためには、どうしたらいいでしょうか。
 旧約聖書のヨブ記22章21節に「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」とあります。聖書は、私たちが平和に生きるためには、まず、神様との平和、神様との良い関係を持つことが必要だと教えています。
 では、神様との平和をつくるためにはどうすればいいでしょうか。私たちが立派な行いをし、神様に認められるような良い人間になればいいのでしょうか。それは、とても無理ですね。 パウロは、ローマ5章1節で、「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と書いています。つまり、イエス様を救い主として信じ受け入れるときに、私たちは神様の前で義と認められ、神様との平和な関係を持つことができるというのです。イエス様は平和の君として来てくださいました。イエス様が、 私たちのために神様との平和をつくってくださるのです。
 ですから、パウロは、コロサイ3章15節でこう言っています。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」キリストによって神様との平和の関係を持つことができるようになった私たちは心に平安をもって生活することができます。そして、それによってお互いの間に平和をつくる者となっていくことができるのです。
 また、ローマ12章18節には、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と書かれています。
 この「自分に関する限り」という言葉から、二つのことが考えられます。
 一つは、「世界平和を目指そう」などと意気込むのではなく、まず、自分の周りの人々と平和の関係を築いていくことが大切だということです。
 ただし、誤解しないでいただきたいのですが、平和をつくるというのは、無理して相手に合わせようとしたり、波風が立たないように何も言わずに黙っていたりすることではありません。時には相手を戒めることが必要な時もあります。自分にできないことは断ることも必要でしょう。納得できないことには反論することもあるでしょう。また逆に、相手の意見に耳を傾け、忠告を素直に受け入れることも必要です。忍耐や寛容さが必要な場合もあるでしょう。でも、いつも神様にあってお互いの存在を尊重しつつ、助け合い、教え合い、戒め合い、赦し合い、お互いの最善を願い祈り合っていくときに、平和がつくりだされていくのです。平和はつくり出していくものです。身近な人との平和をつくるために一人一人が小さな一歩を踏み出していきましょう。
 「自分に関する限り」のもう一つの意味として考えられるのは、「相手の状態にかかわらず」ということです。相手が自分にどんな態度を取ろうとも、相手が自分に敵対していたとしても、自分は相手のために最善を願い、出来ることをしていくということです。ルカ6章27節でイエス様がこう言われたようにです。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」
 皆さん、人と人の間を裂くのは、悪魔が得意とするわざです。しかし、人と人との良き関係を回復してくださるのは、神様のわざです。ですから、平和をつくる者は、神の子どもと呼ばれるのです。そして、平和を求め、つくり出していくときに、私たちは、神様の働きに参与するという幸いを味わうことができるのです。

(8)義のために迫害されている者

 イエス様が「幸いなるかな」と言われた八番目は、「義のために迫害されている者」です。
 私たちの「義」は、イエス様を信じることによって得られる義です。ですから、ここの「義のために迫害されている者」という言葉は、「イエス様を信じる信仰のために迫害されている者」と言い換えることもできるでしょう。
 今日の日本では、信仰によって迫害を受けることはほとんど無いと思います。しかし、初代教会の時代から四世紀の初めまで、教会は非常に激しい迫害を経験しました。
 パウロは、ピリピ1章29節で「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」と書いています。つまり、キリストを信じて生きているからこそ生じる苦しみがあるというのです。
 イエス様も、ヨハネ16章33節で弟子たちに「あなたがたは、世にあっては患難があります」と言われましたね。
 私たちは信仰を持って生きていくとき、社会の中でいろいろな葛藤を覚えることがあるかもしれません。会社の中で正しいことを主張したとき、反発されたり理不尽な仕打ちを受けることがあるかもしれません。長いものには巻かれろ式に生きていかなければならないのだろうか、と葛藤するかもしれません。また、家族の中で理解されず葛藤することがあるかもしれません。
 私たちは、そうした様々な葛藤や苦しみを経験するとき、自分の無力さを知らされます。そして、ただ、神様に助けを呼び求める以外になすすべがないことを告白することでしょう。つまり、イエス様が八つの幸いの第一番目に挙げられた「心の貧しい人は幸いです」というところに再び戻ってくるのです。
 イエス様が教えられた八つの幸いは、一つ一つが独立しているのではなく、信仰生活のなかで循環されていくものなのです。私たちは、神様に助けを呼び求めながら、辛い悲しい涙も流すことでしょう。しかし、主の慰めを受けながら進んでいくことができるのです。そして、神様の義を求めて、あわれみ深い神様の愛と恵みの中に生かされていることを喜び、柔和さを学び、「アバ父」と親しく呼び求めることのできる神様との平和の関係の中に生かされている幸いを知りつつ歩むことができるのです。
 今日、ここに集っている私たち一人一人が、この幸いの中に生かされています。今週もその幸いを味わいつつ歩む週となりますように。
 最後に、新改訳二〇一七の八つの幸いの箇所を交読しましょう。

3 心の貧しい者は幸いです。
  天の御国はその人たちのものだからです。
4 悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。
5 柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐからです。
6 義に飢え渇く者は幸いです。
その人たちは満ち足りるからです。
7 あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるからです。
8 心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです。
9 平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。