城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年5月20日          関根弘興牧師
                ヨハネ4章43節〜54節
 イエスの生涯19
    「故郷では尊ばれない」

43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。(新改訳聖書)

前回は、イエス様が、エルサレムからガリラヤに行く途中に通ったサマリヤで一人の女性と出会た出来事を読みました。イエス様は、この女性の心の渇きを指摘し、内側から泉となって湧き出る永遠のいのちへの水を得えるために、救い主を信じ、心から礼拝することが大切だとお話になったのです。この女性は、救い主に出会ったことを、すぐにサマリヤの人々に伝えにいきました。すると、多くのサマリヤ人たちがイエス様を信じ、イエス様にしばらく滞在して欲しいと願ったので、イエス様はサマリヤに二日間サマリヤに滞在なさいました。
 今日の箇所は、その続きで、イエス様がガリラヤに行かれてからの出来事が書かれています。

1 預言者は自分の故郷では尊ばれない

 まず、44節に、「イエス様ご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と言っておられた」と書かれていますね。
 確かに、旧約聖書の有名な預言者エレミヤも「兄弟や、父の家の者さえあなたを裏切る」と預言しているくらいですから、多くは預言者たちは、どうも故郷で尊ばれなかったようですね。
 しかし、次の45節では、「そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した」とあります。ガリラヤは、イエス様がお育ちになった場所ですから、イエス様の故郷と言ってもいい場所ですね。それなのに、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。そういうわけで、ガリラヤ人はイエスを歓迎した」というのは、どういうことでしょうか。少し頭がこんがらがってしまいますね。
 実は、44節の「預言者は自分の故郷では尊ばれない」の「故郷」という言葉には、いくつかの意味が込められていると考えられます。

@エルサレム

 イエス様は、ユダヤ地方のエルサレムにおられるとき、神殿を「わたしの父の家」と言われました。つまり、エルサレムがイエス様の故郷であるとも言えますね。ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿で神様を礼拝していましたから、本来ならば、神のひとり子であり、神そのものであられるイエス様ご自身も、エルサレムであがめられ尊ばれていいはずです。
 しかし、エルサレムでは、イエス様は歓迎されませんでした。それどころか、ユダヤ当局者たちはイエス様に敵意を抱くほどだったのです。そういう意味で、真の預言者である方、つまり、神様のことばを余すことなく人々に伝えることのできるイエス様がご自分の故郷で尊ばれない、ということになっていたわけです。
 ユダヤ人たちは、旧約聖書が与えられ、救い主が来るという神様の約束を知っていましたから、本来なら真っ先にイエス様を尊んで礼拝すべきだったのですが、残念ながら、彼らはイエス様を受け入れませんでした。「そういうわけで」、イエス様はエルサレムを去ってガリラヤに行かれたというのです。
 しかし、皮肉なことに、ユダヤ人たちが軽蔑しているサマリヤ地方でイエス様を信じる人がたくさん起こされ、「しばらく滞在してください」と言われるほどでしたね。そしてユダヤ人がやはり蔑んでいたガリラヤ地方でも、多くの人がイエス様を歓迎し、イエス様に従う人たちがたくさん起こされたのです。
 
Aガリラヤ

 ただし、ガリラヤにおいても、すべての人がイエス様を歓迎したわけではありませんでした。
マタイの福音書13章には、イエス様が御自分の育った場所であるガリラヤのナザレに帰り、会堂で教えられたときの様子が記されています。人々は、イエス様の語る言葉に驚きはしましたが、「この人は大工のせがれじゃないか。母親はあのマリヤだし、俺たちはイエスの弟たちや妹たちもよく知っている。ただの普通の人間じゃないか」と言って、「イエスにつまずいた」と書かれているのです。また、イエス様の弟たちも、家を離れて世を騒がせるような活動を始めたイエス様を理解することができませんでした。そこで、イエス様は「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」と言われたのです。

Bこの世

 また、ヨハネの福音書1章10節-11節には、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と書かれていますね。つまり、この世は、イエス様によって造られたイエス様の国なのに、イエス様を受け入れない人々がいるというのです。
 これは、ユダヤ人に限らず、すべての人々を指しています。その中には、私たち一人一人も含まれています。私たちも、最初は、イエス様に無関心で、イエス様を受け入れ尊ぼうなどとは考えていませんでしたね。

 つまり、エルサレムでも、ガリラヤでも、この世のどこにおいても、イエス様を受け入れようとしない人々はたくさんいます。今でも「救い主なるイエス様が、自分の故郷では尊ばれない」という現実があるのです。
 しかし、黙示録3章20節には、このようなイエス様の言葉が書かれています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イエス様は、一人一人の心の扉をノックし続けてくださっています。そして、私たちが戸をあけてお迎えするなら、イエス様が入ってきてくださり、ともに食事をしてくださると約束されているのです。「ともに食事をする」という言葉には、象徴的な意味があります。「最も親密で肩の凝らない自由な交流を持ちながら一緒に生きていく」という意味が込められているのです。なんと幸いな招きでしょう。

2 イエス様を歓迎する人々

ところで、45節に「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」とありますが、なぜイエス様を歓迎したのでしょうか。その理由は、「イエス様が祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたから」だと書かれていますね。
 彼らは、エルサレムに行って、イエスのすばらしいみわざを見て感嘆したのかもしれません。また、ガリラヤ人は、元来、血気盛んですし、ユダヤ地方の人々から蔑まれていたので、イエス様が神殿から商売人や両替人たちを追い出されるのを見て、この人は何か大きな事をしてくれるのかもしれないぞ、と期待していたのかもしれません。しかし、彼らが、本当にイエス様のことを理解していたかどうかは疑問ですね。
 今でも、同じようなことがありますね。クリスチャンでない人の中にも、イエス・キリストを尊敬するという人はたくさんいることでしょう。イエス・キリストは、偉大な道徳家であり、すばらしい教えを説いた人だから尊敬します、というわけです。
 しかし、イエス様が私たちに望んでおられるのは、イエス様を単なる偉大な教師として迎えることではなく、奇跡を行う不思議な人として迎えることでもなく、イエス様を救い主として認め、イエス様の約束の言葉を信頼し、歓迎し、心から尊んで生きることなのです。

3 第二のしるし

 そこで、ヨハネは、イエス様の言葉を信頼して生きることの大切さを示すために、イエス様の行った数多くの奇跡の中から、王室の役人の息子のいやしの出来事を第二のしるしとして46節から記しています。詳しく見ていきましょう。
 まず、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた」と書かれていますが、イエス様が以前、最初にカナに行かれたのは、結婚式に出席するためでした。その結婚式でぶどう酒が足りなくなった時、イエス様が水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのでしたね。そのことは、ヨハネ2章に「第一のしるし」として記されています。
 そして、今回の出来事は、イエス様が再びカナに行かれたときに起こりました。王室の役人が病気の息子をいやしていただこうとイエス様のもとにやってきたのです。
 「王室の役人」というのは、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスに仕える役人で、社会的地位のある人でした。ユダヤ人ではなく異邦人だったかもしれません。彼は、カナから約三十キロのところにあるカペナウムに住んでいました。
 彼の息子が病気で死にかかっていました。彼は、何とか息子を助けたい一心で、いろいろなところに行って相談したかもしれません。そして、ある時、イエス様の噂を聞きました。しかも、イエス様がガリラヤに来られたというのです。彼は、藁にもすがる思いだったでしょう、イエス様のもとにやって来ました。そして、「家まで来て、息子をいやしてください」と懇願したのです。
 すると、イエス様は、一見冷淡な答えをなさいました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と。これは、どういう意味でしょうか。
 イエス様は、ここで「あなたがたは」と言っておられますね。つまり、王室の役人に向かって答えながら、周りにいる群衆に対しても言われた言葉でもあるのです。群衆は、「イエスが何か不思議なことをするのではないか」と興味半分で眺めていました。しかし、イエス様は、何でも安易に解決してくれる魔法のランプのような方ではありません。イエス様は、しばしば、私たちがどれだけ真剣に求めているかをお試しになるのです。
 旧約聖書の列王記の中に、ナアマンという将軍の話があります。アラムの将軍ナアマンが、重い皮膚の病になりました。そして、その病をいやしてもらおうと、当時有名だった敵国イスラエルの預言者エリシャのもとにやってきました。ナアマンは一国の将軍です。自分が行けば、エリシャが出て来て、主の御名を呼んで病んでいるところに手をあて、病をいやしてくれるだろう、と期待したのです。しかし、エリシャは、自分の部屋から出てこようともせず、しもべを遣わして、「ヨルダン川で七たび身を洗いなさい。そうすれば、いやされます」とだけ伝えたのです。ナアマンの期待を裏切る対応でした。ナアマンは、「ヨルダン川のようなちっぽけな川で身を洗えとは、なんて失敬なことをいうやつだ。そんなことでいやされるはずがない。そんなみっともないことなどできるものか、俺は帰る」と腹を立てて、そのまま帰ろうとするのです。しかし、部下に説得されて、ともかくエリシャの言葉通りにやってみることにしました。それは、自分のプライドを捨て、預言者によって告げられた言葉をそのまま信じて踏み出す行為でした。すると、なんと病は完全にいやされたのです。不思議なことでした。
 この出来事を通して、ナアマンは、病がいやされただけではありませんでした。うわべだけの華々しいパフォーマンスではなく、ただ神様の語られる言葉を信じ、それに従って一歩踏み出して生きることの大切さを学んだのです。
 今も同じように、イエス様に対して的はずれな期待をして失望し去ってしまう人もいます。自分の思い通りにならないからといって去っていく場合もありますし、期待していたような劇的なことが起こらないからといって去っていく場合もあります。また、自分の気に入らないことを言われてすぐ腹をたてたり、自分のプライドに固執する人もいます。しかし、本当に謙遜になって求め続け、イエス様の言葉に単純に耳を傾け、その言葉に従っていこうとするとき、答えが与えられるのです。
 マタイ7章7節の有名な言葉がありますが、原文に忠実に訳すと、次のようになります。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。」自分の期待や予想と違っても、なお求め続けるときに、本当の解決を見いだすことができるのですね。
 王室の役人は、どうしたでしょう。あきらめずに求め続けました。すると、イエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われたのです。
 イエス様は、役人の家に出向こうともなさいませんでした。特別な儀式をしたり、病がいやされるように祈ることもなさいませんでした。特別なことはいっさいなさいませんでした。ただ一言、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われたのです。
 私たちは、とかく目に見えるものに頼ろうとする傾向がありますね。奇跡や不思議を求めたり、何か頼れる品物を所有していたいと思いがちです。
 聖地旅行にいくと、ヨルダン川で洗礼式ができる場所があるんですね。そこの水をペットボトルに入れて持ち帰ろうとする人もいます。不思議な光景です。酒匂川の水のほうがよっぽどきれいです。ヨルダン川の水だと何か違うのでしょうか。私たちは、目に見えるものに頼ろうとしやすいのですね。
 しかし、ヘブル人への手紙11章1節には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書かれています。イエス様が約束された言葉なら、見えても見えなくても、その言葉の通りになるのです。だから、今、目の前に何も見えなくても、イエス様の語られた言葉を信じて生きることが大切です。信仰とは、単純にイエス様の言葉を信頼し、その言葉に人生を委ねて生きていくことなのですね。皆さん、イエス様が大丈夫と言われたら大丈夫なのですよ。イエス様が「大丈夫」と宣言してくださっている、それが福音なのです。私たちは、ただ「イエス様が大丈夫だと言ってくださっているから大丈夫だ」と信頼して生きていけばいいのです。それがクリスチャン・ライフです。
 さて、王室の役人も、イエス様が語られた言葉だけを受け取って帰っていきました。彼のおみやげは、イエス様の言葉だけです。しかし、それは、最も大切なおみやげでした。
 彼が帰ってみると、どうでしょう。イエス様が「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と、子どもが直った時刻が同じであることを知ったのです。そして、彼と彼の家の者がみなイエス様を信じたのです。
 もちろん、「イエス様の言葉と息子が直った時刻が同じだったのは偶然の一致に過ぎない。この息子はもともと快方に向かっていたのであって、イエス様の言葉と病気が直ったこととは全然関係がない」と考える人もいます。
 私たちも、何かが起こっても「それは偶然さ」と考えたり、イエス様の働きを認めようとしないことがあるかもしれません。しかし、すべての出来事の背後に神様の恵みのみわざが働いていると聖書は教えています。また、神であるイエス様の言葉は、天地を創造する力があり、実際に、私たちの人生を変える力があるのです。ですから、その言葉に信頼するなら、希望と平安を感謝をもって生きていくことができるのです。
 王室の役人の家の人々は、実際にイエス様に会うことはありませんでしたが、主人が持ち帰ったイエス様の言葉によって信じることができました。
 皆さん、私たちも、毎週この場所からイエス様の約束の言葉をおみやげとして持ち帰ることができるのです。
 そして、最後の54節には、「このことを第二のしるしとして行なわれた」と書かれていますね。ヨハネの福音書においては、「しるし」という言葉は、「証拠としての奇跡」という意味で、イエス様がどのような方であるかを示すものという意味で使われています。では、この「第二のしるし」は、何を示しているのでしょうか。
 まず、この第二のしるしは、イエス様が病をいやす力を持っておられることを示しています。しかし、それだけではありません。イエス様の約束の言葉は、力があり真実で、必ずその通りに実現するということも示しています。それは、距離が離れていても、まったく関係ありません。ですから、私たちは、どこにいてもイエス様の約束の言葉を受け取り信頼して、勇気を持って進むことができます。また、この第二のしるしは、本人が祈れないときに、他の人がその人のために祈れば、イエス様がその祈りを聞いてくださることも示しています。父親が息子のいやしためにイエス様に願い求めたように、私たちもお互いのために最善を祈り合っていきましょう。
 イエス様は、きのうも今日もいつまでも同じ方であり、私たちがどこにいたとしても共にいてくださる方です。今週もこのイエス様を歓迎し、イエス様に信頼して歩んでいきましょう。