城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年3月18日          関根弘興牧師
                  ルカ5章33節~39節
 イエスの生涯13
    「新しい皮袋」

33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」(新改訳聖書)

 今日の箇所は、前回の続きです。前回は、イエス様が取税人のレビをご自分の弟子として招かれた出来事を見ましたね。イエス様が「わたしについてきなさい」と招かれると、レビは何もかも捨てて従っていきました。そして、すぐにイエス様を自宅に招待し、仲間の取税人たちや大勢の人を集めて大祝宴を開いたのです。
 当時の取税人は、ローマ帝国のために税金を取り立てる仕事をしていたので、ユダヤの社会からは「国を売った奴」「ローマの犬」と呼ばれ、「汚れた者」「罪人」というふうに見られていました。ですから、当時の宗教家であるパリサイ人たちや律法学者たちは、取税人と付き合うことは決してしませんでした。汚れた者と交際したら自分の身も汚れてしまうと考えていたからです。ましてや、取税人の家に入って一緒に食事をするというのは、とんでもないことでした。
 ですから、パリサイ人や律法学者たちは、レビの家の大祝宴の光景を見て、「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と批判したのです。
 すると、イエス様は、こう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
 宗教家たちは、この言葉に反発しました。「罪人を悔い改めさせるために来たというなら、どうして、宴会を開いて楽しく食べたり飲んだりしているのか。悔い改めさせるなら、『自分の罪を認め、悲しんで断食しなさい』と命じるべきだろう」と思ったのです。
 そこで、今日の箇所の33節ー34節で断食論争が起こりました。宗教家たちとイエス様の断食についての考え方は、どのように違うのでしょうか。詳しく見ていきましょう。

1 断食論争

①当時の宗教家たちにとっての断食

 33節で、宗教家たちはイエス様に対してこう批判しました。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
 この言葉には、彼らの信仰生活についての考え方がよく表れています。 
 旧約聖書では、神様の前に罪を悔い改める時や神様に何かを必死に祈り求める時に断食を行ったことが書かれています。ですから、断食は、自分の信仰深さを表す行為として、当時の宗教生活では当たり前のように行われていました。
 特に厳格な宗教生活を送ろうとするパリサイ派の人たちは、いろいろな記念日に断食をしていました。第七の月の十日の贖罪日の断食の他にも、エルサレムがバビロニヤ帝国に滅ぼされて住民が捕虜としてバビロンに連れて行かれた出来事を記念するために始まった四月、五月、七月、十月の断食がありました(ゼカリヤ8章19節)。さらに、週に二度、月曜日と木曜日に断食をし、また、それ以外にも自主的に断食をすることもありました。ですから、彼らにとって、断食は、日常の一部のようなものであり、宗教生活に欠かせないものだったのです。
 また、他の福音書を読むと、ここには、バプテスマのヨハネの弟子たちも来たと書かれています。ヨハネの弟子たちは、パリサイ人たちに輪をかけて熱心に断食を行っていたようでした。 そういう彼らからしてみれば、イエス様の弟子たちが断食もしないで取税人たちと楽しく飲み食いしているという姿は、何とも世俗的なものとしか見えなかったでしょう。まして、イエス様が「わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と言っておられるわけですから、「それなら、人一倍、断食をして、悔い改めていることがわかる宗教生活をしていくことが当然ではないか」と考えたのです。彼らの目からは、どう見ても、イエス様や弟子たちが信仰的な生活をしているとは思えなかったのです。

②イエス様の答え

 そういう彼らの批判に対して、イエス様は、こうお答えになりました。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
 イエス様は、ここで御自分を「花婿」にたとえておられますね。なぜでしょうか。旧約聖書には、「来たるべき日に、救い主が花婿として来てくださる」と預言されています。ですから、イエス様は、御自分を花婿にたとえることによって、御自分が旧約聖書で預言されていた救い主なのだと暗に言っておられるわけです。
 バプテスマのヨハネは、イエス様について質問されたときに、自分の弟子たちにこう答えています。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3章29節)
 バプテスマのヨハネは、イエス様こそ来たるべき花婿なる救い主であり、自分は、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる友人のように喜びに満たされていると言ったのです。
 花婿がいっしょにいるときに、その友人が喜ぶのは当然ですね。もし、嘆き悲しんでいたら、喜びの宴にふさわしくありません。
 つまり、イエス様は、このたとえによって、「わたしといっしょにいることを喜び楽しむことが、信仰生活の基本なのだよ」ということを教えておられるのです。特別な宗教生活にはいることではないのですね。クリスチャンとして生きる時、断食をするしないは大きな問題ではありません。断食の回数によって信仰の優劣が決まるわけでもありません。クリスチャン生活の基本は、花婿なるキリストが共にいてくださることを、単純に喜びながら生きることなのです。
 ただし、イエス様はここで「花婿が取り去れる時がきます。その時には、断食します」と言われましたね。これは、イエス様が捕らえられ、十字架に付けられることを意味しています。この後しばらくすると、イエス様は十字架つけられ、死んで、墓に葬られます。そのとき、弟子たちは不安と恐れの中で、食事がのどを通らないほどの悲しみと絶望感を味わいました。しかし、イエス様は三日目に復活されたのです。そして、「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない」「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださいました。ですから、私たちは、イエス様がどんな時にも共いてくださることを喜びながら生きていくことができるのです。
 もちろん、イエス様を信じていても、困難や苦しみの中で嘆き悲しむ時や必死で何かを願い求める時や大きな決断をすべき時に断食して祈ることはあります。しかし、それは、宗教的なお勤めとしての断食ではありません。パリサイ人たちのように自分の信仰深さを誇るための断食でもありません。それに、そのような時にも、イエス様が共にいてくださいますから、心の奥底には消えることのない喜びがあるのです。パウロが第二コリント6章10節で「私たちは、悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる」と言っている通りです。
 また、パウロは、第一テサロニケ5章16節で「いつも喜んでいなさい」と書きました。ピリピ4章4節でも「いつも主にあって喜びなさい」と書いています。主にあって喜ぶことこそ、クリスチャン生活の基本だからです。
 取税人レビは、イエス様がともにいてくださることを心から喜んで祝宴を催しました。ところが、その姿を見て、宗教家たちは、批判することしかしませんでした。古い考え方や慣習に縛られていたからです。そのため、せっかく救い主が来てくださったのに、喜ぶことができなかったのです。
 そんな彼らに、イエス様は、大きな変革の必要性を、たとえを使ってお話になりました。

2 新しい信仰生活のために

 イエス様は、二つのたとえを使っておられますね。
 一つは、新しい布きれで古い着物に継ぎをするというたとえです。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。」
 ここでは、「新しい継ぎ切れは、古い物には合わない」とだけ書いてありますが、マタイ9章とマルコ2章の同じたとえの箇所では、「新しい布きれで古い着物の継ぎをすると、新しい継ぎ切れが着物を引き裂き、破れがもっとひどくなる」と書かれています。古い着物は摩耗と劣化のために破れやすくなっていますから、力を加えると丈夫な新しい継ぎ切れに力負けして古い着物の方が裂けてしまうというのですね。
 もう一つは、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるというたとえです。「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」
 これは、どういうことかといいますと、新しいぶどう酒は発酵力が強くて、最初は壺や桶に入れられるそうです。一週間から十日ほどたって皮袋に入れるのですが、必ず弾力のある新しい皮袋に入れなければなりません。なぜなら、新しいぶどう酒は発酵して膨張するので、弾力のない古い皮袋だと耐えきれずに張り裂けてしまい、皮袋もぶどう酒もだめになってしまうからです。
 この二つのたとえは、古い物をそのまま使って新しい物を付け加えたり入れようとしても、上手くいかないどころか、結局、どちらも駄目になってしまうということを表していますね。
 では、古い着物、古い皮袋とは、何でしょうか。パリサイ人や律法学者たちのように、律法や戒め、それに、言い伝えによって定められた宗教的な規則や儀式を一生懸命守っていこうとする信仰生活です。自分の力で一生懸命戒めを守って救いを得ようとする生き方ですね。
 当時のパリサイ人や律法学者たちは、自分たちが守ってきた古いものが良いと考えていました。自分たちの伝統や習慣こそが大切だと考えていたのです。ですから、古くから伝わる戒めに従って宗教的なお勤めを行うことに励んでいました。
 でも、彼らだけでなく、イエス様を信じてクリスチャンになってからも、それと同じような生き方をしてしまうことが時々あるのですね。
 たとえば、パウロはコロサイ2章16節で、こう書いています。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」
 これは、どういうことかといいますと、当時の、特にユダヤ教の中で育ってクリスチャンになった人たちの中に、食物の戒めや特別な日を守るという戒めをきちんと守らなければならないと主張する人たちがいたのです。しかし、パウロは、そういうことは「わざとらしい謙遜」であり、「肉のほしいままの欲望に対しては、何の役にもたたない」と厳しく反論しました。つまり、せっかくイエス様によって与えられた信仰生活を表面上の規則や言い伝えなどで縛り、自分の力で頑張ろうとするなら、イエス様の救いを十分に味わうことができず、自由で喜びに満ちた信仰そのものが台無しになってしまうと言っているのです。
 私たちも気をつけないと、同じようなことを考えたり行ったりしてしまうことがあります。毎日何時間聖書を読まなければならないとか、礼拝は決して休んではいけないとか、自分で勝手にいろいろな戒めを作り上げて、自分で自分の信仰生活を不自由にし、出来ない自分や他人を責めてしまうのですね。
 ときどき、「先生、クリスチャンになったら何も出来なくなるのではないですか」と言われる方います。昔、「酒飲むな、タバコ吸うなの耶蘇教は、アーメンどうな(ああ、面倒な)宗旨なりけり」と言った方がいますが、福音に生きるとは、そのように「これをしなければならない、あれはしてはいけない」という不自由な生き方をすることではありません。
 イエス様が与えてくださるのは、それとは全く違う新しい生き方なのです。イエス様の福音は、古い物に何かを継ぎ接ぎするようなものでもないし、古い入れ物に保存しておけるものでもありません。イエス様の福音は、古い物を引き裂き、打ち破るほどの新しい力といのちに満ちあふれているのです。ですから、古い物はまったく必要なくなるのです。
 パウロは第二コリント5章17節でこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」イエス様を信じるとき、聖霊が私たちの内側に宿って、私たちを新しく造り変えてくださいます。そして、ヨハネ7章38節でイエス様が約束されたように私たちの内側から「生ける水」が川のように流れ出てくるようになるのです。そして、ガラテヤ5章22章ー23章に書かれているような「愛」「喜び」「平安」「寛容」などの実が実ってきます。それは、新しい神様のいのちが与えられているからです。
 イエス様は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言われましたね。イエス様は、私たちに豊かないのち、死を打ち破るいのちを与えてくださったのです。そして、イエス様ご自身がいのちそのものなるお方ですから、イエス様を信じ生きることは、イエス様そのものを、イエス様のいのちを宿し生きていることでもあるのです。
 ですから、私たちは、もはや外側の規則や戒めに縛られる必要はありません。これはしてはいけない、あれはしていけない、という宗教的な生活を強いられて生きるのではありません。イエス様のいのちをいただいているので、このいのちがもたらす喜びや、平安、希望を味わいながら生きて行くのです。そして、そのいのちは、発酵中の新しいぶどう酒のように古い袋を破る力がありますから、新しい皮袋に入れなければならないのです。

 しかし、今日の5章39節でイエス様は、こう言っておられますね。「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」
 ここだけ読むと、「確かに、古いぶどう酒の方が新しいぶどう酒より味がいいよな」と思ってしまいますね。しかし、イエス様が言っておられるのは、そういう意味ではありません。
 イエス様は、古い伝統や自分たちの言い伝えを守り、きちんと断食して生活し、汚れたものに「触れず、近づかず、関わらない」というパリサイ人たちの信仰のスタイルのことを言っておられるのです。彼らは、自分たちは取税人とは違い、戒めをきちんと守り、断食をし、正しく神の前に生きていると自負していました。それは、裏を返せば高慢ですね。彼らは、そういう古くからの宗教生活を手放すことができなかったのです。
 それで、イエス様は、この言葉を少し皮肉を込めて言っておられるようですね。つまり、「あなたたちは今までずっとやってきたことが良いと思って手放したくないかもしれない。しかし、本当は、百八十度の変化が必要なのだ。新しい永遠のいのちを入れるためには、まったく新しい考え方、まったく新しい生き方が必要なのだよ」と言われているのです。

 私たちは本質を見失ってはいけません。大切なのは、イエス様を心から歓迎し、いつもイエス様がともにいてくださることを喜んで生きることです。特別な宗教的な生活をすることではありません。感謝なことに、イエス様は、私たちの状態に関係なく、私たちが願いさえすれば、私たちの内に来てくださり、いつまでも共にいてくださるのですから、安心して生活していきましょう。
 その他のことは、柔軟に愛をもって配慮し、判断していけばいいのです。
 私たちは、時々、今まで守ってきた伝統や習慣に捕らわれすぎて、「礼拝とはこうでなけれなばならい」とか「クリスチャンはこうでなければならない」という思いを持ってしまうことがありますね。もう五十年以上前ですが、「教会でギターを弾くなんて、とんでもない」と言われた時代がありました。教会では、伝統的な讃美歌をオルガン伴奏で歌うべきであって、ギターで歌うなどというのは賛美ではない、礼拝と呼べるものではない、とさえ言われたのです。でも、旧約聖書のダビデは竪琴で神様をほめたたえているではありませんか。神殿の祭司たちもラッパやシンバルを使っていました。ですから、自分たちの伝統や価値観だけで「こうでなければならない」と思い込んでしまうことのないように注意していきたいですね。
 また、パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように」柔軟性を持って福音を語っていきました。ギリシャ人に受け入れられるように名前を変えたり、ユダヤ人に受け入れられるように同行しているテモテに割礼を受けさせたりしました。
 ですから、決して変えてはならないキリストの福音の内容はしっかりと保ちつつも、変えてもかまわないことは柔軟に変えていくことが大切ですね。
 私たちは、いつも共にいてくださる恵みの主イエス様のあふれるいのちを喜びながら、イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた永遠の救いの福音の真理を変えることなくしっかりと握りしめ、変えてもかまわないことは柔軟に変えてつつ、与えられた人生を歩んでいきましょう。

最後に、アメリカの神学者ラインホルト・ニーバー(一八九二~一九七一年)の有名な祈りをご紹介します。

  神よ。
  私が変えることができないことについては
  それを受け入れる静かな心を
  私が変えることができることについては
  それを変える勇気を、
  そして、
  私が変えることのできないことと
  私が変えることのできることの違いを
  理解する知恵を与えてください