城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年七月一日          関根弘興牧師
                 ヨハネ五章一節〜一五節
 イエスの生涯22
    「ベテスダと呼ばれる池」

 1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。(新改訳聖書2017)


 前回は、ルカの福音書で、イエス様がガリラヤ湖畔にあるカペナウムという町で、十二年間も長血を患っていた女性をいやし、また、会堂間管理者ヤイロの十二歳になる娘を生き返らせたという出来事を読みました。そして、信仰によっていのちの源であるイエス様につながることの幸いを学びましたね。
 今日は、ヨハネの福音書に記録されている出来事を見ていきましょう。
 まず、1節に「ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」と書かれていますね。この「ユダヤ人の祭り」がユダヤ人の三大祭りのうちのどの祭りを指すのかはっきりわかりませんが、祭りの時には国中の人々がエルサレムに集まってきました。ガリラヤで活動されることが多かったイエス様も、祭りの時にはいつもエルサレムに上られたのです。そして、エルサレムでも人々に福音を語ったり病人をいやしたりなさいました。
 今日の箇所では、ベテスダという池のそばにいた病人を癒やされた出来事が書かれていますね。この出来事から、イエス様について学んでいきましょう。

1 ベテスダの池

 「ベテスダ」とは「あわれみの家」という意味です。そこにたくさんの病人が集まっていました。町中が祭りを祝って喜びに満ちているときにも、この病人たちは祭りに出席することも祝うこともできず、病み疲れて横たわっていたのです。
 その中に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。彼は、きっと、最初は病気を直すためにいろいろ努力したでしょう。多くの医者を尋ね回ったでしょう。いろいろな薬も試したでしょう。しかし、自分の努力ではどうしても解決できず、最後の最後に、このベテスダの池にやって来たようです。
 今日の箇所で4節が抜けていますが、聖書の脚注を見ると、異本に3節後半と4節として、このような文が記されているとありますね。「彼らは、水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」とあります。この箇所は、多くの有力な写本には載っていないので、本文には含まれていませんが、当時、このような話が広まっていたのでしょう。
 この池の底からは、地下水が間欠泉のように湧き出ていたようで、時々、水が動くのですが、人々は、それを主の使いが水をかき回しているからだと考えました。そして、いつしか「水が動いたとき、最初に入った者はいやされる」という伝説が出来ていったのです。
 ですから、多くの病人がこの池のそばに集まって水が動くのをじっと待っていたわけです。彼らにとって、水が動いたら真っ先に飛び込んで病気がいやされること、それだけが希望でした。そこにイエス様が来られたのです。

2 イエス様の問いかけ

 イエス様は、三十八年も病気にかかっている人を見て、すぐに彼の状態を見抜いて、こう質問されました。「良くなりたいか。」
 イエス様は、なぜ、わざわざこのような質問をなさったのでしょうか。病人なら皆「良くなりたい」と思うのは当たり前だと思いますよね。
 しかし、この病人は、即座に「はい、良くなりたいです」とは答えませんでした。彼はこう言ったのです。「池の中に私を入れてくれる人がいません。いつもほかの人が先に入ってしまうんです」と。今まで何をやっても無駄で、いつも期待しては裏切られの連続だったのでしょう。最後の拠り所としてベテスダの池にやって来たものの(おそらく誰かに運んで来てもらってのでしょう)、水が動いたとしても、彼には一番最初に池に飛び込む力はありませんでしたし、助けてくれる人もいませんでした。ですから、病気がいやされることなどありえない、無理だ、と投げやりになっていたのでしょう。イエス様に「良くなりたいか」と聞かれても、素直に「はい、良くなりたいです」と答えることができず、「良くなりたいと願っても無駄ですよ。自分ではどうすることもできないし、助けてくれる人もいない。もう諦めるしかないんです」と言わんばかりの態度だったのです。でもこの人の置かれた状況を考えたら、なんだかわかるような気がしますね。
 私たちも、時々、同じように考えてしまうことがあるのではないでしょうか。「良くなりたいか」と問われても、素直に「はい」と答えられないことがあるのです。特に、問題がなかなか解決せずに長引いていると、「どうせ駄目ですよ」「無理ですよ」「聖書にそう書いてあっても、解決なんてありませんよ」と、イエス様への期待も信頼もいつのまにか色褪せてしまうことがあるのです。自分が願ったことがかなえられない状態が続くと、諦めてしまうことが多いのですね。
 また、この三十八年間病気だった人には、「このままでいた方が楽だ」という気持ちもあったかもしれません。病気のままでこの場所に寝ていたら、人々の施しを受けて生きて行くことができます。でも病気が治ったら、自分の力で生きていかなければなりません。病気以外の様々な問題に直面せざるを得ないこともあるでしょう。三十八年も続いて慣れ親しんだ生活がまったく変わってしまうことに、躊躇や不安もあったかもしれませんね。だから、無意識のうちに、「自分には無理だ」「誰も助けてくれない」ということを口実にして、そのままの状態に留まろうとしていたのかもしれません。
 もう何十年も前ですが、あるホテルの支配人から「クリスマスのイベントを行うので手伝ってくれませんか」という連絡があり、お手伝いしたことがありました。この方は、クリスチャンではありませんでしたが、「クリスマスだから、キリスト教の要素を入れてイベントを行いたい」というのです。おもしろいですね。キリスト教の要素のないクリスマスなど本当はないんですけどね。いろいろとお話をしている中で、その支配人が、「関根さん、私は迷える子羊ですから」とおっしゃいました。「自分は迷える子羊だ」という自覚があるのは幸いですね。ですから、私は言いました。「それでは、本当の羊飼いのもとに帰ることが先決ですね」と。すると、「いや、それは結構です」と言うのです。もし自分が迷える子羊だと自覚しているのなら、そんな危険な状態はないわけですから、羊飼いのもとに帰ればいいではありませんか。でも、その人は、その状態を変えたいとは思っていなかったのです。
 前回の長血を患った女性や娘が病気で死にかけていた会堂管理者ヤイロは、良くなりたい、良くしていただきたい、という強い思いをもってイエス様のもとに来ました。しかし、今日のベテスダの池の病人は、「良くなりたい」「いやされたい」という思いを失いかけていました。そこで、イエス様は、まずこの人に最も必要なことを確認させ、それを願い求める思いを持たせるような質問をなさったのです。
 イエス様に「良くなりたいか」と聞かれることによって、この病人は、素直に「はい」とは答えられませんでしたが、自分の心の奥に本当は「良くなりたい」という思いがあることを改めて気づかされたのかも知れません。
 イエス様は、私たちが求めていないのに無理矢理何かをなさる方ではありません。私たちが求めていないものを無理に受け取らせようとする方でもありません。イエス様は、まず、私たちが自分の状態に気づき、自分が本当は何を求めているのかに気づき、それをイエス様に願い求めて受け取ることができるように導いてくださるのです。
 そのために、イエス様は、私たちに様々な方法で問いかけたり呼びかけたりしてくださるのです。一人一人に「わたしが与えたいと願っているいのち、私が差し出している救いの恵みを、あなたは本当に受け取る気持ちがありますか」と聞かれ、「わたしが休ませてあげるから、わたしのもとに来て重荷を下ろしたらどうですか」と呼びかけ、「あなたは今のままでいいのですか。それとも良くなりたいですか」と問いかけてくださるのです。

3 イエス様の命令

 次に、イエス様は、この病人に「起きて床を取り上げ、歩きなさい」とお命じになりました。
 すると、その病人はどうしたでしょうか。「いやいや、それは無理ですよ。そんなことはできません」とは言いませんでした。「あなたが私を池まで運んでくださらなければ直りませんよ」とも言いませんでした。ただイエス様の言葉に従って自らの足に力を入れて立ち上がろうとしました。すると、病気は癒やされ、歩けるようになったのです。
 この人がイエス様の命令を聞いてもその通りにしなかったら、何も起こらなかったでしょう。私たちも、イエス様の言葉をただ聞くだけで終わったら、何も始まりません。その言葉に従ってみよう、その言葉の通りに生きてみようと一歩踏み出す勇気が必要なのです。
 昔、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトを脱出し、荒野で四十年間生活した後に、いよいよ神様の約束の土地を目前にする場所にやってきました。モーセは、その場所で天に召され、モーセの後継者であるヨシュアを先頭に、いよいよ約束の地に入っていくことになりました。しかし、問題がありました。約束の地に入るためには、ヨルダン川を渡らなければならなかったのですが、その時期のヨルダン川の水は岸いっぱいにあふれ流れていたのです。どうしたら渡ることができるでしょうか。その時、神様はヨシュアに言われました。「主の契約の箱をかつぐ祭司たちを先頭に渡らせなさい」と。ヨシュアは語られた言葉に従いました。先頭の祭司たちが川を渡ろうと足を水に一歩浸した時、川の水がせき止められ、イスラエルの民は全員、無事に川を渡ることができたのです。この出来事は旧約聖書のヨシュア記3章に書かれています。
 彼らは、まず川がせきとめられてから渡ったのではありません。神様の命令に従って川に足を一歩踏み出したとき、水がせき止められたです。信仰の醍醐味はここにありますね。目の前の状況は何も変わっていなくても、聖書の約束の言葉を信頼して一歩踏み出していくとき、神様のみわざを見ることができるのです。
 もちろん神様は、最初からすべてを整えておいてくださることもあります。しかし、多くの場合、神様は、私たちが神様の言葉を信頼して一歩を踏み出すのを待っておられるのです。

4 イエス様の警告

 病気を癒やされたこの人は、最初は、自分を癒やしてくださった方がイエス様だとは知りませんでした。しかし、14節に、「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけ」たと書かれていますね。この人は、自分が癒やされたことを神様に感謝するために神殿に行ったのかも知れません。
 イエス様は、彼にこう言われました。「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
 これを読むと、イエス様が「罪を犯すと、病気が再発してもっと悪くなるぞ」と脅しておられるかのように感じてしまう方がいるかもしれませんね。確かに、もし飲み過ぎで肝臓が悪くなったら、お医者さんは、「これからは飲み過ぎに注意してください。そうでないとさらに悪化しますよ」と言うでしょうね。それに、当時は、「罪を犯したから病気になったのだ」と考えるのは、普通のことでした。だから、このイエス様の言葉を、「罪を犯すともっと悪い病気になる。もっと大変な罰を受けることになるぞ」という意味だと思ってしまう人がいても無理ないかもしれません。
 しかし、注意していただきたいのは、イエス様は、この人を癒やされたときに、病気の原因については、ひとことも言及されませんでした。「あなたが罪を犯したからこんな病気になったのだ」とか「先祖が悪いから病気になったのだ」などとは言われませんでした。イエス様は、この人を無条件で癒やされたのです。そもそも「病気は罪を犯した罰なのだ」という見方をイエス様はされていないのです。
 では、なぜイエス様は「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」と言われたのでしょうか。
 この人は、三十八年間、大変辛い生活を送っていたはずです。しかし、今、病が癒やされて、これからはまったく新しい生活が始まろうとしているのです。そこで、イエス様は、「あなたは、神様のあわれみによって癒やされた。でも、もしあなたが恵みとあわれみに満ちた神様に背を向けて生きて行こうとするなら、今までの三十八年間の不自由な生活以上に、あなたの人生から平安や安息が失われてしまうだろう。体は良くなったとしても、それ以上に不自由になってしまうから、そうならないように、いつも神様を信頼して生きていきなさい」と言われたのです。
 つまり、イエス様が言われた「もう罪を犯してはなりません」という言葉は、「どんな罪もどんな悪いこともいっさいしてはならない」という意味ではありません。私たちは、神様に従おうとしても罪を犯してしまうような弱い者ですから、まったく罪を犯さないで生活することは不可能です。イエス様が言われた「罪を犯してはならない」というのは、「神様に故意に背を向け、神様との関係を自分から拒絶することがないようにしなさい」ということです。神様とつながっていさえすれば、私たちは、たとえ罪を犯したとしても赦され、神様の愛と恵みの中に憩いながら生きていくことができるからです。

5 律法ではなくあわれみによって

 さて、ヨハネの福音書の特徴の一つは、イエス様の行われたしるしの中に律法の限界が暗示的に示されているということです。
 たとえば、イエス様は、カナの婚礼の時に水をぶどう酒に変えるというしるしを行なわれました。この水は、ユダヤ人が律法の戒めに従って汚れた身をきよめるために使っていた水でした。イエス様がその水をぶどう酒に変えた出来事は、「表面的に律法に従って体をきよめても本当の救いを得ることはできない。救い主を信じることによって内側が新しく変革される必要があるのだ」ということを示していたのです。
 今回のベテスダの池での出来事にも律法の限界が暗示されています。
 2節に「ベテスダの池には五つの回廊がついていた」と書かれていますね。この「五つの回廊」は、旧約聖書の中で「律法」と呼ばれているモーセの五書(創世記から申命記まで)を象徴的に表すものとして造られました。その回廊の中に「あわれみの家」という意味のベテスダの池があったわけですが、この場所は、「神様のあわれみと恵みを受けるためには、五つの回廊に象徴される律法の戒めをきちんと守らなければならない」ということを暗示しているわけです。
 しかし、どうでしょう。そこに横たわっている人々の中で、きちんと律法の戒めを守ることができる人がいるでしょうか。誰もいませんね。結局、人々は、どんなに求めても自分の力では神様のあわれみや恵みを受けることができない、という現実を味わいながら、そこに横たわっていたのです。
 旧約聖書の律法は、人間の罪や弱さを明らかにするものです。律法を完全に守ることのできる人など一人もいないからです。ですから、人は、自分の力で律法を守るという方法によって救いを得ることは決してできません。五つの回廊のついたベテスダの池に多くの病人が伏せったままでいる状態は、律法では人を救うことはできない、という律法の限界を象徴的に示しているのです。
 しかし、その場所に、イエス様が来てくださいました。そして、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われましたね。それは、律法の世界に留まるのではなく、イエス様の言葉に信頼し、その言葉に従って新しい歩みを始めなさい、という招きでした。つまり、この出来事は、イエス様こそ、本当のあわれみの家、恵みの家、ベテスダの池そのものなるお方だということを教えているのです。
 旧約聖書のゼカリヤ書13章1節に「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」という言葉が出てきます。イエス様こそがその罪と汚れをきよめるいやしの泉、ベテスダの池そのものなるお方なのです。