城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年3月4日          関根弘興牧師
                  マルコ2章1節~12節
 イエスの生涯11
    「あなたの罪は赦された」

1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。(新改訳聖書)


 イエス様が公の働きを開始されたのは、エルサレムから離れたガリラヤ地方でした。イエス様は、ガリラヤの町や村を回りながら人々に福音を語り、多くの病人を癒すなど奇跡的なわざを行われました。前回は、イエス様がガリラヤのカナで行われた婚礼に出席されたときの出来事を学びましたね。祝宴のぶどう酒が足りなくなってしまったのですが、イエス様は水を最良のぶどう酒に変えて、名も無い新婚夫婦が恥をかかないように、また祝宴の喜びが損なわれないようにしてくださいました。
 さて、イエス様がガリラヤ地方で大胆に語り、多くの力あるわざを行われたので、イエス様の評判は瞬く間に広がっていきました。それで、イエス様のもとに人々が押し寄せてきたのです。今日の箇所でも、イエス様がカペナウムのある家におられた時、多くの人が集まったため家が戸口のところまですきまもないほどいっぱいになってしまったと書かれていますね。この家はペテロの家だったのではないかと考えられていますが、イエス様は、家の中で集まった人々に説教をしておられました。その説教の最中に、屋根がバリバリと剥がされる音がして、天井に穴が開き、そこから病人を寝かせた寝床が吊り下げられてきたのです。今日は、この出来事について見ていきましょう。

1 中風の人と四人の友人の信仰

 吊り下げられてきた中風の人は、おそらく脳出血や脳梗塞が原因で自分で体を動かすことが出来なくなっていたのでしょう。言語障害もあったかもしれません。とにかく、自力でイエス様に助けを求めに来ることは不可能な状態でした。
 しかし、この人には、大きな犠牲を払うことを惜しまない素晴らしい友人たちがいたのです。中風の人自身がイエス様に癒やしていただきたいと思って友人たちに協力を頼んだのかもしれません。あるいは、中風の人の状態を見かねた友人たちが自発的にこの人を助けたいと思って行動したのかもしれません。どちらかははっきりわかりませんが、とにかく友人たちは何とかしてこの人を助けたいと思っていたのです。そして、5節にあるように、イエス様は「彼らの信仰を見て」中風の人を助けてくださいました。
 では、「彼らの信仰」とは、どのようなものだったでしょうか。

①イエス様に期待する信仰

 この友人たちは、難しい神学的なことなどわからなかったでしょう。でも、ただ一つ、中風の仲間をイエス様のもとに連れて行きさえすれば、イエス様が助けてくださると期待していたのです。信仰によって生きるとは、イエス様が必ず最善のことをしてくださると期待して生きることなのです。
 コロサイ1章27節にこう書かれています。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
 イエス様は、私たちの栄光の望みです。私たちは、イエス様の栄光のみわざを期待つつ生きて行くことができるのです。それが信仰の姿です。

②あきらめずに求め続ける信仰

 彼らは、中風の人を担架にのせ、とにかくイエス様のもとに連れて行こうと考えました。しかし、着いてみると、家は人がいっぱいで入る隙間もありません。とてもイエス様に近づくことができません。
 人が四人集まれば、いろんなタイプの人がいるはずです。「こんなに人が一杯じゃ、駄目だ。帰ろう」と言う人がいたかも知れません。「いやいや、もう少し並んで待っていれれば、家に入れるのではないか」と言う人もいたでしょう。中風の人も「これ以上、皆の世話になっては済まない。もういいよ。ここまでしてくれてありがとう」と言ったかもしれませんね。
 しかし、彼らは、結局、諦めずに何とかしてイエス様のみもとに行く方法を考えました。そして、屋根をはがして吊り下ろすという大胆な方法を思いついたのです。
 当時のこの地方の家の屋根は平らで、比較的簡単に剥がすことができました。とはいっても、他人の家の屋根を勝手に剥がすというのは、かなり無謀なことですね。あとで修繕費用を要求されるかもしれません。しかし、イエス様のみもとに病人を連れて行きたいという強い願いが彼らを突き動かしていたのです。
 聖書には、諦めずに求め続けることの大切さを教えている箇所がいくつもあります。諦めずに求め続けた結果、必要な答えを得ることが出来た人々の例もいくつも書かれています。私たちも、ちょっと困難が障害にぶつかると諦めてしまう、というのではなく、イエス様に期待し続け、求め続けることが大切なのです。

③協力し合う信仰

 また、この四人の友人の姿には、麗しいチームワークを見ることができます。この中風の人を床に寝かせたまま運ぶためには四人が必要でした。それぞれが床の四隅を持つ役割を担ったのです。一人では運べません。二人では重すぎたでしょう。三人ではバランスが崩れたことでしょう。四人いたからこそ、病人をイエス様のもとにまで運ぶことができましたし、四人いたからこそ、屋根から吊り下ろすことができたのです。
 このように、信仰生活には、お互いの協力が必要です。時には助け、時には助けられながら、また、共に祈り、重荷を分かち合いながら歩んでいく仲間が必要なのです。
パウロは、ガラテヤ6章2節でこう記しています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
 「キリストの律法」とは「互いに愛し合いなさい」ということです。互いの重荷を負い合うとき、互いに愛し合うことが具体的に行われていくのですね。
 といっても、私たちは、いつも一緒にいるわけではありません。いつも親しくしている人もいれば、顔も名前もよくわからない人もいます。すべての人に対して同じように接することはできませんし、他人の重荷をどれだけ担えるかも人によって違います。でも、自分のできる範囲で人の重荷の一端を担うことは出来ますね。自分一人でできなくても、何人かで協力してできることもあります。互いの重荷を負い合い、互いに協力しつつ信仰に生きて行くとき、私たちは、イエス様のみわざを見ることができるのです。

④他の人のための信仰

 今日の箇所では、中風の人本人よりも、友人たちの信仰が中心になっているように思われます。イエス様は、友人たちの信仰を見て、中風の人を助けてくださいました。
 このように、聖書には、本人の信仰ではなく、周りの人々の信仰によって神様のみわざがなされるという例がいくつも記録されています。たとえば、会堂管理者ヤイロはイエス様のもとにいって死んだ娘を生き返らせていただきました。百人隊長が病気のしもべのためにイエス様に癒やしを求めると、しもべは癒やされました。
 自分で祈ることのできない人がいます。でも、私たちが信仰を持ってその人のために祈るときに、神様がその人にみわざを行ってくださると期待することができるのです。

2 「あなたの罪は赦されました」

①罪の赦しの宣言

さて、イエス様は、中風の人が屋根から吊り下ろされてきた時、彼らの信仰を見て、中風の人に、不思議な言葉を語られました。「子よ、あなたの罪は赦されました」と言われたのです。
 普通は、病気の人なら、「治りなさい」とか「起き上がりなさい」という言葉を期待しますね。ところが、イエス様は「あなたの罪は赦されました」と言われたのです。なぜでしょうか。
あるお医者さんの話ですが、診察を受けにくる患者さんの半分は薬も手術も要らない人だったそうです。彼らに必要なものは「赦し」だったというのです。どういうことかというと、「赦されていない」という心の奥底の不安が病気の原因となっていたのです。
 イエス様は、この中風の人には「罪が赦される」ことから来る癒やしが必要だということを知っておられました。魂の最も深いところで赦しを確信していなければ、その人の人生は麻痺したままになる、ということをイエス様は知っておられたのです。
 この中風の人の気持ちを少し考えてみてください。長い間、病のために伏せっていました。辛く淋しかったでしょう。孤独の中で「何が悪かったのだろう。どうして自分だけこんな病になってしまったのだろう」といろいろと過去を考え、後悔することもあったでしょう。「自分が病気になったのは、罪を犯した罰ではないだろうか」と考えていたかもしれません。そうしたことを考えれば考えるほど、人生はますます不自由になっていったのではないかと思います。
 こうしたことは、私たちの日常にもたびたびありますね。悪いことが起こったり病気になると、「私が何か悪いことをしたせいで、罰を受けているのではないか」などとすぐに考えてしまうのです。
 人は、自分の内側の罪が完全に赦されているという確信を持つことが出来なければ、本当の意味で立ち上がることはできないのです。ですから、イエス様は、まず最初に「子よ。あなたの罪は赦されました」と宣言されました。マタイの福音書にも同じ出来事が載っていますが、そこでは、イエス様が「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われたと記されています。「しっかりしなさい」という言葉は、「安心しなさい」「元気を出しなさい」とも訳せます。文語訳聖書では、「子よ、心安かれ、汝の罪赦されたり」と訳されています。
 罪の赦しを確信したときに初めて、人は、心の奥底から癒やされ、安心して生きることができます。そして、イエス様こそ、私たちのために罪赦しを宣言してくださる方なのですね。だから、私たちは、何があっても恐れたり不安になったりする必要はありません。イエス様が、「安心しなさい。あなたの罪は赦された」と宣言してくださっているからです。

②罪の赦しの根拠

 でも、皆さん、考えてください。罪の赦しというのは、口先だけで済むことはことではありません。
 たとえば、誰かが教会の窓ガラスを故意に割ってしまったとしましょう。あとで、その人が「悪いことをしたな」と反省して、「すみませんでした」と私の所に来たらどうでしょう。寛容な私は、「大丈夫ですよ。赦しますよ」と言うでしょう。でも、私が「赦します」と言った途端、割れたガラスが元通りになりますか。決してなりません。口先だけで「赦します」と言っても割れたガラスはそのままです。ガラスを元通りにするためには、ガラス屋さんに修理をお願いして、その代金を支払わなければならないのです。
 皆さん、イエス様は、私たち一人一人に「あなたの罪は赦されました」と宣言してくださいますが、それは口先の言葉だけではありません。では、イエス様は、なぜ「あなたの罪は赦された」とはっきり宣言することがおできになるのでしょうか。それは、イエス様が、私たちを愛するがゆえに、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、私たちの代わりにすべての罰を受けてくださったからです。
 今日の出来事が起こったときすでに、イエス様は、近い将来、御自分が十字架にかかることを知っておられました。すべての人の罪の代償を御自分が背負い、支払う覚悟をしておられたのです。ですから、イエス様は、ただきれいごとの口先だけの言葉ではなく、自らのいのちをかけて「あなたの罪は赦されました」と宣言なさっているのです。

3 律法学者の反応

 すると、その場にいた律法学者たちが、心の中で理屈を言い始めました。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
 律法学者というのは、旧約聖書の専門家です。自分たちが最も聖書に精通していると自負している人たちでした。また、ルカの福音書によれば、その中にはエルサレムから来た律法学者もいたようです。ガリラヤ地方で人々の注目を集めているイエスとはどのような人物なのかを調べるために来ていたのかもしれません。イエス様に何かを求めて来たのではなく、イエス様を疑い、隙あらば糾弾しようとしていたのです。
 彼らは我が物顔で家に入ってきて腰を下ろし、批判的な目でイエス様を眺めていたのでしょう。そして、イエス様が中風の人に罪の赦しを宣言されるのを聞いて、彼らは心の中で批判し始めました。「罪を赦す権威があるのは、神様だけだ。イエスが罪を赦すと宣言するのは、自分を神と同等の存在だと言っているのと同じだ。人間に過ぎないイエスが自分を神だと主張するのは、神への冒涜だ」と考えたのです。
 旧約聖書のダニエル書9章9節に「あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります」と書かれています。ですから、「罪を赦す権威があるのは、神様だけだ」という点では、彼らの考えは間違っていません。しかし、彼らには、大きな間違いがありました。イエス様が旧約聖書に預言されている救い主であることを認めなかったことです。旧約聖書には、救い主についての預言がたくさん書かれていることを彼らは誰よりもよく知っていました。しかし、実際にイエス様に会い、イエス様の言葉を聞き、イエス様のなさった様々なみわざについて知っていても、イエス様を救い主として認めようとせず、ただ批判するだけだったのです。
 この家には、病人や助けを求める人がたくさん集まっていました。しかし、この律法学者たちは、弱さを抱えた人々に席を譲ろうとなどとはこれぽっちも考えていませんでした。病む人のために何かをしようとする心もありませんでした。彼らは、旧約聖書の内容を誰よりも知っていると自負していましたが、旧約聖書の中の最も大切な「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよ」という戒めをないがしろにしていました。聖書を知っていると言いながら、その心は聖書から離れてしまっていたのです。だから、イエス様に出会っても、救い主であることがわからなかったのです。

4 イエス様の権威

 イエス様は、律法学者たちの心を見抜いて、こうお尋ねになりました。「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」
 どちらがやさしいでしょうか。口で言うだけなら「あなたの罪は赦された」というほうがやさしいですね。「起きて、寝床をたたんで歩け」と言って、その通りにならなかったら、嘘つきということになってしまいますから。
 律法学者たちは、「イエスは口先で『罪は赦された』と言っているけれど、自分に罪を赦す権威があるように見せかけて人々を欺いているだけだ」と思っていたことでしょう。
 しかし、イエス様が中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われると、中風の人は、すぐに癒やされ、立ち上がり歩き始めたのです。
 イザヤ35章4節ー6節に「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」と書かれています。歩けなかった中風の人が歩けるようになったことは、旧約聖書の預言の通りに救い主が来られたしるしでした。
 そして、イエス様御自身も、中風の人を癒やされたのは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるため」だと言っておられますね。
 ここで、イエス様は、御自分のことを「人の子」と言っておられますが、「人の子」とは「救い主」を意味する言葉です。
 ダニエル書7章13節に「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた」と書かれています。ダニエルは、「獣のような国々が次から次へと興っては倒れていくが、最後には、獣ではなく、人の子のような方(救い主)が来られ、その方が国を治め、権威と威光をお受けになる時が来る」と預言したのです。そこから、「人の子」という表現は、「世の終わりに神様の権威と威光を帯びて来られる救い主」という意味で使われるようになりました。
 ですから、イエス様が御自分を「人の子」と呼ばれる時、「わたしは神様から権威を与えられている救い主だ」と言っておられるわけです。そして、実際に中風の人をいやすことによって、イエス様は、御自分がまことに罪を赦す権威を持つ救い主であり、その罪の赦しが本物であることを示されたわけです。
 イエス様は、私たちに罪の赦しを与えるために来てくださいました。そのために、十字架でいのちをかけてくださいました。そして、ここにいる一人一人にも、こう宣言してくださるのです。「子よ、安心しなさい。あなたの罪はゆるされた。さあ、立ち上がって、あなたの人生を歩みなさい」と。