城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年7月8日          関根弘興牧師
                 ヨハネ6章1節〜15節
 イエスの生涯23
    「十二かごいっぱい」

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(新改訳聖書)

前回は、イエス様がユダヤの祭りの時期にエルサレムに行かれたとき、ベテスダと呼ばれる池のそばに横たわっていた病人を癒やされた出来事について学びました。三十八年間も病気の状態で希望を失いかけていた病人に、イエス様は、「良くなりたいか」と尋ね、「起きて床を取り上げて歩け」とお命じになりました。そして、病人が自分の足に力を入れると、立ち上がることができたのです。この出来事を通して、イエス様の言葉に従って一歩踏み出すことの大切さを学びましたね。

 さて、今日の箇所は、イエス様が再びガリラヤ地方に戻り、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれたときの出来事が書かれています。ヨハネの福音書では、イエス様がどのような方かを示す「しるし」としての奇跡的な出来事が七つ記録されていますが、これは「五千人の給食」と呼ばれる四番目のしるしです。今日は、このしるしからイエス様がどのような方なのかを学んでいきましょう。

1 湖の向こう岸へ

 まず、この出来事が起こった場所について見ていきましょう。1節に「ガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸とありますが、この湖は、初めは「ゲネサレの湖」と呼ばれていました。後に「ガリラヤの湖」と呼ばれるようになり、その後、紀元二十二年に湖の西岸にテベリヤという町が出来てからは、「テベリヤの湖」と呼ばれるようになりました。ですから、「ガリラヤ湖」「ゲネサレ湖」「テベリヤ湖」は、どれも同じ湖を指しているのです。そして、「湖の向こう岸」とありますが、湖の北東のどこかだと推測されています。
 次に、この出来事が起こった時期ですが、4節に「過越が間近になっていた」とありますね。過越の祭りは、太陽暦の三月から四月に当たる時期の祭りですから、青草が絨毯のように敷き詰められた春の季節であったことがわかります。
 他の福音書を見ると、イエス様は、この時、弟子たちと一緒に舟で寂しい所に行こうとなさっていました。いつも大群衆に取り囲まれていたので、しばらく人のいない所に行って、神様の前に静まる時を持ったり、弟子たちを休ませようとなさっていたのでしょう。ところが、多くの群衆が陸づたいにイエス様を追いかけ、先回りして待っていたのです。すると、イエス様はどうなさったでしょうか。マルコの福音書には「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」と書かれています。山の上で群衆に教えられていたのでしょうね。

2 ピリポへの質問

 そのうち夕方になったので、弟子たちはイエス様に言いました。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
 すると、イエス様は「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい」と言われたのです。このヨハネの福音書では、さらに詳しく、ピリポに対して「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と言われた、と書かれていますね。
 すると、ピリポは、とても合理的な答えをしました。「イエス様、計算してみましたが、めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りませんね。」これは、たいへん説得力がある答えですね。二百デナリというのは、二百日分の労賃に相当する金額ですから、大金です。「イエス様、この人たち全員にパンを与えるお金などありません。無理ですよ」とピリポは答えたのです。
 皆さん、ピリポになったつもりで想像してみてください。イエス様と仲間だけでゆっくり話が出来ると思っていたのに大勢の群衆が押し寄せてきたわけですから、せっかくの時間を邪魔されたように感じていたのかもしれません。そして、「どうぜ、この人たちは、イエス様が行うしるしや不思議を見たいだけの群衆じゃないか。俺たちのように真剣に従っているわけではなく、ただの烏合の衆にすぎないではないか。なんでこんな連中の食事の世話までしなければならないんだ。もし二百デナリあったとしても、この連中にパンを与えるなんて無駄遣いではないか。勝手について来たんだから、食べ物も自分で探させればいい。むしろ、彼らのほうで、食べ物や贈り物を持ってきてもいいはずじゃないか」などと思ったかもしれません。
 しかし、6節に「イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった」と書かれていますね。イエス様がピリポに「この人々にどのようにしてパンを食べさせようか」と言われたとき、ピリポには、ただ合理的で即物的な計算をする以上の何かが求められていたのです。しかし、ピリポは「二百デナリのパンでは足りません」と答えることしかできませんでした。でも、だからといって、誰がピリポを責めることができるでしょう。私たちもきっとピリポと同じ答えをするのではないかと思います。常識的に考えればピリポの答えはもっともですからね。
 この時のピリポは、イエス様が天地万物を作られた神様と同じ本質を持っておられる方であることを十分に理解していませんでした。イエス様は、無から有を造り出すことができる方なのですから、どんなに多くの人にも十分なパンを与えることができるはずです。しかし、ピリポは、それを理解していなかったのです。
 そこで、イエス様は、ピリポに質問をして、群衆全員を満腹させることなど人の力では不可能であることを確認させた上で、御自分の奇跡的な力をお示しになりました。
 
3 少年の弁当

 ただ、イエス様は、ここで不思議な方法をお取りになりました。弟子のアンデレが「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています」と報告してきました。少年が自分の弁当をイエス様に食べていただこうと差し出したのかもしれません。まさか、アンデレが少年の弁当を無理矢理奪い取るはずはありませんからね。でも、それは粗末な弁当です。「こんな粗末な弁当などイエス様に失礼だ」と思う弟子もいたかもしれません。それに、これっぽちでは大群衆の空腹を満たすのに何の役にも立たないと思いますよね。でも、アンデレは人がいいのでしょう、とりあえずイエス様に報告しました。ただ、さすがにばつが悪かったのか、「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と言い足しています。
 その弁当は少年にとっては大切なものでした。それを差し出せば、自分は空腹のまま我慢しなければなりません。でも、あえてイエス様に差し出したとき、イエス様はどうなさったでしょうか。イエス様は、それを豊かに用いてくださったのです。そこにいたのは男性だけで五千人、女性や子供も含めたら一万人以上いたかもしれません。その全員が十分に食べ、余ったパン切れを集めると十二のかごがいっぱいになったのです。
 もちろん、イエス様は、何も無いところからあらゆるものを生み出すことがお出来になりますから、この弁当がなくても人々を満腹にすることはできたでしょう。しかし、イエス様は、私たちが差し出す小さなささげものを用いて、また、小さな私たち一人一人を用いて、私たちが思いもよらないような素晴らしいみわざを行ってくださる方なのです。この少年に特別な信仰があったわけではありません。不思議な神の声を聞いたり、特別な啓示を受けたわけではありません。ただイエス様に食べていただきたいと差し出したわずかな弁当が、大群衆を養うために用いられるなどとは夢にも思っていなかったでしょう。
皆さん、今日、私たちはここから大切なことを学ぶことができます。それは、私たちが頑張って世界を変えていこうなどとしなくても、ただ単純に主を愛する思いを持って何かをささげるなら、それがどんなに粗末なものであろうとイエス様はご自身の豊かな働きのために用いてくださるのです。私たちが主を愛してささげる小さな祈り、奉仕、献金、感謝、賛美、礼拝を、そして、粗末なパンに過ぎない私たち自身を、主は豊かに用いてくださいます。ですから、人と比べたり、競い合う必要はありません。自分の持っているもの、自分の出来ることをささげていけばいいのです。そうすれば、主は最善のことをしてくださいます。
 私は牧師として一つのことを信じています。それは、教会の規模はどうであっても、そこに単純に主を愛する者たちがいて、主を愛するゆえに心から感謝と賛美の礼拝をささげているなら、主はそれを喜んで受け入れ、豊かに用いてくださるので、結果的に多くの人が福音を聞き、味わうことへと繋がっていく、ということです。

4 十二かごいっぱいのパン

さて、人々は満腹になりました。そして、余ったパン切れを集めると、なんと十二のかごがいっぱいになりました。
 当時、人々が宴会をするときには、必ず余り物を取っておき、貧しい人々に施したり、宴会の給仕をしたしもべたちに振る舞う習慣がありました。今日の箇所で十二のかごいっぱいのパンが余ったということは、給仕の仕事をしていた十二弟子を養うパンも十分に備えられていたということを示しています。イエス様のために労する人々のために、イエス様は十分な配慮と恵みを与えてくださるのです。

5 群衆の反応

さて、この素晴らしい奇跡を体験した群衆はどのような反応をしたでしょうか。14節に、人々が「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言ったと書かれていますね。
この「世に来られるはずの預言者」とは何かと言うと、申命記18章15節でモーセがこう語っています。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」つまり、モーセは、「将来、私のような預言者が起こされる」と預言したのです。そこで、人々は、長い間、モーセのような預言者が現れるのを待ち望んでいました。
モーセは、イエスラエルの民をエジプトの奴隷生活から脱出させ、荒野を旅を導いた人物です。荒野の旅の間、神様は、毎日、マナというパンを与えて養ってくださいました。それは、ユダヤ人なら誰もが知っている有名な出来事です。また、今日の出来事は過越の祭りが間近に迫っている時期に起こりましたが、過越の祭りは、神様がイスラエルの民をエジプトから脱出させてくださったことを記念する祭りです。その時期に、パンの奇跡が起こったので、人々は「このイエスこそ、私たちが待ち望んでいたモーセのような預言者に違いない」と思ったわけです。そして、「モーセがエジプトの支配からイスラエルを救い出したように、今度は、このイエスがローマ帝国の支配から私たちを救い出してくれるだろう」と考え、イエス様を自分たちの王として担ごうとしたわけです。
 確かに、モーセが預言したのはイエス様のことです。イエス様こそ、すべての人を罪の奴隷状態から救い出し、導き、養ってくださる方です。ですから、人々が、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言ったその言葉自体は、素晴らしい信仰の告白であると言えるでしょう。
 しかし、群衆は、イエス様が来られた目的を正しく理解していませんでした。彼らがイエス様を熱心に支持したのは、イエス様が自分たちにとって都合のいい方に見えたからでした。病を癒やしてくださるし、パンを与えてくださるし、これから、自分たちの王となってローマ帝国の支配を退けて解放してくださるだろうという打算に基づく忠誠心に過ぎなかったのです。これが、群衆の特徴です。彼らは、困ったときにはイエス様に助けを求めますが、自分の期待通りでなかったり、自分に都合が悪くなると、すぐにイエス様から離れていってしまうのです。イエス様は、そんな彼らの心をご存じでした。そこで、山に退かれたのです。
 皆さん、是非、知っておいてください。イエス様をただ自己目的のために利用しようとするなら、イエス様は離れ退いていかれるのです。また、たとえイエス様の奇跡を体験したとしても、それがその人の信仰の尺度にはならないということも覚えておいてくださいね。パンの奇跡を体験した人々の多くが、しばらくするとイエス様から離れていってしまったのです。

6 しるしの意味

 さて、今日の奇跡的な出来事は、イエス様について何を表しているしるしなのでしょうか。
 イエス様は、ただ人々に肉体的な満腹感を与えるために来られたのではありません。
 パンの奇跡の後、別の場所に行かれたイエス様を群衆が追いかけてきましたが、彼らに対してイエス様は、6章47ー51節でこう言っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」
 イエス様御自身が天から下ってきた生けるパンで、イエス様を食べる、つまり、イエス様を信じる者は永遠のいのちを持つというのです。
 今日の箇所の11節に「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた」とありますね。この表現はどこかで聞いたことがありませんか。そう、最後の晩餐の時にイエス様は同じことをなさいました。聖餐式の時にいつも読む第一コリント11章23節ー24節にこう書かれています。「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」
 このパンを裂いて分け与える行為は、イエス様が十字架についてからだを裂かれることによって、私たちの罪がすべて赦される道が開かれたこと、また、三日目に復活されたイエス様を信じることによって永遠のいのちが与えられることを象徴的に表しているのです。
 今日の箇所では、多くの人々がイエス様の分け与えてくださったパンを食べました。最後の晩餐の時には、弟子たちがイエス様の分け与えてくださったパンを共に食しました。私たちも、聖餐式の時に共にパンを食します。それは、イエス様という「いのちのパン」を共に食し、イエス様のいのちに満たされることを象徴的に表しているのです。
 大麦のパンは、大変粗末なパンです。しかし、群衆一人一人を満腹にし、なお豊かに余りましたね。それと同じように、イエス様は世の富や名声とは無縁の方として来られ、侮られ、卑しめられましたが、一人一人に豊かないのちをあふれるばかりに与えることがおできになるのです。
 6章35節で、イエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と約束してくださっています。。
 このイエス様に養われつつ、心からの愛をもって感謝と賛美をささげ、礼拝していきましょう。そして、一人一人がささげるものを用いて主が豊かなみわざを行ってくださることを期待しつつ今週も歩んでいきましょう。