城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年4月18日          関根弘興牧師
                 マルコ3章13節~19節
 イエスの生涯15
    「十二人を選ぶ」

 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。(新改訳聖書)


 今日は、イエス様が多くの弟子たちの中からお選びになった十二人の使徒たちについて見ていきましょう。
 この出来事は、マタイの福音書10章にも記されていますが、その直前の9章35節ー38節にこう書かれています。
 「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」(新改訳二〇一七)
 イエス様は、ガリラヤ地方の各地を回って福音を宣べ伝え、病気をいやすなどの奇跡的なわざを行っておられましたが、その噂を聞いて、イエス様のもとには多くの人々が押し寄せてきました。
 当時、この地方は、表面的にはローマ帝国の属国として戦争のない平和な日々を送っていました。ローマ皇帝からユダヤの王に任じられたヘロデ大王は、数々の豪華な建築工事を行い、その子のアンティパスも領地ガリラヤに王宮を建造し、平和と繁栄を享受していたのです。
 しかし、イエス様のもとに集まってきた群衆は、イエス様の目には「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れて」いるように見えました。「弱り果てている」とは「皮が剥がれて傷だらけの状態」のことです。羊飼いがいない羊たちがあちこちの山や谷をさまよい、岩にぶつかったり木の枝に引っかかって傷つき弱り果てている状態です。また、「倒れている」とは、飢えと渇きで身動きができなくなっている状態です。
 そんな人々の姿を見て、イエス様は「深くあわれまれた」と書かれていますね。この「深くあわれむ」という言葉は、直訳では「腹わたまで揺り動かされる」という非常に強い同情を表す言葉で、助けの手を差しのばさずにはいられほどのあわれみを示しています。
 聖書では、神様の選びの民を「羊」にたとえています。そして、王や祭司や預言者などの指導者たちを「羊飼い」にたとえています。しかし、当時の指導者たちは、自分の利益のみを追求し、羊を守り養い世話するどころか、羊を打ちたたいたり、縛り付けたり、羊から奪うだけで何も与えないような状態だったのです。そのため、神の民として安息して幸せに暮らせるはずの人々が、実際には瀕死の重傷を負い弱り果てていました。イエス様は、そんな人々を「イスラエルの中の失われた羊たち」と呼んでおられます。
 イエス様は、彼らを救うために、まことの羊飼いとして来てくださいました。ヨハネ10章10節ー11節でイエス様はこう言っておられます。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。」イエス様は、道を見失い、さまよい、傷つき、疲れ果てている人々を見つけ出し、御自分のもとに連れ戻し、いやし、養い、豊かないのちを得て生きることができるようにしてくださるのです。
 さらに、イエス様は、ヨハネ10章16節でこう言われました。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」
 「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、今まで神様を知らなかった異邦人たちのことです。イエス様は、イスラエルの失われた羊たちだけでなく、世界中のすべての人の良き羊飼いとなってくださるのです。
 その羊飼いとしての働きをするために、イエス様は、まず十二弟子をお選びになりました。

1 十二人弟子を選ぶ

①十二という数字の意味

 イエス様は、十二人を選ばれましたが、この十二という数字からすぐに連想するのは、イスラエルの十二部族ですね。
 信仰の父と呼ばれるアブラハムの孫ヤコブがイスラエルと改名し、その十二人の息子たちからイスラエル民族が生まれました。神様は、このイスラエル民族を通して、神様に従うことの大切さ、神様の祝福の素晴らしさをすべての人々に教えようとなさったのです。しかし、イスラエルの民は、まことの羊飼いである神様に背き、神様から離れ、ばらばらで失われた状態になってしまっていました。そんな彼らを救うために、イエス様は、十二弟子を選び、「まず、イスラエルの家の失われた羊たちのもとに行って、福音を伝え、いやし、助けなさい」とお命じになったのです。
 イエス様は、神様に心から従い、神様の祝福の中で生きる人々が一つの群れとなって集う新しいイスラエルを創造しようとなさっていました。十二人の弟子は、その新しいイスラエルの象徴です。 彼らは、まず失われた状態にある古いイスラエルの民を、そして次に世界中の人たちを、イエス様のもとに集める働きをしていくことになります。

②選ばれた弟子たち

 では、選ばれた十二人は、どんな人たちだったのでしょう。今日の箇所に名前が記されていますね。
 私は昔、バスケット・ボールをやっていました。大会では、試合の前に対戦相手のメンバー表が渡されます。それには、選手の名前と学年と身長が記載されています。私たちは、対戦相手が決まると、まず、相手のチームに背の高い選手が何人いるかをチェックして、相手の力を予想するわけです。
 チームを作るときには、普通は、なるべく能力のあるメンバーを集めようとしますね。ところが、イエス様が選ばれた十二人を見ると、どうしてこの人たちが選ばれたのか不思議です。悪魔はこのメンバー表を見て「これなら勝てる」とほくそ笑んだかもしれません。
 まず、ペテロとアンデレは兄弟で漁師でした。ゼベダイの子ヤコブとヨハネも兄弟で漁師です。イエス様は、この二人を「ボアネルゲ」と呼ばれました。「雷の子」という意味です。二人とも短気ですぐにカッとなる性質だったのかもしれません。
 それから、マタイは、ローマ政府に納める税金を集める取税人でした。ユダヤ社会では、ローマの手先、ローマの犬と呼ばれて軽蔑されていた人です。その一方で、熱心党のシモンもいました。熱心党は、ユダヤ教の中でも特に排他的な国粋主義者のグループです。唯一の神様を信じることに熱心で、他の宗教を排斥すると同時に、ローマ帝国の支配を排除し、ユダヤの独立国家を打ち立てたいと願っていました。ユダヤ原理主義の過激派といったところです。その党員であるシモンは、取税人マタイとは正反対の水と油のような関係だったはずです。それなのに、その二人が一緒に選ばれたのです。
 それから、バルトロマイというのは、ヨハネの福音書に出てくるナタナエルのことだろうと言われています。彼は、木陰で静かに瞑想して過ごしていたような人でした。
 また、リストの最後には、後にイエス様を裏切ってしまうイスカリオテのユダの名前があります。イエス様は、初めからユダが裏切ることをご存じだったはずなのに、どうして十二弟子の一人に選ばれたのだろうかと思いますね。しかし、イエス様は、そのユダに対しても、最後の最後まで愛をあますところなく示されているのです。
 私は、この十二弟子たちのリストを見るたびに不思議に思います。田舎育ちの漁師もいれば、嫌われ者の取税人もいる、ローマ政府から危険視されている者もいるという具合で、「本当に、こんな人たちでまとまるのかなあ。イエス様は、よりによって、どうしてこうも違う人たちを任命されたのだろう」と思うのです。
 でも、このリストを見るたびに、なんだか励まされませんか。イエス様は、背景も性格も全然違う人たちを選ばれました。けれども、彼らには、たった一つだけ共通点がありました。それは、それぞれがイエス様に招かれ、「はい、従います」と言ってイエス様について行ったということです。「ペテロ、お前もイエス様によって招かれたのか。ヨハネ、お前もイエス様に招かれたのか。マタイ、お前もか。俺もだよ」、それだけが彼らの唯一の共通点だったのです。
 このように、イエス様の福音によって生み出される新しいイスラエル、神様を信じる人々の集まり、つまり、教会は、人種、国籍、年齢、性別、職業などあらゆる区別を超えたものです。ですから、教会というのは、本当に間口の広い所だと思いますね。皆、出身も背景も性格も考え方も職業も学歴も支持政党も違います。時には、その違いが軋轢を生じることもあります。でも、たった一つの共通点で一致していればいいのです。それは、イエス様の招きに、「はい、従います」と応答したということです。
 パウロは、エペソ人への手紙2章14節に「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわす方だ」と記しています。イエス様は、私たちを隔てるあらゆる壁を打ちこわして平和と調和をもたらしてくださるのです。

2 十二弟子を選んだ目的

 さて、今日の箇所には、イエス様が十二弟子をお選びになった目的が三つ書かれていますね。

①身近に置くため

 まず、イエス様が十二人を選ばれたのは、彼らをご自分のそばに置くためだと書かれていますね。この時から、十二人は、いつもイエス様のそばにいて、実際にイエス様の言葉を聞き、みわざを見、イエス様の生活の様子をつぶさに観察することになります。また、イエス様と親しく語り合い、わからないことはイエス様に質問して説明していただくことができました。イエス様もこの十二人には、御自分の使命やこれから起ころうとしていることなど大切なことをお話になりました。
 こうして、弟子たちは、イエス様から多くのことを学び、また、イエス様がどんな方かを証言することができる者にされていったのです。
 その結果、ペテロは、イエス様に対して「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。また、ヨハネは、「キリストには何の罪もありません」とはっきり宣言しています。実際にキリストと過ごしたからこそ、彼らは、キリストがまことの救い主であり、この方以外に救いはないとはっきり確信することができました。そして、イエス様がすべての人の罪のために十字架につけられたこと、墓に葬られたこと、そして、復活されたことの目撃証言者となったのです。
 
②宣教させるため

次に、「彼らを遣わして宣教をさせるため」と書かれていますね。
 人として来られたイエス様は、人としての限界もお持ちになっていました。一度に一カ所しかいることができませんね。ですから、多くの場所に行って多くの人々に福音を伝えるためには、弟子たちを遣わす必要があったのです。イエス様は、福音を宣べ伝えるために、イエス様のことをよく知っている弟子たちを用いるという方法をおとりになったのです。

③悪霊を追い出す権威を持たせるため

 それから、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」とありますが、「悪霊」と聞くと、何だかオカルトの世界のような感じがしますね。恐ろしい化け物のような姿を想像してしまうかもしれません。しかし、聖書は、この世界には、私たちをまことの神様から引き離そうとする力、誘惑したり縛り付けようとする力、憎しみやねたみを持たせて分裂や混乱を引き起こそうとする霊的な力が存在しているということを教えています。
 しかし、恐れることはありません。神の御子イエス様のほうが、はるかに偉大な力を持っておられるからです。そのイエス様を信頼し、イエス様の御名によって命ずれば、必ず悪の力を退けることができるのです。イエス様は、弟子たちにその権威をお与えになり、人々を束縛や誘惑から解放するために遣わされたのです。

3 選ばれた私たちの生き方

 さて、十二弟子ではありませんが、私たちもイエス様に選ばれた者です。ですから、十二弟子が選ばれた目的は、私たちが選ばれた目的でもあります。

①イエス様とつながっている

 私たちも、まずいつもイエス様が共にいてくださり、イエス様の身近におかれていることを覚え、イエス様から学んでいきましょう。ヨハネ15章でイエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました。私たちは、イエス様を離れては実を結ぶことはできません。でも感謝なことに、イエス様が私たちの弱い右手を取って握っていてくださるので、私たちは、イエス様につながり、イエス様の愛、恵み、いのちを受け取り、イエス様の中で憩うことができるのです。
 こうして礼拝を通して心から賛美をささげ、イエス様の十字架の大きな愛と恵みを覚えて憩い、イエス様の復活によって与えられたいのちに生かされていることを喜んび、イエス様から学んでいきましょう。
 
②福音を伝える

 私たちは、十二弟子のような実際の目撃証言者ではありません。しかし、イエス様を信じ、イエス様が生きておられること、罪が赦され、新しいいのちが与えられたことを知りました。ですから、私たちもイエス様の福音の証人であり、他の人々にも福音を伝える役割を担っているのです。
 といっても、街頭に立って誰彼かまわず「イエス・キリストを信じなさい」と大声で叫んだり、一軒一軒訪問して話を聞いてもらいなさいというのではありません。
 福音を伝えるとは、自分が知っているイエス様という素晴らしい救い主を、身近な人に紹介していくことです。そのためには、まず、自分自身がイエス様をよく知る必要がありますね。自分がよく知らない方のことを口先だけで説明しても相手には伝わりません。自分が実際に経験したイエス様の愛や恵みを自分自身の生き方を通して伝えるのでなければ、説得力はありませんね。ですから、「福音を伝える」というのは、「自分自身がその福音の中に生かされていく」ことと同じなのです。
 でも、決して難しく考えないでください。イエス様は、ガリラヤ湖で嵐に遭遇したとき、恐れる弟子たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。病や混乱の中にある人たちには「安心しなさい」「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。罪人呼ばわりされて蔑まれていた人たちと共におられたときには、「わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と言われました。十字架につけられた時は、敵対する人々のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのわからないのです」と祈られました。また、十字架上の犯罪人の一人が「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言ったとき、イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。三日目に復活して弟子たちの前に現れたイエス様は、「シャローム、平安があるように」「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます」と言われました。
 これら一つ一つの言葉は、みな福音です。いや、イエス様の存在そのものが福音です。つまり、福音の本質をひと言で言えば、「イエス様がいてくださるから大丈夫」ということでしょう。イエス様は、私たち一人一人に「わたしがいるから大丈夫」と言ってくださるのです。「わたしの十字架によって赦されたから大丈夫。何が起こってもわたしが守るから大丈夫。明日の心配は必要ない。死を恐れる必要もない。わたしがいるのだから、あなたは永遠に大丈夫だ」と言ってくださるイエス様がおられるのです。それこそが福音です。
 皆さん、福音に生きるとは、イエス様の「大丈夫」という声を聞き、生きていくことです。福音を伝えるとは、イエス様が「大丈夫」と言ってくださる聖書の約束を分かち合っていくことです。私たちは、生きている限りその福音を伝える使命に生かされているのです。

③悪霊を追い出す権威を持たせる

 イエス様は、天においても地おいても一切の権威を持っておられます。そのイエス様の御名には大きな権威があります。私たちは、そのイエス様の御名の権威によって、悪しき者を追い出すことが出来るのです。
 でも、誤解しないでいただきたいのですが、私たちが特別な力を持って悪と戦うということではありません。また、映画の「エクソシスト」のように悪霊と対決してやっつけるということを勧めているわけでもありません。
 警察官には速度違反を取り締まる権威がありますが、退職したらその権威はなくなりますね。権威はその人自身にあるわけではないからです。
 つまり、「悪霊を追い出す権威」というのは、私たちが自分で大きな力を持つということではなく、イエス様を信じて生きるときに、イエス様によって備えられる武具のようなものです。私たちは、必要な時には、イエス様の御名を用いて、混乱したり、束縛されている状況を打破する権威が与えられているのです。

 皆さん、イエス様は、一人一人を身近に置き、まことの羊飼いとなって、「大丈夫」と語りかけてくださいます。人生にはいろいろなことがあります。でも、いつも傍らで「大丈夫、わたしが共にいるから」と語ってくださる羊飼いなるイエス様がおられるのです。私たちは、みな違いがあります。しかし、違いを超え、イエス様によって招かれたという共通点を大切にしながら、主にある仲間、新しい神の民がこれからも更に起こされていくように、主のしもべとして歩んでいきましょう。