城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年七月一五日         関根弘興牧師
              マタイ一六章一三節〜一九節
 イエスの生涯24
  「わたしを誰だと言いますか」

13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(新改訳聖書)

前回は、イエス様が五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけで五千人もいた群衆を満腹になさった出来事を読みました。イエス様は、少年が差し出した粗末な弁当を豊かに用いてくださいました。そのイエス様は、私たちがささげるわずかなもの、小さなもの、今ささげているこの礼拝を、御自分のみわざのために豊かに用いてくださるのです。そして、イエス様御自身がいのちのパンとなって、信じる私たち一人一人を豊かな永遠のいのちに満たしてくださるのです。
 さて、イエス様のパンの奇跡を目の当たりにした群衆は、「このイエスこそ、待ち望んでいた預言者だ。このイエスならローマ帝国の支配から我々を解放してくれるに違いない」と言って、イエス様を無理矢理に王に担ごうとしました。彼らは、イエス様が本当はどのような方なのか、そして、イエス様が来られた真の目的は何なのかということを理解していませんでした。ただ、イエス様のなさる様々な奇跡を見て、自分たちに都合のいい期待を抱いていただけだったのです。イエス様は、そういう彼らから退いて行かれましたね。

 さて、今日の箇所には、ピリポ・カイザリヤの地方での出来事が書かれています。
ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖の北にある海抜三百五十メートルの高地にあって、ヘルモン山からの雪解け水が流れる美しい場所です。バニアスという山の洞窟には、ギリシャ神話に登場するパンという森や牧童の神とニンフと呼ばれる川、泉、林の妖精を祭った宮がありました。この地方がローマ皇帝からヘロデ大王に属州として与えられたとき、ヘロデ大王はローマ皇帝のために白亜の神殿を建てました。後に、ロデ大王の息子ピリポがこの地方の領主になると、ピリポはここを堅固な砦の町として立て直し、ローマ皇帝カイザルを記念して「カイザリヤ」という名を付けました。ただ、カイザリヤという別の町が地中海沿いにもあったので、そこと区別するために、こちらは「ピリポ・カイザリヤ」と呼ぶようになったのです。
 そのピリポ・カイザリヤの地方に、イエス様は、ごく身近な弟子たちだけを連れて行かれました。ここでは、群衆に煩わされることなく、弟子たちとゆっくり語り合うことができたのでしょう。そして、この場所で、イエス様は、弟子たちにとても大切なことを教えておられます。御自分が何者であるか、そして、御自分が何をしようとなさっているかを、身近な弟子たちにだけ示されたのです。詳しく見ていきましょう。

1 わたしを誰だと言いますか

 まず、イエス様は、「人々は人の子をだれだと言っていますか」と質問なさいました。「人の子」とは、イエス様御自身のことですから、「人々は、わたしをだれだと言っていますか」と聞かれたわけですね。そして、次に「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と質問なさいました。
 私たちがイエス様に向き合うとき、イエス様をどういう方として認識するかは、とても重要なことですね。それによって、イエス様との関わり方が決まるからです。イエス様をだれだと思うかによって、私たちの人生が大きく変わってくるのです。

(1)人々の見方

 まず、人々はイエス様を誰だと言っていたでしょうか。14節に何人かの名前が挙がっていますね。

@バプテスマのヨハネ

バプテスマのヨハネは、新約聖書の最初に登場する預言者です。「もうすぐ救い主が来られるから、悔い改めて、救い主をお迎えする準備をしなさい」と宣べ伝えて、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。彼は、旧約聖書の偉大な預言者に匹敵する預言者として人々に尊敬されていました。しかし、領主ヘロデ・アンティパスを批判したために、首をはねられ死刑になってしまったのです。しかし、イエス様が登場して大胆に教えを宣べ伝え、様々な奇跡的なみわざを行われるのを見た人々は、バプテスマのヨハネがよみがえったのではないかと噂していました。

Aエリヤ

 エリヤは、旧約聖書のすべての預言者の代表ともいえる偉大な預言者です。紀元前九世紀の北イスラエル王国に登場し、神様に背を向けて偶像礼拝に走り悪や不正を行っていた王や人々に対して、まことの神様に立ち返るようにと命がけで語り、また、神様の力を受けて様々な目覚ましい奇跡を行いました。エリヤのことは列王記に書かれていますが、最後にエリヤは、たつまきに乗って天に連れ去られたと書かれています。そして、そのエリヤについては、旧約聖書の一番最後の部分に、預言者マラキを通して、神様のこのような約束が書かれています。「わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」ですから、人々はエリヤの再来を待ち望んでいました。そして、イエス様が権威を持って教え、様々な奇跡を行われるのを見て、この方こそエリヤではないかと思ったのです。

Bエレミヤ 

 エレミヤは紀元前七世紀から六世紀にかけて南ユダ王国で活躍した預言者です。彼は、南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされること、しかし、七十年後に回復の時が来ることを預言し、実際にその預言は成就しました。ですから、多くの人が、救い主が現れる前にエレミヤのような預言者が登場すると考えていたのです。

 以上の三人は、皆、預言者です。また、イエス様をそれ以外の預言者の一人だと考える人もいましたが、いずれにせよ、人々は、イエス様のことを預言者だと考えていたわけですね。つまり、偉大ではあるけれど、普通の人間だと思っていたのです。

(2)弟子たちの告白

 では、弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様が「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」とお尋ねになると、ペテロが弟子たちを代表するかのように答えました。「あなたは生ける神の御子キリストです。」ここで二つの大切なことが告白されています。

@生ける神の御子

 まず、ペテロはイエス様は「生ける神の御子」だと告白しました。「生ける神の御子」とは、永遠の存在者であり今も生きてみわざを行っておられる神様と同じ本質を持った方だ、ということです。人々はイエス様が自分たちと同じ人間に過ぎないと思っていましたが、ペテロは、「イエス様は神様と同等の方です」と告白したのです。イエス様は、神が人となってこられた方であり、永遠のいのちを与えることができる方なのです。ヨハネの福音書10章30節では、イエス様御自身も「わたしと父とは一つです」と言っておられます。イエス様が神なるお方だからこそ、私たちは、この方に聞き従い、願い求めていく価値があるのです。

Aキリスト

 そして、ペテロは、イエス様が「キリスト」であると告白しました。「キリスト」とは、イエス様の苗字ではありません。職名です。ギリシャ語では「キリスト」、ヘブル語では「メシヤ」という言葉ですが、どちらも「油注がれた者」という意味があります。ユダヤでは、民をさばき治める王様が任じられる時、また、人々を神様のもとに近づける祭司が任じられる時、また、神様の言葉を人々に伝える預言者が任じられる時、その頭に油を注ぐ任職式が行われました。そのことから、次第に、王と祭司と預言者の働きを兼ね備えた来るべき救い主を「メシヤ」「キリスト」と呼ぶようになったのです。
 ですから、ペテロが「あなたはキリストです」と告白したとき、それは、「イエス様、あなたは、私の人生を治める恵みとまことに満ちた王であり、私の罪を赦して永遠の神のみもとに導いてくださる方であり、神様の豊かな生けるみことばを与えて満たしてくださる救い主です」という告白なのです。

 人々の中には、イエス様の説教を聞いても意味が理解できず、腹を立てる人もいました。自分たちの期待通りに動かないイエス様に失望して離れていく人もたくさんいました。宗教家たちは、「イエスは神を冒涜する悪魔の親玉だ」と批判しました。 しかし、ペテロは、弟子たちを代表して、「イエス様、あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したのです。

2 イエス様の約束
  
すると、イエス様は、何と言われたでしょうか。

(1)「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

 「バルヨナ・シモン」というのは、「ヨナの息子シモン」という意味で、ペテロのもともとの名前です。ペテロはあだ名なのですね。そのペテロにイエス様は、「あなたは幸いだ。なぜなら、天の父がそのことを教え、告白へと導いてくださったからだ」と言われたのです。
 私たちは、時々「信仰が与えられた」という表現をしますね。もちろん、私たちは自分で信じる決断をし、信仰の告白をするのですが、その背後に神様の導きがあるのだ、と聖書は教えているのです。神様は、神を求める人々をキリストのもとに導いてくださるのです。

(2)「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」

 ペテロとは「岩」という意味です。イエス様は、彼が弟子になったとき、「ペテロ」(アラム語では「ケパ」)というあだ名をお付けになりました。「岩」というのは、悪い意味では「頑固」という意味で使われますね。また、良い意味では「堅固」「揺るがない」という意味で使われます。
 では、今日の箇所で、イエス様が「あなたはペテロです」と言われたのは、どういう意味でしょうか。イエス様は、「あなたのその信仰の告白は、あだ名の通り、堅固で揺るがない」という意味の褒め言葉として、そう言われたのではないかと思います。
 そして、イエス様は続けて、「わたしはこの岩の上にわたしの教会をたてます」と約束されました。
 これは、とても大切なことです。「イエス様は、生ける神の御子キリストです」という信仰の告白こそ、教会の堅固な土台になるものなのです。教会とは、建物のことではありません。イエス・キリストを信じる人々の集まりです。そして、一人一人が「イエス様は、生ける神の御子キリストです」という共通の土台の上に立っているなら、時代が変わっても、体制が変わっても、どんな困難が襲ってきても、教会は堅く建っていることができるのです。
 ちなみに、プロテスタント教会とカトリック教会のもっとも大きな違いは、この「岩」の解釈にあります。カトリック教会では、「岩の上に教会を建てる」の「岩」を「ペテロ本人」と解釈しました。そして、最初の法王がペテロで、ペテロから続く代々の法王には大きな権威があると考えるのです。
 一方、プロテスタントの教会は、この「岩」はペテロの信仰告白のことだと解釈しています。なぜなら、ペテロ自身は、私たちと同じように弱さや欠点がありました。立派な信仰告白をした直後に、間違ったことを言ってイエス様から叱責されていますし、イエス様が十字架にかけられる直前には「イエスなど知らない」と三度も否認してしまいました。ですから、ペテロを土台とすることは、無理があるように思います。
 皆さん、教会は、特定の人間を土台として建つのではありません。牧師や役員会が教会の土台なのではありません。ここに集う一人一人の「あなたは生ける神の御子キリストです」という告白の上にイエス様が建て上げてくださるのが教会なのです。どんなに荘厳な建物があっても、どんなにカリスマ性のある指導者がいても、この告白が土台となっていなければ、それは、もはやキリストの教会ではありません。
 ですから、教会はこの告白を大切に守ってきました。余談になりますが、迫害の中にいた初代教会のクリスチャンたちは、自分がクリスチャンであることを示すために魚のマークを使いました。「魚」は、ギリシャ語で「ΙΧΘΥΣ」(イクスース)と書きますが、「イエス・キリスト神の子救い主」〔Ιησουs(イエス)、Χριστοs(キリスト)、Θεου(神の)、Υιοs(息子)、Σοτερ(救い主)〕の頭文字を合わせると「ΙΧΘΥΣ(魚)」になるからです。
 私たちの教会の土台も「イエス様は、生ける神の御子キリストです」という告白であることを忘れないようにしましょう。

(3)「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

そして、イエス様は、「この岩の上に建てられた教会は、ハデスの門も打ち勝てないほど堅固なのだ」と保証してくださいました。
「ハデス」は、日本語では「黄泉」と訳され、死後の世界を意味する言葉ですが、ここでは「死」と同義語として使われています。つまり、「死の門も教会には打ち勝てません」というのです。私たちは死という現実の前では無力です。死は誰にも訪れ、決して避けることが出来ません。死はすべてを奪うかのような勢いを持っています。しかし、その死さえも、生ける神の御子キリストを信頼する私たちに与えられた永遠の救いを奪うことはできないというのです。

(4)「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

そして、 イエス様は、教会に大きな権能を約束してくださいました。
 ここで使われている「鍵」という言葉は、複数形で書かれています。つまり、その家のすべてを管理するもろもろの鍵を与える、というのです。皆さんは、素性の知れない人に家の鍵を預けますか。決して預けませんね。イエス様は、天の御国の鍵を与えるというのですから、どれほど教会を信頼してくださっていることでしょう。
 そして、「地上でつなぐなら、天においてもつながれ、地上で解くなら、天においても解かれている」とありますが、これは、この地上に建てられた教会と天にある御国は、同一の鍵穴、共通の鍵を持っていて、実は一軒の家のようなものだということです。
 マタイ23章13節で、イエス様は、当時の宗教指導者たちの姿を鋭く批判して、こう言っておられます。「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」
 宗教家たちは、様々な細かい戒めを守らなければ、天の御国に入ることができない、と教えていました。しかし、戒めをすべて完璧に守ることのできる人など一人もいませんね。つまり、彼らの教えに従って天の御国に入ることのできる人は一人もいないのです。それで、イエス様は、「おまえたちは、天の御国に自分も入れないし、人々も入らせない」と言われたのです。
 しかし、教会には、人々を天の御国に入らせることができる鍵が与えられています。イエス様が生ける神の御子キリストであることをただ信じることによって、だれでも天の御国に入ることが出来る、そして、愛と恵みに満ちた神様のもとに近づくことができるということを教会は示すことができるのです。
 それから、教会に天の御国の鍵が与えられているもう一つの意味は、異なった教えが入り込まないように守る使命があるということです。
 残念ながら、私たちはみな弱さをもっています。そして、教会は、昔から様々な教えの風に翻弄され惑わされることがありましただキリストを信じる信仰により神様の恵みによって無条件に救われるという聖書のメッセージがねじ曲げられてしまうことがありました。時には、律法主義が入り込んで、信じるだけでは不十分で、戒めを守らなければ救われないとか、功績をたてなければ神様に認められないなどという偽りの教えが入り込んで来ることがあったのです。歴史を振り返ると、教会が間違った土台の上に立って、たくさんの間違いを犯したこともありました。間違ったリーダーも出来てきましたし、様々な異端も生まれてきました。教会は、いつも様々な教えの風にさらされ続けてきたのです。だからこそ、教会は、間違った教えを防ぐために、鍵をしっかりと閉じる必要があるのです。そのためには、私たちは、いつも聖書を大切にします。聖書に書かれていることを丁寧に読み、正しく理解し、語っていくことが大切です。聖書の教えから逸脱させようとしたり、イエス・キリストを信じるだけでは足りないと言って偽りの教えに引きずり込もうとするものが現れたら、それに対してしっかり鍵を閉ざさなければなりません。それが教会の使命なのです。

 イエス様は、あるとき、砂の上に建てた家と岩の上に建てた家のたとえをお話になりました。どちらの家も見た目は全く変わりません。しかし、嵐が襲うと砂の家はもろくも崩れてしまったのです。だから、大切なのは岩の上に建てることです。教会も、私たち一人一人の人生も、「イエス様、あなたは生ける神の御子キリストです」という告白を土台として、神様によって建て上げられていきましょう。