城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年六月一七日          関根弘興牧師
                 ルカ八章四〇節〜五六節
 イエスの生涯21
    「信仰に生きるとは」

40 さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。41 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。42 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。43 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、44 イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」51 イエスは家に入られたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょに入ることをお許しにならなかった。52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。54 しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。56 両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。(新改訳聖書)


 前回は、イエス様がガリラヤ湖畔の町カペナウムから舟に乗って対岸のゲラサ人の地へ行かれたときに起こった出来事を読みました。ゲラサ人の地に着くと、墓場に住みついている人が出てきました。その人は、自分の身を傷つけたり、夜昼叫びまわったり、ひどい混乱状態の中にありました。しかし、イエス様が御自分の権威ある言葉によってお命じになると、その人はたちまち混乱状態から解放され、正気に戻ったのです。そのようなイエス様の力を目撃した人々は、どうしたでしょうか。普通なら、イエス様を喜んでお迎えしてもいいはずですね。しかし、彼らは「すぐにここを立ち去ってください」と懇願したのです。イエス様がもたらす変化によって自分たちの生活に波風が立つことを恐れたようです。そこで、イエス様は、その場所を去って、再び、カペナウムに戻ってこられました。
 すると、今日の箇所の40節にあるように、イエス様を待ちわびていた群衆が喜んで迎えました。イエス様のもとに大勢の人々が集まってきたのです。
そこに会堂管理者のヤイロがやって来ました。
 会堂管理者というのは、誰もがなれる仕事ではありません。当時のユダヤ人の礼拝の場所である会堂(シナゴーグ)を管理する総責任者です。ですから、ヤイロは、社会的にも宗教的にも尊敬されていた人物であったにちがいありません。
 このヤイロに、十二歳になる娘がいました。彼女は何不自由なく生活してきたことでしょう。当時のユダヤ人の社会では、十二歳になると成人した女性とみなされました。「うちの娘が成人の日を迎えた。めでたいことだ」とヤイロは喜んだに違いありません。しかし、その娘が突然、病を患い危篤状態になってしまったのです。そこで、ヤイロは、イエス様のもとにかけつけ、足もとにひれ伏して、「私の家に来て、娘をいやしてください」と懇願したのです。
 その願いに応えてイエス様はヤイロの家に向かわれたわけですが、その途中、十二年の間長血をわずらった女性が現れました。
 ヤイロの娘とこの女性は、対照的ですね。ヤイロの娘は生まれてから今までの十二年間、両親に大切に育てられ、幸せに暮らしてきたことでしょう。一方、長血をわずらった女性は、同じ十二年の間、困難な生活を続けてきました。この全く違う十二年を過ごしてきた二人を、イエス様はどちらもいやされたのです。この二つの出来事を通して、今日もご一緒にお互いの人生を考え、イエス様がどのような方なのかを見ていきましょう。

1 二つの出来事

@長血をわずらった女

 まず、長血の女性がいやされた出来事を見ましょう。
 長血というのは、婦人病の一種です。マルコの福音書を見ると、出血が続くだけでなく、ひどい痛みもあったようです。それが十二年間も続いているだけでも辛いですが、この女性には、さらにいろいろな苦しみが重なっていました。
 マルコの福音書には「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と書かれています。この女性は、悪徳医に怪しげな治療を施されたあげく大金を巻き上げられ、健康ばかりか財産も失ってしまったのです。
 それだけではありません。当時のユダヤの社会では、律法の規定によって、出血のある女性は宗教的に汚れた者と見なされていました。また、いのちは血の中にあるという考えられていたので、血が止まらないこの病気は、いのちがどんとん尽きていくのもとして忌み嫌われていました。ですから、この女性は十二年間もの間、普通の社会生活を送ることも、親しい人間関係を持つこともできなかったのです。婦人病という性質上、病気のことを人に相談することもできず、また、宗教的な助けを受けたくても、汚れた者としか見なされず、お医者さんに行ってもひどい目に会うだけで、肉体的にも精神的にも経済的にも社会的にも絶望的な状況だったのです。
 そんな彼女がイエス・キリストの噂を耳にしました。「イエスという方は、寝たきりの中風の人をいやされたし、目の不自由な人を見えるようにしたり、足の不自由な人を歩けるようになさった。それに、ツァラアトの人もいやされたのだ」、そんな噂を聞いたのです。ツァラアトというのは皮膚の病で、長血と同じように汚れた者と見なされ、人はだれも近寄らないし触れようともしないものでした。イエス様がそういうツァラアトの人をも手を触れていやされたといううわさを聞いて、この女性は、自分にも希望があるかもしれないと思ったのかもしれません。また、イエス様が「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われたということも、この女性はどこかで聞いたかもしれませんね。
 ともかく、彼女は、イエス様のことを聞けば聞くほど、「何とかしてイエス様にお会いしたい」という思いを募らせていきました。そして、マタイとマルコの福音書には、彼女が「イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたと書かれています。
 もし自分の病が知られたら、群衆は一斉に自分を非難し、遠ざけようとするでしょう。しかし、彼女は、勇気を出して群衆に紛れ込み、イエス様の着物にそっと触れました。すると、たちどころに出血が止み、痛みが消え、いやされたのです。
 しかし、それで終わりではありませんでした。イエス様は、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われたのです。イエス様は群衆にもみくちゃにされているような状態でしたから、イエス様にさわった人は大勢いました。ですから、ペテロは、「みんなイエス様に触っているではありませんか。それなのになぜそんなことをお聞きになるのですか」と答えたのですが、イエス様は、「いや、そういうことではない。今、わたしのからだから力が外に出て行った。誰かがそのようなさわり方をしたのだ」と言われたのです。
 もちろん、イエス様はそれが誰だかご存じでした。しかし、さわった人が自分から名乗り出るのを待っておられたのです。なぜでしょうか。長血の女性は、汚れた自分が人に触ると、その人も汚れた状態になってしまうことを知っていました。それなのに、イエス様にこっそり触ってしまったことで、罪意識を感じていたかもしれません。そのまま帰ったら、いつまでもその罪意識を持ち続け、イエス様を避けて生きることになったことでしょう。そこで、イエス様は、その心の重荷も取り去るために、あえて「わたしにさわったのは、だれか」と言われたのです。すると、この女性が震えながらイエス様の前に進み出て、大勢の前で、自分のしたことと自分の身に起こったことを告白しました。汚れている身で群衆の中に入ってきたり、イエス様に勝手に触れたわけですから、人々やイエス様から責められるのではないかと恐れていたでしょう。
 しかし、イエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と宣言なさったのです。この「直した」という言葉は「救い」と同じ言葉です。つまり「あなたの信仰が、あなたの人生を救ったのですよ。安心して帰りなさい」とイエス様はおっしゃったのです。このイエス様の言葉は、人々に女性のいやしを認めさせ、また、この女性自身に大きな平安をもたらすものとなりました。イエス様は、この女性に、肉体のいやしだけでなく、全人的な救いをお与えになったのです。

Aヤイロの娘

 さて、この出来事が起こっている間、ヤイロはやきもきしていたに違いありません。このわずかな時間が、何時間にも感じられたことでしょう。彼は心の中で「イエス様、この女性はすぐに死ぬような病気ではないんですよ。この人に時間を割いていないで、今にも死にそうな私の娘のところに早く来てください」と焦っていたでしょう。そんなヤイロに大きな打撃を与えるニュースが飛び込んできました。ヤイロの家の者が来て、「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、イエス様に来ていただいてもどうしようもありません」と告げたのです。ヤイロは、絶望感で目の前が真っ暗になってしまったことでしょう。
 ところが、イエス様は、ヤイロに向かって、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」と言わたのです。
 イエス様は、ヤイロの家に着くと、嘆き悲しんでいる人々に、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」と言われました。人々はイエス様をあざ笑いましたが、マルコの福音書を見ると、イエス様は、その人々を外に出し、三人の弟子と両親だけを連れて娘の部屋に入っていかれました。そして、娘の手を取って、「子どもよ。起きなさい」と言われると、娘は、すぐに生き返ったのです。
 両親は、非常に驚き喜びましたが、イエス様は、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになりました。なぜでしょうか。理由は書かれていないので、よくわかりませんが、イエス様が行く所どこにでも群衆が押し寄せていましたから、イエス様が死人を生き返らせたという情報が広がったら、大混乱や流血の惨事さえも起こることが予想されたからかもしれません。
 イエス様は「あなたの体験したことを言い広めなさい」と言われることもあるし、「今は、黙っていなさい」と言われることもあります。ですから、私たちも、ただ闇雲になんでもかんでも言い広めればいいというのではないということを覚えておいたほうがいいですね。

2 信仰に生きるとは

 さて、今日の箇所で、イエス様は、長血の女性に「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。また、ヤイロには「ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」と言われましたね。これを読むと、誤解する方がいます。イエス様がみわざを行われるかどうかは、自分の信仰の程度によって決まるのだと思ってしまうのです。たとえば、病気が治らないと「私の信仰が足りないからいやされないのだ」と思ったり、「もっと強い信仰を持たないと問題が解決しない」と思ってしまうことがあるのですね。自分の信仰の強弱で事態がいかようにもなってしまうかのように錯覚するのです。
 でも、信仰とはそのようなものではありません。長血の女性もヤイロも、特別に立派な信仰を持っていたわけではありません。それに、聖書には、特別な信仰がなくてもいやされたり、イエス様の奇跡を体験した人のことも記されているのです。
 では、聖書の教える信仰に生きるとは、どのようなものでしょうか。

@信頼し、期待する

 長血の女性は、神学的な勉強をしたこともなく、イエス様に会ったこともありませんでした。ただ「イエス様のお着物にさわりさえすればきっと直る」という期待を持っていただけです。時々、「もっと聖書を勉強してよくわかったら、信仰が持てると思います」と言われる方がいます。しかし、ただ知識だけ増えても信じることはできません。イエス様という方をまだよく知らなくても、「この方なら答えを知っているかもしれない」「この方なら助けてくださるかもしれない」と期待することが信仰に生きる第一歩なのです。
 一方、ヤイロは、会堂管理者ですから、旧約聖書をよく知っていました。旧約聖書が預言している救い主についてもよく知っていました。ですから、イエス様の噂を聞いて、この方こそ救い主かもしれない、と思ったかもしれません。あるいは、イエス様を偉大な預言者だと思ったのかも知れません。とにかく、「この方なら娘をいやしてくださるかもしれない」と期待したのです。ただ、イエス様とともに家に向かう途中で娘が死んだという報告を受けた時は、「もうだめだ」と絶望したかもしれませんね。ヤイロは、人は死んでも、やがて終末の時に必ず起き上がる、ということは信じていました。でも、目の前の娘の死を解決することは、イエス様でもできないだろうと思ったでしょう。しかし、イエス様は、「恐れないで、信じなさい」と言われました。「もう駄目だと信仰を投げ捨ててしまうのではなく、なお信頼し続けなさい」と言われたのです。この「信じなさい」という言葉は、今まで持っていた信仰ではなく、新しく信仰を持ちなさい、と言われているかのような言葉です。死の力の前には、イエス様もなすすべがないと思っていたかもしれないけれど、イエス様なら死の問題さえ解決できるということを信じなさい、という言葉です。
 イエス様についての情報を知っているだけでは、信仰とは言えません。また、イエス様が救い主であることに同意するだけでも、信仰とは言えません。信仰とは、「イエス様は私の人生にみわざをなしてくださるに違いない。私はイエス様が与えてくださる救いを受けて生きていくことができる」と期待し生きることなのです。

A行動する

 期待すれば、そこから行動が生まれます。長血の女性は、正面からイエス様のもとに行って「いやしてください」とお願いする勇気はありませんでしたが、こっそり後ろからイエス様のお着物にさわりました。目立たない小さな行動です。でも、それが彼女の人生に大きな変革をもたらしたのです。
 ヤイロは、会堂管理者ですが、他のユダヤ人たちの評価を恐れず、プライドも捨てて、イエス様の足下にひれ伏しました。その結果、娘をいやしていただくことができました。
 何かを信じたら、必ず行動が生まれます。行動しなければ、結果を得ることができません。日常生活も信じて行動することの連続で成り立っています。たとえば、東京に行きたいと思えば、東京行きという電車の表示を信じて乗りこみますね。乗らなければ、いつまでたっても東京に行くことはできません。行動しなければ、結果を受け取ることはできませんね。情報を信頼し、期待し、小さくてもいいから一歩踏み出していくこと、それが信仰に生きることなのです。

B告白する

 今日の箇所では、長血の女性がイエス様の前に出て、いやされたことを告白したとき、イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われましたね。
 イエス様は、同じ言葉をルカの福音書17章でも言っておられます。ツァラアトを患っている十人の人がいました。彼らは、自分たちが汚れていてイエス様に近づけないので、遠く離れたところから、「イエス様、私たちをあわれんでください」と叫びました。すると、イエス様は「自分のからだを祭司に見せに行きなさい」と言われました。ツァラアトがいやされたときには、祭司に見せて確認してもらうことになっていたからです。十人は、祭司のもとに行く途中で自分たちがいやされていることに気づきました。ところが、イエス様のもとに引き返して来て感謝をささげたのは、一人だけだったのです。イエス様は戻ってきたその人に「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
 ローマ10章10節には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書かれています。聖書は、イエス様が私にとってどのような方か、イエス様が私に何をしてくださったかということを告白することの大切さを教えています。告白することによって、「イエス様は私の主です。私の人生を支配してくださっている方です。イエス様こそ私が従うにふさわしい方です」ということを表明し、イエス様とのつながりを確認することになるからです。

 ヨハネ14章6節で、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。また、使徒の働き3章15節で、ペテロはイエス様を「いのちの君」と呼んでいます。これは、「いのちへの導き手」「いのちの創始者」とも訳せる言葉です。またパウロはコロサイ3章4節で「私たちのいのちであるキリスト」とイエス様のことを記しています。イエス様こそいのちを与える方、私たち一人一人のいのちの創始者であり、私たちのいのちの源となってくださるお方です。すべてのいのちの源であるイエス様がおられ、そのイエス様が私のいのちとなってくださっている、ということを肯きつつ生きる、それが信仰に生きることなのです。
 このイエス様によって、人はいやされ、生かされていきます。長血の女性は、いのちを消耗し続けている状態で、それを全財産をもってしても食い止めることができませんでしたが、イエス様は、その状態をいやし、いのちに満たすことがおできになりました。また、イエス様は、死んでしまったヤイロの娘にいのちを与えることがおできになりました。
 といっても、すべての病気がいやされるわけではありません。パウロも肉体に弱さがあって、何度も主に願ったのにいやされませんでした。主は、パウロに「わたしの力は、あなたの弱さの内に完全に現れるのだ」と言われたのです。また、私たちは皆、いつかは肉体の死を迎えますね。しかし、どんな時にもイエス様の尽きることのない永遠のいのちに生かされているので、希望と平安を持って生きることができるのです。
 今週も、いのちの君であるイエス様を信頼し、期待し、告白していきましょう。