城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年2月18日         関根弘興牧師
                  マタイ6章25-34節
 イエスの生涯9    「心配するな」

25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新改訳聖書)


 マタイの福音書5章から7章には、イエス様がガリラヤ湖を見下ろす丘の上で群衆にお語りになった説教が記録されていますが、これは、「山上の説教」と呼ばれています。
 前々回と前回は、この説教の最初に語られた「幸いとは何か」「幸いな人とはどんな人か」ということについて学びました。イエス様は、「物事がすべて順調で何の問題もない人が幸いだ」とは言われませんでした。イエス様が幸いだと言われたのは、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のための迫害されている者です。自分自身の真の姿を見て嘆き悲しみ、神様の恵みを求めるしか生きていけないことを自覚し、必死に神様に求めている人、また、神様の支配を喜んで受け入れ、神様に従い、神様に与えられた恵みを分かち合おうとしていく人、そういう人こそ神様の豊かな恵みを味わうことができるから幸いだと言われたのです。
 山上の説教の中でも、この「幸いな人」の教えはとても有名ですが、今日の箇所もよく知られています。
 私たちは、いろいろなことに心配することが多いですね。今日の箇所でイエス様は、「心配」にどのように対処したらいいかを教えてくださっています。詳しく見ていきましょう。

1 心配の種類

 まず、誤解しないでいただきたいのは、イエス様がここで言われているのは、「心配はいっさいしてはいけない」という意味ではありません。「心配」には「必要な心配」と「不必要な心配」があるのです。
 「心配」は「心を配る」と書きますね。いろいろなことに心を配ること、配慮することは、毎日の生活に必要です。
 例えば、家族の健康を心配して、体に良い食事を用意するのはいいことですね。また、体調が悪ければ、心配して健康診断を受けたり診察してもらうほうがいいですね。登山をするときには、前もって地図でルートを確認し、天候を調べ、万全の準備をして登る必要があります。もし、「イエス様が『明日のことは心配するな』と言われたから、何の準備も必要ない」と考えたとしたら、それは無謀なだけです。また、「イエス様が『衣食住のことは心配するな』と言われたから、働かなくてもいいんだ」と考えるのは無責任なだけです。
 イエス様は、私たちに無思慮、無責任、無分別になることや将来の計画を立てずにその日暮らしの生活をすることを勧めておられるわけではないのです。用心深さや慎重さや計画性などが大切であることは、聖書のいろいろな箇所で教えられています。
 では、イエス様が「心配してはいけません」と言われる時の「心配」とは、どのようなものでしょうか。
 私たちを恐れや不安で縛り、喜びや自由や希望を奪ってしまうような心配です。そういう心配は、「思い煩い」と言い換えてもいいでしょう。 
2 思い煩いの影響

 私たちは、思い煩ってもどうしようもないことに思い煩うことが多いですね。しかし、気をつけないと、思い煩いは私たちに様々な悪い影響を及ぼしていくのです。
 例えば、思い煩うと、人は必ず否定的になっていきます。
 私は理数系がどうも性分に合わなくて嫌いでした。ですから、数学の試験が近くなると思い煩ったのです。「この試験、赤点を取ったらどうしよう。進級できなかったらどうしよう」と。そんなふうに思い煩うと、勉強が手につかなくなってしまいます。その結果は、試験の出来に見事に表れます。そして、「やっぱり私は数学は苦手だ」と結論づけてしまうのです。
 思い煩いは、否定的な考えや感情を生み出し、人を消極的にし、出来ることも出来なくさせてしまうのです。
 また、思い煩いによって、正しい判断が出来なくなります。これが一番問題です。実は、思い煩いの原因というのは、あってないようなものが非常に多いのです。なぜかというと、自分で勝手にシナリオを書いて悩んでしまうケースが多いからです。「もしかしたら、あの人はこう思っているかも知れない。いや、こう思ったに違いない」「あの人の今日の態度は、いつもと違う。私は嫌われているんだ」「今日はおなかが痛い。重大な病気かもしれませない。どうしよう」などと根拠もないのに思い煩ってしまうのです。
 ある男性が入院しました。最初は大部屋だったのですが、個室に移されました。彼は思い煩い始めました。「個室に移ったということは、私の病気が非常に悪いということだ」と考えたのです。ところが、何のことはない、「大部屋ではうるさいだろう」と家族が気をきかせただけなのです。
 人は、思い煩い、否定的になって、判断を誤ることが多いのですね。
 また、思い煩いは、肉体にも影響します。思い煩って健康になったという人を聞いたことがありません。思い煩いは、人に精神的な打撃を与え、その結果、肉体にも打撃を与えていくのです。思い煩や心配が続くと、ストレスで胃を悪くする人は大勢います。

3 思い煩いの原因

では、私たちはなぜ思い煩うのでしょうか。イエス様は、30節で「信仰の薄い人たち」と言っておられますね。信仰が薄いから思い煩ってしまうというのですね。
 では、「信仰が薄い」とは、どういう意味でしょうか。もし「あなたは信仰が薄い」と言われたら、どんな感じがしますか。「私はまだ信仰が足りなくてだめだ。もっと信じられるように頑張らなくては」と思ってしまうのではないでしょうか。でも、それは、イエス様の言われていることではありません。
 私たちの信仰は、自分の力や努力で得たのではなく、神様から与えられた賜物です。私たちがイエス様を救い主として信じることができるようになったのは、神様御自身のみわざです。神様が私たち一人一人にすばらしい信仰を与えてくださっているのです。ですから、一人一人が持っている信仰はみな素晴らしいものです。
 ところが、私たちは、その信仰を十分に生かしていないことがあるのです。
 例えば、どんなに素晴らしいギターを持っていても、弾かなければ音が出ません。たまに弾くだけでは上手くなりませんね。
 また、例えば、大型バスが何台も止められるような広い駐車場があるのに、自転車一台しか止められないと思っていたら、もったいないですね。
 イエス様は、私たちが、せっかく豊かな可能性のある信仰が与えられているのに、それを小さく制限してしまっていることを「信仰が薄い」と言われたのです。
 私は、大学時代にJ・B・フィリップスという人が書いた「あなたの神は小さすぎる」という本を読んで大変教えられました。「あなたは、神様を自分の小さな理性の中に閉じ込めていませんか」と問いかける本です。
 私たちは、信仰の領域を自分で小さく制限してしまっている傾向があります。「神様は、心や精神の問題は取り扱ってくださるけれど、毎日の衣食住や人間関係や仕事など日常生活の問題には何もしてくださらない」と思い込んでいる方がたくさんいます。自分で神様の働きに制限をつけているのです。
 しかし、そうではありません。神様は、私たちのあらゆることに関心を持っておられ、あらゆる領域でみわざを行ってくださるのです。
 イギリスのジョージ・ミュラーは、孤児院を作りましたが、必要なものをすべて神様にのみ頼るという決心をして、寄付を募ることをせず、孤児院に必要なすべてのものをただ神様に祈り求めました。
 彼は、毎日祈り求めました。最後の残った小麦粉で夕食のパンを作りながら、次の日の朝の食事のために祈らなければならない日々が繰り返されました。
 その結果は、どうだったでしょうか。彼が祈った品物や食べ物は、いつも間違いなく与えられたのです。
 たとえば、暴雨で荒れた次の日の朝、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。彼は、四百人の孤児たちと一緒に何も置かれていない食卓の周りに座り、手を取り合って食事の祈りを捧げました。祈りが終わった時、一台の馬車が孤児院に到着しました。その馬車は、朝焼いたばかりのパンと新鮮な牛乳を大量に積んでいたのです。それは、隣近の工場が従業員たちの野外パーティーに使うために注文したものでしたが、暴雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのです。
 ミュラーはこのようにして孤児院を運営した六十五年間、毎日のように奇跡的な神様のみわざを体験しました。彼は、「神様は求める者に良いものを与えてくださらないはずがない」という聖書の言葉を疑うことなく信じ、その信仰は、常に事実として証明されたのです。
 もちろん、皆がミュラーのまねをすればいいというわけではありません。ミュラーは神様に導かれて自分にふさわしい生き方をしたのですから、私たちもそれぞれ神様の導きに従って自分にふさわしい生き方をしていけばいいのです。ただその時に覚えておいていただきたいのは、神様が私たちの心や魂に関することだけでなく、毎日の生活のあらゆる具体的なことについて必要を満たしてくださる方であるということです。私たちは、信仰の領域を自分勝手に制限したりせずに、大きく広げていきましょう。
 では、信仰の領域を広げていくために、どのようなことをしていけばいいでしょうか。イエス様は、今日の箇所でいくつかのことを教えておられます。

4 信仰の領域を広げるために
 
①自然を観察する

 自然を観察すると、その自然をお造りになった神様の素晴らしさを味わうことができます。
 イエス様も、空の鳥を見なさいと言われましたね。また、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」とも言われました。「よくわきまえなさい」とは、「よく考えなさい」とも訳される言葉です。じっくりと見て、考えてごらんなさい、というのですね。
 しばらく前ですが、海外青年協力隊の隊員としてケニヤに行った友人から手紙をもらいました。こう書かれていました。「ある日、仕事中にふと空を見上げてみました。青い空と、そして白い月がありました。夜空の月でさえろくに見たこともなかったのに、月がこんなに美しいとは知りませんでした。注意して見ると、この世は美しい物であふれています。イエス様は、『空の鳥を見なさい』とも『百合の花のことを考えてみなさい』ともおっしゃいました。もちろん、私だってこの聖句のことを知っているつもりでした。でも本当に今の今まで、注意してそれらを見たことも考えたこともなかったように思います。よく見れば、なるほど花一つとっても、ソロモン王の栄華よりもまさっているとたとえられているほどの美しさです。野の花、鳥たち。そして、一羽の雀さえもこれほどよくしてくださる方が、まして私たちに、どれだけの思いをかけていてくださるのかを、恩知らずにも今まで気づいていなかったような気がしました。そして、本当に何も恐れることや心配することなどないのだと思いました。」
 私たちは、自分自身や目の前の問題に気を取られて、心配したり悩んだりすることが多いのですが、目をあげて空の鳥や野の花を見回すとき、偉大な神様がおられることを思い起こすことができます。そして、すべてのことが神様の御手の中にあることを改めて認め、神様への信頼を回復し、平安を得ることができるのですね。

②神の国とその義とをまず第一に求める

 「神の国」とは「神様の支配」ということです。すべてを神様の支配にお委ねすること、また、神様が最善の正しいみわざを行ってくださることを信頼し願い求めていくことが大切です。
 神様は、真実な方ですから、約束したことを必ず実行してくださいます。しかも、私たち一人一人を愛しておられるので、祈りに答え、必要を満たしてくださるのです。
 31節ー32節で、「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」とイエス様が教えておられるとおりです。
 また、詩篇81篇10節では、神様御自身がこう言われています。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」私たちが神様に期待し、神様に向かって口を大きくあけるときに、神様が満たしてくださるのです。
 ですから、聖書の約束を心から信頼し、神様の御支配の中にすべてをお委ねしつつ、神様の豊かな養いを経験していきましょう。

③あすのための心配をしない

 イエス様は、34節で「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と言われました。それは、明日のことを心配しすぎて、今日を大切に生きることが出来なくなってしまわないようにということです。つまり、神様から与えられた今日一日、今の瞬間を大切に生きていきなさい、ということです。
 私たちは、あすのことを心配しすぎる傾向がありますが、それは、神様がいつも共にいて必要を備えてくださることを信頼し切れないことから来ています。でも、実際には、私たちには自分で自分のいのちを伸ばすことはできないし、あした何が起こるか予想することもできません。すべては神様の御手の中にあるのですから、神様の導きに従って今を生きていくのです。 だからといって、明日以降の計画はいっさい立てずに生活するという意味ではありません。これからの計画を立てて準備をしていくことは大切です。でも、その計画も「みこころなら、それをなさせてください」と神様にお委ねするのです。
 ヤコブ4章14節ー15節にこう書かれています。「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」
 車で夜道を走る時、遠くは見えません。ペッドライトが照らす目の前の道をただ進んでいくだけですが、でも目的地に着くことができますね。私たちの人生も同じです。先はよく見えなくても、今、神様に照らされている道を進んでいけばいいのです。今日という日を自分らしく大切に過ごしていくときに、神様が最善の目的地へと導いていってくださるのです。
 また、イエス様は、「労苦はその日その日に、十分あります」と言われましたが、人が背負っている労苦はみな違います。比べる必要はありません。一日中仕事をしなければならない人もいるでしょうし、一日リラックスして休養を取る人もいるでしょう。人の重荷の一端を担う人もいるでしょうし、誰かと楽しく過ごす人もいるでしょう。それぞれの一日はみな違います。でも、その一日一日を大切にして、神様が「明日のための心配は無用」と言われるのですから、「わかりました。今日というこの日を自分らしく、仕事のために、余暇のために、自分の健康のために、愛する者のために・・・大切に過ごしていきます」と告白しながら歩んでいくのです。

さて、今日の箇所を一言でまとめると、「心配するな。神様がおられるのだから」ということになりますね。
 皆さんは、宗教改革者のルターをご存じでしょう。彼は、ある時、非常に落ち込み、頭を抱えて部屋に閉じ込もってしまったそうです。すると、奥さんは、喪服に着替えてルターのそばに立ちました。ルターはびっくりして尋ねました。「葬式に行くのか。誰が死んだのだ。」すると、奥さんは答えました。「はい。実は神様がお亡くなりになったのです。」ルターは怒って言いました。「馬鹿なことを言うな。神様がお亡くなりになるわけがないではないか!」「神様が生きておられるなら、どうしてあなたはそんなに思い煩い、失望なさっているのですか。あなたのその姿を見て、てっきり神様がお亡くなりになったのだと思ったのです。」
 皆さん、神様は生きておられます。私たちを愛し、私たちのために必要を満たしてくださる神様は生きておられます。思い煩い、落ち込んでいるとき、不安な時は、そのことを思い起こしましょう。聖書にもこう書かれています。
 第一ペテロ5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
 ピリピ4章6節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」