城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年7月29日       関根弘興牧師
              マルコ10章32節〜45節
 イエスの生涯26
  「弟子たちの関心」

 32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(新改訳聖書)

 
 先週は、イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を高い山に連れていかれたときの出来事を学びました。山の上で、イエス様が栄光に輝く姿に変わり、旧約聖書を象徴する二人の人物モーセとエリヤが現れて、イエス様と共にイエス様がエルサレムでとげようとしているご最期について話し合ったのです。この「ご最期」という言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」と言います。これは、「脱出する」「抜け出す」という意味で、人の死や最期を表す言葉としても使われていましたが、旧約聖書では、出エジプト記のギリシャ語の書名として使われています。出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して神様の約束の国に向かうという内容です。つまり、モーセとエリヤとイエス様が話し合っていた「ご最期(エクソドス)」とは、イエス様が苦しみを受けて殺されることによって、すべての人が罪と死の束縛から解放されること、また、イエス様が三日目によみがえられることによって、すべての人に永遠のいのちが与えられ、天の御国への道が開かれるということだったのです。そして、モーセとエリヤが現れたということは、旧約聖書も救い主イエス様を指し示していることを表しているのです。
 さて、この山の上での出来事の後、イエス様は、しばらくガリラヤ地方におられましたが、再びエルサレムに向かって出発なさいました。今日の箇所には、その途上で起こった出来事が記されています。

1 エルサレムへ

 まず、イエス様が先頭に立って歩いて行かれる姿を見て、弟子たちは驚き、恐れたと書かれていますね。
 これまでイエス様のもとには、イエス様の教えを聞きに来る人、病気の人、子供たちなど多くの人が集まってきました。その中には、イエス様に敵意を持った人たちもいました。当時の宗教家であり指導者でもあるパリサイ人や律法学者たちです。イエス様は、彼らが大切に守ってきた伝統や戒めに従おうとなさいませんでした。また、イエス様は、彼らに向かって「あなたがたは、がうわべだけを取り繕う偽善者だ」と厳しく批判なさいました。そこで、彼らはイエス様に対して敵意を抱いていました。また、イエス様の権威ある教えと奇跡的なみわざを見聞きしようと多くの人々がイエス様のもとに押し寄せているのを見て、彼らは激しいねたみに駆られていました。そこで、「なんとかイエスを亡き者にしたい」といろいろな策略を巡らしていたのです。
 イエス様の弟子たちも、さすがにそのような動きは察知していました。しかも、エルサレムは、パリサイ人や律法学者たちの本拠地です。そこに向かって、今、イエス様が決然と先頭に立って歩いて行かれるの見た弟子たちは、これからエルサレムで大きな衝突が起こるのではないかと恐れたのです。
 すると、33節ー34節にあるように、イエス様は、弟子たちの不安に輪をかけるようなことを言われました。「これから、エルサレムに行きますが、そこで、わたしは祭司長、律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され、異邦人に引き渡されて、あざけられ、苦しみを受け、殺されます。しかし、三日の後に、よみがえります。」イエス様は、以前にも御自分が苦しめられ、殺され、三日後によみがえることを何度か弟子たちにお話になっていましたが、それが、いよいよこれから行くエルサレムで実際に起こると言われたのです。「すべての人を罪と死から解放するために、十字架にかかり、復活する」という救い主としての使命を実現する時が来たというわけですね。

2 弟子たちの関心

 そのような重大な局面にさしかかっていたとき、弟子たちが一番関心を持っていたのは、どんなことだったのでしょうか。
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟がイエス様のもとに来てこう言ったのです。「イエス様、お願いがあります。あなたが王として栄光の座に着いたとき、あなたの右と左に私たちを座らせてください。」
 このヤコブとヨハネは、ペテロとともに特別な三人として選ばれた弟子です。前回、イエス様が山の上で栄光の御姿に変わってモーセとエリヤと語り合っておられたとき、彼らもそこにいました。ですから、もしかしたら、自分たちが他の弟子よりも特別な存在だという思いが芽生えていたかもしれません。彼らは、イエス様が十字架にかかり復活されることの意味がまだよく理解できず、ともかくイエス様は最終的にこの地上の王になるに違いない、その時が迫っているようだから、自分たちを引き立てていただくように今のうちにお願いしておこう、と思ったようです。マタイの福音書20章には、この時、彼らの母親が一緒に来てイエス様にひれ伏して息子たちのことをお願いしたと書かれています。母心はいつの時代も変わりませんね。
 では、イエス様の王国で偉くなりたいと思っていたのは、ヤコブとヨハネだけだったでしょうか。
実は、マルコ9章33節-34節に、こんなことが書かれています。「イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか。』彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」弟子たちはみな、「自分たちの中でだれが一番偉いのか」と議論していたというのです。自分が一番偉くなりたいという願いを持っていたのは、ヤコブとヨハネだけではなかったのですね。ですから、ヤコブとヨハネがイエス様にお願いしたことを聞いて、他の弟子たちは腹を立てました。「おい、ヤコブとヨハネ。俺たちを出し抜いて、自分たちだけ偉くなろうとして、ずるいじゃないか。しかも、母親まで連れて来て事前工作するなんて、やり方が汚いぞ」とでも言ったかもしれませんね。弟子たちの間で内輪もめが始りそうな気配になってしまいました。
 しかし、イエス様は本当に忍耐強い方ですね。私なら頭にきて「こんな大切な時に、お前たちは何てくだらないことでもめているんだ。弟子として失格だ」と言うかも知れません。
 しかし、イエス様は、ここで、弟子たちに大切なことを語り、教えられたのです。

3 イエス様の教え

@弟子たちの願いの愚かさ

 イエス様は、ヤコブとヨハネに「わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」と言われました。「わたしはこれから救いを完成させるために十字架にかけられ殺されようとしている。その苦しみをあなた方も受けることができるのか」という意味の質問です。
 すると、二人は、すぐに「できます」と答えました。この二人は、「イエス様と一緒にローマ政府を打倒し、神の国を打ち立てるためなら、どんな苦しみも受ける覚悟があります」というような意味で「できます」と答えたのでしょう。
 でも、実際には、救い主イエス様以外にまことの救いを完成させることはできませんし、救いの成就のために飲むべき杯は、イエス様以外に飲むことはできません。それに、後にイエス様が捕らえられた時には、ヤコブもヨハネも他の弟子たちと同じく恐れて逃げてしまったのです。彼らは、ただ自分を過信して、よくわかりもせずに「できます」と答えたのですね。
 すると、イエス様は「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」と言われました。確かに、ヤコブとヨハネは、イエス様の十字架と復活を実施に目撃した後に世界中に福音を宣べ伝えていく過程で様々な迫害や苦しみを受けることになります。そのことを、イエス様はここで預言的に言われたのでしょう。
 しかし、イエス様は、続けてこう言われました。「わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
 これを聞いたヤコブとヨハネは、大きなショックを受けたことでしょう。しかし、もしイエス様が「私の右はペテロ、左はヤコブにもう決まっている」などと言われたら、弟子たちはすぐにでも空中分解してしまったことでしょうね。
 イエス様は、ここで大切なことを私たちに教えてくださっています。
 一つは、誰がどのような役割を果たすのかを決めるのは、父なる神様がお決めになることであり、神様の判断に委ねるべきだということです。
 もう一つは、イエス様は「わたしの右と左の席に座るのに、備えられた人々がある」と言われましたが、それは、「すでに特定の人が決まっている」という意味ではなく、「だれが一番偉いのかという議論をしている限り、わたしの両隣の席に着くことは出来ない」、つまり、「自分が偉くなりたいと思っている人は、神の国で偉くなることはできない」ということを教えておられるのです。イエス様は、ここで、弟子たちの願いの愚かさを気づかせようとなさっているわけですね。

Aあってはならない姿

 そして、イエス様は、42節ー43節で、偉くなりたいと思っている弟子たちにこうお語りになりました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。」
 ここの「権力をふるう」という言葉は、「権力で従わせる」「横柄にふるまい、暴政をしく」という意味を持っています。つまり、人々を無理強いし、服従させるために権力を乱用することです。そうした姿は、イエス様の御国の中ではあってはならないと、イエス様は教えられたのです。
 ですから、教会は、いつもこのことを点検していかなければなりません。たとえば、指導者が特別な権威を持ち、その権威を笠にきて信徒を無理矢理に従わせたり、意見を言うことさえも許さず服従させようとするなら、それは、イエス様の教えられた姿ではないのです。
 第一ペテロ5章3節で、ペテロは、教会の指導者たち、長老たちに対してこう書いています。「ゆだねられている人々(教会に集うクリスチャン一人一人)に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(新共同訳聖書) また、第二コリント1章24節で、パウロは教会に、「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない」(口語訳聖書)と書き送っています。
 イエス様の群れである教会は、横柄に支配したり、権力を振ったり、無理強いさせるようなことが決してあってはならないのです。

Bあるべき姿

続いて、イエス様はこう言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
これを聞くと「私は偉くなりたいと思っていないから、今日の箇所は私には関係ない」と思う方がおられるかもしれませんね。しかし、この「偉くなりたい」と訳されている言葉には「この上ない人生を送りたい」というような意味もあります。誰でも「この上ない人生を送りたい」と思いますよね。イエス様は、そんな人生を送りたいなら、権力をふるう生き方ではなく、仕える者、しもべになれ、と言われたのです。「しもべ」とは「奴隷」の意味です。「最高の人生を送りたいなら、仕える者、奴隷になれ」というのですね。
 では、「仕える者」「しもべ」になるとは、どのようなことでしょうか。聖書は、どう教えているでしょうか。
 まず、ガラテヤ5章13節には、こうあります。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」私たちはキリストによって自由を与えられました。ですから、強制されて嫌々ながら仕えるのではなく、相手を愛する心から自発的に仕えていくことが大切です。そして、一方的に仕えるのではなく「互いに」仕え合っていくのです。
 また、第一ペテロ4章10節にはこうあります。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
 自分が出来ないことを無理にする必要はありません。神様か一人一人に違う賜物を与えてくださっているのですから、自分に与えられた賜物を用いて互いに仕え合っていけばいいのです。
 また、パウロは、教会はキリストのからだであり、かしらはキリスト、一人一人は体の各器官だと教えています。皆が同じことをしたら、体は成り立ちません。それぞれがかしらであるキリストのもとで自分の役割を果たし、互いに補い合っていくからこそ、体は健全に成長していくのです。エペソ4章16節にはこう書かれています。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」
 もし、器官の一つが自己主張したり自分勝手なことをし始めたら、あるいは、互いに批判したり傷つけ合ったりしたら、からだは病んでしまいます。また、それぞれの器官の役割は、神様によって与えられたものですから、自分の手柄のように誇るのはおかしいですね。器官の一つが痛めば、からだ全体が痛みます。必要のない器官はありません。「私は何もできない」とは思わないでください。小さな笑顔、ほんのひと言が相手を励ましたり慰めたりできるのですから。私たちはこの世に生かされている限り「生涯現役のしもべ」とされているのです。自分の出来ることを用いて仕え合っていきましょう。
 愛を持って互いに仕え合うしもべがあふれている教会では、神様をあがめる姿があふれていきます。そして、一人一人の人生がこの上ないものとされていくのです。

Cイエス様の模範

 そして、45節でイエス様はこう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 「人の子」とはイエス様御自身のことです。イエス様は、天国で一番偉い方です。そのイエス様が、神の栄光を捨て、人となり、仕えるために来てくださいました。そして、「多くの人のための、贖いの代価」として、御自分のいのちまで与えてくださったのです。
 「贖いの代価」とは、「奴隷を自由にするための身代金」を表す言葉です。聖書は、人はみな罪と死の奴隷状態にあると教えています。でもイエス様が、御自分のいのちを「贖いの代価」として支払ってくださったので、私たちは罪と死の力から解放されて自由になることができるのです。
 そして、イエス様は、特別な人のためだけでなく「多くの人のため」に代価を払ってくださいました。イエス様の十字架の贖いによって救いの恵みに預かることができない人は誰もいない、ということです。誰でもイエス様を救い主として信じ、イエス様が贖いの代価を支払ってくださったという事実を感謝して受け入れるなら、救いを得ることができるのです。
 そのイエス様の姿の中に、私たちは、しもべの生きた模範を見ることができます。
 人は、自分が神のようになってすべてを支配したいという思い、上に向かって進んで行こうとする傾向があります。他の人より上に立ちたいと願います。もちろん向上心や向学心は大切です。しかし、謙遜さを忘れ、限度を超えて思い上がり、神のようにすべてを支配したいという傲慢さにとらわれるなら、混乱と分裂と破壊しか生まれません。アダムとイブは「神のようになれる」という誘惑に負けて禁じられた木の実を食べ、その結果、神様との親しい関係もお互いの麗しい関係も破壊されてしまいました。神と同じ高さに達しようとして人はバベルの塔を造り始めましたが、結局、混乱と分裂が起こっただけでした。その他にも高慢によって身を滅ぼした人の姿が聖書には繰り返し記されています。箴言にあるように「高慢は滅びに先立つ」のです。ですから、聖書は、高慢にならないようにと繰り返し警告しているのです。
 キリストは、まさにその高慢とは逆の姿を示してくださいました。ピリピ2章6節ー8節にはこう書かれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」また、ローマ5章6節にはこう書かれています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
 キリストは、私たちを愛し、徹底的に仕えてくださいました。そのキリストの模範に従い、私たちも互いに愛をもって、神様にいただいた賜物を生かしながら仕え合っていきましょう。そして、キリストのからだとしてふさわしく成長させていただきましょう。