城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年6月10日          関根弘興牧師
                 マルコ5章1節〜20節
 イエスの生涯20
    「混乱と回復」

1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(新改訳聖書)


 前回は、イエス様がガリラヤのカナに滞在しておられたときに、カペナウムに住む王室の役人がやって来て、死にかかっている息子の病気のいやしを願ったという出来事を見ました。
 役人はイエス様が家に来てくださるよう願いましたが、イエス様は、ただ、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われただけでした。役人がそのイエス様の言葉を信頼して帰ると、息子の病は確かにいやされていたのです。
 この出来事は、イエス様のことばには、権威と力があることを示しています。そして、それは、今日の出来事の中にも見ることができるのです。

1 ゲラサ人の地へ

 さて、今日の箇所には、ゲラサ人の地で起こった出来事が記されていますが、まず、イエス様一行がこの場所に来る前にどんなことがあったのか簡単に見ておきましょう。
 直前の4章を見ると、ガリラヤ湖畔のカペナウムでイエス様のもとにたくさんの群衆が押し寄せたので、イエス様は、ガリラヤ湖に浮かべた舟に乗って、岸辺にいる人々に例え話を用いながら教えておられました。そして、夕方になると、その舟に乗ったまま弟子たちと向こう岸に向かって出発なさったのです。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって浸水し、沈みそうになりました。弟子たちは、パニック状態です。ところが、イエス様は、船尾で眠っておられるのです。弟子たちはイエス様を起こして、「先生。私たちが溺れ死んでもかまわないのですか」と言いました。すると、イエス様は、起き上がり、風と湖に向かって「黙れ、静まれ」とお命じになりました。すると、すぐに風はやみ、大なぎになったのです。この出来事によって、弟子たちは、イエス様の言葉には嵐さえ沈める権威と力があることを知りました。
 イエス様は、私たちの人生に襲ってくる嵐も静めることがおできになります。だから、私たちは、イエス様と共に安心して人生の旅を続けることができるわけですね。
 さて、イエス様一行は、その後、無事にゲラサ人の地に着くことができたわけですが、ここは、ガリラヤ湖の東南にあり、外国人が多く住んでいました。しかも、ユダヤ人にとって汚れた動物である豚が飼育されていたので、ユダヤ人たちから見れば、ここは汚れた場所でした。
 さらに悪いことに、一行が着いたのは墓場でした。洞窟のようなものがたくさんあって、墓として使われていたのでしょう。弟子たちは、嵐のために進路が狂って、こんな所に着いてしまったと思ったかもしれませんね。しかし、イエス様は、わざわざこの墓場を目指して、一人の人に会うために来られたのです。

2 墓場に住みついた人

 舟で出発したのは夕方でしたから、イエス様たちがゲラサ人の地に着いたときは、まだ夜は明けていなかったのではないかと思います。
 イエス様が舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来ました。この人は、墓場に住み着いていました。普通、墓場に住みたいと考える人はいません。彼だって、最初から墓場に住もうと考えていたわけではなかったでしょう。この人の背景については何も書いてありませんが、何らかの原因で家族や友人との関わりを失ってしまったのでしょう。事業に失敗したのかも知れません。とんでもないことをやらかして、町に住めなくなってしまったのかもしれません。とにかく、人生につまずき、人間関係も上手くいかず、墓場に来て孤独な生活を送っていました。そして、いつも自分を責め、石で自分の体を傷つけていたのです。また、やり場のない不安や不満、また後悔に苛まれ、どうすることもできずに大声で叫んでいたのでしょう。新しくやり直したい、でも、出来るはずがない、そんな絶望や呪いの叫びだったかもしれません。人々がいくら押さえつけ束縛しても、この人を静めることは出来ませんでした。彼は、すべてを拒絶しながら生活していたのです。
 そんな彼について、2節では「汚れた霊につかれた人」と説明されています。マタイの福音書では「悪霊につかれた人」と書かれています。そういう言葉を聞くと、急に違和感を覚えたり、恐ろしく感じたり、荒唐無稽に思う方もおられるでしょう。
 私たちは、目に見えることが一番確かで、目に見えるものだけが実際に存在すると考えてしまうことがあります。しかし、この世界には目に見えないけれど、確かに存在するものがたくさんあるのです。例えば、電波は目に見えませんが、携帯電話もテレビも電波の働きによって作動しています。磁気も見えませんが、周りのものに複雑な作用を及ぼしていますね。そのように私たちの生活に影響する目に見えないものがたくさん存在しているわけですが、聖書は、私たちの内面にまで影響を及ぼす目に見えない存在があることを教えています。そして、そういう目に見えない存在を「霊」と呼んでいるのです。
 そもそも神様が御自身が霊なる方です。神様は目には見えませんが確かにおられ、私たちを生かし、成長させ、導いてくださっています。その神様は、私たちが神様をよく知ることができるように、目に見える肉体を持って来てくださいました。それがイエス様です。イエス様を見ることによって私たちは神様がどのような方であるかをより深く知ることができるのです。
 一方、聖書は、私たちに悪い影響を及ぼそうとする霊が存在することも教えています。悪霊の一番の目的は、私たちを神様から引き離し、神様との麗しい関係を破壊し、破滅へと導くことです。はっきり悪霊だとわかるようなやり方をすることもありますが、私たちが気づかないような巧妙な方法を使うことも多いのです。私たちが気づかないうちに、「神様は本当は私なんか愛していないのではないか」「神様の言葉は本当に信用できるんだろうか」「神様にとって私なんか無価値な存在ではないのか」「神様を信じてもどうせ無駄ではないのだろうか」「神様の助けに頼らなくても、自分でやっていけるさ」などという神様への疑念や不信や反発する思いを植え付けていくこともあります。そして、その結果、人は本来の自分を見失っていきます。自分はいったい誰なのかわからない、自分の存在に意味があるのかわからない、そして、結局は、混乱と失望の中で自分を自分で傷つけ、破壊へと向かうことになってしまうのです。墓場に住みついていた人も、そういう汚れた霊の影響によって自分を見失い、支配され、がんじがらめにされていたのでしょう。
 私たちは、そういう悪しき汚れた霊の存在があることを知り、気をつける必要があります。人を混乱させ、束縛する力は満ちています。悪しき霊の働きは現実の働きとしてあるのです。
 といっても、むやみに恐れたり心配する必要はありません。今日の箇所でもわかるように、イエス・キリストは、悪霊よりもはるかに偉大な権威と力のある方ですから、私たちはイエス様と共にいてイエス様を信頼していさえすれば大丈夫なのです。安心してくださいね。

3 イエス様の権威と力

 さて、墓場にいた人は、イエス様に対して何かを感じてやって来たのでしょうね。しかし、イエス様が「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われると、取り乱してしまいました。彼自身は、本当の救いを願っていたはずです。しかし、口から出て来た言葉は、「いと高き神の子、イエスさま。私を苦しめないでください」というものでした。自分の中で相反するものが対立しているのです。素直になりたくてもなれないところに、汚れた霊の働きがあります。
 イエス様が「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は、「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」というのは、当時の世界最強のローマ軍が所有する軍団のことで、六千人で編成されていました。つまり、多くの汚れた霊がこの人を混乱させていたということですね。
 しかし、イエス様にとっては、どんなに多くの霊であろうが問題ではありません。ガリラヤ湖の嵐を静めることのできるイエス様は、人の内側のどんな嵐や混乱も静めることがお出来にになるからです。聖書は、イエス・キリストの権威の言葉によって解決できないものは何もないということを教えています。
ここでもイエス様は、ただ「汚れた霊よ。この人から出て行け」とお命じになりました。イエス様は、当時よく行われていたような呪術や呪文や特殊な道具を使ったりはなさいませんでした。権威ある言葉を発するだけで十分だからです。
 それは、今も同じです。イエス様の言葉には権威と力があります。イエス様が言われることは、必ずその通りになります。ですから、イエス様の言葉に信頼して安心して生きることができるのです。
 さて、イエス様が神の本質と権威と力を持った方であることは、汚れた霊もよくわかっていました。むしろ私たち人間よりもよくわかっているのですね。そこで、イエス様に「この地方から追い出さないでください。豚に乗り移らせてください」と懇願しました。イエス様がそれを許されると、汚れた霊たちは豚に乗り移り、二千匹の豚が崖から湖になだれ落ちて溺れ死んでしまったと書かれています。
 これは、不思議な記事ですね。どう理解したらいいのでしょうか。旧約聖書の律法の規定では、食べていいきよい動物と食べてはならない汚れた動物が区別されていました。こうした区別することを日常の生活の中で学ばせていきました。それは、聖書の神様は他の神々と区別されるべき方であり、聖なるお方であることを日常生活や食生活の中で学ばせるためでした。
 ただし、イエス様が来られてからは、そうした食物の規定などの区別は必要なくなったので、今では何でも自由に食べることができますね。
 今日の箇所で、イエス様がなぜ汚れた霊が豚に乗り移ることをお許しになったのか、書いてないのでよくわかりませんが、もちろん、豚に罪があるわけではありません。ただ、当時の人にとって豚は汚れを表すものでしたから、人を混乱させる悪しき霊は、結局、神様から汚れたものとして区別され、滅ぼされてしまう、ということを象徴的に示すために、このことが起こったのかもしれません。
 ヨハネの黙示録20章10節に、人々を惑わし混乱させた悪魔の最後がこう記されています。「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」最終的に悪しき霊は完全に滅ぼされてしまうのです。
 
4 人々の反応

 さて、この出来事が起こったとき、豚を飼っていた人や町の人たちは、どんな応答をしたでしょうか。
 彼らは、暴れわめいてどうすることもできなかった男が正気に返ってすわっている姿を見ました。一方で、二千匹の豚が溺れ死んだことも見聞きしました。彼らの最初の反応は、恐れでした。汚れた霊を追い出し、豚を二千匹も死なせるという力を持ったイエス様を、得体の知れない人物だと恐れたのかも知れません。このままイエス様がここにいたら、また何か破壊的なことが起こって、自分たちが大きな損害を被るかもしれないと思ったのかも知れません。それで、彼らは、イエス様に「ここから去ってください。私たちにかかわらないでください」と願ったのです。
 悲惨な混乱状態にあった人が回復するという素晴らしいことが起こったのですから、本来ならば、イエス様に「どうか私たちのところに留まって、もっと多くの人をいやし、解放してください」と願ってもいいはずではありませんか。しかし、彼らは、「これ以上、私たちの生活の邪魔をしないでくれ。私たちの生活に波風を立てないでくれ」と言わんばかりにイエス様を拒絶したのです。
 日本でクリスチャンとして生きるのは、少し勇気のいることかもしれませんね。クリスチャン人口が少ないですからね。そして、クリスチャンになると、波風が立つことがよくあるのです。その多くは誤解からなのですが。クリスチャンになって喜んで生きるようになったからといっても、そのことを皆が喜ぶわけではないのですね。
 だいぶ前になりますが、一人の方とお会いしました。彼は、何代も続いた由緒ある裕福な家に生まれ、何不自由なく生活していました。しかし、いつのころからか盗みの衝動に駆られ、万引きを繰り返すようになりました。いけないことだとわかっていても、どうすることも出来ないのです。両親は、息子の盗癖を治すために手を尽くしました。心理療法や催眠療法や様々なカウンセリングも受けさせました。でも、どうしても治らず、彼は、何回も家庭裁判所送りになったのです。そういう中で、彼は、一人のクリスチャンに出会って教会に通い始め、イエス・キリストを救い主として信じました。すると、彼の人生は、そこから見事に変わっていきました。こんな私も愛されている、赦されている、受け入れられている、という福音が彼の混乱した心を変えていったのです。そして、それまでどうしても治らなかった盗癖が癒やされ、私がお会いしたときには、素晴らしい家庭を築いていました。
 しかし、彼の話に、私は驚いてしまいました。彼の盗癖が治ったと聞けば、それまで苦労してきた家の人はさぞかし喜ぶだろうと思ったのに、彼がクリスチャンになったと聞いて激怒したというのです。何代も続く由緒ある彼の家には、いまだかつてクリスチャンはいませんでした。だから、クリスチャンになった彼に家を継がせるわけにはいかないと言うのです。「もしクリスチャンをやめるならば、この家の敷居をまたいでもよい。しかし、信仰を捨てなければ、この家の相続権は一切与えない」と言ったのだそうです。彼は、「そうですか。でも、僕は、人生を変えてくれたイエス様を選びます」と答えたそうです。
 人にはどこかに「私の今の生活を邪魔されたくない」という思いがあるのかもしれませんね。しかし、イエス様を迎え入れることによって起こる変化を恐れて、イエス様を去らせてしまうのは、何ともったいないことですね。イエス様は、私たちに最善のことをしてくださるのですから、恐れずに、喜んでお迎えしようではありませんか。

5 新しい人生の出発

 さて、墓場にいた人はどうなったでしょうか。彼は、イエス様の権威ある言葉によって癒やされ、正気に戻ることができました。イエス様のもたらす福音の力は、ここにあります。イエス様は、私たちを束縛する存在を滅ぼすことのできる方であり、自分が誰だかわからなくなってしまうような混乱から私たちを解放してくださる方なのです。
 ガラテヤ5章1節で、パウロもこう語っていいます。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
 墓場にいた人は、社会から隔絶した孤独の中で自らを傷つけることしかできない生活をしていました。人前に出ることなど考えられない状態でした。しかし、今はどうでしょうか。18節にあるように、彼は、イエス様のお供をしたいと願ったのです。他の人々とはまったく正反対の反応ですね。
 でも、イエス様は、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と言われました。
 彼は、今まで否定的で破壊的な言葉を夜昼叫び続けていた人です。しかし、今度は、自分の家に帰り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを証しする人として歩み始めたのです。家の人は、さぞびっくりしたことでしょう。最初は、疑いのまなざしで見ていたかもしれませんね。しかし、彼は、家族だけでなく多くの人にイエス様の恵のみわざを語っていったのです。20節には、「デカポリスの地方で言い広め始めた」とありますね。デカポリスとは、この地方の十の都市をまとめた地域のことです。彼の人生に起こった変革が、家族に、また、その地域の人々に広く証しされていったのです。
 私はこういう箇所を読むとうれしくなります。決して人生をあきらめてはいけないと思わされるからです。イエス様との出会いは、人生を確かに変えていくからです。
 今の時代は、人は人、自分は自分というふうに、干渉されることも干渉することも嫌がる時代です。そういう意味では、孤独な時代なのかもしれません。誰も墓場に住もうとは思わないでしょうが、しかし、墓場の中にいるような孤独感を味わっている人はたくさんいます。自暴自棄となり、自からを傷つけてしまうこともあります。自分がどういう存在かまったく分からなくなってしまうこともあります。しかし、イエス様は、そんな一人一人の混乱した嵐を静めるために来てくださったのです。
 今日の出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書き残されています。それは、イエス様が、外から私たちに吹きつけてくる嵐を静めるだけでなく、私たちの内側の嵐も鎮めることが出来る方であることを示す重要な出来事だからです。
 イエス様は、私たちをあらゆる束縛から解放してくださいます。そして、イエス様は、今日、19節の言葉を私たち一人一人にも語りかけてくださっています。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
 イエス様の証し人として、今週も歩んでいきましょう。
は、きのうも今日もいつまでも同じ方であり、私たちがどこにいたとしても共にいてくださる方です。今週もこのイエス様を歓迎し、イエス様に信頼して歩んでいきましょう。