城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年4月8日          関根弘興牧師
                マルコ2章23節~3章6節
 イエスの生涯14
    「安息のための安息日」

23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28 人の子は安息日にも主です。」
1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。(新改訳聖書)


 当時の宗教家たち、特に、律法学者とパリサイ派と呼ばれるグループの人たちは、神様の律法や戒めを厳格に守ることに熱心でした。細部まできちんと守らなくてはならないと考えて、神様から与えられた律法だけでなく、その律法を細かく解釈した様々な戒めを作って、すべてを厳格に守ることが神様に喜ばれることだと思っていたのです。そして、戒めをきちんと守っている自分を誇り、神様に近い場所にいると錯覚していました。また、戒めを守れない人々を軽蔑し、罪人で汚れた者だと批判していたのです。
 そういう彼らの目には、イエス様と弟子たちは、律法や戒めをないがしろにして、断食の祈りをせず、罪人と一緒になって飲み食いしてばかりいる世俗的な者たちだ、としか見えませんでした。ですから、彼らは、イエス様に対して様々な論争を仕掛けてきたのです。
 前回は、断食の祈りをせずに罪人と飲み食いしているイエス様に対して、「あなたは、悔い改めなさいと教えているくせに、なぜ悔い改めを表す断食をしないのか」と批判してきました。
 それに対して、イエス様は、ご自分が語る福音を「新しいぶどう酒」にたとえて、彼らにお語りになりました。新しいぶどう酒は、発酵力が強いので古い皮袋に入れると袋が破れて駄目になってしまうから、弾力のある新しい皮袋に入れる必要があるというのです。つまり、イエス様の福音は新しい力にあふれているので、律法や戒めを厳格に守ろうとする生き方のままで受け入れることはできない、まったく新しい生き方をしていく必要があるのだ、ということです。自分の努力で表面的に律法や戒めを守ろうとするのではなく、また、ただ表面的に悔い改めたような態度を示すだけでなく、本当の悔い改めをして、つまり、心から神様のほうに向きを変えて、救い主イエス様を信じ、新しいいのちを受け取って、内側から変えられながら、イエス様がともにいてくださることを喜びつつ歩んでいく生き方が必要なのだと言われたのです。

 さて、今日の箇所にも、パリサイ人たちがイエス様を批判した出来事が書かれていますね。今回の批判の内容は、「安息日」についてです。詳しく見ていきましょう。

1 安息日論争

 神様がシナイ山でモーセにこういう戒めをお与えになりました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト記20・8-10)一週間は日曜日から始まりますから、七日目とは土曜日のことです。
 神様が六日間で天地万物を創造され、七日目に休まれました。そのことを覚えるために安息日の戒めが与えられたのです。つまり、安息日は、私たちが週に一度、神様の前で安息し、すべてを造り、すべてを与え、すべてを支配しておられる神様に感謝することを忘れないために設けられた日なのです。
 この安息日の戒めは、十戒のうちの一つです。十戒と言えば、神様の律法の中でも最も大切なものですから、ユダヤ人たちは、この安息日の戒めをとても大切にしていました。特に、厳格なパリサイ派の人たちは、安息日を守らないことは、死に値するほどの大問題だと考えていました。そして、安息日をきちんと守るためにたくさんの細かい規則を作っていったのです。神様が「あなたはどんな仕事もしてはいけない」と言われたのは、どういう意味だろうかと考えて、何が仕事に当たるかを細かく規定していきました。例えば、約一キロメートル以上歩いてはならないとか、火を使ってはならないとか、縄を結んではならない、など数え切れないほどの決まりがあったのです。ですから、安息日は、安息できる日ではなく、かえって様々な規則に縛られた窮屈な日になってしまっていたのです。
 しかし、イエス様は、そのような人が作った細かい規則に縛られずに行動し、本来の安息日の意味を示そうとなさいました。そこで、パリサイ人との間に、何度も安息日論争が起こったのです。今日の箇所には、二つの出来事が書かれていますね。

①麦畑で

 麦畑でイエス様の弟子たちが穂を摘んでいると、パリサイ人が「それは、安息日にしてはならないことだ」と批判しました。ここで問題になっているのは、他人の畑から勝手に麦を取って食べた、ということではありません。当時、旅人は、鎌を持たなければ、畑に入って麦の穂を摘んでもいいことになっていました。旅人がひもじさで困らないように、穂を手で摘むくらいは許されたのです。ですから、イエス様の弟子たちもそのようにしたわけです。
 パリサイ人たちが問題にしたのは、弟子たちが麦の穂を摘むという「仕事」をしていたということでした。それは「刈り取り」の仕事だというのですね。また、籾殻をふっと吹き分けて食べるのは「脱穀」の仕事だというわけです。弟子たちが刈り取りと脱穀の仕事をしたといって、パリサイ人たちはイエス様を責めたてたのです。なんだか重箱の隅をつついているようですね。しかし、彼らにとっては大問題だったのです。
 すると、イエス様は、旧約聖書の第一サムエル記21章に書かれている出来事を引用されました。当時はサウル王の時代です。サウル王は、ダビデの義理の父でしたが、ダビデが多くの手柄を立てて人気があったので、ダビデを嫉妬するようになり、遂には、殺してしまおうと考えるようになりました。それを知ったダビデは、サウル王から逃がれ、ノブという所にあった聖所に行き、祭司にパンを分けてくれるように願いました。その時、祭司の手元には聖所にささげたパンしかありませんでした。その日は安息日で、新しいパンと置き換えられて聖所から取り下げられたパンです。そのパンは聖なるもので、祭司以外の者が食べてはならないことになっていましたが、祭司はそれをダビデと供の者たちに与えたのです。 
 このユダヤ人なら誰でも知っている出来事を引用して、イエス様は、聖書の規定をただ文字通りに守ろうとするのではなく、その規定の元となっている「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という精神を実行していくことが大切なのだと言われたのです。そして、こう言われました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
 安息日の規定を持ち出して人を縛り、不自由にすることは、本来の安息日の意図から外れている、というのです。安息日は、人が本当に安息できるための日だからです。
 そして、イエス様は、「人の子は安息日にも主です」と言われましたが、「人の子」とは「人となって来られる救い主」、つまり、イエス様のことです。イエス様は、安息日の戒めをどのように理解するかの権威は、御自分にあると言われたのです。 ですから、ますますパリサイ人たちの心は穏やかではなくなってきました。

②会堂で

 次は、イエス様が安息日に会堂に入られた時の出来事です。 そこに片手の不自由な人がいました。イエス様は、その人を真ん中に立たせました。
 パリサイ人たちは、じっと見ていました。もしイエスがその人を直したら、「癒やすのは医療行為だから、安息日の規定に違反している。イエスは律法を守らない異端者だから死刑にすべきだ」とユダヤの宗教裁判に訴えようとしていたのです。
 当時、命に危険がない場合は、安息日に医療行為をしてはいけないことになっていました。例えば、もし安息日に壁が倒れて人が下敷になった場合、周りの人々は先ずその状況を調べます。そして、「ああ、これはもう駄目だ。死んでいる」となったら、何もせずにそのままにしておきます。安息日が終わってから遺体を引き出すわけですね。しかし、下敷きになった人が今にも死にそうだという状態なら、安息日でもその壁をどけて助けることができたのです。もし会堂に来て、階段で転んで骨折したら大変ですよ。骨折なら命に別状ありませんから、いくら痛くても、その日は治療できないんです。
 そのように、安息日にしていいこととしてはならないことは、大変細かく規定され、安息日は、たいへん不自由な日となってしまっていたのです。
 しかし、イエス様は、パリサイ人たちにこう質問されました。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」
 ここで、イエス様は、二者択一を迫っておられます。善を行うか、それとも、悪を行うか。いのちを救うか、殺すか。中間の選択肢はないのです。パリサイ人たちは、安息日には何もしないでいるのがいいと考えていました。目の前に痛んだ人がいても手助けしなかったのです。しかし、それは悪を行うこと、殺すことと同じだ、とイエス様は言われるのです。
 しかし、パリサイ人たちは黙っていました。答えることができなかったのです。「安息日でも、善を行っていい」と答えたら、イエス様を訴えることができなくなります。また、「安息日にしてよいのは、いのちを救うことです」と答えたら、彼らはすぐにジレンマに陥ってしまいます。なぜなら、彼らはイエス様を訴えて死刑にしてしまおうと考えていたからです。
 彼らは、いつも、「私は戒めを守っているから正しい」と自分を正当化していました。そして、自分たちが作り上げた安息日の規定を守らないからといって、救い主なるイエス・キリストを殺そうと計画していたのです。本来、人を安息させるために設けられた日が、人を殺す口実に使われる日になってしまったわけですね。
 パリサイ人は、そんな自分たちの姿を反省するどころか、まずますイエス様への憎しみを募らせて、なんとヘロデ党の者たちと一緒に、イエス様を葬り去る相談を始めました。このヘロデ党というのは、ヘロデ王朝を支持し、ヘロデ王家の者がユダヤを治めることを望む団体です。一方、パリサイ派の人々は、異邦人の血を引き、神様の律法を軽んじるヘロデ王がユダヤを支配していることに反発し、純粋なユダヤ民族の国家が再建されることを願っていましたから、両者は、宗教的にも政治的にもまったく異なった立場に立っていました。パリサイ人たちは、それにもかかわらず、ただイエス様を葬り去ろうとする一心で、相容れないはずのヘロデ党の人々と手を結ぶことさえしたのです。敵の敵は味方ということなのでしょうね。

2 安息日の本来の意味

 さて、私たちにとって、安息日の本来の意味を知り、安息日の素晴らしい恵みを覚えて生活することは、とても大切です。 ところで、今、特に土曜日を安息日として守ることはありませんね。なぜなら、毎日が主の御前で安息できる日だからです。日曜日に教会に集まって礼拝するようになったのは、イエス様が日曜日に復活されたからです。日曜日に集まって、今も生きておられるイエス様を礼拝するわけですね。もちろん日曜日でなくても、木曜日でも他の日でも、いつでも主を礼拝できるわけですが、大切なのは、定期的に神様の前で安息する時を持つということです。神様の御前での安息は私たちの信仰生活に大きな意味を持っているからです。では、安息日には、本来、どのような意味があるのでしょうか。

①創造主なる神様を覚える時

 創世記には、神様が第一日から第六日の間に天地を造られたこと、そして、一番最後に人が造られたことが書かれています創世記1章31節には、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」とあります。そして、次の2章1節ー3節にはこう書かれています。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」
 人間が創造されたのは第六日ですから、人間にとっては、造られた次の日が安息日となったわけです。つまり、人間の生活は「安息」から始まったのです。創世記の天地創造のそれぞれの一日の長さについては、いろいろな解釈があるのですが、大切なことは、人は創造されて、朝、目が覚めると何が待っていたかというと、「安息日」、つまり休息だったのです。
 人が人として生きる時に、まず必要なのは安息です。安息して神様の創造のみわざを覚えるのです。「さあ、これから出発するぞ。でも、その前に、神様、あなたのお造りになった世界を眺めると、何と素晴らしい麗しい世界でしょう。神様は、私にもいのちを与え、愛し、育んでくださっている。神様、あなたの偉大さを、私は感じることができます」と告白してスタートしていくのです。
 詩篇121篇の作者は、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」と記しました。天地の創造者なる神様が助けなら、何を心配したり恐れたりすることがあるでしょうか。私たちは、安息日にそのことを確認するのです。
 また、イザヤ書30章15節に、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と書かれています。「落ち着いて信頼する」という言葉は、「安らかに信頼する」と訳すこともできます。つまり「神様、あなたの与えてくださる安息の中で、あなたに信頼します」と応答していく時、内側から力が湧き出てくるのです。
 ですから、私たちが生活のリズムとして週に一度、共に集まり、礼拝を捧げることは大切です。それは、律法や規則ではなく、安息であり祝福となっていくのです。
 
②救い主イエス様を覚える時

 福音書を読むと、イエス様が安息日に人々を癒やされた出来事がいくつも紹介されています。
 ルカ13章では、18年も病で腰が曲がったままの女性が癒やされました。ルカ14章では、水腫をわずらっている人が癒やされました。ヨハネ5章では、38年間、病気で床についていた人を癒やされました。ヨハネ9章では、生まれつきの盲人の目を癒やされました。どれも安息日の出来事です。
 パリサイ人たちは、むきになってイエス様を責め立てましたが、イエス様は彼らの非難をものとしませんでした。そして、「癒やしのみわざは、安息日にこそふさわしい」と言われるかのように、イエス様は人々を癒やされたのです。
 新約聖書の中で「癒やす」と訳されているギリシャ語の言葉がいくつかあります。
 一つは「アポリュオー」という言葉で「解放する」という意味があります。様々な束縛から解放されることは癒やされることですね。イエス様は、私たちを罪や死や様々な束縛から解放してくださる方なのですね。
 もう一つは「セラピュオー」という言葉で、「セラピー」の語源です。これは、「奉仕する、仕える」という意味があります。イエス様は、私たちが本当の安息を得るために、仕えてくださるのです。イエス様にとって、安息日は、私たちが安息を得るために働かれる日です。マタイ11章28節で、イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われましたね。また、 マルコ10章45節では、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」と言われました。
 イエス様は、私たちを解放し、真の安息を与えるために、ご自分のいのちを与えるほどに仕えてくださるお方です。イエス様は、私たちに、週に一度だけの安息日ではなく、永遠の安息を与えるために来られました。私たちの罪を背負い、私たちの受けるべき罰を身代わりに受け、私たちを赦し、愛し、守り、支えるために来てくださったのです。
 十字架に付けられ、復活されたイエス様は、今日も、安息の主であり、私たちの人生に癒やしと真の安息を与えてくださいます。
 そのイエス様の安息と恵みと愛の中にたっぷり浸りながら、新しい毎日をスタートしていきましょう。