城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年4月29日          関根弘興牧師
                ヨハネ3章16節〜21節
 イエスの生涯17
    「いのちへの招き」

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(新改訳聖書)

前回は、イエス様のもとにニコデモという人物が訪ねてきた出来事を学びました。「ニコデモ」という名前は「征服者」「勝利者」という意味です。ニコデモは、宗教的には律法や細かい戒めを熱心に守るパリサイ人として尊敬され、政治的にはユダヤ社会の議会の議員として指導的立場にありました。経済的にも豊かだったようです。しかし、老年になっても解決できない問題がありました。それは、「どうしたら神の国を見ることが出来るか」ということです。自分は今まで熱心に神様に仕えてきたつもりだけれど、このままで本当に神様に受け入れられ、神の国に入ることができるのだろうか。この肉体のいのちが尽きたとき、どこで永遠を過ごすことになるのだろうか。そういう問いに対する答えを探して、イエス様のもとにやってきたのです。
 すると、イエス様は、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。新しくとは「上から」とも訳せる言葉です。つまり、人は、神様の力によってまったく新しく生まれ変わるのでなければ、神の国に入ることはできない。それは、人間の努力や修行とはまったく関係ないことなのだということなのです。
 また、イエス様は、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」とも言われました。
 水によってというのは、心から悔い改めて罪をきよめられることを意味しています。ニコデモは、それまでも悔い改めや水によるきよめの儀式を熱心に行ってきたことでしょう。しかし、本当の意味で心を新しく変えて、すべての罪がきよめられるためには、聖霊の働きが必要だというのです。
 聖霊は、神様のみこころのままに、私たちに罪を自覚させ、心からの悔い改めをもたらし、神様のいのちによって新しく生まれ変わらせてくださいます。風が吹くときと同じように、聖霊御自身は目に見えませんが、聖霊が働かれるとき、必ず結果が現れるのです。
 そして、イエス様は、旧約聖書の有名な出来事を引用なさいました。昔、モーセに導かれてエジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民が荒野を旅しているとき、荒野の生活に我慢できなくなった民が神様に文句を言い始めました。すると、毒蛇が出てきて人々に噛みつき、多くの人が死んでいきました。しかし、民が救いを求めると、神様は、モーセにこうお命じになりました。「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは、すぐにその通りにして、「この蛇を仰ぎ見なさい。そうすれば救わる」と叫びました。毒蛇にかまれて苦しんでいた人々がその青銅の蛇を見上げると、いのちが助かったのです。
 イエス様は、続けて「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と言われました。それは、旗竿の上につけられた毒蛇を仰ぎ見た人々が死から救われ、いのちを得たように、十字架につけられたイエス様を見上げて信じる人は、滅びから救われ、永遠のいのちによって生きることができるようになるということです。
 どうしてそんなことが起こるのか、理性では理解できないことですね。しかし、聖霊のみわざによって、それが実現するというのです。
 さて、今日の箇所はその続きで、聖書の中でも最も大切な教えが書かれています。特に、最初の3章16節は「聖書中の聖書」と言われほど、聖書の中心的なことが語られているのです。それは何かというと、「神が御子イエスを世に遣わされた」ということ、そして、それは何のためであったかということです。
 詳しく見ていきましょう。

1 神の目的

 まず、神様がひとり子イエスを世に遣わされた動機が書かれていますね。それは、「世を愛された」からだというのです。
 ここで「世」というのは、この世の中に住む私たち一人一人のことです。「世」という言葉を「私」に置き換えて16節を読んでみてください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、私を愛された。それは御子を信じる私が滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神様が私を愛してくださっている、ということがよりわかりやすくなりますね。
 そして、その神様の愛は、「ひとり子をお与えになる」という具体的な行為によって示されました。物の価値は、差し出されたものによって決まります。たとえば、このマイクは、一万円を払って買ったわけですが、一万円の価値があると思われたわけですね。では、神様は、私たちの価値をどのように見ておられるのでしょうか。神様は、私たちのために「ひとり子」をお与えになりました。つまり、神様は、御自分にとって最も大切なひとり子をお与えになるほどの価値ある存在として私たち一人一人を見ておられるということなのです。
 では、神様がひとり子をお与えになった目的は、何だったでしょうか。16節には、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれていますね。また、17節には「御子によって世が救われるためである」と書かれています。神様は、私たちが永遠のいのちを持ち、救われるために御子を与えてくださったのです。
 では、なぜ神様は、御子をお与えになる必要があったのでしょうか。私たちが神様から離れて滅びの状態にあったからです。「滅びる」という言葉には次のようなことが含まれています。

@失う
 神様との親しく麗しい関係を失っている状態です。そのために、人生の本当の意味や目的を失い、自分の本来の価値や姿を見失い、喜びや満足や真実な愛を失っているのです。

A迷う
 神様と離れてしまった人は、迷子のような状態です。迷子になると不安になります。どこから来て、どこへ行くのかわからない、自分自身の居場所がわからない、人は、そのような状態にあるのです。

B浪費する
 神様に与えられた人生を、十分に生かして用いることができない状態です。自分勝手で投げやり虚しい生き方によって自分の人生を浪費しているのです。自分の価値がわからず、まるで自分を使い捨ての商品のように扱っている状態です。

C破壊する
 自分を嫌い、自分自身を傷つけたり、他人を傷つけたり、自分の欲望のために周りを破壊していくような状態です。

 人は、皆、このような滅びの状態にあり、自分ではどうすることもできません。しかし、一人一人をこよなく愛しておられる神様は、私たちがそうした滅びの状態にあることを黙って見てはおられません。神様は愛なる方なので、私たちに無関心ではいられないのです。そこで、私たちをその滅びの状態から救うために、御子イエスを与えてくださったのです。

2 御子イエスの役割

 イエス様は、神である方なのに、私たちと同じ人となって来てくださいました。なぜでしょうか。

@神様がどのような方であるかを知らせるため

 ヨハネの福音書の1章には、イエス様についてこうかかあれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
 イエス様は、父なる神と同じ本質を持った方であり、神様のことばである方、つまり、神様がことばによって天地を創造されたように、神様のみこころと力とみわざを実際に示される方です。イエス様御自身もヨハネ14章9節で「わたしを見た者は、父を見たのです」と言っておられます。
 神様から離れている私たちは、神様のことがわからない状態でした。でも、イエス様を見、イエス様の言葉を聞くことによって神様がどのような方であるかを知ることができるのです。「この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれていますね。神様が私たちを愛し、恵みとまことをもって私たちの最善をなそうとしてくださっていることを、私たちは、イエス様を通して知ることができるのです。

A人としての本来の生き方を教えるため

 イエス様は私たちと同じようになってくださいましたが、私たちと違うところがありました。それは、イエス様だけはまったく罪を犯されなかったこと、そして、徹底的に父なる神様のみこころに従われたこと、そして、まことの愛を実践しておられたことです。そのイエス様の姿を学ぶことによって、私たちは人としての本来の生き方を知ることができるのです。

Bすべての人の身代わりに罪の罰を受けるため

 罪のないイエス様が私たちの罪をすべて背負って十字架で罰とのろいを受けてくださいました。神様は、聖なる正しい方ですから、どんな罪も正しくさばく必要があります。罪は、いのちをもってあがなわなければなりません。本来は私たちが自分の罪のために死んで滅びるべきでした。しかし、イエス様が私たちの身代わりとなって御自分のいのちを差し出してくださったのです。私たちが神様を無視して、自分勝手な生き方をしていたのにもかかわらず、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかってくださったのです。
 私は、高校生の時にバイブル・キャンプに行って、牧師が「キリストは、あなたのためにいのちを捨ててくださった」と繰り返し語る言葉を聞いたとき、こう考えました。「もしそれが本当なら、この方に背を向けていることはとても卑怯な生き方だ」と。そして、「私は誰かのためにいのちを差し出すことが出来るだろうか」と考えたとき、「自分にはできない」と思いました。そして、イエス様が私のためにいのちを捨ててくださるほどの愛を示してくださったのなら、この方を信頼し生きていこう、と思ったのです。
 ローマ人への手紙5章7節ー8節には、こう書かれています。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

C永遠のいのちを与えるため

 イエス様は、十字架で私たちの罪の問題を解決してくださっただけでなく、三日目に死を打ち破って復活し、私たちに永遠のいのちを与えてくださる方です。
 ヨハネの福音書17章3節には「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と書かれています。また、ヨハネ14章6節で、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。そして、第一ヨハネ5章12節には「御子を持つ者はいのちを持っている」と書かれています。 永遠のいのちとは、神様御自身のいのちであり、イエス様こそ、神様のいのちそのものなるお方です。ですから、御子イエスを知ることが永遠のいのちそのものなのです。この「知る」というのは、単に知識を持っているという意味ではなくて、親しい関係を持っているということです。十字架にかかり復活されたイエス様を信じる時に、私たちは聖霊の働きによってイエス様と父なる神様との親しい関係の中に入れられます。ぶどうの枝は、ぶどうの木につながっていることによっていのちを受け取り、豊かな実を結ぶことができるように、イエス様とつながっているとき、いのちを受けて実を結ぶことができます。その状態が永遠のいのちを持っている状態だということなのです。
 それは、「滅びる」とは正反対の状態です。失う人生ではなく見い出す人生、迷子の人生ではなく神様の愛の中に安心して留まる人生、浪費の人生ではなく自分も人も愛しながら生きる人生、破壊する人生ではなく生み出し建て上げていく人生です。
 また、この「永遠のいのち」は、肉体のいのちが尽きても決して終わることはありません。いろいろと辛い現実に直面して、「死んだ方がましだ」とか「生きていてもしようがない」と考えてしまうことがあるかもしれません。でも、忘れないでください。神様は、ひとり子イエス様を、私たちの救いのために、また、私たちに永遠のいのちを与えるために遣わしてくださったのです。

3 人の応答
 
 さて、そのイエス様に対して、人は応答をしなければなりません。信じるか、それとも信じないかです。
 まず、御子を信じる者は、滅びることなく、さばかれることとなく、永遠のいのちを持つことができると書かれていますね。
 では、「信じる」とは、どういうことでしょうか。
 信仰とは、理性を捨てて、ただ思い込むことだと考える方がいますが、そうではありません。たびたび説教でお話するのですが、「信仰」とは「信頼」と同じ言葉です。信頼のない世界では、誰も生きていくことはできません。人は、信じるという行為の連続の中でしか生きていけないのです。
 もし私が「何も信じない」と宣言して生きていこうとしたら、どうでしょうか。「この椅子は座っても大丈夫だろうか」「教会で本当に日曜日に礼拝があるのだろうか」「この電車は東京行きと書いてあるが本当だろうか」「この料理は食べても大丈夫だろうか」などと何でも疑っていたら、何もできないどころか、生きていけませんね。ですから、信じることは生きることに直結しているのです。
 また、「私は無神論者です」という方がいますが、その方は、神はいないと「信じて」いるのですね。つまり、皆、何かを信じて生きているのです。
 ただ、問題は、「何を信じるか」ということです。
 時々、こう言われることがあります。「先生、何を信じても結局は同じではないですか。信仰というのは、何を信じるかより、信じる心とか姿勢が大切なのではないですか」と。でも、本当にそうでしょうか。
 たとえば、病院に行って、大変親切なお医者さんに出会ったとしましょう。話はよく聞いてくれるし、優しいし、とてもいい先生です。ところが、このお医者さんがこう言ったらどうでしょう。「この棚にいろんな薬がありますが、どれでも好きな薬を持っていっていいですよ。大切なのは薬の中身ではなく、薬を飲むときにどれだけ信じているかということです。」こんなお医者さんにかかりたいと思いますか。「信じるものの中身はどうでもいいんです。信じる姿勢とか、ひたむきさ、誠実さが大切なんです」というのは、言葉としては理解できても、実際には、おかしいですね。
 大切なのは、信頼する対象は何かということなのです。自分の信頼の仕方や熱心さによるのではありません。
 イエス・キリストは、マルコ13章31節で「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と言われました。また、ヘブル13章8節には、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(新共同訳)とあります。永遠に変わることのない方を信頼して生きることこそ、最も安心な生き方なのではないでしょうか。
 でも、イエス様を信じない人々がいました。18節には、「信じない者は、すでにさばかれている」と記されていますね。これは、「信じないとさばかれるぞ」という脅しのことばだと誤解される方がいますが、そうではありません。「イエス様の与えるいのちを拒絶するなら、そのいのちに生きることができない」ということなのです。
 砂漠を歩いていて、のどがカラカラに渇いているときに、「この水をただであげますよ。飲んでください」と言われたらどうでしょう。それを飲めば、渇きはいやされます。しかし、拒否したら、渇きはそのままですね。
 イエス様は、何の見返りも求めずに、恵みとまことに満ちた永遠のいのちを与えようとしてくださっています。それを受け取らないなら、相変わらず、滅びとさばきの中にとどまることになります。「信じない者は、すでにさばかれている」というのは、そういう状態のことです。何ともったいないことでしょう。
 そして、19節、20節には、信じない人々の特徴が書かれています。それは、「光よりも闇を愛する」ということです。
 人は自分の悪い行いが明るみに出されることを恐れて、光を避け、闇の中に隠れようとする習性があるというわけです。すべてを隠そう隠そうとする癖です。暗闇へ暗闇へと向かう傾向があるのです。自分の本当の姿から目をそらしたり、自分の表面を取り繕って実際よりも良く見せようとしたり、「自分はあの人よりましだ」と自己正当化したりもします。
 ヨハネ1章9節でイエス様は「すべての人を照らすまことの光」であると書かれています。イエス様は、私たちの罪や汚さをすべて照らし出す方です。だから、闇に隠れようとする人は、光なるイエス様を拒絶しようとするのですね。
 しかし、光なるイエス様を避けて、闇の中に生きる生活そのものが、すでにさばきの中にあるような人生だとイエス様は言われるのです。暗闇の中を光なしで歩き続けることは、どんなに危険なことでしょう。
 でも、ひとたびイエス様の光に照らされたなら、闇は消えていきます。そして、私たちはきよめられ、新しく造り変えていただくことができるのです。
 ですから、イエス様の光に照らされながら、聖書の約束の言葉をしっかりと受け取って、今週も歩んでいきましょう。