城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年2月25日         関根弘興牧師
                  ヨハネ2章1節~11節
 イエスの生涯10
     「カナの婚礼」

  1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(新改訳聖書)


イエス様が公の働きを開始されたのは、エルサレムから離れたガリラヤ地方でした。イエス様は、ガリラヤ各地を回って、説教をしたり、病人を癒したり、奇跡的なみわざを行なわれました。その内容は、四つの福音書に記録されています。
 先週までの三回の説教では、マタイの福音書から、イエス様がガリラヤ湖畔の丘の上でお語りになった「山上の説教」の内容をお話ししました。「本当に幸いな人とはどのような人か」ということと「神様がおられるのだから心配する必要はない」ということを学びましたね。
 今日は、ヨハネの福音書から、イエス様がガリラヤ地方のカナで行われた不思議なみわざについて見ていきましょう。
 ところで、ヨハネの福音書では、イエス様の奇跡的なみわざを「しるし」と呼んでいます。そして、イエス様がなさった数々のみわざの中から、特に、イエス様がどのような方であり、どんな目的を持って来てくださったのかということを示すものとして、七つのしるしを紹介しているのです。
 11節に、今日の出来事は、そのうちの最初のしるしだと書かれていますね。つまり、この出来事が記録されているのは、「イエス様は、こんなことも出来るんだぞ。すごいだろう」と、ただイエス様の力を誇示するためではなく、イエス様がどんな方で何の目的で来られたのかを示すためだということなのです。
 では、このしるしは、イエス様についてどのようなことを示しているのでしょうか。

1 婚礼で起こった問題

 イエス様は、ガリラヤ地方のナザレでお育ちになりましたが、そのすぐ近くのカナという町で婚礼の祝宴が開かれました。
 当時の婚礼は、家を解放して一週間祝宴を催したそうです。この時だけは、新郎新婦は王と王妃のように扱われます。貧困と重労働の連続である人生において、本人たちにとっても列席の人々にとっても大いなる喜びの時だったわけです。
 その婚礼に、イエス様の母マリヤもイエス様も弟子たちも招かれて出席していました。
 その婚礼の最中に、ぶどう酒がなくなってしまうという予期せぬ出来事が起こってしまったのです。婚礼でぶどう酒がなくなるということは、祝宴が台無しになるだけでなく、新郎新婦に恥をかかせることになってしまいます。
 そのことに気づいたマリヤは、すぐイエス様に向かって「ぶどう酒がありません」と言いました。おそらくマリヤは、新郎新婦のどちらかの親戚だったのでしょう。一般の招待客なら接待に気をつかう必要はありませんからね。また、ここには、マリヤの夫のヨセフは出てきませんね。ヨセフは若くして死んでしまったと言われています。ですから、マリヤは、困ったときにはいつでも、長男であるイエス様に相談し、頼っていたのでしょう。

2 イエス様の返答

 すると、イエス様はこう言われました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」日本語に訳されたものを読むと、何ともぶっきらぼうで冷たく聞こえる不思議な言葉ですね。しかし、イエス様はマリヤに素っ気なくされたわけではありません。
 「女の方」という呼びかけは、当時、敬意をもって女性に呼びかけるときに用いられた言葉でした。イエス様は、母マリヤに丁寧に呼びかけられたのですね。
 そして、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という言葉は、「あなたとわたしは何の関係もない」という冷たい響きに聞こえますが、実は、この言葉を直訳すると、「私にとって何か。そして、あなたにとって」という意味です。
 ぶどう酒の問題は、マリヤとイエス様にとって、それぞれどんな意味があったでしょうか。
 マリヤは、「ぶどう酒がなくなったら婚礼の祝宴が台無しになってしまう」ということだけに関心を持っていました。
 しかし、イエス様は、不思議なことを言われましたね。「わたしの時はまだ来ていません」と。イエス様が最も関心を持っておられたのは、将来、御自分がすべての人の罪のために十字架で流す血のことでした。人々を罪から解放し、赦しと永遠の救いを与えるために流される血です。そのためにイエス様は来てくださったのです。そして、ぶどう酒は、その十字架の血を象徴するものでした。
 イエス様は、御自分が十字架にかかる時のことを「わたしの時」とたびたび言っておられます。ですから、「わたしの時はまだ来ていません」というイエス様の言葉には、「わたしが十字架で血を流す時はまだ来ていません」という意味が込められていたのです。
 しかし、イエス様の返事は、マリヤにとっては、このように聞こえたのではないでしょうか。「わたしの関心とあなたと関心とは少し違います。愛し尊敬するお母さん。わたしの本当の目的を成就するときはまだ来ていませんが、でも心配しないでください。この事態をわたしに任せてください。そうすれば、わたしのやり方で解決しましょう。」
 イエス様は、決してマリヤを冷たく突き放したわけではありませんでした。なぜなら、マリヤは、イエス様の言葉を聞くとすぐに、手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言っているからです。マリヤは、イエス様の言葉を聞いて、とにかくイエス様にこの事態を任せておけば大丈夫だと思ったのですね。

3 最初のしるしの意味

 イエス様は手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい」そして、「その水をくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われました。彼らがその通りにすると、なんと水が最高のぶどう酒に変わっていたのです。これがイエス様が行った「最初のしるし」でした。このしるしは、何を示しているのでしょうか。私たちは、この出来事から何を学ぶことができるのでしょうか。

①イエス様は、小さな問題の中にも栄光を現してくださる

 舞台は田舎の新婚家庭です。大都会の有名人の結婚式でもなければ、何千人の集会でもありませんでした。ぶどう酒がなくなったことは、世界の様々な問題に比べれば、取るに足りないことのように思えませんか。
 しかし、イエス様は、わざわざその祝宴に行かれ、若い夫婦が恥をかかないように、また、列席の人々の喜びが損なわれないように配慮してくださったのです。
 イエス様は、それぞれの小さな家庭の小さな問題の中にも御自分の栄光を現してくださるのです。皆さんは、そのことを信じますか。自分の家庭の問題を誰に向かって訴えますか。マリヤのように「イエス様。今、こういう状況です。なんとかしてください。助けてください」と訴えればいいではありませんか。
 皆さん一人一人の人生の真ん中に、ご家庭の真ん中に、イエス様をお招きしているでしょうか。イエス様の座る場所が備えられているでしょうか。
 私は牧師の家庭に育ちましたが、父は家の壁に聖書の言葉や有名な言葉が刻まれた額を飾るのが好きでした。私が高校生の頃だったと思いますが、しばらくの間、このように刻まれた壁掛けが飾ってありました。

キリストは我が家の主
食卓の見えざる賓客
あらゆる会話の沈黙せる傾聴者
Christ is the Head of this house.
The Unseen Guest at every meal.
The Silent Listener to every conversation

カナの婚礼に行かれたイエス様は、私たちの家にも来てくださって、私たちの語りかけに耳を傾けてくださいます。そして、そこに御自分の栄光を現してくださるのです。

②水がぶどう酒に

 イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださいました。
 6節に「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった」とありますね。
 当時のユダヤの人たちは、外出から帰って家に入るときや食事の前に、汚れた身をきよめるために水で手足を洗う習慣がありました。それで、各家庭には、きよめの水を入れる水がめが用意されていたのです。
 ユダヤ人たちが水で身をきよめるのは、衛生的な理由よりも、宗教的な理由がありました。旧約聖書の律法には、汚れたものに触れて身を汚した者は、水で身をきよめなければならない、という規定があります。それで、ユダヤ人たちは、外出したときに知らないうちに汚れたものに触れて身を汚してしまったかもしれないということで、家に入る前に水で身をきよめていました。それは、神様に受け入れられるために大切な宗教的儀式と見なされていたのです。
 しかし、この福音書を書いたヨハネは、イエス様が、そのユダヤの宗教的習慣で用意されていたきよめの水をぶどう酒に変えられたのだ、と記しています。
 実は、ヨハネの福音書には、「人が律法に従って生きることには限界がある」ということを示すメッセージがあちこちにちりばめられています。イエス様が水をぶどう酒に変えるというしるしにも、そのことが示されているのです。
 人は、いくら外側を水で洗っても、本当にきよめられたという確信を持つことができるでしょうか。人々は、宗教的、儀式的な生活の限界を感じていたかもしれません。でも、習慣的に、水で身をきよめることを続けていたのです。
 しかし、毎日のように手を洗い外側をきよめても、自分の内側の汚れや罪を洗い流すことは決してできません。だからといって、その儀式を怠れば、罪責感が生じてきます。自分がきちんと行わなければ、神様に受け入れられないという恐れや不安も出てきます。神様は、人として大切なのは、神を愛し隣人を愛して生きることだということを教えるために律法をお与えになりました。ところが、人はかえって律法に縛られて、神様を恐れ、愛する心からではなく義務感から律法に従おうとするようになってしまっていたのです。ですから、きよめの水は決して喜びを与えるものではありませんでした。
 しかし、イエス様は、この水を最上のぶどう酒に変えてくださいました。そして、そのぶどう酒は人々に大きな喜びを与えるものとなったのです。
 つまり、このしるしは、「人は、一生懸命努力して律法による行いをしても、本当の意味で自分をきよめることはできないし、喜びを味わうこともできない。しかし、イエス様が十字架で流してくださる血によって、罪が赦され、きよめられ、新しく造り変えられ、最上の喜びを味わうことができるようになる」ということを暗示するものだったのです。

①しもべの喜び

 さて、水がぶどう酒に変わるというのは、素晴らしい奇跡ですね。しかし、そのイエス様のみわざに気づいた人は、ほんのわずかでした。マリヤとイエス様の弟子たち、そして、水をくんだ手伝いの者たちだけです。
 手伝いの者たちは、このカナの婚礼の中で、最も地味で目立たない存在ですね。彼らは、イエス様に言われた通りに、水がめに水を満たしました。井戸から水をくんできて六つの大きな水がめに水を満たすのは、大変な労力が必要でしょう。しかも、とても地味な作業ですね。でも、ともかく彼らはイエス様のおっしゃるとおりにしたのです。そして、その水を汲んで宴会に持って行くと、何と、ぶどう酒に変わっているではありませんか。それも最高の香りを放つぶどう酒で、世話役がびっくりするほどの最良のものだったのです。
9節にこう書かれています。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──」
 「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」とありますね。彼らは裏方でした。表舞台に出る人たちではありませんでした。でも、水がぶどう酒に変わったことを知ることができたのは彼らでした。
 しもべの喜びは、ここにあります。イエス様のしもべとして生きるということは、イエス様のみわざの目撃者となり、いろいろな出来事の背後にイエス様のみわざがあることを知る者とされていくということです。
 私たち一人一人もイエス様にあって「水をくむしもべ」とされていきたいですね。「水をくむ」とは、人によって様々です。誰かに声を掛けることかもしれません。手紙を出すことかもしれません。誰かのために祈ることかもしれません。何をするにせよ、私たちはこのしもべの心を持って歩むとき、主のみ業を目撃する者となっていくのですね。

④満ちあふれる恵み
 イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださいましたが、それはあり余るほどのものでした。イエス様が五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた時も、皆が満腹し、余ったパンくずが十二のかごにいっぱいになったと記されています。キリストの与える恵みの豊かさは半端じゃないですね。「この方は恵みとまことに満ちておられた」とありますが、イエス様は、あふれる恵みを与えることのできる方なのです。
 パウロは、ローマ人への手紙15章29節で、ローマのクリスチャンたちにこう書き送っています。「あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。」
 また、ピリピ人への手紙4章19節では、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と書いています。
 そして、コリント人の手紙第二の9章8節では「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」と書いています。
キリストは、あらゆる恵みをあるれるばかりに与えてくださいます。赦しがあふれる恵み、愛があふれる恵みです。私たちは、このキリストの愛の中に生かされている喜びを味わうことができます。イエス・キリストは、私たちの無味乾燥とした味けのない人生を、豊かな香りあふれる人生へと変えてくださる方なのです。